【修正中】CHAPTER/10
学名、アヴィキュラリア・ヴァーシカラー。
幼体は鮮やかな淡い青に包まれ、成体はマゼンタの脚を持ち、光の加減で金属質に輝く。
動作は素早いが毒性は弱く、気性は大人しく知的であり、主の掌を襲うことはめったに無い。
俗称、アンティルツリースパイダー。
知性の裏に牙を隠した、妖艶な狩人。
この世で最も美しい蜘蛛。
荒野のはるか先、腹の底を震わせるような声で雷が唸っている。
彼女は雨水が伝う窓枠に腰掛けて、外を眺めていた。
彩度の高いマゼンタの瞳に、雨で歪んだ光が差し込み、時間の経過と共に流れて行く。
灰色の単調な背景に彼女を配置するだけで、窓枠を額に見立てた1枚の絵画が完成する。
高くはないが形の良い鼻筋と広い額、白目が多く射抜くような鋭い視線、それから濃い褐色の肌。
白色人種をモデルにして造られることの多いヒューマノイドの中では異端な、旧世界の大陸南部に住んでいた黒色人種の特徴を持つ。
色鮮やかにきらめく体表を持つ土蜘蛛、アンティルツリースパイダーのDNA構造を組み込まれたガイノイド。
シアン・ザ・スパイダーは、その名を冠するに相応しい美貌を備えていた。
現在のように任務に明け暮れるよりも前、人工知能の基礎教育カリキュラムを受けたことをふと思い出した。
僕はその中に含まれていた芸術の部門で、メンバー最低点を叩き出したことがある。
流体力学的に効率の良いフォルムだとか、てこの原理が最大限に活きる角度だとか、僕はそんな観点でしか美を測定できない。
なぜか僕の場合はそれが当然のことのように思われたらしく、皆はギガやナナシが高得点を出したことを笑い話のタネにしていたけれど、皆の記憶の底に僕の話が残っているかどうかは定かじゃなかった。
けれどそんな僕にでさえ、彼女の美しさは理解できる。
彼女は、何物とも比較される必要がないと感じる。
もしかしたらそれは、彼女の容姿が整っていることだけから来る理解ではないのかもしれない。
もっと何か、別の感情。
眼鏡をわずかに下げて、すこしはなれた場所に座る彼女を裸眼で見る。
エニグラドールの顔はフォックスの手で造られたものではなくて、スラムで入手した素体そのものを用いたものだと聞いたことがある。
そのエピソードが本当か嘘かはどうでも良くて、僕は彼女の横顔を見るたびに創造主の存在を確信した。
倍率を最大まで上げたら、僕には彼女の皮膚細胞すら識別できるかもしれない。
左手の表面は炭素分子が規則正しく並んで、曇天の鈍い日光にその流れが際立っているはずだ。
目元の長い睫毛は薄い青色の有機繊維で、透き通ったそれは氷河さながらに冷たい。
褐色の肌と濃い黒のタトゥーに、雪を紡いだような髪が良く映える。
完璧、すべてが完璧。
浅黒く長い指に微かに浮いた節を辿って、蜘蛛が這っている。
脚は糸のように細く光沢があり、ティースプーンに乗る程度のごく小さな蜘蛛だ。
前脚でつつくようにして不器用に足場を探り、右手の人差し指から小指へ、そして左手の人差し指へと移動する。
右手、左手、右手、左手。
淡々と繰り返される同じ動作に、僕は催眠状態に陥りそうになった。
その蜘蛛は確か―――――
「この種類の蜘蛛、何食べるか知ってる?」
彼女は突然口を開いた。
その内容がまるで僕の脳を読んだかのごとく的確で、思考は途中で打ち切られる。
ブレインサーキットを走る情報列が、蜘蛛の種類に切り替わる前の―――つまり彼女の美しさについての情報まで、彼女に見透かされているようで焦った。
そんなことはありえないと理論的には分かっているけれど、近頃の僕は科学的に証明できない事象について焦ったり、恐怖を抱いたり、もしくは勘や神のようなものを信じつつあった。
「こいつが食べるのは、汚染区域で被爆した小さな虫。第三次世界大戦のあと、突然変異を起こした蜘蛛や」
彼女は口を開いたものの、顔を上げる素振りはない。
一瞬驚いた表情を見られなかったかが気がかりで、誤魔化しに眼鏡を直す振りをする。
「窓なんて滅多に開けへんのに、どこから入って来たんやろね。入ってしもたら、もう出られへんのに」
彼女は僕に話しかけてはいるが、自分の返事を求めていない口調だった。
彼女は他者に相談しない、答えを問わない。
答えはいつでも彼女自身が持っている。
いつだって僕が手を差し出したり、意見を述べたりする隙はなかった。
彼女が鉄格子の鍵を外し、防弾ガラスを押し開けると、庇の向こうでは雨が退屈そうにしとしとと滴っていた。
居心地が良いのか、ついに指の間に巣を張り始めた蜘蛛を見て、シアンはわずかに微笑みながら、蜘蛛の糸の端を窓枠の外側に吊るしてやる。
窓を閉めて、彼女はようやく僕を振り返った。
「用があって来たんやろ」
僕はシアンを呼びに来て、談話室のドアを閉めかけたまま、その場に立って彼女をぼんやりと眺めていたのだった。
「えっ、ああ。フォックスが呼んでる。ブリーフィングだって」
シアンは窓枠からするりと飛び降り、僕とすれ違ってドアから出て行った。
「何してんの、はよ」
「うん」
廊下から呼ばれ振り返った僕は、慌てて彼女の背中を追ってドアのレールにつまずいた。
タタラ一行がブリーフィングに召集されたのはいつも通りの談話室ではなく、薄暗いフォックスの作業部屋だった。
以前、エンデミックの浄化作戦を請け負った際は皆が談話室に集まったが、今回はタタラとシアン、それからホノメだけで組んで任務に向かうことになっている。
彼らは指定の時間よりも一足早く作業部屋に訪れたが、作業台の上に据え置かれた中型のディスプレイには、すでにオーウェンの姿が映し出されていた。
前回ディスプレイ越しに顔を合わせたときと同様、塵ひとつ付いていない灰色の軍服に身を包んでおり、相も変わらず一糸乱れぬオールバックは、どことなく不気味な潔癖さすら感じさせた。
彼が口を閉ざして机に構えている姿は、人間味の欠落とともにフォックスやラクーンドッグに似た雰囲気を醸し出している。
集団のトップに立つことというのは、その集団の規模や思想に関わらず、ある種の人間性を捨てなければ成り立っていられないものかもしれない、とタタラは考えた。
液晶の向こうに映るオーウェンは、灰色の手袋を嵌めた手で何か液体の入ったカップを手に取り、神妙な表情と上品な所作でそれを口に運ぶ。
『………刑事課も検察課も、我が管理局の司令部でも、組織のオフィスに置くコーヒーは不味くなければならないルールがあるらしい』
合成香料のはずなのに変だなぁ、と最高権力者は肩をすくめてぼやいた。
どこか掴み所がないという点ではフォックスと変わらないが、重役にしてはフランクなオーウェンは、エニグラドールの緊張を和らげる一面を持っているとも言えた。
「それでは、今回の任務に関してですが」
時間を確認したフォックスがさり気なく促すと、オーウェンは机の脇に立っている秘書らしき人物から長方形の端末を受け取った。
それは半透明の薄型フレキシブル端末で、彼はそこに記された任務内容の解説を始めた。
『昨晩お送りした資料の通り、数か月前から、南部スラム街で奇妙な紛争が度々発生しています。所属不明の……おそらくインフレイムと見られる自立型兵器が、スラムに住む人々を次々に襲っているとの情報です』
フォックスは彼の話の流れに合わせ、例の敵と思われる動画を別モニターに表示する。
淡い黄色の三つ眼が光の帯を引いて、暗闇の中で規則的に揺らめいている。
時折、焼夷弾の強い閃光に照らされて南部スラムの人々が浮かび上がるが、その数倍はあろうかという二足歩行の巨人たちが廃墟の合間を歩き回っていた。
火炎放射器であたりを焼き払い、必死に隊列を組んで機関銃の一斉掃射を行うもむなしく、インフレイムと仮定すれば小型に入る敵にも効果は無いようだ。
戦場の動画も撮り手の挙動に合わせて上下にぶれ、撮り手が走って逃げ惑っていることが見て取れる。
南部スラム戦線は壊滅、つまるところ傭兵たちの状況は圧倒的劣勢だった。
「戦況は解りましたけど、ウチら3人が増援に向かったところでコレ制圧できますか? 南部も石器使って戦っとるわけやないでしょう、敵の強度もそこそこなんじゃ」
怪訝そうに問うシアンに、オーウェンは顎を摩りながら答えた。
『それが……北部と比較すると、南部の兵力はまだ石器時代と言っても過言ではないのです』
フォックスは手に持った端末を操作し、スラムと廃工場地帯における汚染区域の分布図を示しながら口を開いた。
南部は北部よりも汚染区域の範囲が広く、除染を進めてはいるものの人間が生活できる環境はまだ少ない。
その上、有能な傭兵団の大移動によって、彼らにものを売る兵器エンジニアも北部スラムへと移住せざるを得なくなった。
結果的に南部の防衛水準や治安は悪化する一方で、南部に住んでいた者たちは難民として北部に流れ込んでいるのが現状だ、と彼は語った。
「南部の住民には特別手当が支給されていますわ。難民として北部に来るよりは、生活のあてがあるように思うのだけれど」
首を傾げるホノメに、オーウェンは参ったという風に眉間を指先で押さえた。
『汚染の浸食が届かない安全な区域も、南部には多く存在します。しかし、科学的根拠のない噂だけは拡散されても、我々が発信する情報は一向に信用を得ない』
ゼウスが試行錯誤を繰り返して最善の対処を取っていても、情報保護や技術的側面から奔走する上層部の現状を下層に伝えることは不可能であり、結果的にゼウスへの不信感は募る一方だ。
また、特別手当や支援品などという遠まわしな手段で人員確保を図るのでなく、ゼウスが直々に南部へ兵器を回せば話は早いのだが、この新興国家ではそう簡単に事は運ばない。
要塞都市と銘打ってはいるが、オリンポスは平和の実現を基盤として建国された国であり、その武力は自衛のためのみに用いることが国際条例で取り決められている。
大っぴらに武装化に手を貸すこととなれば、オリンポスの後を追って設立された他の都市国家から非難を浴び、貿易や防衛条約から外される可能性もあり、そうなってはこれまでの努力が水の泡となることは明らかだった。
南部スラムに関わる噂や傭兵団の活動記録を大まかに調べながら、タタラは南部の劣悪な環境に舌を巻いた。
南部の傭兵が使っている武器は、精々歩兵用の小型アサルトライフル程度で、なんと第二次世界大戦で使用されていた骨董品並みの兵器すら運用しており、貧しい傭兵団では火炎ビンや即席の刃物で戦っている現状らしい。
シアンはふむ、と鼻を鳴らした。
「それならウチらで敵う相手だとしても、南部の傭兵がこれだけ手こずるのも道理が通ります」
管理局の面目も丸潰れですよ、とオーウェンは頭を振る。
『我々ゼウスは10年かかってもまだ、十分な防衛拠点すら整備できずにいます。この悪い連鎖をどこかで断ち切らねば、たとえ再生しかけの今からでもオリンポスはゆるやかに死んでしまう』
険しい表情で唇を噛んだオーウェンに、フォックスも表情を緩めることなく口を開く。
「あなたが確固たる信念を遂行されるなら、全国民の幸福のために我々が使われるのなら、進んで手駒になりましょう」
オーウェンはすっと顔を上げ、僅かに蓄積した疲労が見え隠れするものの、不敵の色を湛えた笑みを浮かべた。
『………では、改めて。今回の任務は南部スラム街における自立兵器軍の制圧です。南部では今も敵との紛争が続いている。一刻も早く敵の侵攻を阻止してください』
「……とは言ったものの、なぁ」
倉庫で任務に持って行く武器を漁りつつ、シアンは背後を漂うホノメへ曖昧に訊く。
「南部スラムなんてさっぱり想像つかんな。話には聞いたことあるけど」
「道路が整備されているオリンポス沿いのストリートを進んでも、片道で4日かかるらしいですわよ」
「そうなるともう旅行やな。双子ならもっと早く着くんやけど」
「あの子たちは、別件で遠出するとか言っていましたわね」
「遠出?」
金属の細い棒を十字に張り巡らせた武器庫の壁にフックが列を成し、そのフックに支えられるように大小の重機が並んでいる。
その中から、対戦車ライフルを手に取って矯めつ眇めつしているタタラが解説を添えた。
「大戦末期に建設された小規模国家は、オリンポスの他にもマリネリスやアマゾニスがあるでしょ。オリンポスで製造した精密電子機器を、それらの国へ輸出する計画が動いてるらしいんだ」
シアンに弾丸の収納場所を示しつつ、ホノメが気紛れに空中でくるりと1回転した。
「物資不足を貿易で補うのだけれど、その輸送キャラバンの護衛を任されたそうですわ」
「10年間も真面目に戦ってると、デカい仕事が来るようになるもんやね」
しみじみと目を閉て大げさに頷き、シアンは再度、棚を漁り始める。
「良さげな銃、発見」
「あーそれ、弾丸のストック残ってないと思う。そっちの、OSV-96取って」
「どれやねん。このでかいのか」
「そうそう」
「ロシア好きですわね」
「ん、僕の銃はソ連だよ。1980年代の形状を踏襲しているだけで……保存状態が悪いなぁ……威力や内部機構は元のVSSとは別物だけれど」
3人があれやこれやと話していると、武器庫の重いドアの隙間に割り込むようにして、フォックスが様子を見に現れた。
別件で眠っていないのか、眉根にしわを寄せながら眼元を擦っている。
選び出された武器を見回すと、彼は鼻先を掻いて一瞬考えた後、対戦車ライフルとは別の棚に据え置かれた電動ガトリングガンを指して言った。
「敵は人間じゃないんだ。もっと木端微塵にできる物を選ぶと良い」
言い切るとフォックスは顔を引っ込めたが、すぐに手だけがドアの隙間から現れてひらひら動いた。
「ああ、あと。今は使い捨てしかないから、ロケットランチャーはやめなさい」
つい先日のこともあって、タタラは複雑な心境でフォックスが去った後のドアを見つめた。
放って置けない性質なのか任務に慎重なのか、フォックスは10年経った今でも彼らを子供のように扱う。
どこかに秘密を持った彼と生みの親としての彼、それから彼に対する不信感と違和感。
まるでまったく同じ顔を持った別人が存在しているかのような、不気味な二面性に苛まれていた。
複数ブロックにまたがる大規模な制圧戦であれば、本来は十分な計画を立てるために最低でも1週間ほどの準備期間を要する。
しかし今回は南部の戦況が刻一刻と悪化していることもあり、3人はオーウェンからの依頼があった翌日の夕方にはすでに目的地への移動を始めていた。
ゼウス兵がエニグラドールへ貸し出した灰色の軽装甲車に、武器や食料、医療品などを積み込み、急きょ豪雨の中を走り出してから2日目の昼。
オリンポスの壁に沿って整備されたストリートを予定通りに進みながら、ハンドルを握るタタラは風景が変わりゆく様をひしひしと実感していた。
現在地はオリンポスのちょうど東辺に当たる位置で、まだ南部スラムへは遠いものの、東部スラムも治安が芳しくないことが窺える。
タタラは運転する装甲車が雨を押しのけて南部に近づくにつれ、宵闇の中で蠢く人々から肌に刺さるような気配を感じていた。
それは北部ではほとんど感じることのない、余所者を排除せんとする、諦めや絶望を含んだ殺気にも似た気配。
ストリートで人々とすれ違うたびに、自身の超視力で望まずとも見えてしまう視線に、強い負の意志や興味心に当てられやすい彼は内心かなり参っていた。
軽装甲とはいえ、この厳つい外見で走っていれば余所者扱いもされる、冷たい目線も飛んでくる訳で、それを当然のことだと割り切れない自身の弱気に、ほとほと嫌気が差していた。
そんな彼の異変に気付いたホノメが、タタラの肩にホログラムの掌を置く。
「顔色が悪いですわよ」
「運転変わろか? そろそろ寝た方がええよ」
「2日やそこらじゃ大丈夫……ぎゃっ!」
タタラが肩越しに曖昧な笑みを浮べようとすると、後部座席から伸びてきたシアンの手に両耳を引っ張られた。
驚いた拍子に、突然抱きかかえられた野良猫のような声が出る。
シアンは後部座席にひっくり返って笑うと、癖毛でフワフワの灰緑の頭を叩いた。
「前のギガみたいにぶっ倒れたらこっちが困んねん。車止めて、ほれ」
大丈夫なのにと呟きながら、彼は渋々車を止める。
タタラとシアンは雨の中で一旦車から降り、持ち場を交代した。
髪に付いた雨の滴を払いながらハンドルに手をかけたシアンの表情は、後部座席に座っていた時よりも険しさが増している。
「ああ、分かった……廃墟の影からこっちのこと見とんねんな。今一瞬降りただけでも、監視されてるの分かるわ」
シアンはアクセルを踏み込みつつ、消耗した様子の後部座席のタタラを横目で仰ぐ。
「アンタの視力じゃ、あいつらの顔まで見えるんやろ。こりゃ気分も悪うなるわ」
掌で顔を覆っていた彼は、運転のため外していた眼鏡をかけ、気の抜けた情けない笑顔を浮かべた。
「うん……ごめんね、運転頼むね」
「そんな、ええて。無理すんな」
助手席のサイドウィンドウから流れる景色を追いながら、ホノメが苦々しく呟く。
「北部とは大違いですわね。南部の治安が悪いことは有名だけれど、東部ですらこんな状況だなんて」
北部スラムは貧困層の人口こそ多いものの、物資の循環は活発であり商業が盛んで、日々の食事に困るほど貧しい者の数もそう多くはない。
そのため売春・人身売買等の裏職業や、ギャング集団の発生も最小限に抑えられており、今も治安は着実に改善されている。
改めて東部スラムの街並みを観察してみると、紫外線が弱く外出しやすいはずの雨天でも人の気配はなく、過去に露店が出ていた様子もない。
南部スラムに近づくにつれて明らかに環境は悪化し、居住するための廃墟街も所々崩落が進行しており、待ち受ける戦場の様子を物語っていた。
本部を出発してから4日が経過した。
北部では今日も雨が降り続いているという話だが、南部では厚い雲が垂れ込めているだけで地面は乾いている。
エニグラドール一行の現在地は南部スラム街の外れ、今回の任務に関わる傭兵団が南部スラムを取り囲むようにいくつかの拠点を作り、対インフレイム戦線を築いている場所に到着した。
街と工場地帯の間に位置する開けた空き地が有刺鉄線で取り囲まれ、一般市民の拠点への立ち入りを制限しているようだ。
土色に褪せた無数のテントやタープ、乗用車に鉄板を打ちつけて作った簡素な装甲車などが地面を覆い隠さんばかりに並んでいる。
もうもうと埃を巻き上げながら、軽装甲車を有刺鉄線の間の簡素なゲート前に停める。
シアンが運転席の窓から顔を出すと、訝しんだ門兵が軽装甲車に駆け寄ってきた。
「ここ、南部スラム第3拠点ですよね。増援に来たエニグラドールです」
「エニグラ………ふざけるんじゃない、ここは一般人の立ち入りは禁止されている。立ち去れ」
いかにも傭兵といった不揃いな野戦服に身を包んだ門兵は、ホノメとシアンを見ると、低い声で語尾を強めて凄んでみせた。
「ウチらは本物やで。ゼウスからの委任状も持ってるし……タタラ、端末取って」
運転を代わってから結局眠りこけていたタタラを、シアンが叩き起こす。
「………本物か?」
「アホ言うな、ホンモノやわ。 大体な、この、この認証数列を勝手に使たら、ゼウスに探知されて即お縄やで!」
「………」
シアンがまくし立てながらタブレットに表示した委任状を突き付けるも、なかなか信用しない門番は無線で仲間を呼び始めた。
しかし装甲車に乗っていようと委任状があろうと、そのメンバーがサイバーゴス装束の少女と妙にグラマーな女、見るからに気弱そうな青年であれば、怪しむ門番の方が正常である。
「このメンツじゃ、疑われても仕方ありませんわね」
「ウチらの外見、ゼウスが事前に伝えたんちゃうんか」
「門兵まで情報が行きわたってないのかも、増援の要請も急だったし」
そうこうしているうちに門兵がわらわらと集まり始め、一向に立ち退こうとしない軽装甲車に、運転席の窓を狙ってアサルトライフルを突き付けた。
「即刻立ち去れ、さもなくば撃つ」
「ああもう、何か証明すればええんやろ……」
シアンは兵士たちが取り囲むのもお構いなしに、運転席のドアを勢いよく開いた。
想定外の行為にどよめく兵士たちを後目に、後部座席からタタラを引きずり下ろす。
彼に詰め寄ったシアンは装甲車を指さし、その耳元で小さく囁いた。
「アンタちょっと、これ持ち上げてみ」
「ええ、僕が?」
「こういうんは男の仕事や」
「シアンがやった方が意外性あると思うよ……」
「そんな馬鹿力見せたら、おしとやかなウチのイメージが下がるやん」
「……………」
「なんで黙んねん」
頭頂部を叩かれてズレた眼鏡を直しながら、兵士たちのアサルトライフルを潜り抜けるように軽装甲車のフロントに回る。
車高が高く前部の底が地面に対して角度が付いているため、タタラは装甲車の下に潜り込むようにして牽引フックと車底部に手をかけた。
「すいません、皆さんちょっと下がってください、はい、危ないので………」
何を始めるのかと警戒する兵士をよそに、タタラは両腕を覆うようにシールドを展開し、強化した掌に力を込める。
乾いた地面には彼の足の下から音を立てて亀裂が走り、浮き上がった装甲車のタイヤから砂や小石がざらざらと落ちて行く。
肩を支点にてこの原理を使い、ついに軽装甲車を地面に対して垂直に立てると、運転席の窓から抜け出したホノメがリアバンパーにふわりと腰かけた。
どこからどう見ても気弱そうなただの青年が、涼しい顔で4トン強の装甲車を担ぎ上げている非現実的な光景に、集まった門番はライフルを構えることも忘れて呆然と口を開けた。
シアンは堂々と胸を張り、にやりと笑って言い放った。
「改めまして。戦闘特化型サイボーグ傭兵団、エニグラドールです」
確かな証拠に納得した門兵の案内で、一行は第3拠点を取り仕切る傭兵団「南十字団」の総司令官が構えるテントへと案内された。
テントへ向かう道中では、ぼろぼろの布を何重にも着重ねて鼻から下を隠した人々が、拠点の敷地内を忙しなく行き来していた。
門兵から現状を聞いた所、ここ数週間ごとに頻度が増えつつあり、今や3日に1度のペースでインフレイムらしき所属不明の自立兵器による襲撃があるという。
武装を解除できないために至る所に兵器が準備されたままになり、顔を隠した傭兵たちの視線も非常に険しく、第3拠点の内部は物々しい雰囲気に包まれていた。
野営用の大型テントの前に辿り着き入り口の布を巻き上げると、十数人が作業をしている中央に60代くらいの男が立ち、しわがれた声で無線に指示を下している。
案内役の門兵は男に駆け寄り、小声で何か伝えて素早く立ち去った。
男は3人を一瞥すると、くい、と手先を動かして彼らを招き入れ、口の端を僅かに上げて微笑んだ。
「『南部の煉獄』、第3拠点へようこそ」
丁寧にも手袋を外して手を差し出した男は、縁がボロボロにほつれたミリタリーコートに身を包んでおり、髪のほとんどは白髪に変わりつつある。
しかしその濃い青緑の眼光は獣のように鋭く、一般の傭兵とは明らかに格の違う貫禄を醸し出していた。
「俺はこの拠点の総司令官、レノーだ」
「どうも。ウチはシアン、こっちがホノメで眼鏡がタタラや。よろしく」
門兵たちと比較すると見事なまでの落ち着きに、さすがは総司令官とシアンは内心驚いていた。
ゼウスからエニグラドールの情報が届いていたとはいえ、戦場には場違いな一向を前にしてもまったく動じていない様子だ。
ホログラム体ゆえ、初対面の人間には浅ましい興味の眼差しを向けられることの多いホノメも、彼の対応には機嫌が良いようだった。
「辺境まで遠路はるばる、増援感謝する」
シアンと握手を交わすと、レノーは3人をテント内の簡易テーブルに呼んだ。
「長旅の直後に申し訳ないが、早速作戦会議を行いたい」
そういって彼は、テーブルの上に拠点周辺の地図を広げた。
第三次世界大戦の時代にはすでにほとんど使われていなかった、茶色に日焼けした厚紙の地図だ。
「ええ、襲撃頻度も増しているらしいし、計画が早いに越したことはありませんわ」
ホノメの言葉に、色素の薄い瞳でエニグラドールを改めて見回すと、レノーは太い枯れ木のような指先で地図のとある場所を指した。
「そのインフレイムは―――南十字団では便宜上『ファントムグレー』と呼んでいるが、奴らはこの第3拠点よりも南の荒野からやってくる。工場地帯のさらに外側、汚染区域から。半年前から襲撃はあったが、ここ最近になってからはその間隔が次第に短くなって来ている」
レノーは待ち針に似た銀のピンを、ファントムグレーが出現した地点に次々に刺していく。
「以前はどうにか敵を退けていた。しかし、3日に1度のペースで襲撃されるようになってからは、さすがに戦況を立て直す余裕も無くなってな。今はもうこちらの戦力を殺がれるばかりだ」
レノーは深く溜息を吐いた。
「敵のスペックは、確か……」
南十字団の傭兵たちの雰囲気に気圧されて黙っていたタタラが、ようやく口を開くと、レノーの代わりにタタラの背の方から答えが返ってきた。
「体長2.5m、重量は不明。防弾加工済みチタン合金の外殻を持つ、カリコテリウム型インフレイム。我々が完全に破壊する前に撤退してしまうため、サンプルが取れず仕舞いで詳細は調べ兼ねています。しかし少なくとも、次の襲撃でこの拠点が陥落することだけは、確実に言える」
テーブル上の地図をのぞいていたタタラが、自分の幅よりはるかに広い幅の影が地図に落ちたことに気付いて背後を振り返ると、そこにはまるで甲冑を着た騎士のようないかついシルエットの大男が立っていた。
「仲間を紹介しよう。彼はジョー、その後ろにいるのがティエン。俺の最高の両腕だ」
「俺で隠れてます、先輩」
「……どうも」
ジョーと呼ばれた壮年の大男の更に後ろから、今度はタタラよりも二回りほど小柄な少年らしき人物が顔を出す。
少年の目の周りには、特徴的な濃い青色のペイントが施されており、一度見たら忘れられない強烈なビジュアルだ。
2人はテントの外を歩き回る傭兵と同じボロボロの服を何枚も纏い、二の腕にレノー同様に黒い十字の腕章を付けていた。
「先輩?」
シアンが素っ頓狂な声を上げたが、ジョーはよく聞く台詞だ、と言わんばかりに淡々と返した。
「南十字団に加わったのは俺の方が後ですから、戦闘経験的には彼は俺の先輩です」
「ああ、うん? そうだとしても……」
何か聞きたげなシアンの様子を察したジョーが、彼女の耳元に口を近づける。
「26歳です、先輩。童顔や身長を気にしているので、他言はなしで」
彼は静かにそう囁くと、凛々しい強面を崩して歯を見せ、意外なほど茶目っ気のある表情でニッと笑った。
「ふふ、なるほどな。分かったわ」
そんな様子にタタラはなぜか形容しがたいもやもやとした気分になりつつ、横目でシアンとジョーをちらりと見る。
「―――それで、だ。これまでのパターンからして、次の襲撃は明日の深夜だと予測している。衛生班もフル稼働で兵の治療をしているが、戦力は到底足りない。今回でこの拠点は突破されるだろう」
「そこで私たちの出番ですわね」
レノーは深く頷いた。
「そうだ。本作戦では、拠点を取り囲むように君たちを配置する。我々も残存兵力で可能な限りの援護をするが、まずは突破口を開いてもらいたい」
レノーが拠点の一部を指で示し、ゲートから出て回り込むように円を描く。
「拠点に籠城するのではなく、その突破口から敵の背後に回り込んで退路を塞ぎ、次こそは仕留める」
彼は軽快な音を立てて、手のひらと拳を打ち合わせた。
各自の能力や持ち場、残存戦力についてのブリーフィングを小1時間ほど行った後、レノーは別件でテントを離れるため、一時解散することとなった。
一向が軽装甲車に戻るか否か相談していると、地図を片付けていたジョーが皆を呼んだ。
彼の提案で、エニグラドール一行は待機場所の確認をするべく、拠点内部をざっと回ることとなった。
拠点の内部を歩き回りながら、シアンとホノメはジョーの両隣をキープし、タタラにとってはやや黄色く聞こえる声で楽しげに話している。
「ええ男やなぁ。アジア系が入ってるん?」
「祖父は旧スリランカの出身です」
「へえ。黒髪に碧眼やで、なんか神秘。めっちゃ背高いし」
レノーからの信頼も厚いジョーは、第3拠点に所属する傭兵たちからも慕われているらしく、傭兵たちとすれ違うたびに軽い挨拶が飛んでくる。
タタラはポケットに両手を突っ込み、彼らが何を喋っているのかと無意識に耳を澄ましていた。
「シアンは濃い顔の男性に目がありませんわね」
「濃い顔のイケメンな、イケメン」
「あまり持ち上げないでください、照れます」
「カワイイこと言うや~ん」
「高身長ならギガがいますわよ」
「あのな、モノには限度があんねん。第一、ギガはアンタの」
「な、何バカなことを言っているの」
まるで観光気分じゃないか、2人とも呑気なもんだと、珍しく荒み気味のタタラは、自分が荒んでいる理由も分からないまま内心ぼやいた。
今夜は、薄曇りの朧月夜。
街灯のない荒野は月光に仄明るく照らされている。
少し離れた所で、タタラと組んで配備されたティエンが、櫓の幅のある柵に座って荒野を監視していた。
愛機VSSを抱くようにして櫓の隅にうずくまり、ぼろぼろのコートをなびかせながら夜風に吹かれ、敵の襲撃をひた待つ。
第3拠点の防衛領域を真上から見ると、その形状は歪な三角形だ。
辺の部分は鉄条網と傭兵に守られ、司令部や主火力となる武器は三角形の頂点と重心付近に配備されている。
司令塔として鉄筋コンクリート製の櫓が立ち、そこで傭兵の中でもジョーやティエンなどの指示力を持つ者が、それぞれの持ち場に指令を出す仕組みになっている。
エニグラドールそれぞれが三角形の各頂点で待機するよう、昼の作戦会議で指示されたが、ファントムグレーの多くが現れる荒野に面した頂点――αポイントに、レノーは自ら向かうと言った。
大将が死ねば傭兵団は崩壊する、彼の生死は南部スラムの命運を握っているというのに、あまりに浅はかな作戦ではないか、とタタラは精一杯のオブラートに包んでレノーに問うた。
しかし、彼から返ってきた台詞は思いもよらない物だった。
「………まだ誰も死んでいないから、ね」
ヘッドセットが音を拾わないよう、タタラは口の動きだけで呟いた。
驚くべきことに、南十字団に始まり援軍としてこの拠点に加わった中小傭兵団を含め、骨折等の重症を負ったり手足を失ったりと戦う能力を奪われたものは大勢いるが、死者はまだひとりも出ていないのだという。
レノーは「手加減されている気がする」とも言っていた。
これこそ、オーウェンがこの紛争を「奇妙」と称した理由であった。
傭兵を目前にしたファントムグレーは、明らかに殺戮を避けて手を引いている。
敵に殺意がなく制圧だけが目的であれば、レノーが負傷したとしても組織の消滅とまでは至らない。
指示効率と大将が前線へ出るリスクを天秤にかけてみたら前者に傾いただけ。
手足が無くなっても指示は出せるさ、とドライに笑うレノーの横顔を思い出した。
確かにファントムグレーの紛争は、人間には目もくれず執拗に要塞国家の壁だけを狙う、ラクーンドッグの思想に近いかもしれない。
だから、数分前からじわりじわりと顔を出している胸騒ぎも、この静けさが原因なんだ、彼はそう言い聞かせた。
なにしろ櫓の上で荒野を監視する傭兵たちは身動きひとつしない上、交代を待つ傭兵は寝息まで殺す術を身に着けているのかとすら思うほど無音の空間に、彼の気は滅入るばかりだった。
タタラがVSSの重厚な銃身を体に引き寄せると、触り慣れた金属の冷たい感覚が肌から熱を奪った。
鈍い光沢を持つ銃身は、大怪我を負ったときに皮膚や筋肉の奥に垣間見えた、彼自身の金属骨格を彷彿とさせる。
彼はAIの回路の中だけで何度も呟いた。
銃は僕を裏切らない。
腕の中にこの相棒がいれば怖くない。
そうだ、きっと何もかも上手く行く。
第3拠点の頂点の1つ、βポイントの櫓上。
火力・防御面で他の2人に劣るシアンはジョーと組み、最もスラムに近い頂点を担当している。
見張り役の傭兵が荒野に双眼鏡を向ける動作の他は、闇夜の中で動くものはない。
あまりにも静かすぎる。
シアンは櫓の床に座って縁に顎を乗せ、荒野をほんやりと眺めながら、彼女同様に身を潜めているジョーにきわめて小声で話しかけた。
「アンタも、あの……小さい子も」
「ティエン?」
「そうそう、ティエン。彼もそやけど、ちょっと変わってるよな」
この静寂、敵を待つ緊迫した状況で緊張するのは無理もないが、無暗な緊張は身体を強張らせいざという時に足を引っ張る。
静寂を緩和するために、どう返されるかと半ば賭けのような心持で声をかけてみたが、ジョーは思いもよらない余裕と共にくつくつと喉を鳴らした。
「あなたがそれを言いますか、シアンさん」
シアンは小声で続けた。
「ま、その通りや。わざわざサイボーグ化した女子供連れてる傭兵団なんて、どこ行っても変な眼で見られんねん。今回もそれを覚悟で来た分、落ち着き様に拍子抜けしたと言うか。門兵さんはちょっと驚いたみたいやけど」
便宜上、エニグラドールはサイボーグ、つまり人間という設定で派遣先とやりとりすることは少なくない。
沈黙を埋めるための適当な会話として話を始めたが、生い立ちや経歴まで話が及んだ場合、使い慣れた嘘のうちどれを話そうかとシアンは考えていた。
しかし、ジョーは間を置かずに答えた。
「我々南十字団が考慮すべき問題は、あなたの特異性ではなく、あなたが強いか弱いかです。南部を背に立ち、盾として耐え得る機能を有するか、否か」
「……なるほど。甘い顔して結構エグいな、アンタ」
ジョーは荒野に見合う乾いた声で、はは、と笑った。
「この煉獄で、実直に生きるのはとても難しいですから」
薄い青の眼光は鋭く、小手先だけの一筋縄では行かない人間であることを感じさせた。
だが、この不条理な現実ではどうだろう。
ほんの数秒前から、この櫓にも地響きが届き始めている。
ジョーが他の櫓と連絡を取り始め、傭兵たちが色めき立つ中で、シアンだけは場違いなほど落ち着いていた。
これまでの敵の行動パターンから、次の襲撃は明日の深夜と予測されていたが、実際は24時間近くの大幅な誤差が出ている。
理論に従ってさえ予測不可能な現実の中で、岩にしがみ付く力を手にするよりも、否応なく濁流に流されていた方が楽なこともある。
その選択肢を断ち切るためには。
彼女はようやく立ち上がった。
同時刻、場所は荒野に面したαポイントに設置された櫓の下。
レノーと組んで荒野の監視を続けていたホノメは、いち早く異変に気付いたタタラの連絡で、紺の空に溶け込む地平線に目を凝らした。
狙撃手の超視力ではすでに見えているのだろうが、並みの者にはもう十数分は敵の姿を捕えることは敵わないだろう。
金属板でできた階段を騒々しい足音と共に駆け下りて行く傭兵と入れ替わるように、ホノメは櫓の上へと浮き上がって櫓の縁に立った。
レノーは覘いていた双眼鏡から目を離し、β、γポイントに待機するジョーとティエンに何やら指示している。
夜の帳を切り裂くような喧騒が第3拠点のあちこちから湧き立ち、休息を取っていた約半数の傭兵たちが目を覚まし、拠点の内部は電燈が煌々と光り始めた。
この抗争において隠れる必要はない、敵の注意をなるだけ引き付けることにより、この拠点はスラムの盾となる。
「ブリーフィング通り先手必勝、君とタタラ君が主火力として奴らに特攻を仕掛けてくれ。我々は君たちの援護に回り、敵陣の亀裂へ部隊をねじ込む」
ちらちらと地平線に沿うように現れた光、淡い黄色に揺らめく敵のトリアイを、ホノメはホログラムの指先で数える。
「会って1日も経たない傭兵団を、見込み過ぎじゃありませんこと」
レノーは傭兵の配置状況を確認する合間に、口角をわずかに吊り上げて薄く笑った。
「なるようになれ、さ。粗悪な環境の南部スラムに力を貸してくれたのは、北部の傭兵団でも君たちだけだ。進路も退路もない状況で、唯一現れた可能性に縋る他なかった」
敵が防衛線から400メートル地点に到達した途端に、γポイントの櫓からタタラが狙撃を始めた。
サプレッサーを外した改造VSSが立て続けに咆える声が、無線を通して伝わってくる。
「戦場に天使さ」
ホノメは櫓の縁を蹴る仕草をして空中に飛び出し、振り返りざまに薄く微笑んだ。
「神の教えを説くのは趣味じゃないの。それより」
ゆるいウェーブのかかった淡いブロンドが大気に泳ぎ、周囲に従えた窒素弾に彼女の姿が歪んだ。
タタラが援護射撃で敵の足取りを遅らせる間に、拠点の約半数の傭兵を連れてファントムグレーたちの背後に回り込まねばならない。
ホノメは空中を滑るように泳ぎ始めた。
「おお、やるね。まだハズレ無しだ」
櫓の縁に猿のような体勢でしゃがみ、双眼鏡で敵の挙動を観察していたティエンが口を開いた。
それは彼にとって裏表のない純粋な賛辞だったのだが、狙撃銃を構えるタタラの表情はどことなく晴れない。
「……………捕捉」
腹の底に響く銃声。
タタラはカリコテリウム型のファントムグレーの胸部に風穴を作りながら、嫌な違和感を覚えていた。
インフレイムはモデルとなった動物の脳と同じ場所にAIが存在し、それを破壊することで機能が停止する。
今回も一番初めは哺乳類のセオリー通りに敵の頭を撃ち抜き、頭部が粉々になったことをこの目で確かに確認した。
しかし、頭部を破壊された個体は、何事もなかったかのように起き上って歩み始めた。
ならば、と駄目元で胸部を撃つと、ファントムグレーは嘘のように地面に倒れ伏した。
一般的なメカノイドにおいて、AIや記憶媒体などの重要かつ高価な器官は、アクシデントの際に可能な限り保護されるよう比較的丈夫な胸部に配置される。
だが、インフレイムの内部構成はこれらのメカノイドとは大幅に異なり、モデルとなった生命体の内部構造を忠実に再現し、たとえ装甲が薄く弱点となる部分であっても、脳は頑なにその場所へ配置されている。
それはおそらく奴らを作ったラクーンドッグの意匠であり、ファントムグレーには従来のインフレイム―――つまり、あの赤い暴君の意思と微妙に差異があるように感じられた。
どこかズレている。
何かが起こる。
タタラとティエンは敵の監視を他の傭兵に任せ、じりじりと接近するファントムグレーを迎え撃つため櫓を降りた。
『ざっと100機か。前回の倍は居るよ。いよいよ相手も本気だね』
タタラとは距離を置いて地面に伏せ、対物ライフルを構えたティエンが無線越しに呟いた。
ファントムグレーの機体が地平線を埋め尽くし、2人が淀みない狙撃で前列の機体を機能停止させても、その残骸を踏みつけて無尽蔵に現れる。
しかし、海のごとくうねり進んでいたファントムグレーの群れの一部が、突如地面から盛り上がるようにして空中へと吹き飛んだ。
大量の砂埃が舞い上がり、無骨な金属の機体が暴発する。
群れはその後も点々と爆破されながら散らばり、空爆を受けた街のように無惨な穴が開いた。
『派手だね。あんたの仲間の人?』
爆発を逃れた機体を狙い放たれる対物ライフルの銃声の合間から、ティエンが感心した風に声を上げた。
「そう、うちの爆撃担当」
『そりゃいいね、好みのタイプだ』
敵のリアクションから爆発・炎上までにタイムラグがあるということは、ホノメの圧縮窒素砲の特徴だ。
「僕も直接叩きに行くよ」
『了解、援護する。ガンマ・ファイブ、セブンは俺と援護射撃に回れ!スリーは櫓に残って敵の状況把握、伝達!ワン、トゥーは……』
櫓の周辺はティエンと傭兵たちに任せ、VSSを背負うと、タタラは両腕一面にライトグリーンのシールドを展開させた。
両掌に大気中の窒素分子を圧縮し、背景が歪むほどの密度を保った球体を保持しながら、空中を漂うホノメは敵の姿を観察していた。
空中に浮いている限り、ファントムグレーは彼女に手を出せず、黄色のトリアイが無感情に上空を見上げる。
正直、さほど大きい訳でもなく飛行能力もなく、見た所飛び道具も持たないこのメカが脅威とは到底思えない。
彼女はどこか退屈そうに、圧縮窒素砲を放って荒野を抉った。
ファントムグレーは長い腕を振り廻しながら無言で吹き飛び、そのうち数機が地面に叩き付けられて爆発する。
その後間もなくγポイントからタタラが到着し、第3拠点側の攻撃にはさらに拍車がかかった。
荒野の暗闇に紛れ込んで、群れを取り囲んだ傭兵団からの援護射撃で、ブリーフィング通りに円形の包囲網が形成されていく。
包囲網を潜り抜けようとする敵機体が退き、互いの背中を押し合う様に一塊になったところをタタラとホノメの爆撃が襲う。
結局、1時間もかからないうちに、100機以上いたはずの機体のほとんどすべては、胸部のコアを破壊されて沈黙していた。
ひしゃげた装甲の隙間から火花が散る鈍い音が、荒野にじりじりと響いている。
『敵兵、行動可能機体ゼロ。コードネーム・ファントムグレーを殲滅した。全兵帰投する』
ティエンがレノーに報告する無線が、一段落してほっと息をついた傭兵たちの無線に届いたそのとき。
『こちらβポイント、襲撃を受け――――!!!』
ティエンを遮るように、βポイントで待機していたジョーの絶叫が飛び込んできた。
ヘッドセットが震えているのではないかと思うほど大きな声は途中で途切れ、ノイズに混じって他の傭兵たちが同様に叫び、走り回る音が続く。
『αポイント各員、拠点内部から進入、βポイントを援護せよ! アルファ・ファイブからナインは拠点の外部を防衛!』
『γポイント総員援護に回れ! 敵に取り囲まれるな、チームごとに距離を置いて散れ!』
立て続けにレノーとティエンが素早く指示を出す。
『ジョー応答しろ、ジョー!!』
ティエンがジョーを必死で呼び出しているが、あの一声以降、彼からの応答はない。
「シアン、現状を」
『βポイント周辺は壊滅寸前や。地下を掘って防護壁の中に出て来よった』
「こっちに出た機体は囮か。地下を移動する音を消すための…………数は」
『ざっと150。今も増えてる』
「多いな、やっぱり本隊だ」
急ぎβポイントへ向かいながら、タタラはVSSを背負い直す。
問題の地点に近づくにつれて、周囲はまるで空爆でも食らったか、竜巻が通り過ぎた後のような景色に変わっていた。
拠点内の簡易テントは無残に潰され、堅く踏み固められた土の地面は根こそぎひっくり返り、湿った土が覗いている。
しかしどんな景色よりも、辺り一面に広がる血だまりと、無造作に打ち捨てられた傭兵たちの死体が、タタラから言葉を奪った。
胴体が真っ二つに分かれ、首だけが捻じ切られた死体の千切れた腸管から、汚物が流れ出し悪臭を放っていた。
仰向けに踏みつぶされ、原形をとどめていない頭部と目が合って、名もない傭兵の奇妙に歪んだ顔が、恨めしそうにタタラを見る。
不条理だ。
セオリーなんてこの世には存在しない。
確かなことは情報でも作戦でもなく、彼らが死んだことだけ。
あるいは、死だけが定石。
多くの住民が住む南部スラムを背に、南十字団は逃げ出すことができただろうか。
仮に敵が今回の襲撃で殺戮の一手に出ると分かっていたとして、この拠点で戦う傭兵たちに選択肢があっただろうか。
彼は道すがらエニグラドールの本部から乗ってきた軽装甲車に寄り、飛び散った鮮血でぬめる取っ手を引いてトランクを開けた。
電動式ガトリングガンとバッテリーを引っ張り出す。
本来は歩兵向けではなく安定した場所に固定して使うものだが、この拠点にはヘリやカスタム可能な装甲車という高価な代物は存在しないために、持って来たは良いがトランクで眠っていた物だ。
その重鈍な兵器を担ぐと、タタラは再度駆け出した。
β地点では未だ、ファントムグレーの増殖が収まる様子は見られない。
敵は時間経過と共にじりじりと地下から増え続け、傭兵たちは進んでも退がっても殺される状況だ。
αポイントからホノメが到着してからは多少楽になったが、人口密度の多い拠点の中で無暗に窒素砲を爆破させるわけにもいかず、彼女は歯がゆそうに空中を飛び回っている。
隊列が崩れた今は階級も何も関係なく、拠点を突破されることだけは避けようと、ありったけの戦力をつぎ込んでいる。
効率的な殺傷能力を持たないシアンは、前もって拠点内に張り巡らせておいたワイヤーを駆使して、ひたすら敵の足止めをしていた。
安定性の高い4足歩行の機体では、持ち前の怪力でワイヤーで脚をまとめて転ばせるだけでも一苦労だ。
やっとのことで巨体を地面に倒し、胴に飛び乗って金属装甲を腕で突き破り息の根を止める。
ファントムグレーの残骸の何倍も傭兵の死体が積み重なる中、戦場を奔走していたシアンとジョーは偶然にも背中合わせになって立ち止った。
横目で確認すると、ジョーは額と耳から夥しい量の血を流している。
地下を地面を突き破って現れた時に櫓を破壊され、十数メートルの高さから落下したときの傷だが、あの瓦礫の山の下で生きていたことは奇跡だった。
ヘッドセットは壊れてしまったらしく、どうやらそのせいで無線に応答が無かったようだ。
ジョーは額から滴る血と汗を手の甲で拭い、杖を突くようにライフルで大柄な体を支えた。
人間ではないシアンには少し及ばないが、それでも彼は相当な数の敵機を破壊していたはずだ。
荒い息に上下する肩は服ごと皮膚が裂け、そちらの腕は動きに支障が出るらしく、だらりと下がったままになっている。
「アンタ、もう限界やろ。どこか安全な所に下がっとき」
しかし、ジョーはきつく食いしばった歯を見せて笑った。
「こんな所にあなたひとり残して逃げられませんよ。脚は引っ張りませんから」
2人の目の前に飛び込んできたファントムグレーを、咄嗟に片腕で抱えたライフルで一気に撃ち抜く。
軌道が逸れた機体が、すれすれで地面に叩き付けられて沈黙した。
シアンとジョーは敵に取り囲まれ、突破口を作るスキもないまま、敵の機体が作る半径はじりじりと狭まって行く。
ホノメも生き残った傭兵たちを守るので精一杯、もう時間の問題だ。
ずらりと並んだファントムグレーが後ろ足を引き、同時に飛び掛かる―――――――
「シアン!!!!! 伏せろぉぉおお!!!!!」
体が勝手に反応した。
シアンは驚くジョーを巻き添えにして、地面に突っ伏す。
怒号の主に気を取られて振り返った敵機体が、腹から下を残して粉々に吹き飛んだ。
装甲に穴が空く程度の威力ではない、破り捨てた紙切れのように、金属片が散り散りに欠片となって空中に弾け飛んで行く。
どう、と倒れるファントムグレーの向こうに、ガトリングガンを抱えたタタラが仁王立ちに構えていた。
弾丸が射出される轟音と、空の薬莢が散らばる高い金属音にも勝る、よく聞きなれた響きの、聞きなれない咆哮。
シアンとジョーは、タタラがこじ開けた包囲網の隙間を縫って外に転がり出る。
連射し続けたために、赤く焼けたガトリングガンから煙が吹き出し、タタラの姿が揺らぐ。
一斉掃射を免れた敵機が2人に掴みかかろうとする瞬間、タタラはファントムグレーの胴に弾切れのガトリングガンをぶち込んだ。
機体は彼を巻き込んで派手に爆発した。
「タタラ!!!!」
「駄目だ、危険です!」
阻止するジョーを振り切ったシアンが、舐めるような黒煙に纏わり着かれたどす黒い炎に駆け寄ろうとする。
が、炎の中から鮮やかなグリーンのシールドを纏った腕が覗き、やんわりと押し返された。
ギリギリの所で展開した物理シールドに巻き込まれるような形で、粉々に弾けて凶器と化した金属片が突き刺さっている。
黒煙から抜け出した彼がシールドを解くと、金属片は重力に従ってばらばらと地面に落ちた。
「生きてた! 良かった!」
シアンは勢いで抱き着いたが、遮り損ねた金属片が背中や腕に突き刺さっていることに気付き、すぐさま体を離した。
どろりとした熱い人工血液が両手を濡らし、彼女はなぜか、その温度に安心する。
「これ、治さな……」
「今は時間がないから、先にあの地下トンネルを塞がなきゃ」
「でも!」
「大丈夫」
タタラはへにゃりと微笑み、シアンはその見慣れた笑顔に、出かけた言葉をついつい飲み込んでしまった。
彼は振り返ってジョーを呼んだ。
「ティエンとレノーが作戦を立てたから、2人はその通りに動いて欲しいんだ」
「オーケー」
「ああ。俺にできることなら」
「まずはこれを。後で使うことになる」
タタラは自身のヘッドセットを外し、ジョーに手渡す。
ファントムグレーの群れから少しでも遠ざかるべく、一行は生存者に作戦を伝えながら、煙に紛れて走り出した。
ホノメは地上に蔓延るファントムグレーの機体を容赦なく粉々に弾き飛ばしながら、険しい表情で地上を睨んだ。
残存兵力が減るほど、圧縮窒素砲による爆破の自由度は増す。
「………皮肉ね」
彼女は苦々しく小声で呟いた。
今はもう、レノーと生き残った数少ない猛者を護衛するだけになってしまった。
『作戦決行だ。ジョーと俺が君を援護する。一緒に目標地点まで群れを追い込んでくれ』
「了解ですわ」
ホノメは無線の指示に従って、レノーとジョーの位置を確認する。
残存兵は作戦通り、ファントムグレーが現れる地下道の入り口付近から撤退し始めた。
ホノメは傭兵を追って散らばろうとするファントムグレーに向けて、角度を調整しつつ次々と窒素砲を放って吹き飛ばし、敵機体を無理やり密集させておく。
すでに朝焼けが闇を浸食しつつある所が、地上はるか高くから見えた。
拠点の背後にそびえる高層ビルの廃墟の影に覆われ、ファントムグレーの黄色いトリアイがひしめきあっている。
その頃、シアンとタタラはティエンを護衛しながら、その高層ビルの階段を駆け上っていた。
人間用の幅の非常階段に体を押しこむように、両側の壁を肩で削りながら無数のトリアイが追ってくる。
踊り場で敵の巨体と組み合うふたりに背中を預け、ティエンは先に登って行く。
敵を階段から下階に突き落とし、一時的に退けたふたりが追いつくと、彼は柱に何やら黄色い塊を設置していた。
「何やそれ、C-4?」
「んーんー、これはセムテックス。昔はテロ組織で発破屋やってたからね、こっちのが好きなの」
「テロって」
「まぁ、色々あってね。おっと……」
体勢を立て直したファントムグレーが、爆薬を仕掛ける3人の背後に現れた。
一行は階を変えて長い廊下を通り抜け、ティエンの進むままに後を追う。
敵の追撃を逃れつつ、3、4、5階に細工を施し、その後は一気に11階の屋上まで登った。
屋上への出口を蹴破って転がり出ると、地平線の向こうではすでに太陽が半分ほど顔を出している。
タタラとティエンが屋上の入り口で敵を食い止めている間に、シアンは屋上の床に左の拳を叩き込み、自身の頑丈なカーボンワイヤーを固定していく。
数十カ所から伸びるワイヤーは最終的にビルの屋上を覆い、まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされた。
蜘蛛の巣は一点により集められ、シアンの左肩に繋がっている。
彼女はワイヤーロープの先端を左肩から切り離し、それをタタラがシールドを展開した腕に巻き付けた。
「後は任せたで」
タタラは無言で頷くと、屋上の端に立ち、それから唐突に飛び降りた。
それと同時にティエンが無線へ叫ぶ。
「撤退だ!!! 急げ!!!!!」
地上で戦っていたレノー、ジョー、ホノメを避難させ、彼は腰に提げてあったスイッチ――――発破装置を押した。
ビルの下階から上に向かって、窓があった場所から爆炎が次々に噴き出す。
ビルはファントムグレーが作った地下道寄りに、膝を折るかのごとくガクン!と傾く。
屋上に残るシアンとティエンはその振動によろめいたが、タタラが行動に出る前に脱出しなければならない。
シアンはカーボン繊維を使い果たしかけ、すでに肩まで無くなった左腕から更にワイヤーを引っ張り出した。
隣接するビルとビルの間を渡る電線に、ワイヤーを投げて括り付ける。
「信用して良い?」
「多分な」
ティエンの腕を肩に回させ、ふたりは二人三脚の要領で屋上を走り、跳んだ。
土煙を大量に巻き上げて地上に着地したタタラは、ワイヤーを掴んでいない腕で、目の前に立ちはだかるファントムグレーを突き飛ばし強引に直進する。
彼はワイヤーが限界まで張った地点で止まり、シールドを何枚も重ねた腕を振り被って地面を殴りつけた。
そして自身の身体を腕で錨のように固定し、ワイヤーを肩に回して「引っ張った」。
外れかけた腕の関節をシールドで強化し、ありったけの力と気力を込める。
このまま廃墟を横倒しにするのだ。
爆破で足元が覚束ない廃墟ビルは、スローモーション映像のごとく傾き、唸り声のような低く重い音を立てて、角度と共に加速する。
「ッうおおおおぁぁあああああ!!!!!!!!!」
タタラは咆えた。
彼に手綱を握られた鉄筋コンクリートの巨大な怪物は、ついにファントムグレーの群れと地下道の入り口に伸し掛かった。
爆風が辺りのテントや車を吹き飛ばし、あまりの風圧に土埃すら漂う間もなく、辺りの視界はすっかり晴れ渡る。
タタラは背後を振り返り、ほんの数メートル先で屋上が地面に垂直に立っている様を見て、思わず尻餅を付いた。
ビルの屋上から空中へ身を投げ出したシアンとティエンは、バンジージャンプさながらに大きく揺れ、やがて空中にぶら下がる形で止まった。
爆風で揺られながら、ビルが倒壊する一部始終を眺めていたティエンが、感心した風に呟く。
「すごいね、お姉さんの彼氏。正直、こんなの上手く行くとは思えなかったけど」
「せやろ。あいつはやればできる男やねん」
無言でゆらゆらと揺られて、間。
「ていうか、彼氏ちゃうで」
「違うの?」
「違うよ」
彼女を振り返りはしなかったが、ティエンは爆煙を見下ろしながら思い出したように呟いた。
「こんな状況で言うのもなんだけど、お姉さんがジョーと喋ってるときの顔見た?」
「ああ、めっちゃおもろい顔しとったやろ」
「分かってたの? 意地悪だね」
「まぁな」
さらに会話に間が空き、しばらくの後、ティエンがやっと口を開いた。
「どうやって降りるつもり?」
「……考えてなかっ」
ぶつ、と今は最も聞きたくない音が聞こえ、シアンの肩からワイヤーが千切れた。
落下する寸前でティエンがワイヤーの端に手を伸ばし、シアンの腕を掴んで何とか落ちずに済む。
「軽いね」
「ほとんど炭素やからな……けど、ワイヤーの強度が下がってる、もう保たな」
シアンの言葉の途中で、カーボンの密度が不足していたワイヤーがまたも千切れた。
「「あ”……っわあああああああああああ!!!」」
シアンはどうにか空中で体勢を立て直し着地しようと試みるが、片腕が無いためにバランスが取れない。
このまま地面に叩き付けられておしまいか、覚悟を決めたその時。
瓦礫の山を掻き分けて現れたタタラが、地面を思い切り蹴ってふたりの落下軌道を横切った。
その瞬間にはもう軌道上にシアンとティエンの姿は無く、その代わりにシールドで落下の衝撃を殺して地面に転がり、ふたりを抱えたタタラの姿があった。
シアンに覆い被さる状態で、げほげほと咽ながら顔を上げた彼は、普段通りに情けない弱音を吐く。
「死ぬかと思った……」
「ぷ。眼鏡、割れてる」
「うわ、ほんとだ。どうしよう……」
整った顔も砂まみれに、今にも泣きだしそうな彼を見て、シアンは思わず吹き出した。
なにひとつ変わりない、彼女がよく知っている顔だ。
「……なあ、ありがと」
「えっ」
「お礼言うとんねん、ありがとうって」
「…………」
「……あほか、もう」
ティエンは隣で先に起き上がり、傍らのふたりにニヤつきながら、地面に胡坐をかいて座りこんでいる。
遠くからホノメとレノーにジョー、それから更に生き残った傭兵たちだろうか、一行を探して名を呼んでいる声が聞こえた。
夜が明け始めた。
赤と青の境界が滲み合い、太陽の光に空が透き通って行く。
空の色とは裏腹に、地上を通り過ぎた濁流は凄まじい傷跡を残した。
拠点の惨状は明るく照らされ、死んだ傭兵たちの姿がありありと浮かび上がる。
風向きが気紛れに変わり、第3拠点の入口に立つ一行まで血液の異臭と砂埃を運んでくる。
「あの、その……あまり、力になれなくて……」
「いや、拠点を突破させないことが目的だったのだから、作戦は成功だ。本当に感謝する」
多くの傭兵たちを助けられなかったことを悔いるタタラに、レノーははっきりと答え、そして彼の手を取って強く握手をする。
「敵が南部スラムへ侵入することも止められたんです。我々だけではどうなっていたことか」
「今回はゼウスから救援部隊が来てるし、南部もいつか変わるさ」
ジョーとティエンはそう言って、出会ったときのレノーと同じ、荒野のように乾いた微かな笑顔を見せた。
武力支援ではなく負傷者の救援を目的に掲げることが可能ならば、ゼウスの仕事は早い。
別れの挨拶も早々に、エニグラドール一行は復興作業には参加せず、衛生兵に追い出される形で北部スラムへ戻ることとなった。
ここからまた数日かけて、本部へ戻る長旅が始まる。
軽装甲車に乗って拠点を去る直前、自身の体の傷を診るためシアンに運転を任せたタタラは、後部座席の窓から拠点の様子を垣間見た。
覆ってやる布も不足する中で、整然と並べられた遺体の前に立ち、項垂れているレノーの背中が車の進行速度と同じ速さで流れて行く。
爪の先ほどに小さくなるまで遠ざかり、拠点のフェンスや瓦礫に隠れてしまうまで、タタラはその姿を眼で追っていた。
CHAPTER/10 THE BODY TEMPERATURE OF THE LIZARD
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