【修正中】CHAPTER/11

午前3時。

この街は、コンクリートと酸性雨の匂いがする。

あの部屋は、消し忘れたテレビに流れる、古い映画のかすかな台詞に満ちている。


午前3時、俺は眠らない。

眠れない。






旧世界の常識が壊れたスラムでは、どこかで誰かがひっきりなしに喧騒を作り出している。

荒野の強い風の音を掻き消すように、古いディーゼル車の不機嫌なエンジン音と共に通りすぎる。

路地裏で昼間から酔った男が殴り合い、冷めた目の野良猫ですら騒ぎに加わる始末だ。

けれど朝と夜の間になれば、多くのヒト遺伝子は闇に従って寝静まり、あとは寂しげな野良犬や虫の声だけが大気に残る。

俺は、この静かな時間が好きだった。

それは喧噪への嫌悪や落ち着いて眠れる環境への好意というより、どこかへ走り去りたいような得体の知れない焦燥、つまり「形の無い何か」を、自分が深夜に対して感じていることの安心感に向けられたものだ。


闇夜の空は誰かに強いられているかのような曇天で、カーテンを忘れた窓枠のなかに見慣れた白い衛星は浮かんでいない。

瞼を通って神経を刺激する光もないというのに、今日はやけに頭が冴えて眠れなかった。

治療室のベッドの上で朦朧としつつ、毒にうなされる生活が数日前にやっと終わったからか、比較的健康な現状が一層際立っている気がする。

失くした片腕はまだ戻らないが、微かな幻肢痛がときどき囁きに来る以外は、安定した思考回路を大きく乱す物は今のところ存在しなかった。

しかし、はっきりと目覚めたままのAIを抱えて、闇夜の部屋などでぼんやりしていると、大抵の場合は考える必要のないことが勝手に浮かび始める。

文字の羅列や色が反転した風景、ずっと昔にストリートですれ違った男が歌っていた投げやりな歌―――――たくさんのもので頭の中が埋め尽くされた。

このまま放っておけば、頭の中の記憶たちは俺の手や首を伝って外へ流れ出る。


圧縮して俺の中に押し込んだ記憶が、自らの圧力によって内部から這い出し、コンクリートの壁に根を張る。


一面に見知らぬ赤い花が咲いて、頭痛を呼ぶほどの濃い香りが満ち、碧い空のさざ波をベッドの縁から覗き込んだ。


斑点のある背に触れたが、鯨は凍り付いていた。

周波数52Hzの歌は、誰にも届かなかったらしい。








「……………は」


忘れていた呼吸をひとつ。

長い潜水のあと、水面から顔を出す気分。

現実に戻るときは、いつも少しだけ息苦しい。

視界の端に揺れ始めた絹糸のような金髪が、風に吹かれて消えると共に、部屋中を埋め尽くしていた空の紺碧も花も皆、どこかへ姿を消した。


カスケードと戦っている最中、記憶野への過負荷によって気を失った一件の後、フォックスからは可能なかぎり眠るように言われている。

とはいえ、俺の周りには眠れない理由だらけだった。

音もなくはるか彼方まで広がる白い風景と、ただ無抵抗に首を絞められるだけの悪夢、ナナシに手を掛けたときの、存外に柔らかく生温かい感触。

あれから悪夢を見る頻度は減ったものの、なぜか今日だけは、眠ってしまえばまた同じ夢を見るような気がしていた。

AIのどこか一点が夜道の街頭のように覚醒していて、少なくとも瞼だけは閉じるよう心掛けるが、意識がスリープ状態へ落ちる短い時間ですら、どうにも堪え切れずに身動ぎする。

時間が経過するほどに、暗闇と無音が神経を尖らせる。




30分ほど粘った挙句、結局身体を起こす選択を取った俺は、だらしなく紐を緩めたままのブーツに足を突っ込んだ。

自室を出てのろのろと階段を下り、階段を踏みしめる足音の虚ろな反響を感じる。

双子がマリネリスへの輸送任務に向かい、南部スラムの拠点防衛に一部のメンバーが駆り出されてから丸1日が経過したが、普段よりもずっと人の気配が薄れた本部の雰囲気は、どこか落ち着かなかった。

だから、静まり返った廊下から談話室に通じる立てつけの悪いドアを、音を立てないよう慎重に開けたときは、まさかフォックスが起きているとは思っていなかった。

俺は油断していただけに少々驚いた――――特に、後ろめたいことがあるわけじゃなかったが。

彼は微かに頭を動かして目の端だけで俺を見て、緩やかな動作と共に、テレビに映る白黒の映画へと意識を戻した。

フォックスは映画に集中するでもなく、かといって退屈そうにしているわけでもなく、特に用はないという雰囲気が、この時間帯ではかえって不自然だ。

かといってこの場で回れ右をして部屋に帰るというのも、怪しい行動だと思われるだろう。

俺はあれこれ考えた結果、談話室の背後からキッチンに向かう、無難なルートに進んだ。

常温でも腐らない調味料や食材がちらほらと顔を覗かせる中、あてもなくキッチンや冷蔵庫周りを眺めていると、俺はふと自分が空腹であることに気付いた。

神経毒がほぼ抜けきってからは、失った分を身体が取り戻そうとしているらしく、ここ最近はやたら腹が減る。


戦前から戦後にかけて、今でも極めて稀な例ではあるが、エニグラドールのように生身の人間と似た構造を持つヒューマノイドが現れ始めた。

それらは厳密にはヒト細胞と異なり、自ら肉体を作り出すことはできないが、有機物から効率良くエネルギーを取り出す機構を持っている。

高価なエネルギー触媒や、安定した電力供給を必要とする旧世界のヒューマノイドとは異なる、荒野向けの―――いわば「雑食」のロボット。

泣き笑い、飯を食って、生きたり死んだりできる奇妙なロボットだ。

かの有名なSF作家は、俺たちが電気羊の夢を見るより先に、ものを食べるようになることを書いていただろうか?

しかし俺たちが人間に近付いただけではなく、一部の人間も人間から遠ざかり始めている。

物を食うヒューマノイドに対して、人工筋肉に接続されたインプラント型バッテリーへのエネルギー供給で済ませ、物を食う行為を省く人間が現れた。

人間とヒューマノイドの境界は薄れて、もうほとんど消えている。

人工知能倫理や生命倫理を取り扱う学会は、ヒューマノイドと人間を長年かけて比較し、「何がヒトをヒトたらしめるか」を探っていたらしい。

人間とは何かを知らないままに、人間を象って造られた俺たちの「先祖」は、人間が自らの姿を知るための鏡だったのかも知れない。

だがそんな論争も、戦後の瓦礫と混乱に埋もれて姿を消し、結局答えらしい答えは出なかった。

その話をフォックスから聞いた俺の頭には、スラム各地で人間に混ざり、肉体労働や拠点防衛に従事するヒューマノイドたちの姿が過った。

答えは科学者たちが揃って考え込むより、案外シンプルで、もう鏡に写っているような気がする。


夜、堂々巡りの思考回路、その微かな余韻を引きずりながら、俺は浮浪者さながらにキッチンをさまよう。

シンクのすみに置いたまま忘れていた夕食の残りを、利き手でない方の手で不器用に抓んで、やや行儀悪く一口頬張った。

ミケが作る料理の味は、柔らかくて繊細だ。

彼女は料理に関して覚えが良く、俺が教える以上に多くのことを吸収し、驚異的な早さで上達している。

もうすっかり冷めているし、材料も合成肉やら種類が限られたパック野菜のはずが、驚くほど美味い。

鼻歌混じりに鍋をかき混ぜる、いつもより少し背の高いミケを思い出し、俺は足元へ目を落とす。

高さのあるキッチンでも彼女が調理しやすいよう、ナナシが以前どこかで入手してきた丸みのある木製の踏み台が、ちょうど調理台の真下に置いてあった。


「……寝ないのか」

冷めたままではもったいないと、夕食の残りを温め直しながら、身動ぎもせずソファーに座るフォックスに一声かけてみる。

骨ばった背中がくすりと笑ったように見えたが、気のせいかもしれない。

「君こそ」

彼は囁くように言った。

全くその通りだ、やっぱりあれは笑っていたに違いない。

俺はテレビの画面を眺めながら、フォックスとの向かい側、ソファーの端に浅く座って、テーブルに皿とフォークを置いてから背もたれに寄り掛かった。

それから、姿勢よく座ると少し低い肘掛けに、だらしないとも取れる体勢で頬杖を付く。

古いフィルム媒体からデジタル保存したのか、そのモノクロ映画は全体的にセピア色で覆われている上に、時折黒いシミのようなノイズが走った。

高層ビルが立ち並ぶ旧世界の都会の様子がしばらく流れていたが、壮年の俳優が発する台詞は英語ではなく、内容はよく分からなかった。


「まだあの夢を見るのか」

映画の掠れたBGMがG線上のアリアに替わる頃、唐突にフォックスが口を開いた。

下手な嘘を吐く道理もないから、俺はただ素直に頷く。

「けど、一時期よりは収まったよ………だから、最近はしっかり寝てるって」

最後に慌てて付け足したものの、彼は肩をすくめるだけだった。

「こんな時間にそんなことを言っても、説得力無いぞ」

「………」

返す言葉もない。

「君、考えていることが全部、顔に出ていると言われないか」

「……会うやつ皆に言われるよ」

「だろうね」

俺があまりにも露骨に、ばつの悪い表情を浮かべる様子が面白かったのか、彼は喉の奥でくつくつと笑った。


そんな会話も束の間、どうやら夜の空気は比重が大きいらしく、上手に会話を続けなければすぐ静寂に沈んでしまう。

周りに訪れた沈黙の中で、俺は枯れ枝のような指がフォークを取り、夕食の残りを口に運ぶ動作を意味もなく追っていた。

食事のときは特に、顎や頬の細かい動作がやけに目立って、彼の身体が骨に皮を張っただけの、痩せ細った構造であることがよく分かる。

同じ痩せ形でも、双子の場合は機動力を高めるための軽量化と理由付けされていたが、彼も何らかの利点があってガリガリに痩せているのだろうか。

もしかすると必要に迫られたときは、タタラや俺のような肉弾戦向けの形に鍛え直すのかもしれない。

筋トレするゴリゴリのフォックス……とても想像できない。

「ギガ、今なにか変なことを考えてないか」

「ぇあ、いや、全然変じゃない、普通のことです」

フォックスは俺をからかうように、同時に呆れたように軽く鼻を鳴らす。

「普通ってねえ、君……」

彼はそのあとの言葉を口に出しかけて、ふと止まった。

顔を上げたとき何かに気づいたのか、改まった表情で腕を組み、深夜の湖のような黒い瞳で俺を見つめる。

「……君の両目と視線が合うというのは、奇妙な感覚だな」

「なんだそりゃ」

「いや、移植した直後の動作確認以来、私は真面目に君を観察したことがなかったから」

「そっか、そうだっけ……」

俺の元々の眼球はサイボーグ用に開発された旧式のカメラアイで、瞳は明るい黄緑、それ以外の部分は黒く、動体視力に性能を特化させた型のものだ。

しかし左はずいぶん昔に壊れていて、視野は狭まり焦点は合わない、瞳孔は閉じないというとんだ代物だった。

万年物資不足のスラムでは俺に合う眼球を探すだけでも一苦労だが、少し前に適合するパーツが偶然見つかった。

そして現在、俺はいわゆるオッドアイという状態で、極めて薄く明度の高い蒼色の瞳が、人間らしい白目に取り囲まれ、左の眼窩に収まっている。

自らの手で移植したはずの眼球を、どこか物珍しそうに眺めながら、フォックスはおもむろに呟いた。

「…………君が例の白い夢を見るようになったのは、ちょうどこの左目を移植した頃だ」

実のところ彼は何もかもをすでに知っていて、その前提であえて問うているのかとすら思う。

「まぁ………そうとも取れるが……」

彼の向かいに座ったことを後悔しながら、俺はもごもごと言葉尻を濁した。

眼球移植が原因で夢を見るという話―――物語は、今までも何度か聞いたことがある。

しかしこの眼を得たことで、実戦だって日常生活だって、ずっと楽になっている。

そんな眉唾物の噂に引きずられて、夢を眼のせいにすることは抵抗があった。

俺が回答を出し渋る様子に、フォックスはやっと視線をそらし、わずかに俯いて何かを思い出すように呟いた。

「移植された臓器や骨髄が、ドナーの記憶を保持していたという事例はある。俗に『記憶転移』と呼ばれる現象だ」

彼によるとそれは、臓器移植後に嗜好・習慣・趣味・性格が変化したと感じ、果ては見知らぬ風景や出来事の記憶が移ったように思う現象のこと。

「残念ながら、この興味深い現象にはまだ科学的根拠がない」

「そりゃあ……そうだよな」

「けれど、これは生身の人間に限った話だ。サイボーグ、あるいは君のようなヒューマノイドのパーツにおいて、同じ理論が同じように通用するわけではないさ」

フォックスはどこか俺を励ますような口ぶりで続けた。

「例えば、現在スラムに多く流通しているカメラアイ。中枢の処理負荷を軽減するため、カメラアイと視神経そのものに小型の情報処理機構が付随している場合も多い。君もそうだ。もしも何らかの原因で視神経の処理が中断し、エラーが発生した状態で強引に機能を停止させられたとしたら……」

フォックスとタタラはちょっと似ている。

なにやら小難しい話をつらつらと始めたときは、現在進行形でめまぐるしく回転する思考がそのまま口から漏れている状態だ。

見るからに「簡潔に頼む」オーラを醸し出す俺に、彼は一瞬黙り込み、そして一言にまとめた答えを電卓のように弾き出した。

「網膜に映像が焼き付く可能性も十分にあるということ。低価格化のため生体を模した細胞を使っている以上、ある意味で全てのバグは未知数だ」

「………ドナーの記憶か、あれが」

「必ずしも、とは限らないがね。可能性の話だ。確証もない」

記憶転移―――と呼ぶべきか決めかねるが、彼の話を聞いてドナーへの興味が湧かないはずは無かった。

だが、仮にこの眼の主が最期に何を見たのかを知ったところで、左眼の重みが増すだけだ。

きっと抗争に使う道具は軽い方が良い。

眼も、手足も、俺のすべては、無駄な意味を持たない方が良い。






――――――明晰夢、ってやつか。

霧が掛かった様にはっきりとしない思考回路で、俺はぼんやりと考えた。

冷え切った白さを持つ壁が四方を囲み、俺は広場のような場所の中央に横たわって、壁と同様に真っ白な天を仰いでいる。

現実の俺はおそらく、深夜にフォックスと話した後、そのままソファーでぐうぐう眠っているだろう。

視界の端には、特徴的な十字架が掲げられた背の高い四角錐状の建物、教会かなにかの姿が映っていた。

以前、フォックスに夢の内容を話したとき、彼はこの空間をオリンポスの内部に似ていると言っていたか。

エニグラドールが造られてから10年近く経過したが、その年月の間に一度も訪れたことのない、無論記憶にもない風景を夢で見るというのは、地から脚が浮くような感覚に襲われてどうにも落ち着かなかった。

実世界でこの風景の正体を聞いたからだろうか、自分が夢を見ているということを理解できている。

眼を移植した直後は、うたた寝するたびに絞殺される悪夢を見ていたが、そんなこともまるで嘘のよう。

俺は今夜も無機質な冷たい地面に身体を預けて、やがて来る夢の続きを待っている。



夢のシナリオはいつも同じだ。

白い風景に横たわる俺は、関節から指先の一切を自分の思い通りに動かすことができない。

木偶人形に意識だけを詰められた感覚と言い表したら、ほぼ的確な表現だ。

そして、人と呼ぶには奇妙な形状の何か……いや、それが確かに「誰か」であることを俺は知っている。

木偶人形の俺に覆い被さり、その「誰か」はいつも、オリンポスらしき空間の人工光に背中を照らされて立っていた。

「誰か」の影は相変わらず逆光で、顔も一向に分からず、ただふらふらと頼りなく揺れている。

しかし、かぼそい腕の力だけは確実に殺意を抱いて、俺の首を絞めるのだ。

夢を見始めた頃は、殺される前にどうにかこの「誰か」を殺してやろうと、無理やり動かない腕を持ち上げて首を絞め返していた。

俺は必死で悪夢の世界に抵抗して意識をねじ込んでは、悪夢から逃げるように毎晩毎晩飛び起きていた。

だが、今回はもう抵抗をやめた。

悪夢の世界に溺れるがまま、この世界のシナリオに従う。

今日も「誰か」はお決まりの逆光で現れたし、枯れた雑草が風に吹かれるみたいに揺れながら、雑な造形の手で下手くその力任せに首を絞める。

別に良いさ、この世界のシナリオでは無残に殺されるだけの木偶人形Aだとしても、目が覚めたら俺は俺に戻れるのだから構わない。

動脈を塞げばもっとマシな感覚で楽に逝けるというのに、その「誰か」は今回も俺の気道をめちゃくちゃに押し潰した。

だからいつも時間ばかりかかって、まるで人の殺し方を知らない子供が、八つ当たりでやっているように思える。

けれど、今回は俺の抵抗でねじまげられることなく、本来の夢の展開に辿り着いたらしい。

静寂に飲み込まれそうなほど微かな声で、「誰か」が初めて言葉を発する。


『―――――――許して、「私」』


俯いて角度が変化した「誰か」の顔に、わずかな光が反射した。

白く積み上げられたブロック状の風景が端に映り、そして俺が閉じ込められている物体の顔―――顔らしき部分が映り―――蒼、淡く蒼い瞳孔が反射した。

俺の左目だ、あれは、俺の……。

途端に、通い慣れた道を通って本部へ帰るに近い感覚と共に、この白い世界とは別の世界に意識を引きずられた。

今まで散々夢から逃げ出そうと抵抗していたくせに、今日は無意識のうちに夢の中へ留まろうともがいている。

俺は「誰か」の台詞の意味を求めている、必要ないと思い込もうとした意味を。

けれど抵抗も空しく、もうお馴染みとなってしまった暗闇は夢の世界を容赦なく塗りつぶして、俺を覚醒の方向へと連れ出した。






徐々に開いていく瞼の隙間から、3段階調節が可能な白熱灯の、一番弱い光に照らされた低い天井が見えた。

意識が無くなる前の記憶を辿り、案の定、談話室のソファーで転寝していたことを確認する。

談話室の打ちっ放しのコンクリート壁には、独房のような小さな窓が開いていて、そこから雨天の真昼特有の薄いシルクに似た日光が差し込んでいた。

そのままぼんやりと辺りを眺めていると、どこかからミケの声がする。

「おはようなのです」

しばらく自分の目の高さを見回し、ふと気づいて視線を斜め下に下げた。

ミケは俺のとなりに行儀よく座って、俺の顔を水滴のような瞳で見上げている。

「おはよう。でももう、こんにちはの時間か」

「お寝坊さんなのです」

「だな」

テレビの下に置かれたマルチメディアプレーヤーの示す時間が、もうすっかり午後であることを確認して、ミケの柔らかい赤毛を撫でた。

だが、昼下がりのまどろみに満ちたゆるやかな時間を、不意にあの風景がよぎる。

「……そうだ、フォックスはどこに」

「ナナシの様子を見てるですよ」

返事も忘れてソファーから慌ただしく立ち上がった俺に、彼女は困った風に首を傾げていた。


集中治療室へと通じる無機質な廊下を足早に歩きながら、あたかもその場に立ち会ったかのように、鮮明に思い出せる夢の情景を振り返った。

涙が流れずとも分かる、あのときの「誰か」は確かに泣いていて、そして人形の俺に震える声で許しを乞うた。

景色から声から、夢の詳細が溢れ出す。

勢い任せに集中治療室のドアを開けると、作業を終えたフォックスが濡れた手を拭いながら振り返った。

彼は細い狐目をわずかに開く。

「夢が、夢が完成したんだよ、無くなったピースを見つけたんだ……そしたら、最後に『許して』なんて言いやがって……ああ、くそ」

「ギガ、落ち着きなさい」

下から見上げるフォックスの妙に冷えた掌が、俺の腕を強く掴んで揺すった。

「しっかりしろ。ひどい顔だ」

「そうだろうな……だって、この蒼い眼を見たんだ。ドナーだったんだよ、ドナーの体に俺の意識が閉じ込められていて……」

フォックスはまだ確信を得た表情ではなく、俺を部屋の隅にあるベッドに押し込むように座らせた。

「私がその話をした直後じゃないか。突然夢の内容が変わるなんて、影響されているとしか考えられない」

伏した俺の目を覗き込んでいるその顔には、どことなく後悔に似た色が浮かんでいた。

その通りだ、彼はいつも正しい事ばかり言う。

「この感覚が記憶転移じゃあなかったら………単なる俺の妄想ってことになる訳だ」

前屈みに立っているフォックスの首に軽く片手をかけると、骨ばった首の感触は、夢の中で殺し殺された「誰か」のものに似ていた。

青みすら含まれる生白い肌に、親指がわずかに食い込む。

呼応するように集中治療室の水槽が泡立つ音が聞こえた。

「もしそうなら、残ってる方の腕も斬っちまうなり、両脚を縫いつけるなりしてくれよ。俺もどうなるか分からねえ」

そう囁いた俺の手の甲を、冷えた指先が覆う。

「そんな言い方、まるで脅迫だ。らしくもない。怯えているのか」

「………怖いんじゃないさ、焦ってんだ」

眼なんか何の問題も無くて、壊れているのは俺の方という結末、そんな可能性くらい予想はついている。

「記憶転移なら、これ以上何も分からないままにしておきたくない。俺の妄想なら、手遅れになることを避けたい。結末はどっちだっていい、でも、早く答えが欲しいんだよ」






ミケに居留守の概念を復習させてから数時間ほど本部を任せた後、俺とフォックスは北部スラムの第18管区に位置する巨大なシャッターを仰いでいた。

今日は殺される夢を見た翌日。

オリンポスではスラムを細分化した管区ごとにゲートが設置され、輸出入物資や人員の出入りが行われている。

清潔感のある白さに染めたはずのシャッターは、戦後の長い時間をかけて、スラム街の住人が好き勝手に塗り重ねたグラフィティアートが隙間なく覆っている。

「確かに私は、夢の風景をオリンポスの内部かもしれないと言った。だが仮定であって、君の探している答えが見つかる保証はないぞ」

「ああ、分かってる」

再度、フォックスは俺に念を押した。

「現在時刻は13時、オリンポス内であなた方が活動できる時間は今から6時間に限定させていただきます。19時を過ぎてこのゲートにお戻りになられない場合、総局長の権限に於いて特別措置を取るとのお達しです」

獣のような形状の防具を被ったゼウス兵が、石像のようにシャッターの脇に立っていて、長い鼻づらから雨水を滴らせながら抑揚のない声で告げた。

フォックスがどんな手段を使って最高権力者に約束を取り付けたのかは分からないが、オーウェンは俺たちがオリンポスの中に立ち入ることを時間制限つきで許可したという。

「まあ、ちょっとね」と、フォックスはいつものように濁して笑った。

だが、少なくとも彼は、今回オリンポスに入る真の目的については明かしていないはずだ。


ドナーに会う、それは旧世界では禁忌のように扱われた問題だ。

まず臓器や骨髄のドナーは、純粋に事故死や病死した者だけとは限らず、また出会ってしまったことにより提供された臓器の代金を請求され、不当な取引に発展する事例も多い。

提供者と被提供者が面会することは、不幸な結末に終わることも少なくなかったため、各国は面会そのものを法律により厳しく取り締まっていた。

だがそれは、秩序のある旧世界の話。

さらに言えば、人類の間だけに生じる話だ。

何もかもが破壊された後に残った荒野で、小さな共同体が「死なない」ために必要な最低限のルールがやっと整い始めた国家には、ドナー云々に関する法律や倫理を定めている余裕も無ければ、違反者を取り締まる体力も無論ない。

それがサイボーグやヒューマノイドのパーツとなれば尚更で、現状では重機のパーツや建築材などと似た方法で扱われる。

故に、ドナー義体の型や廃棄された過程を追跡することは簡単だった。


ゼウス兵は何か諸注意をつらつらと続けていたが、最後に防具の中で一言二言発すると、10メートル四方ほどのシャッターが重い音を立てて開いた。

がらがらと巻き取られるシャッターから土埃が降り、雨の間を縫って広がる。

「第4層地点に滅菌施設がありますので」

ゼウス兵は掌をオリンポスの中へ向けて差し出した。




厚さ10数メートルほどの強化アクリル製防護壁と、それに挟まれるように耐火用の断熱空間が交互に組まれているらしい、とフォックスは通路を歩きながら語った。

「けれど、確かな情報じゃない。どれもこれも管理局が流している虚構だろう」

「情報操作も防衛のうちってわけか」

鉄板で神経質に防護された四角い通路を見渡しながら、この鉄壁の向こう側にある外壁の構造を想像する。

「案外、中身は空っぽだったりしてな」

「人柱による呪術的な防衛が敷かれているかもしれない」

「まさか」

はるか先まで真っ直ぐに伸びた、屋内としては距離がある通路は、進むにつれて落下するような奇妙な感覚に襲われた。

だが、隣を歩くフォックスが時折口を開くおかげで、それなりに気を紛らわすことはできる。

「ハイウェイ・ヒプノーシス、なんて現象もあるんだが」

「ん」

「風景の変化も曲がり角もない単調なハイウェイを、車で延々と走り続けているときに生じる催眠現象のこと」

「この通路に催眠効果が仕込まれてるって?」

「さあね、本当の所は分からない」

「………」

その後も、感覚的にはメビウスの輪の形をした通路に閉じ込められたかと思うほど歩いたが、オリンポス内部に繋がる第5層のシャッターに辿り着いたことで、この感覚は棄却された。

俺とフォックスの生体反応を感知して、オリンポス内部へ通じる最後のシャッターが開く。

シャッターの隙間からまばゆい光が差し込み、薄暗い通路を照らし出した。

瞳孔を刺すような白に眼が慣れてから、俺は顔を覆う腕を下ろして風景を仰ぐ。


――――――夢の世界だ。


それは夢の中の俺が、地面に横たわっている場所から見た風景とよく似ていた。

空を覆うのは曇天でなく白一色の平面で、外壁にかかる膨大な重力を支える目的だろう、支柱を兼ねた建築物が遥か上空まで無数に伸びている。

「ここに来るのは何年ぶりだろう。かなり居住スペースが増えた」

フォックスは太陽の方を眺めるように、天井の所々にある巨大な光源に手を翳した。

「あの塔、見たことがある」

オリンポスの中央にそびえる塔を指で示すと、フォックスはどこか懐かしむような口ぶりで解説する。

「あれがゼウスの管制塔だ。この箱庭のすべての指揮を執っている。内部のどこかにはオーウェンもいるだろう」

「最上階じゃないのか。情報操作ってやつだな」

「その通り」

ブロックが積み重なって構築されている白い塔は、いつか見た絵画の形に似ている気がする。

それは神話の一場面をモチーフにしたもので、名声と名誉を積み上げて天まで届く塔を作ろうとした人間は、神の怒りに触れて言語を分けられ世界に散る、というストーリーに従って描かれていた。

物語の細部はよく覚えているのに、肝心の塔の名前はページの一部をハサミで切り取ったかのように白紙だ。

「………神の逆鱗に触れそうな景色だな。あれじゃ空に届いちまう」

「バベルの塔に似ていると、君もそう思うか」

彼の言葉で、遠い記憶の中で埃をかぶっていた絵画の名前を思い出す。

「だが、神話さ。現在の人類は、旧約聖書の時代とは異なるものを恐れている」

オリンポスに本物のゼウスはいない。

あらゆる不幸を神が下した天罰だと証明することはできないが、銃で撃たれて死ぬ者は、銃で撃たれて死ぬ。

人が人を殺した数も、第二次世界大戦の時点でとうに神の記録を塗り替えた。

「……次に塔の完成を阻むのは、人間か」

呟いた言葉がフォックスに届いたかどうか、彼の背中は何も語らなかった。




俺が思っていたよりも、事はずっと順調に進んだ。

繰り返し夢に見た風景の中にある建築物の特徴を、俺がはっきりと覚えていたからだ。

バベル――――ゼウスの管制塔を指標に、潔癖な真っ白いブロックの合間を何かに導かれるように進む。

本部のある北部スラムに面したゲートから入った時点で、すでに管理棟は見覚えのある形状だった。

仮に、俺が見た夢の景色が現在地とは塔を挟んで間反対の、南部スラム寄りの風景だとしたら、こうも上手くは運ばない。

箱という突飛な形状をしているとはいえ、オリンポスは約2500万人の裕福層が暮らすれっきとした国家だ。

箱の内部には縦横無尽に地下鉄が敷かれ、交通網も旧世界のルールに則って行き渡っているほどで、その広大なエリアを散策するためには到底6時間では足りない。

オリンポスの内部から流出した物資が、ゲート近くのスラムで売り捌かれていたことを素直に「幸運」と言って良いのかは、やや決めかねるが。


箱庭を歩くにつれて、管制塔を中心軸に、オリンポスの外に出る格ゲートへと大通りが放射状に伸びていることに気付く。

日光を浴びていないため青白いコーカソイド系が、風景と同様に白い衣類を纏って大通りを行き交っていて、その中にちらほらとネグロイド系の人々が混じっている。

街も車も白い潔癖な風景から、異様な雰囲気が漂ってはいるものの、住民の表情は俺が想像していたよりずっと「健全」だった。

墓石さながらの無機質な箱から想像した姿は、並べた培養液の中から人間が湧いて出てくるようなサイバーパンクらしい想像図だった訳だ。

しかし、風景の中で唯一、黒い服を纏った俺とフォックスを好奇の目で追う姿は、スラムの住人と大差ないものだった。

それはともかく、紫の髪も高すぎる身長もオリンポスでは目立って仕方なく、すれ違う人の視線がなんだか気まずい。

スラムでは人間の形を捨てるほどのサイボーグ化も少なくない事例であり、変な髪色やら妙な体格そのものは大して目立つ要素ではない。

むしろ外見は完璧に人間の上で、タタラのような群を抜く美形などの方が貴重のようだ。

だがオリンポスでは、旧世界の常識を逸脱するほどの機械化はめったに行われない、とフォックスは語った。

人間が人間らしい形を保っている空間では、人混みから頭数個分も飛び抜けている俺は道路標識か何かの気分だ。

しかし、住民が異端者に対して怯える反応がない辺り、ゼウスの警備体制はよほど信頼が置かれているのだろう。


人口が過密状態の街で、人混みをかき分けながらしばらく歩いていると、覚えのある建造物が視界の端を過った。

十字架と縦長の四角錐、意識していなければ通り過ぎてしまうくらいの、一見すると普遍的なデザインの教会。

背中の方でフォックスが呼んでいるのは聞こえていたが、俺は大通りから細い路地に曲がると駆け出した。

ブロック状の住居に阻まれて教会の屋根が見え隠れするのがもどかしく、路地を突き抜ける勢いで7、8メートルほどの建物の上に跳び乗る。

右腕が無いことでバランスを取り損ねてふらつくが、そんなことには構っていられなかった。

教会に向かって屋上を渡り、さらに直進する。

教会の敷地だろうか、密集した居住区の合間にぽっかりと広場が空いているのを確認し、俺は地面か床かも分からない真っ白い平地に着地した。

広場は浅い闘技場のような造りをしていて、階段を数段降りた先に更に円形の平地が広がり、教会の入り口へと繋がっている。

俺は平地の中央に歩み寄り、祈りを捧げるように両膝を付いてから仰向けに倒れた。


鳥や鼠、虫の音は一切聞こえない。

大通りの騒音から離れたこの場所では、人間の気配も感じられない。

まるで午前3時のスラムだった。


数分後、息を切らして肩を上下させながら、参ったという顔でフォックスが現れた。

彼は路地の中に開けた広場へと立ち入り、その中央に横たわる俺を発見する。

「………ギガ」

彼は乱れた呼吸を整えながら俺の頭の方へ膝をつき、顔を上げて人造の天を仰いだ。

神々しくすら感じるバベルが、はるか遠くに冷たく輝いている。

俺は左手で自分の首を撫ぜた。

「ドナーは、この場所で殺された」






『ここ10年間では、その場所で器物損壊・傷害・殺人等の記録は残っていません。オリンポスでは危険因子は前もって排除されますから、そういった事件に発展する可能性は低いかと』

フォックスのタブレット型端末を通し、ゼウスの安全管理課の職員が冷めた口調でぼそぼそと告げた。

「そうか……それは、どうも」

ドナーが殺された場所で、過去に発生した事件のデータの検索を依頼するも、これと言って有力な情報は得られなかった。

ドナーがサイボーグだった、あるいはヒューマノイドだった両方の可能性を考慮し、傷害や器物損壊から殺人事件まで、ありとあらゆる事件のデータベースを片っ端から走査させたというのに、オリンポスは限りなく統治された空間であり、頑なに平和を徹底していた。

「ふむ………何か見落としているな」

「やっぱり、記憶転移なんて」

「いや、君がこの景色を知っているのなら、もう疑う余地はない。スラムに公開できるオリンポス内部の情報は厳しく制限されているし、オーウェンと直接交渉できる立場でなければ立ち入ることすら難しい。その目以外に、君がこの景色を知る方法は無いはずだ」

フォックスは端末の角をコツコツと軽く叩きながら、口を閉ざしてしまった。

俺は無造作に眼元を擦り、つやの無い地面に視線を落とす。

白い建造物のぼやけた輪郭を認識しながら走り回ったからか、眉間のあたりが異様に疲れていた。

「そうだ………ギガ、まだ諦めるのは早そうだ」

タブレットを弄っていたフォックスが俺に向き直り、片方の口角を上げて微かに笑った。

それから彼は、安全管理課ではなく衛生管理課へと繋いだ。

「高機能廃棄物ログの提示を要請する。期間は3年前まで、対象は個人」

『54856件です』

フォックスの問いに、相変わらず素っ気ない衛生管理課の職員が機械的に答える。

「個人端末、ヒューマノイド、アニマロイド、生活補助ロボット類を全て除いて」

『3744件です』

「まだ駄目か…………そうだ、機関破損率が10%以上ものを除いて」

『27件です』

「その中で、網膜の色が#e0ffffのものだけをピックアップして」

『1件です。総局長より権利証明は受理しておりますが、詳細をご覧になりますか』

「ああ、私の端末へ送ってくれ」

「お、おい。何を基準に絞ったんだよ」

「ドナーが殺されたことが『事件視されていない』可能性だ」

フォックスは俺を呼び、とにかくこれを見ろ、と端末の表面を指さした。

「2年前のちょうど今日。君の瞳と同じ色の瞳を持つ義体が廃棄されている」

光の線によって浮かび上がった文字列の隣には、生身の人間にしか見えない女を前後左右から撮った画像が並んでいる。

「日常生活用の型だ。妙によくできている」

彼は感心した風に息をつき、指先で画像の顔部分をズームした。

3D映像をくるりと回転させると、形の良い二重と下がった目尻の間に、俺の左目と同じ薄い青の瞳孔が光った。

「この顔、知っている。どこかで見たんだが……」

そう呟いたフォックスは、端末を俺に差し出した。

横から覗き込んでドナーの顔をよく確認すると、それは確かに見覚えのある顔をしている。

というよりも、顔を覚えさせることを仕事とするような、艶っぽく整った顔立ちで、俺は彼女の名前も覚えていた。

個人情報の保護のために、廃棄した当人の情報は提供されなかったが、ここまで精巧な造りでは名乗っているも同然だ。

「クレア・タイラー。『wiser than apples』で主演を……けど、若いうちに引退した、と」

「女優だったか。しかし、この義体は……」

フォックスは怪訝そうに首を傾げた。

彼の話によれば、その義体は生身の人間から脳髄をまるごと移植して使うタイプのものだという。

生まれつき身体のどこかに障害を持っていたり、癌の転移が進行していたり、あるいは事故で全身に火傷を負ったりと事情がある場合に限り、合法的に脳だけを人工の義体に移植することができる。

用途ゆえ元の人物そっくりに作られる義体だが、その生命維持は移植される脳とは別の知的器官によって制御されており、移植される生身の脳は主に五体の操作と記憶に使われる。

生命維持と意識それぞれに脳がある、つまり、1つの身体に脳が2つある状況が存在する、ということだ。

「正直、この状況に至る経緯はさっぱり予想できないが、ドナーの義体が『生身の脳が入っていない』状態でこの広場に放置されている、という状況を仮定すれば全て説明できる」

確かに五体を司る脳がないのであれば、転移した記憶の中で手足や目を動かせなかったことの理由になる。

加えて、義体側の脳によって生命活動だけを維持されているのであれば、人間に限りなく近い構造の義体を殺すことも可能だろう。

「けど、妙な部分が多すぎる。この義体は『正式な手続きを踏んで』廃棄されてるし、そもそも自分の義体を殺された―――壊されたのなら、クレア本人が事件として捜査を依頼していても良いはずだろ」

「………」

これ以上の調査に関しては、義体を廃棄処分したクレア本人に聞く他に手段はなく、俺とフォックスはいよいよ行き詰まってしまった。

制限時間は刻々と迫るが、もはや打つ手はない。

「でも、理由が分からないとしても、記憶転移が事実だってんならそれが答えだ。もう十分だよ」

「そうか、君がそう言うのなら良いが……………ギガ」

その時の俺は、フォックスが何気なく問いかけるときの内容は、改まって質問するときの内容よりもずっと鋭いことを忘れていた。


「君は、あの夢が記憶転移によるものでなければ良かった、と思ってはいないか」


「…………さあな」

「濁すか。誤魔化しは不得意だろう」

「俺の心なら、いくらでも読むといい」

「意地悪な言い方だな」

「何、あんたほどじゃない」

広場の階段に座っている俺に対して、隣に立つフォックスはポケットに手を突っ込んだまま肩をすくめた。

「ただな、ナナシが考えていたことを知りたいんだ。あいつが暴走する間際まで感じていた何かを俺が理解できたら、他のメンバーが同じ状況に陥ったときに、助けてやれるかもしれない」

「だから答えを急いでいた訳か」

「ああ。精神異常が前もって分かっていたら、俺の暴走を事前に防ぐ可能性が増す。その上で、皆が大切なことを誰にも話せない環境だけでも、改善できるかと思った」

フォックスは遥か遠くの方向をぼんやりと見つめながら、どこか懐かしげに呟いた。

「自分はどうなっても構わない、と」

「一応、死にたくはないと思ってるよ。でも、他の上手いやり方を知らねえんだ」

「……君も変わらないな」

「……変われねえよ」


制限時間は残り1時間半ほどに迫っていた。

太陽光線ではない光に照らされているオリンポスの内部は、外の日没に合わせて薄暗く変化しつつあったが、その色は夕焼けの赤でも宵闇の藍でもなかった。

「フォックス、帰ろう」

「本当に良いのか。まだ君のドナーが殺された理由が……」

「クレア本人に会う訳には行かないし、もう追及する手段がないなら仕方ないさ。ここまで連れて来てもらって、ドナーの姿もオーナーも分かって、本当に感謝してるよ」

「帰って眼球を取り除いたって、夢の記憶は消えないぞ。それでも……」

念を押すフォックスの言葉を遮って、携帯端末が無機質な着信音で鳴き喚いた。

端末の画面に視線を落とす彼は、四六時中同じ空間で生活している俺たちにすら滅多に見せない、不満げな表情を浮かべていた。

「ま、所詮こんなものか……」

「おい、何だよ」

俺が開きかけた口を押しとどめるように手を差し出し、フォックスは端末を操作して俺の無線へと音声を飛ばした。

微かなホワイトノイズの後に続くのは、人工声帯特有のくぐもった女の声。

『「―――――新たな林檎は必要ないのよ、70億人のシナプスは神の速度を超えたわ」』

声質は当時から全く変わってしまっていたが、俺はあの映画の台詞をやけに鮮明に覚えていた。

「…………クレア・タイラー」

『何をこそこそと嗅ぎまわっているのか知らないけれど、私に用でもあるの? 傭兵さん』


それは単純なカラクリだった。

簡単に言えば、俺たちはあくまで部外者で、100%の信用を得ているわけではなかった、という所だ。

クレアのドナー義体を調査する動向は管理局によって本人へと伝えられており、彼女が俺たちとコンタクトを取るか否か、あるいはゼウス兵が現れて俺たちをスラムへつまみ出すか否かの選択は、ここ5時間近く彼女の一存に任されていたらしい。

そして俺たちが行き詰ったところを見計らって、彼女は連絡を寄越したのだという。

『あなた、その眼を買ったのね。処分した義体が不正に流出することくらい分ってはいたけれど、まさか買い手が私を探しに来るとは思わなかったわ』

俺たちが言葉を挟む間もなく、彼女は「それで」と、畳み掛けるように問うた。

『なぜ?』

なぜ私を探しているのか?

今更、隠す必要も無かった。

「―――あなたの義体は、首を絞めて殺された。そのシーンを、この眼が覚えていたから」

彼女が次に口を開くまでのわずかな間が、俺にとっては永久にも感じられた。

『………直接会いましょう、まだ時間は残っているはずね。あなたに見せたいものがあるの』




クレアがフォックスの端末に送ったナビゲーション情報に従って進むと、彼女の住居は教会からさほど距離もない地区に位置していた。

公共交通機関が縦横に走るメインストリート周辺を外れ、複雑に入り組んだ白いブロック群の奥にそびえる居住用建築物の一角に、現役引退後の女優はひっそりと暮らしていた。

飽和溶液の中で成長する幾何学的な形状が、天から注ぐ冷たい光を遮り、地面に濃い影を落としている。

ドアの前に立つと、カモフラージュされた監視カメラによって俺とフォックスは認識され、インターフォンから女性の声が聞こえた。

その声はやはり、粗悪な記憶媒体を何度も通し、劣化に劣化を重ねた音声データのようなくぐもった物だ。

『………今、出るわ』

たった一言の後、白塗りのドアが大儀そうに開き、俺はただ言葉を失くした。


『―――――――許して、「私」』


あの台詞が蘇る。

目の前に立っていたのは、眼球のドナー素体を殺した「誰か」だった。



俺とフォックスを家に招き入れる彼女の背中は、人間と呼ぶにはあまりに簡素で、あまりに殺風景な姿をしていた。

人体の補完目的に存在するサイボーグ化技術は大幅に進歩し、今や生身の人間と全く区別がつかないほどの精度を誇る。

オリンポスで暮らせるような超裕福層は、自ら進んで美しい義肢を手に入れたがることは定石だ。

だが彼女は違った。

凹凸の少ない中性的な胴体に、無骨な金属関節が露わになったままの、ひどく味気ない手足が付いている。

指や二の腕にも人間らしい曲線は無く、まるで骨折した腕を固める石膏のようだったが、極めつけは顔だった。

素体で見た印象的な美しい顔は見る影もなく、口や鼻すらない卵形の頭部には、横長の長方形状に眼らしき穴がひとつ、ぽっかりと空いているだけだ。

それらはやはり、夢で見たあの逆光の影と全く同じ輪郭だった。

「どうぞ、適当に座って」

彼女にすすめられてフォックスは椅子に腰かけたが、俺は断って壁に寄り掛かった。

この巨体は油断すると、すぐに人間用の家具を壊す。

「傭兵と言ったわね。あなたもサイボーグというわけ」

「…………ああ、そうだ」

どうやら彼女は、俺のことを全身強化しただけの人間だと思っているらしい。

人間用の義体のパーツを使っていたら、人間だと判断するのは当然のことだろう。

余計な解説の手間が省けて好都合ではあったから、俺は適当に話を合わせる。

クレアは特に疑う様子もなく―――と判断する要素は言葉以外に無いが―――淡々と続けた。

「残り時間も多くはないみたいだから、あなたが求めている答えを単刀直入に言うけれど」

彼女は表情のない顔を、鈍い機械音と共に上げる。

「そうよ。私が、あれを殺したの」




今から5年ほど前。

スラムの安酒場で歌姫として働いていた彼女は、オリンポスからの物好きな来客に「俺の映画に出ないか」とスカウトされたのだという。

それはまるでシンデレラ・ストーリーだった。

スラムのドキュメンタリー風に撮影された映画はオリンポスで大ヒットし、彼女は一生かかっても使いきれないほどの財力を手にした。

しかし、彼女がスラムからオリンポスに移住した32歳のとき、皮肉にも0時の鐘が鳴った。

当時の彼女は、全身の筋肉が委縮し運動機能に支障が出る、筋萎縮性側索硬化症という難病を患った。

非常に進行が早く、たった3~5年で全身が動かなくなり、最終的には呼吸困難によって死に至る病だ。

現在も明確な治療法が見つかっていない難病であり、オリンポスが建設されるよりも前の時代から、脳髄移植によるサイボーグ化が対策として推奨されていた。

医師の勧めにより、彼女もやむなく脳髄以外の身体を捨て、1度は自分とそっくりに造られた精巧な義体を作ったのだという。

それが、このペイルブルーの瞳をもつ身体だった。

義体を作っている間も病気は進行するため、彼女はひとまず、今の人形じみた仮の身体に脳髄を移し替えて、義体の完成を待っていた。


そこまで語って、彼女は口を噤んだ。

口も鼻も眼もない顔では確かじゃないが、心なし溜息を吐いたようにも見えた。

「病院のベッドから起き上がって、自由に動き回れる。義体さえ手に入れたらまた役者をできるって、喜んでいたわ」

脳髄だけを抜きとられた彼女の身体は、彼女の手によってスラムの一角に土葬されたという。

でもね、と彼女は続ける。

「義体が完成に近づくにつれて、私の心境が変わった。最初は奇妙な感覚だった。体を無くして他に乗り換える人は皆そうだ、と担当のお医者さんは言っていたけれど、どうにも違うのよ」

その感覚は疑問から不快感に変わり、最後には嫌悪と怒りに辿り着いたのだという。

「職業柄、自分の容姿に自信があったのは確かに影響していたけれど、それだけじゃない。いくら私が中に入って動かしていたとしても、あの義体は絶対的に『偽物』だ、ってことに気付いてしまったのよ」

彼女はその精巧な義体に脳を移植することなく、本来の自分とは異なる外見の女性型義体に移ることも選ばなかった。

「私は、あれに私を乗っ取られる日を恐れていた。偽物の身体で名声を得た時点で、私は偽物になるの」

そして結局、このマネキンのような義体に落ち着き、音もなく女優界を去ったのだ。

「偽物は、この手で首を絞めて殺したわ。だからもう、乗っ取られることはないのよ」

クレアは、全てを話し終えて押し黙った。

彼女はまるで何の感情もなく、ただ自分を乗っ取らんとする脅威を排除しただけ、とでも言いたげな様子だった。

けれど俺は、夢の情景を知っている。

俺には聞かなければならないことがひとつある。


「…………どうして義体に謝ったんだ」


そのときに彼女が泣いているのか怒っているのか、何を思ったのかは読み取れなかった。

彼女は椅子から立ち上がって俺の前に立つと、卵形の頭部に開いた虚ろな暗闇で俺をじっと見る。


「ああ……あなた、嘘はもっと上手くなってからでなければ駄目よ………私が義体に謝った理由、教えた所であなたには理解できないわ」




俺はどこか呆然としたまま、クレアの家を去った。

彼女は丁寧にも玄関先まで見送りに来ていたが、俺は彼女の言葉でAIが溢れそうで、ぐるぐると渦巻く思考回路に溺れていた。


あなたには理解できない、か。

そうだ、当然だ。

だって俺は。






後日。

俺は、一時的に失っていた右腕を再生させる手術と共に、淡い蒼色の左目を摘出した。

フォックスは元の使い物にならない眼に戻すことに疑問を持ったようだったが、何も聞かずに処置してくれた。

そして俺は、クレアの身体が埋葬されているという教会に足を運んだ。

酷く寂れた教会はスラムの外れに位置し、その外観はクレアが義体を殺した教会に驚くほどよく似ていた。

教会の裏には、荒野と同じ色の乾いた地面に、墓石がいくつか立ち並んでいる。

その中にただひとつ、何も記されていない粗末な墓石が、建物の影になる位置にひっそりと佇んでいた。

俺は墓石の前に膝を突き、生分解性プラスチックの箱に入った義体の眼球を懐から取り出した。

箱を埋められるほどの穴を掘ろうと地面に手を掛けたところで、俺は躊躇って動きを止める。

――――――「彼女」は俺の同類だ、クレアでなく。

ここに埋葬することは、正しいのだろうか。


「…………そんなこと、俺が分かるもんか」


止めた手を再度動かし、爪を土に突き立てる。

箱3つ分ほどの深さの穴を作り、そこに小さな白い箱を置く。

黙々と被せる湿った土の下に、箱は姿を消した。


連日続いた雨は止み、今日は陽気なほどの快晴だった。

涙雨なんて降らない。

それでも構わないと思った。




CHAPTER/11 THE TOWER OF BABEL IN THE BOX

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