【修正中】CHAPTER/9

雨粒が水たまりに飛び込む音、路地裏のゴミ処理用コンテナの影を鼠や甲虫の類が這う音。

スラムを行く下層市民が足を引きずって歩く音、騒ぐカラスの羽根が擦れ合う音。

廃墟の影を越えた先に広がる山々の向こう、はるか遠くの虚空で雷鳴が唸る音。


ミケには全ての音が聞こえていた。

獣のそれを象った第2の耳、指向性マイクを任意の方向へ向けて索敵範囲を調節すれば、あらゆる行動や現象に伴う音を拾うことができる。

鉄筋コンクリートで強固に建築されたエニグラドール本部の中においても、誰がどこにいるのかはもちろん、何をしているのかもおおよそ把握することが可能だ。

ひんやりと冷えた灰色の壁に囲まれて、子供用のベッドで毛布に包まっている今この時も、談話室の方向でシアンとホノメが会話する内容を聞き取ろうと思えば、彼女には造作もないことだった。

「――――あんなとこで任務? 汚染濃度が高くてひどい目に遭うで」

「生身のパーツが少ないから、適任だって」

「せやかて、ゼロちゃうやん。言う時はハッキリ言うた方がええよ」

「そうね、そうよね…」

「何や腹立つなあ、直談判するか?」

「もう、いいのに。気にはしていませんわ。それに……」

もぞもぞと寝返りを打つと、ホノメの言葉は途中で遠ざかって消えた。

その代わりに、耳を向けた部屋の壁越し、外に広がる荒野の表面を叩く雨の音が満ちて行く。


スラムでぼろ切れさながらの暮らしをしていたミケは、重苦しくも暖かいこの場所へと拾われ、そして自らよりも強いものたちに守られる立場となった。

以来彼女は、見たくない物からは目を逸らし、聞きたくない物には耳を塞ぐことを許されていた。

しかしそれは、もう限界を超えつつある。

目耳を覆い隠してくれた大きな手たちは、今や彼女の元にはない。

彼女が部屋のとある方向に耳を遣れば、ギガの呻く声やナナシの肉体を維持する水槽の味気ない音が聞こえる。

タタラが例の一件以来ずっと上の空だということも、他のメンバーと顔を合わせる機会が明らかに減っていることも分かる。


―――はじめから間違っていたのかもしれない。

守られて暮らす選択肢を差し出されたあの時すでに、ぼやけた記憶の奥底から、誰かがしあわせの否定を囁いていた。

気付かない振りをしていただけだ。

いつか、今日のような日々が来ることを知っていた。


致命傷を負ったギガに処置を行った時の映像は、古い映画館が暗幕を降ろして暗闇を作るように、彼女が瞼を閉じた瞬間から再生を始める。

記憶に焼き付けられた赤と緑の景色は、いつ何時でも容赦なく鮮明に思い起こされる。

肉塊と化した仲間が抱えられて慌ただしく通り過ぎて行く様が、フラッシュバック的に、ある時にはスローモーションでAIを駆け抜けた。

本部のコンリート壁が揺れ動くような重い衝撃で異変に感づいたミケは、談話室の壁に背をぴたりと押し当てて身体を震わせ、半開きになった扉の隙間からその光景をただ追っていた。

どれほど厳しく危険な任務であっても聞いたことのない、半狂乱も過言でないほど鬼気迫った怒号と共に廊下を通り過ぎていくシアンに、見知らぬ他人を見ているようで背筋が凍った。

廊下の面積では許容量を越えた蛍光グリーンの体液が、壁と扉のわずかな隙間から溢れ出して談話室の床に広がり、その血だまりを押しのけるように扉が開く。

浅黒い手を血で濡らしたロックが顔を出して何かを叫んでいたが、手を貸してくれと呼んでいた言葉を彼女がようやく理解した頃には彼らの姿はなかった。

血痕を辿って戦場と化した緊急治療室へと現れたミケには、その瞬間から山のような指示が出され、もはや混乱したり呆然と立ち尽くしたりという猶予は与えられなかった。

人間には血が流れ、隅々まで筋が走り骨に支えられていることは、いつの日か談話室の机に置き去りにされた本で読んだことがあった。

彼女は言われるがまま器具を運び滅菌処理を行いながら、本で得た知識が確かに事実であることを最悪の環境で確認した。

肉体の芯たる金属骨格が折れて皮膚を突き破り、無残にもぎ取られた腕の切り口では、こぼれる血液に覆われた束状の筋繊維の形すら確かめることができる。

酸素の供給量が減少し痙攣する巨体を双子が押さえつける中、内臓からの血液は口へ届くことなく食い破られた喉から溢れていた。

直後に運ばれてきたナナシは、全身の皮膚が腐敗したかのごとく赤黒く変色し、中途半端に腱が切れたせいで関節が不自然に曲がっていた。

彼の胸に開いた大穴が、無言で絶望を物語る。

心の奥底でミケの自我を保っていた冷静な部分が、正しい形を失ったふたりの姿に呟いた。


人形みたいだ。


わたしたちは人でなく、人をかたどって血と筋と骨で作られた人形だ。

小さな掌から顔までを黄緑とくすんだ赤色に染め上げながら、彼女の精神は不安定でありながら冷え切っており、どこか俯瞰的な位置からこの光景を眺めていた。

器具を抱えて滑るリノリウムの床を恐る恐る進む、生まれたての雛鳥さながらに震える手足も、下手な黒子が操る滑稽な人形のようだ。

気の遠くなるような鉄の匂いの中で永遠とも取れる時間が過ぎ、足元すら覚束ない自身の姿を天井付近から傍観している。


彼女は今日が来ることを、記憶の片隅で知っていた。

くらくらと揺れ続ける視界も、いくら拭おうと消せない色も、遠い昔から誰かが呪いのように囁いている。

気付かない振りをしていただけだ。







この部屋には、過去に何度も収容されたことがある。

ギガはベッドに仰向けで横たわり、天井を升目状に区切る線を迷路のように目で追っていた。

傭兵として実戦に出始めて数年間、予測できない攻撃をAIに叩き込み不測の事態に対処できるようになるまでは、腕や脚を数えきれないほど敵に吹っ飛ばされた。

毎度毎度、この無機質な緊急治療室にはお世話になっている。

今は落ち着いているものの、身体の芯で執拗に残る痺れや鈍痛に溜息を吐きながら、彼はベッドを取り囲むカーテンに眼を遣った。

フォックスの思惑は漠然としか理解できていないが、一般に普及しているヒューマノイドとは異なり、エニグラドールには痛覚が備わっている。

体の一部が失われる瞬間は、首辺りから脊髄をごっそり掴み、そのまま背中を切り開いて神経を引っ張り出されるような痛みを伴う。

それは自身の意識すら鬱陶しくなり、時には気を失えることに感謝するほどのものだが、今回はその比ではなかった。


力任せに腕を持って行かれたから?

神経毒が全身に回っていたから?

再生が遅れたから?

違う。

何もかも些細なことだ。


意味もなく眺めるカーテンの向こうから、水中を泡が登って行くような音が聞こえる。

ごぼ。ごぼ。

身体の負荷を極力軽減し、治癒を促進するため赤いゲル状の物質で満たされた水槽があるはずだ。

その中では、今もナナシが眠っている。


自分が怪我をしてこの部屋に収容されるといつも、メンバーが何度も入れ替わり立ち代わり訪れるが、あいつは誰よりも遅い深夜に現れては、好き勝手なことを話して帰る。

早朝近くまでくだらない話を喋られちゃ、治るものも治らねえよ、という冗談交じりの悪態ににやりと笑い返す赤い目が、今回は現れない。

ギガはカーテンを開けるために腕を上げようとして、肩から下が無いことに気付いた。

途切れた腕の存在しない手首あたりが、思い出したかのように微かに疼く。

神経毒が完全に抜ける前に再生し始めると、奇形のまま再生が終了してしまう可能性があるため、再生の抑制とともに千切れた腕を傷口に吸収させないよう、今は腕と彼自身は隔離されていた。

まだ腕は縫い塞がれただけに留まっており、毒が抜けたら再度この傷口を開き、骨と共に腕の組織を再生しなければならない。

ギガは微かに上げた頭を枕に落とした。

ぼんやりと天井を眺めるだけの時間が流れて行く。

負った傷以上に疼く痛みの理由を考えるには、十分すぎるほどの時間があった。

プログラムで構成された不確かな心に、後悔が杭を突き立てる。

それが、やけに痛い。



「ギガ、起き………どうしましたの、腕が痛むの」

様子を確認するため、ホノメがカーテンを投影機で掻き分けて、ホログラムの頭だけを覗かせた。

ギガは彼女を振り返り、その顔を見てようやく、自分が眉間を寄せてひどく険しい表情をしていることに気付いた。

――――――傷が痛いからじゃない。

ギガは首を横に振ろうとして思いとどまり、結局1度だけ頷いた。

ホノメはなぜか眉根を上げて呆れかえった様子で、カーテンの内側に全身を投影すると、ベッドの上に重さも無くふわりと腰かけた。

「あなたのことだから、どうせ自分のことばかり責めていたんでしょう。情けない、不甲斐ない、なんて」

知らぬ間にAIがクラッキングされて、考えていることが全て漏れ出しているかのような有様に、ギガは鋭いオッドアイをきょろきょろと泳がせた。

彼女は時折きらりとノイズが走るホログラムの指先で、ギガの額をつつく仕草をする。

「ほんっ――――――とうに嘘が下手ね。あなたのおでこに全部書いてありますわ」

単語の合間に数秒の溜めまで挟まれて、ギガはややふてくされて恨めしそうに顔を背ける。

彼をからかった当の本人は、どこか悪魔を思わせる微笑を浮かべた。

「ナナシを止めるためなら、死んだって良いと思っていたんでしょう………そういう所、好きだけれど、とても嫌いですわ」

彼女の囁きに肋骨の奥で心臓が跳ね、途端に鼓動が激しさを増す。

風のない空間でも輝きながら揺れている淡い金髪の合間から、ホノメの可憐な指先が伸びて、彼の腕や胸、体中に残っている切り傷を辿る。

傷の行き先が首の裂傷に辿り着くと、彼女はベッドから浮き上がって空中で踊るように体勢を変え、ギガの胸にうつ伏せで頬杖をついた。

触覚を持たないはずのホノメに脈動が伝わっていることを恐れ、彼は無意識に呼吸を止める。

「……………あなたは不死身よ」

シルクに似た光沢を持つ髪が宙に広がり、鼻先が触れるほど顔を寄せるホノメの肌に、ギガはある種の夢幻を覚えた。


「死ぬことは許されないの」


地球の大気が汚染される前の青空に似た、深い紺碧の瞳に溺れてゆく。

夢の深みに沈んでしまわなければ、底で待っている本当の彼女に出会うことはできない。






「骨折していた第6、第7胸椎と橈骨を差し替えたが、どこかに障ってはいないかい」

「うん、痛くはない。でもシールド展開速度に違和感がある、かも。前より少し遅いような気がする」

「ふむ。調整が必要か」

金属のラックに無造作に詰め込まれた電子機器、天井や壁を這い覆い隠す配線。

机の上に置いてある謎の機具類は、最後にフォックスの作業部屋に訪れた時から、少し配置が変わっているだろうか。

数日前の事件で折った方の腕を様々な角度で曲げ伸ばしされつつ、タタラは狐面の幾何学模様を目でなぞる。

耳の先、矢印を模した額の模様、目の縁取り、それから暗い眼窩。

「………フォックス」

「ん」

非人間じみた味気ない動作で、フォックスは僅かに面を上げた。

「僕はあなたに訊きたいことがたくさんある」

「次はシールドを出して」

聞いているのかいないのか、彼は改まって口を開いたタタラの言葉に答えなかった。

タタラは言われるがまま、薄暗闇の中ぼんやりとクリアグリーンに輝くシールドを、腕の表面を覆うように展開する。

フォックスはこくこくと小さく狐面を振りながら、シールドの強度値と展開速度を測定し、それから測定のあいだ掴んでいた彼の手首を解放した。

タタラは捲っていたシャツの袖口を戻しながら、彼が聞いていようといまいと構わずに話を続けた。

「ずっと訊けなかったことがあるんだ」

「……そうだろうね。君たちにとって最も重要なことを、私は何ひとつ答えて来なかったから」

徐に狐面を外すと、瞳孔と角膜に明度の差を持たない黒の瞳が現れた。

椅子の背もたれに深く寄り掛かり、口元を隠すように頬杖を突いたフォックスは、悪びれるでもなく挑戦を受けるでもなく、ひたすらに無表情だった。

「カスケードとギガが戦ったあの日、ギガの姿に妙な変化があったことをあなたに伝えたけれど」

カスケードとの戦闘で危機的状況に陥ったギガの顔かたちが、まるでイヌ科の生物を模したかのような形状に変化したことから、タタラは話を始めた。

「あのときは錯覚だと言っていたね、君は」

「僕はそう思っていたし、あなたも否定しなかった。でも、ナナシの暴走でそれは間違っていたことが分かった」

床一面が黄緑の血液で濡れた地下室を、そこで見たナナシの姿を思い返しながら、彼は自身の記憶を確かめるように呟く。

「多分、何らかの理由で肉体そのものが再構築されて、力の上限に変化が起きた。僕だけじゃない、今回はシアンやギガもその姿を見ているんだ」

まばたきひとつしない切れ長の瞳は、隠しカメラが仕込まれた彫像さながらにタタラを見据えて動かない。

怒りや焦り、疑問など様々な感情が混じりあった混沌をいくらフォックスにぶつけても、そのすべては霞のようにすり抜けてしまう。

隠しきれない苛立ちに、体から絞り出したタタラの声は震えていた。

「エニグラドールの肉体に異変が起きることを、あなたは知っていた………錯覚と思い込んでいた僕をあえて否定しなかった」

「………君の、その推測が正しいとしたら?」

どこか煽るように語尾を上げて問い返されたタタラは、椅子が倒れかけるほど乱暴に立ち上がり、フォックスの胸倉を無言で掴み上げた。

軽々と胴体を引き寄せられても、襟首あたりを締め上げられてもフォックスは抵抗することなく、自身を凄まじい形相で睨み付けるタタラを冷たく見下した。

「私を殺せば全ての秘密は無意味となり、確かに君たちはある種の自由を手にする。だが……君だけでなく、全員の生命維持は継続、不可能と、なる」

時折苦しげに咳を吐き出しながら、フォックスは途切れ途切れに囁いた。

「そして私は君たちを……殺すことができない。我々は、そういう…………関係だ」

「脅し、という……………わけ……」

タタラにしてはめずらしく声を荒げた瞬間、フォックスは骸骨さながらに痩せて骨ばった両掌を彼の頬に添えた。

思わぬ行動に、服を鷲掴みにしていた手からは力が抜け、怒鳴ったはずの言葉尻が弱々しく消える。

「そう、脅しだ。まだ、君たちに全てを教えるときではない。そのときが来るまで君たちを縛っておくことが、私の役目だ」

獣のように裂けた口から歯が覗き、その微笑はフォックスが人間であることすら疑いたくなる異様さに満ちていた。

「だが、もうすぐ枷を外す時が来る」

タタラの頬を彼の細い親指が撫ぜると、ヒトを模してなめらかに造られたはずの皮膚は、どこか引っかかりのあるようなざらりとした触覚を神経へと伝えた。

「君も、あと少しだ」

フォックスはタタラの顔を強く引き寄せ、夜の湖畔に似た瞳孔で見据える。

その黒は薄暗い作業部屋の中でも光をぼんやりと反射し、怯えた表情のタタラを鏡のように映し出した――――――その頬や鼻先には、シールドを展開するときに現れるものとは異なる、もっと不恰好で不揃いな形状の鱗。

彼はフォックスの掌を振り払って、背後の椅子に倒れ込むように座った。

廃工場地帯の戦闘で精神を病んだ傭兵たちが、ありもしない血飛沫を顔から拭い落とそうとするように、タタラは何度も頬を擦る。

掻き毟って血が滲み始めた頃、フォックスがおもむろに彼の手首を掴んだ。

タタラは彼自身をはっきりと映し出す黒い瞳から必死で目を背けたが、フォックスは彼の眼鏡を強引に外して机に軽く放った。

途端にタタラの視界はぼやけ、彼は手首を掴まれたまま項垂れる。

「怖いか。いや、苦しいか」

「……………」

爪の間に赤い血がこびりついた手を一瞥し、フォックスは掴んでいた手首を開放すると、椅子の背もたれに深く寄り掛かった。

そして小さく息を吐き、口を開く。

「………私が君たちを造り始めるより、ずっと昔のことだ。すでに、人間が開発した兵器は人の力を必要としなくなっていた」

トリガーを引くことすら必要ない、目視で標的を選ぶだけで人が死ぬ時代。

その時代に起きた戦争と荒廃の中で、指導者は民間人を見捨て、兵士を見捨て、最後には国を見捨てた。

そんな環境で頼れるものは祖国でも上官でも、ましてや愛や思想でもなく、指示を待つだけの兵器。

ウォー・シミュレーションやらグロテスクなガンシューティングといった、興奮や爽快感を誘発するシステムを組み込まれた生易しいゲームとは訳が違う。

兵器を持った彼らは、数をかぞえていた。

殺した数ではない、標的に当たった数だ。

死んだかどうかは問題ではないし、確認している余裕もない。

進む道にあった障害の数を、淡々と無感動にかぞえている。

もはや他に、思うことも願うこともない。

自らが生きるために兵器を手に取り、人を殺すときの躊躇いも苦痛もすべて忘れてしまった人々。

「―――そして彼らは、私から色々なものを奪っていった。私は苦しみを伴わない殺戮を、破壊を赦さない。誰かを傷つけ見限る度に、心を磨り減らすことのない人間を赦さない」

フォックスは地の底に響くような声色で囁く。



「だからエニグラドールは造られた。兵器や戦争で麻痺することなく、永久に怒り、悲しみ、苦悩する心を持って」



作業部屋に存在するあらゆる色や輪郭が、下手な風景画のようにぼやけて溶け合った視界に溺れかけながら、タタラは声を絞り出した。

「あなたは、狂っている」

「………私にとって、狂っているのは世界の方だ」

フォックスは机の上で放置されていた眼鏡を取り、主の目元に返した。

タタラの視界の輪郭は鮮明になり、色はその中へと綺麗に納められる。

またあの常闇に映る自身を見ることへの抵抗で、彼は本能的に顔を伏せようとしたが、目の前には狐面の男が座っていた。

「今は見なくても良い。だがいずれ、君は君と向き合うことになる」






いつもと変わらない談話室。

荒野に降り注ぐ雨と雨の間を繋ぐだけの無機質なラジオの音は、ノイズに覆われてくぐもった古臭いクラシックだった。

無数の楽器から紡ぎ出される荘厳な響きも、安物のスピーカーを通しては単なる電気信号に過ぎない。

ソファーの上で犬のように身を丸めていたロックが、キッチンに立つシアンに向けて突然口を開いた。

「俺、怖イト思ッタンダ」

「……うん?」

仲間に警戒するという訳ではないが、彼がすっかり眠っていると思い込んでいたシアンは、若干の驚きを覚えつつ次の言葉を促す。

くすんだ色のパーカーがソファーの背もたれからちらりと現れ、ロックがヘアバンドをずり上げながら上半身を起こした。

「ナナシ。暴走状態ヲ見タノハ一瞬ダッタケド。正直、ジャックガ囮ニナルノハ怖カッタ」

「あ、ああ……」

「シアンハ怖カッタ?」

「……ちょっとな」

カウンター越しに自分を振り返る、野生の鷲のように曇りのない視線に、シアンはどことなく気まずさを覚えた。

相手の思考を見透かそう、動向を先読みしてやろうという攻撃的な意図を、ロックが持ち合わせていないことは重々承知している。

しているのだが、談話室にいないジャックも含め、彼らに本心を隠す事など無意味ではないかとすら思え、この双子の純粋さはどうにも扱いづらかった。

「嘘。めっちゃ怖かった」

しかしそれは、裏を返せば包み隠さずすべてを打ち明けられる証拠でもあった。

ロックは背もたれに顎を乗せ、彼女の言葉を肺に含むように吸い込んでから、溜息を吐いた。

「ソッカ。ソウダヨナ……」

常に驚いたような表情の大きな瞳は伏せられ、褐色の肌に深く刻まれた二重が妙に物憂げで、視線が逸れたことに内心感謝しつつ、シアンは小さく笑った。

「アンタがそんな真面目な顔すると、調子狂うわ」

「俺ハ何時デモ大真面目ダ」

「ごめんごめん」

不満げなロックは褐色の指先で自身の唇に触れながら、誰に向けるでもなく呟いた。

「………俺、ジャックガ生キテイテ良カッタ、ッテ思ウ」

ギガは致命的な傷を負い、ナナシは脳だけが生き残った現状を、彼は心のどこかで日常のひとつであると認識していた。

命がけでインフレイムの進軍を阻止し、ゼウスからの任務で凶悪犯を取り締まり、新興宗教団体を壊滅させて、その中で共に戦うジャックが生きて帰ることだけをひたすらに祈る日常。

「………アノ時ナナシハ敵ダッタ。殺ソウト考エタ。俺ガ殺シテ……ソレガ、何ダカ痛クテ」

癖の強いオレンジの髪を掻き毟り、ロックは滅多に見せない険しい表情で俯いた。

「ええて。ちょっと落ち着き」

「……シアンモ、ソウ思ッタ?」

「敵だと思い込もうとした、が正解。アンタもやろ」

ロックは俯いたまま鼻をすすりながら、こくこくと頷く。

「鬼にならなアカン、みんな殺されるよりかはマシな選択や、ってな」

合成香料と甘味料で構成されたレモネードの粉末に湯を注ぎながら、小柄な体が一層小さく見える彼をカウンター越しに眺め、シアンは呟くように続けた。

「でもな。後になって、ひとり犠牲にしてこの場を片付けよう思てる自分を心底憎んだ。それから、タタラのことが分かれへんようなった」

精神異常、過度のストレス、原因は無数にあれど、暴走する可能性は皆に平等であるとフォックスは語っていた。

ひとりひとり減って行き、いつ己の順番が回ってくるかも分からず、疑心暗鬼になり怯えながら生きる未来に1歩ずつ溺れている。

「もっと前は……何や大昔みたいな気もするけど、そもそもこんな発想が浮かばん時期もあった気がすんねん。なんでもかんでも助けようって」

現実は優しくなかった。

生物兵器に侵されたあのエリアの研究員は、娘を育てるためにウイルスを開発し、そして紫炎の中で死んでいった。

ミケを拾ったあのストリートが、後に同組織に襲撃を受けて壊滅したことをタタラに伝える勇気は無かった。

何かを救うためには必ず何かを犠牲にしなければならないという真理を知った。

自身の存在を誇示し始めた真理は、ただ苦痛のみを与え続けている。


「……俺ハ、俺ヲ嫌イニナリソウダ」

弱々しくぼやいたロックの心を解すように、シアンは温かいレモネードのマグカップをぐいと押しつけた。

「そう感じる内は大丈夫や、多分な」

犠牲者を殴るたびに自身が腐っていく感覚に、いっそすべてが麻痺してしまえば苦しむことも無いと願っていた自分とは違う。

アンタは逃げていない。

彼女はその言葉を、ブレインサーキットの奔流にそっと押し流した。



再度訪れた沈黙の間、シアンがカップから立ち上る湯気をぼんやりと追っていると、ロックが物音に気付いた動物のように突然顔を上げた。

どうやら弟の気配を察知していたらしく、彼の動作と同時に、ジャックが居間の扉を開けて現れた。

「なあ、どこかでミケみてない?」

「さっき作業部屋の前で見たけど、それっきりやな」

「エ、部屋ジャナイノ」

「それがいないんだよ。ずっとげんきなかったし、あそぼうとおもったのに」

肩をすくめる2人に、ジャックが残念そうに呟いた。

やや規格外のサイズもいるものの、人9名が十分に生活できる空間を備えたエニグラドールの本拠地はかなり広く、スラムに残る中小企業のビル程度の規模はある。

運悪く目当ての相手とすれ違い、なかなか出会えない事例も稀にだが存在する。

手分けしてミケを探そうと廊下に消えた双子の背を、その時のシアンは日常の見慣れた光景として眺めていた。






それから半時も経過しないうちに、エニグラドール本部は騒然とした雰囲気に包まれた。

いくら本部の中を探しても、ミケの姿は見つからなかった。

異常事態に双子が違和感を覚え、メンバー総出で廃ビル内を片っ端から探しに探したというのに、彼女は一向に見当たらない。

ナナシとギガを差し引いたとしても6人で探し回れば、広いと言っても限度のある建物の中、場所の特定などさほど時間はかからないはずだった。

まるで蝋燭の炎をひと息に吹き消したように、死期を悟って路地に融け込む猫のように、彼女は跡形もなく消えていた。

皆はミケがたったひとりでスラムに出て行った、という結論に達さざるを得なかった。


ミケは幼い少女の外見を持ち、人より頑丈とはいえその耐久力もたかが知れている。

彼女に限り、スラムや廃工場地帯での単独行動は原則禁止、とルールを取り決めていた。

生真面目な彼女が自分を守るためのルールを破るとは考えづらいが、相当の理由があったか、あるいは何者かに連れ出されたか、いずれにしろ本部で待っている訳には行かない。

本部の番をシアンに任せ、皆はミケを探すために雨の中へ飛び出した。


レインコートを羽織った数個の影が雨に紛れて消えた頃、フォックスは本拠地の裏にあるガレージに回り、黒いピックアップトラックに乗り込んだ。

通常、広大なスラム街でターゲットを探す場合、超聴覚を持つミケ、もしくはミケのおかげで滅多に使われないが、微かな血液の匂いでも感知するギガの嗅覚を頼る。

2人の力を借りることができない今、普段の彼女の言動から行動を予測する以外に方法は無かった。

フォックスは無線に指示しつつトラックのエンジンを起こし、薄暗いスラム街を走り出したが、やはり情報は極めて乏しく、無論行く当てなどなかった。

とりあえずは彼女との記憶にある限りの行動範囲を回ろうと、以前タタラがミケを拾ったストリートに向かうべく十字路を曲がる。




留守を任されたシアンは、緊急治療室でギガのベッドの縁に座り、皆の様子を聞いていた。

小型無線をスピーカーモードに切り替えて会話を流すままにしていると、フォックスの言葉を聞いたギガがシアンの背中をつついた。

「なあに」

彼女が振り返ると、ギガは片腕で空中に四角形を描き、その透明の四角形に指先で何かを書く仕草をした。

「ああ、はいはい」

念のためと無線と同時に持って来た薄型端末を取出し、胸の上辺りで持ち支えてやる。

ギガは数回タブレットの画面に触れた後、きょとんとしているシアンを見据えた。

画面を確認すると、ブラウザには地面が雪のように真白く覆われた廃墟街の一角が映し出されていた。

画像を拡大してみると、廃墟に取り囲まれた広場の地面を覆い尽くしているのは何かの花だ。

スクロールして画像に続く文面を読むと、その可憐な花はどうやら百合らしい。

混じりけのない白に、フリルのような豊かな花びら。

野生の白百合が突然変異を起こし、酸性雨の耐久性を持ったものが群生している場所が、スラムのある場所に存在するらしい。

「ミケがここにいるって?」

シアンが問うも、確証はないのかギガは頷かず、ただブラウザの隣に開いたテキストエディタを指す。

『以前ミケとこの話をした。あの子は場所も知ってる。可能性がある、というだけ』

彼はテキストエディタにしばらく何か打ち込み、再度シアンに見せた。

『それは5年も前の画像だ。今はその場所があるかも定かじゃない』




助手席に放ってあった携帯端末から色気も素っ気もない着信音が鳴り、フォックスは片手にハンドルを握りながら端末を取った。

シアンから送られてきたURLを開き、内容を確認する。

『届いた?』

「ああ……これは百合か」

『らしいな。そこ、ギガが教えてくれたんやけど、もしかしたらミケが向かったかもしれんて。行く価値はあるで』

少し遅れて届いた座標情報を見ると、フォックスの目的地とさほど変わらない位置にあり、四方に散ったメンバーの中では彼の居る地点が最も近い。

「分かった。すぐに向かおう」

アクセルを強めに踏み込むと、フロントガラス越しの景色が雨粒で歪んだ。

どろどろに混じりあう景色を冷たく睨み、フォックスは携帯端末の通信を切断する。


「…………………向日葵だった、彼女は」


天の怒りを体現するかのような豪雨の唸りに、その言葉は掻き消された。




この冷たい雨の中でレインコートも着ず、ルールを破ってふらりと本部を出てきてしまったことに、ミケは心の奥底でほんの少しだけ後悔していた。

酸性の水滴が皮膚組織の表面をじわじわと溶かし始め、長袖のTシャツを捲って手首を触ると、微かにぬるりと滑った。

あの閉鎖された空間から飛び出してしまいたかっただけで、無論行く当てなどない。

各自が部屋に籠っていたあの時間帯、皆がいるのに誰もいない本部を出てくるのは造作もないことだった。

皆は自分自身を保つだけで精一杯で、他者に分け与える精神の余裕など無かった。

彼女には寄る辺なき時間が長すぎた。


彷徨い歩いて約1時間、気付いた時にはどこか見覚えのある風景に踏み込んでいた。

車が横に何台も並べられるほど幅の広いストリートに、所々露店の骨組みが置き去りにされている。

ミケはその中央に立って耳を澄ました。

雨のノイズの合間から、細い脇道の影で猫や鼠が蠢く音、打ち捨てられた雑誌の束がはためく音など、無数の雑音を認識する。

このストリートにはもう、人間は住んでいないようだった。

あの日タタラが立ち寄った医薬雑貨店も、シャッターに弾丸の痕が残されたまま、いつのまにかもぬけの殻となっていた。


――――このストリートから逸れた廃墟街の奥に、白い花が咲く広場がある。


いつのことかはもう忘れてしまったが、彼女はお気に入りの画像をギガに見せながら話したことを思い出していた。

幸い、その場所は確かに記憶している。

建物の壁に点々と設置してある錆びた住所プレートを確認しながら、路地を曲がった。

十数分も歩くと、暗い路地の両壁の奥が開けているのが見えた。

無数の水たまりも気にせず、無意識のうちに小走りで路地を駆け、広場へ飛び出す。


そこに可憐な白い花の姿は無かった。


勢いを失った脚でふらふらと広場の中央へ進むが、枯れた葉の1枚も落ちていない。

思えばあれがいつ撮られた画像なのかも、彼女は知らなかった。

自分が勝手に根拠のない期待を抱いていただけだという事実と、風雨が吹き荒ぶだけの広場。

広場の中央にへたり込み、雨に打たれるがまま首を垂れる。

このまま骨の髄まで溶けてしまえばいい。

ミケはぱたりと仰向けに倒れた。






顔を打つ水滴と曇天を通した弱い日光が何かに遮られ、彼女は瞼を開いた。

それは投げやりに横たわる彼女を、静かに覗き込んでいる。

鴉の濡れ羽色のコートに身を包み、フードで隠れた顔は影で真っ黒に塗り潰されている。

「………フォックスには、教えてないなのですよ、ここ」

「ギガから聞いて、初めて知ったよ」

ミケは薄く微笑んだ。

「隠し事するひとには、教えたくなかったなのです」

「ああ。私には当然の報いだ」

フォックスの声に、体温は感じられなかった。

「ここは寒い。帰ろう」

その台詞すら、白々しく思える。

「……戻りたくないなのです」

「ならば、君はどうしたいんだ」


「……………死にたい」

フォックスはその台詞が発されることを予想していたかのように、地面に片膝を付き、握っていたバールをミケの額に添える。

まるで、いつか絵本で見た死神だった。

「君がそう望むのなら」



「――――――――と、言うべきシーンだが」

フォックスは片耳から小型無線機を外し、切っておいたスイッチを入れてスピーカーモードに切り替えた。

途端に、ミケを探し回る皆の声が矢継ぎ早に流れ出す。

ミケは驚いて、思わずバールを押しのけて起き上がった。

『こっちにはいない。43をさがしてみる』

『俺ハ第40管区ニ回ル』

『第33管区東の大通りは上空から探しましたわ、皆は路地裏を回って』

『分かった、僕が東に向かうよ』

『あっ、フォックス! なんで無線切ったんや、何かあったんか?』

「まぁ、ちょっとね……」

無線のマイク部分を握って音を遮り、フードを取って顔を露わにしたフォックスが続ける。

彼女のちいさな肩に手をかけ、真っ直ぐに見つめるフォックスの視線は、確実に人間のそれだった。


「ミケ」


フォックスははっきりと彼女の名を呼んだ。

胸を刺すような眼差しが、しとどに濡れていく白髪から覗く。

「君が死ぬかどうかは、君だけが決めることじゃない。君と、君の仲間の為に帰ろう」

フォックスが差し出した手を取った瞬間、ミケの頬に涙がこぼれ落ちた。




撤収命令が出た後、本部の談話室に集まった捜索メンバーは、やっと戻ってきたミケを取り囲んでの大騒ぎだった。

髪をわしゃわしゃ拭かれ、嵐のように着替えさせられ、挙句に冷えた生体パーツを温めるために毛布でぐるぐる巻きにされ、ミケはもはや泣いている暇もなかった。

そんな一同をキッチンに立って眺めながら、シアンは隣で髪を拭いているフォックスに問う。

「無線切った時点で、もうミケ見つけとったやろ。アンタ」

「さあね」

「は! 何考えとったか知らんけど、大方ウチらの慌て様は利用されたってとこか」

フォックスは肩を揺らして、喉の奥で笑った。

「私は茶番も辞さない人間さ。真に必要な時は」

「食えへん男やな」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

彼女は大げさなため息をついて、少々自虐的に呟く。

「アンタに使われんのが仕事やから、別にええけどな」

「感謝はしているさ。これは本心………って言っても、説得力無いかな」

真顔で首を傾げるフォックスに、シアンはにやりと笑い返した。











旧世界が核戦争によって破壊し尽くされ、あるべき姿を失ってから、これで何度目の雨だろうか。

放射性物質や硫黄酸化物で汚染されたその水滴は、河を辿り泉になっても浄化処理を行わなければ、飲むことはおろか触れることすら避けるべき死の水だ。

壊れたブラウン管テレビが画面に淡々と砂嵐を映し出すように、壊れた世界はその崩落を表すノイズとして雨を降らせる。

誰かが遠くで咽び泣いている声にも似たその音は、露店や廃墟、地下の個人シェルターの中までも入りこみ、アポカリプティック・サウンドさながらに空間を浸食する。



降り注ぐ雨水を避け、ある高層ビルの屋上近く、地上35階。

耐震構造に関しては旧世界の遺産によりそれなりの信頼度を持つが、鉄骨の合間を覆うコンクリートの床は抜け落ちガラスは溶け、外気がフロアを緩やかに通り過ぎる。

建設途中で時代は大戦に入り、資金・資材の不足から工事がストップしたこのビルには、上層フロアの至る所に鉄骨や飛散防止加工を施された石綿が置き去りになっている。

裾がボロボロに痛んだ紅のマントがその資材の上を這うように広がり、布地を辿ったその先には、鉄骨の上に腰掛けるラクーンドッグの姿があった。

彼女を非人間たらしめる幾何学模様の獣の面、インフレイムを引き連れてオリンポス周辺に現れる時は必ず身に着けている物だが、今は顔を隠してはいなかった。


雨天では太陽の光も満足に差し込まず、ビルのフロアは薄暗い。

ラクーンドッグの顔には影が落ち、首回りにかさばったマントも加わって、表情はやはり読めなかった。

人類の脅威は微動だにせず、ただ口を閉ざしたまま雨の音を聴いていた。


「………あんたが確固たる目的も無く、『上』に出て来るなんてね」


妙に艶っぽい囁きの後、彼女の背後から現れたのは、異形の男―――カスケード。

ギガと一戦交えたその時とは異なり、今は背に薄い膜状の翅が無い。

肩甲骨辺りに格納しているのだろうか、背中が微かに盛り上がっている。

カスケードは四本の腕を胸の前で組み、フロアの壁に音もなく寄り掛かった。

「……全てに理由がある人間など、この世に存在するものか」

殺伐とした荒野を具現化したかのごとく、からからに乾いた色気の無い声。

雨がいくら大気に満ち、大地を流れても、彼女の声帯は一向に潤わないようだった。


カスケードは壁から背を離し、ラクーンドッグの正面に跪いた。

硬いコンクリートの床と、おそらくコンクリートより遥かに硬い甲殻を纏った膝がコツ、とぶつかる。

カスケードは頭を垂れ、鈍い光を放つ山吹の瞳孔だけで主を見上げた。

「センチメンタルな気分に浸るってのも、たまには悪くないよね」


途端、ラクーンドッグは玉座のように高く積まれた資材の山から飛び降り、カスケードの目の前に降り立った。

紅のマントが空気抵抗を受けて血飛沫のように広がる。

落下と同時に、彼女は腰に提げた鍔の無い刀を抜き払い、カスケードの昆虫を模した特徴的な顎に切っ先を添えた。

刀の腹で頭を上げさせると、冷たく囁く。


「………………言葉を選べ。私は貴様の頸動脈の位置もよく知っている」


甲殻の薄い首筋に刀が食い込み、ぷつりと裂けた皮膚からどす黒い血液が玉になって溢れる。

カスケードはそれにも構わず、爪から手の甲、肘まで硬い殻で覆われた長い腕を伸ばし、揃えることなく乱雑に切られた跡のある髪に触れた。


「オレは、あんたの髪の癖が湿気で酷くなること、くらいしか知らないね」


ラクーンドッグは身を屈めて、鈍く光る刀身をさらに首へと食い込ませた。

相容れさせない威圧感を放つ吊目が、暗闇の中で爛々と光っている。

この赤い暴君の眼は、昔からちっとも変わらない。

獰猛で貪欲で、孤独。


「死にたいと言うのなら殺してやる」

「はは! 悪かったよ。冗談、冗談」

カスケードはへらりと笑い、今にも自らの首を刎ねそうな刃を手の甲で押し退ける。

彼女は隙の無い動作で刀から漆黒の血を払い、流れるように鞘に納めた。

興味を失ったのかそもそも興味など無かったのか、ラクーンドッグは無言でカスケードの横を通り過ぎると、壁の一面がごっそり抜け落ちたフロアの端に立った。

風が強く吹き荒び、マントがはためく。


「今日は奴が現れる……そんな気がした」


彼女は振り向きもせず、どこか言い訳じみた台詞をカスケードに投げた。

ここでもう一度からかったら、次こそは首が飛ぶだろうな。

カスケードは廃材に腰かけて、曖昧な返事を返した。

「へえ………」

孤独な指導者の背中を眺めながら、過去を思い返す。

―――――互いに右頬を殴り合うことしかできないのだから、あの時に人類などいっそ滅亡すべきだったのだ。

それとも、あえて仮初めの平和にまどろんだ方が、いつか終末が訪れた際に人類が失うものも多いだろうか。

カスケードは皮肉めいた笑いともつかぬ声を漏らした。

「………オレたちはまだ迎えに行かなくて良いの? あっちの狼さんも、蝙蝠君もかなりキてるみたいじゃない」

ラクーンドッグは微かに俯いて、しばし沈思黙考すると、背中を向けたままで語った。

「……まだだ。神の加護も手懐けなければ無意味だ。奴らが『あれ』を使役するようになるまでの間、我々にはすべきことがある」

ラクーンドッグは振り返りざまに獣の面を被った。

「カスケード、『下』へ戻るぞ。愛しの怪物を、今一度この現実へ引きずり戻す」


快晴ではなく曇天でもなく、雪でも霰でも霧でもなく、全てを洗いざらい流し、行き倒れた身体に容赦なく鞭打つ豪雨。


「………この街は毎日毎日雨ばかりだ……悪足掻きするには、もってこいの天気だろう」

仮面の奥の暗がりで、乾いた声が囁く。




CHAPTER/9 STRAYING INTO THE GRAY GRAND HOTEL

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