【修正中】CHAPTER/7

エニグラドールは、ダークスーツを着ている。

メンバーの趣味嗜好によって着こなしは大きく異なるが、それはヒーローのコスチューム的な意味合いを持ち、ある種のアイコンの役割を果たす。

傭兵やスラムの住民たちの目に黒いシルエットは焼き付き、脅威を退けては姿を消す蜃気楼のような英雄として噂が広まる。

ダークスーツは彼らをエニグラドールと認識させるために不可欠な存在だ。


だが、彼らはスーツを着て戦う。

豪雨の中でも、黄土色の荒野でも、エニグラドールはダークスーツを着て、インフレイムやゲリラ兵やその他諸々の脅威と砂まみれの泥だらけになって戦う。

非常識である。

大抵の人間は「スーツ」と言う単語を聞けば、ビジネスバッグ片手に端末を操作しながら営業先へ連絡を入れ、高層ビルの合間の喧騒を忙しなく歩くような人間を思い浮かべる。

もしくは冠婚葬祭などの格式ばった場か。

否、それは旧世界の話であるから、スーツという改めて考えると奇妙な洋服の存在自体を知らずに育った若者も存在するかもしれない。

それはともかく、基本的にスーツは殴り合いをするための衣装ではない。

スーツを着ている人間は普通、亜音速で走ったり空を飛んだり腕ごとちぎって持って行かれたりしないから、スーツに鎧のような強度は無い。

そのため、彼らのコスチュームはしばしばぼろきれと化す。

彼らが造られてしばらくの間、スーツはフォックスが手直ししていたのだが、滅多に弱音らしい弱音を吐かないフォックスがその作業量についに音を上げたため、数年前に仕立屋を探すこととなった。

しかし戦後経営状況が破綻したオリンポス周辺のスラム街では、スーツを着る文化自体が廃れつつあった。

オリンポス内部は名のある仕立屋が多く暮らしているのだが、スラムに場所を変えるとその数はぐんと減少する。

数少ない貴重な人材の中から「確かな技術を持ち気前が良く口が堅い」という無理難題をクリアして選び出されたのが、名もないストリートの奥に隠れるように佇む仕立屋「La Nuit」である。

ナナシとギガ、それからタタラはこの仕立屋の店内で、まるで我が家のようにくつろいでいた。

店主のエルネストが半分趣味で経営しているこの店は、客足もそれほど多くはない。

店の表向きは単なる廃墟の一角に過ぎないが、店内に一歩踏み入れた途端に別世界が広がる。

エルネストの生活空間も兼ねた店内は、一体どこから調達しているのか謎だが、シックかつ彼のこだわりをそこかしこに感じる家具で統一され、スラムとは一味違うドールハウスのような雰囲気を醸し出していた。

エニグラドールとはもう長い付き合いになるエルネストは、3人が好き勝手に店内でだらだらと居座っている状況も日常茶飯事と言った所か。

3人と言葉を交わしながらも、どこかの誰かのために注文の品を着々と仕上げているようだった。


「あなたたち、今回も派手に着たわねぇ」

艶のある素材にアナログな縫い針を通しながら、「彼」は感心した風に呟いた。

広いカウンターの上にはサイズの不揃いなダークスーツが重ねて置いてある。

それはどれも裾がほつれ、酷いものは穴まで開いているし、色合いもどことなく砂っぽい。

エルネストは一旦針と布を作業カウンターの脇に置くと、矯正したストレートの黒髪を耳に掛けた。

女性的な服装の割に無骨な掌で、愛おしげにスーツの布地を撫でる。

「毎度毎度悪いな、エルさん。折角ぴったりに誂えてもらってるのに」

自分専用の頑丈な椅子に座って裁縫作業をまじまじと観察していたギガは、エルネストのその仕草に申し訳なさそうに彼を見上げた。

「着やすいから、なんとか長持ちさせようって気遣ってんだけどさ」

「用途が用途だから、どうしても」

アンティーク調の棚から裁縫の技術書を勝手に引っ張り出して、ぱらぱらとめくっていたナナシとタタラも会話に加わると、エルネストは色っぽい流し目で手をヒラヒラと振る。

「いいのよぉ。あたしの作ったものは、誰かの手に渡った時点でその人のものになるの。だからその人がどう着ようと、それはその人の自由よ」

それに、と彼は続ける。

「あたしの服を着る人が、どんな生き方をしているか想像するのが楽しいのよ。だから、服がいかなる形になっていても、補修の依頼は嬉しいわ」

エルネストはスーツを1着ずつ手に取り、表面から裏地、縫い目の細部に至るまで観察している。

「あなた達は、相変わらずとても刺激的な生活をしているみたいね」

重なったスーツの中でもひときわ大きいスラックスを引っ張り出して、彼は大げさに目を見開いた。

それは最近の任務でひざ裏部分が大きく焦げ付き、衣類としての体を成さなくなっている。

「とはいっても、さすがにこれは直しようがないわね。オオカミさん」

「ぐ……少し前の任務でな……」

ギガは参ったという表情で後頭部を撫でた。

「もう1度採寸し直そうかしら」

「前に測ったんじゃ駄目なのか? 俺、サイボーグだから成長しないし」

人間ではないことを悟られてややこしい話になることを避けるため、彼にはエニグラドールはサイボーグ傭兵が集まった組織であるという体で接している。

首を傾げるギガに、エルネストは彼の片脚を指して言った。

「あなた、そっちの脚を派手に壊さなかった?」

「……俺、この脚の話はしてないよな」

「仕立屋の眼は精度が良いのよ。もう直ってはいるみたいだけれど、片脚を庇う癖がほんの少し残ってるの」

エルネストはカウンターから出て、ギガを椅子から立たせた。

「骨を軽いものと差し替えたりしたのかしら。体のバランスも左右で崩れてるわね。完全オーダーメイドだと、そういうポイントも影響してくるのよねぇ」

確かに、ギガはつい最近の任務で片脚を負傷していた。

傷は完全に塞がったものの、細胞の密度が均等に戻るまでは怪我をしていない方の脚が重いのは理解できる。

だが自分ですら気づかない点を、見た目だけで把握するとは。

エニグラドールはサイボーグということに落ち付いてはいるが、彼ほどの観察眼を持つ相手には、とうに人間ではないと感づかれているのかもしれない。

真実に気付いた上で変わりなく接していようと、そもそも気付いていまいと、彼が変わりなく仕立屋と客との関係を維持するつもりであれば当初の目的は達成されている訳だが。

ギガは口にこそ出さないが今回も彼の才能に舌を巻きつつ、いつの間にかメジャーを持ち出したエルネストに言われるがまま全身の寸法を計測されていた。

採寸しながら、エルネストが何かを思い出したように声を上げる。

「前から思っていたのだけれど、あなた達の、まるで大理石の天使像みたいに整ったこの身体。仕立屋の食指が動くわねぇ」

エルネストはギガの胸板をぽんぽんと軽く叩く。

「俺そういう趣味は」

「おだまり。即死の秘孔突くわよ」

「すいません」

まるで他人事のタタラとナナシはくすくすと笑っている。


エルネストはにやりと悪戯っぽく微笑んで、てきぱきと作業をこなしていく。

「そういえばね。ギガ君の脚のリハビリに丁度いいイベントが近々開かれるの」

「リハビリって、スポーツでもするの?」

タタラが問うと、エルネストはシャドーボクシングを真似てウインクした。

「そうよ。賭博拳闘『コロッセオ』。どう、興味ある?」

「一体どこからの情報なんだよ」

「何であんたがそんなこと知ってんの」

ギガとナナシが問い詰めると、エルネストは顔の横に手の甲を添えて声を潜めた。

「実はね。お客様の中にとある傭兵団の団長の方がいらっしゃるのよ。彼はつい最近、その拳闘場で潜入調査をしたらしくて」

「そんなデカい話聞いたことねえな。その調査、ゼウスに認可されてんの?」

ナナシが首を傾げると、エルネストは大げさに片手を振った。

「この話は、まさしくそこが重要なのよ。彼が調査しているのは、スラムの孤児を犠牲にして行われている不正臓器取引についてなのだけど、彼がゼウスの治安管理課に何度訴えても取り合ってくれないそうなの」

「それは変だ。言い方は悪いけれど、ゼウスだって大捕り物を成功したらスラムからの信頼を得られるし、美味しい話のはずなのに」

眼鏡を直しつつ怪訝そうな表情でタタラが呟く。

「彼もおかしいと思って調べてみたらしいのだけど、結果はビックリよ。スラムやオリンポス内部の住人に加えて、コロッセオの観戦客の中にはVIPとして『不真面目なゼウス関係者』もかなりいるそうなの。しかも今回は治安管理課の上層部が観戦客の中にいたらしくて」

「賭博場は作っただけで法に引っかかるからな……そんな話を治安管理課に言ったって揉み消される訳だ」

運が悪かったな、とギガが顎に手を添えて俯いた。

「それでね、実質コロッセオは経営担当者が管理しているのだけれど、オーナーはトーナメントで勝ち残った人が常に入れ替わる仕組みなの」

「つまり、賭博場の全権利をファイター同士で奪い合っている、ってことだね」

エルネストは頷き、滅多に見せない真面目な面持ちに切り替わった。

「その通り。そこでお願いがあるの―――――コロッセオでチャンピオンまで勝ち登って、VIP観戦者の名簿データを手に入れて欲しいのよ。治安管理課よりも『上』にツテがあるあなたたちじゃないと、このデータを手に入れても抹消されてしまうから」

先にゼウスに許可を取るかどうかは、あなたたちに任せるけれど、とエルネストは真面目に締めくくったが、途端にあくどい表情を浮かべてにやりと笑う。

「コロッセオには腕自慢の強者が揃っているわ。あなたたちには調査という大義名分があるから、合法で力試しができるのよ」

あまりに簡単に読めるこの先の展開に泣き出さんばかりのタタラをよそに、ナナシとギガはこくこく頷いている。

「コロッセオか………なるほど」

「拳で語るスポーツか………なるほど」

元々ナナシは血の気が多く喧嘩っ早いし、ギガは映画か何かの見過ぎで、おそらくロマンに満ちた何らかの映像がAIを流れている。

ギガは完全に勘違いしている。

「ノリノリだとバレさえしなければ……」

「その事実は存在しなかったことになるぜ」

「俺たちは絶対に捕まらない……」

「万事OKだぜ!」

悪人のような顔のナナシと目を輝かせているギガは口を揃えて言った。

「その話!!」

「乗った!!」

「んも~~~さすが!! 男の中の男ね!!」

エルネストは両手を合わせて黄色い声を上げる。

「どうなっても僕は知らないぞ………」

そんな3人に、タタラがこっそりぼやいた。







数週間後。荒野は曇天。

「ところで、2人とも」

「ん」

「おう」

「どうして僕はここにいるんだろう」

「哲学的な質問だな」

「深淵でも覗いたか?」

「はぐらかさないでよ!!!! なんで僕が頭数に入ってるのって話!!!」

「だって、ちゃんとフォックスの許可も取ったし」

「お前の不憫キャラは宿命だと思うぜ、ドンマイな」

ギガとナナシ、それから結局連れて来られて喚き続けるタタラは、GPSの座標だけを頼りに辿り着いた廃墟街の深部に立っていた。

エニグラドール本部から数10ブロックほど離れた場所に位置するその廃施設は、外見だけではどのような目的で建造されたのか全く想像のつかないものだ。

コンクリート製の箱状のそれは幅・奥行き・高さが3m前後、正面には金属製の古びた扉がついている。

しかし人間の住む家にしてはあまりに小さく、1部屋分も入らないように見えた。

そのコンクリート建造物が、高い廃墟の一角に突然ぽつりと現れる、妙な図である。

だがエルネストの言葉によれば、ここが「コロッセオ」の入り口だというのだ。

参加者を識別する情報が入った人数分のカードキーをリーダーに読み取らせると、想像以上に分厚く頑丈な扉が内側に開いた。

扉の奥はすぐに急な階段になっており、地下へと続く道が潜水艦内部のように赤いライトに照らされている。

外よりも少し冷えた空気が、扉からじわりと吹き出す。

3人はやや訝しげに、タタラは半ば引きずられるようにだが、足音の反響する階段を降り始めた。




早足でも10分ほどかかる長い階段を下るほどに、地下鉄が走る音に似た低く幾重にも重なる音が次第に大きく近づいてくるのを感じた。

やっと階段が終わり、狭く平らな通路をひた進むと、また扉に突き当たった。

その扉の前には、胸部装甲をグラフィティアートで派手に彩られた、旧世界の人型護衛メカが立ちはだかっていた。

「俺様たちは『ファイター』だ。招待状は持ってるぜ」

護衛メカはナナシが差し出したカードキーをスキャンすると、護衛メカは後ろ手にドアを押し開けた。

「入場を許可します」

護衛メカの機械音声を掻き消すように、歓声の濁流が押し寄せて来る。


人、人、人、人。


旧ローマ帝国で使われていた円形闘技場の規模を縮小したような空間に、スラム中から集めてきたのかと思うほどの人とその声と熱気が渦巻いている。

どうやらここは地下貯水槽として使用されていた施設らしく、巨大な丸型フラスコが地中に埋まっている、という形容が最も近いだろう。

ドーム型の天井は高く、段になった観客席の中央には平らなリングが用意されている。

3人が出てきた場所は観客席の最上段に当たり、そこからはこの拳闘場の全体像を十分に見渡すことが出来た。

「すっ―――――――ごい」

嫌々連行されたはずのタタラは思わず呟いていた。

その声が自分の耳に届かないほどの歓声、歓声。

男女問わず入り混じった観客席は、その誰もがバンダナで顔を覆っていたり、防塵マスクをしていたり、あるいは手製の動物の被り物などをしている者もいる。

3人もコロッセオに立ち入る前に、エルネストに指示された通り思い思いの方法で顔を隠している。

ギガは眼元に黒のペイントを施し、ナナシはポニーテールを解いていつものマフラーで口元を隠し、タタラはミリタリーコートのフードを目深に被っている。

コロッセオではファイター、観戦客共に全員が顔を隠し、素性を明かさないという体で集まるルールがある。

それは集まる者の身分や地位の境界線を消し、ゲーム中だけは皆が平等に楽しむための企画者側の計らいだった。

現在、観客の視線は全て中央のリングに釘付けになっていた。

「おい、おい! 前行こうぜ! 前!!」

迫力に圧巻されていた2人をナナシが急かす。

ファイターはリングの近くで待機するため、専用席が用意されているのだ。

観客席の間を下る間もリングアナウンサーがマイクに向かって叫ぶ。

「ル―――――ルは簡単!!!! 武器はお前の拳だけ!!!! ノックアウトで勝敗を決めろ!!!!! 全ての拳闘バカ共へ捧げる!!!! 血湧き肉躍る正真正銘の宴、『コロッセオ』!!!!!!」

アナウンサーの攻撃的な煽り文句に、客席は狂気を感じるほどの盛り上がりを見せる。

コロッセオの習慣か、観客は揃って暴れんばかりに拳を真上に突き上げて咆えた。

リングアナウンサーは今回参戦するファイターの名前を次々に読み上げて行く。

「俺様たちのリングネームはエルが勝手に登録したんだっけ?」

「重要なこと訊き忘れたよな」

「嫌な予感がする……」

一同は辺りをきょろきょろと見回しながら、同じ席で待機する他のファイターを眺めていた。

コロッセオでは常連なのか名を呼ばれたファイターは慣れた様子で立ち上がり、観客へパフォーマンスを行っている。

ルールで「武器は拳だけ」などと謳ってはいるが、どのファイターを取っても全身を過剰にサイボーグ化してある怪物級ばかり。

2mを軽く超えるギガが貧相に見えるほど大柄な者が、トーナメント参加者16人の大半を占めている。

人間のサイズに収まっているのはエニグラドール一行ともう2人、両腕を対サイボーグ用のナックルアームに改造した女と、フードが羽ファーで縁取られた純白のコートで顔を隠している男である。

その男はどこか異質な様子で、リングネーム―――「アースト・エアファウル」を呼ばれても顔を上げることすらしなかった。

「お次もN・O・O・B、飛び入り参加の初心者を紹介だ!!!! シャングリラもインフェルノも容赦も糞も無えこのコロッセオでどう立ち回るか!!!」

リングアナウンサーは猛烈な巻き舌を加えて、一行のリングネームを叫ぶ、はずだったが。

「ジョン・バット?……あ、アンデッドウルフ……、……ベイビー…っひい、悪い、ちょっと涙が、ぶふっ……べ、ベイビードレイク!!!!!!!!」

リングアナウンサーは明らかにマイクを前に吹き出している上、それにつられて熱狂していた観客やファイターまで笑い出した。

3人は口を揃えて、この世の終わりのような顔で叫ぶ。


「「「だっさ!!」」」


「みんな死ぬほどダサい! よくあんなダサい名前考えたな」

「あんのオッサン今度遭ったらスッピンで街引き回してやるぜ」

「悪意感じる……帰りたい……」

リングアナウンサーは笑い過ぎてぜえぜえと息を切らしながら、絶望的なエニグラドールを余所にファイターのリングインを促した。


「誰にてめえの金を賭けるか!! 誰にてめえの運命を捧げるかは自由だ!! どうせこの世は一転六値、四の五の言わずに一か八かを派手に張れ!!!!! 赤コーナー、アースト・エアファウル!!! 青コーナー、レーヴァテイン!!!」

白コートの男、エアファウルは無言でパイプ椅子から立ち上がり、妙に長い腕をポケットに突っ込んだまま身を屈め、高く跳ねるとリングの上に着地した。

男の脚はリングネームのファウル―――「鳥」が表す通り、3つ指の青い鳥脚に改造されている。

対する青コーナーに立つレーヴァテインは身長約3mのごつい全身サイボーグだ。

片腕だけをシオマネキのように巨大に強化してあり、拳は鋼鉄のハンマーと化している。

高らかにゴングが鳴り響くと、レーヴァテインは早速エアファウルに突進を仕掛けた。




第1試合を横目に、エニグラドール一行は騒がしい場内で声を潜め、作戦を確認していた。

「僕は第5、ナナシが第8試合だね」

「俺は次の次か」

「とりあえずお前はここで待機。俺様とこいつで臓器売買の証拠を探す」

賭博場の経営は違法とされてはいるが、今回の場合はオーナーに臓器売買の権限があることが最大の罪である。

賭博場の経営で得た金を悪事に利用することが重罪なのであって、ある程度の娯楽はスラムの住人の憂さ晴らしや不満の捌け口となるため黙認されることも多い。

臓器売買の実態を掴み単なる娯楽場ではないことが確認できるまでは迂闊な行動には出られない。

黙認「すべき」娯楽場を摘発してしまった場合、寧ろ住民の楽しみを奪い大きな反感を買う可能性もあるからだ。

打ち合わせの後、ナナシとタタラはファイターの待機席から人混みに身を隠すように消えた。

ギガは次の試合を待ちつつ、肘掛に頬杖を突いて試合をぼんやりと眺めている。


超大型インフレイムを相手に戦ってきた身としては、彼は特に緊張する訳でも自信が無い訳でもなかった。

人間よりも人間らしいエニグラドールは門番の監視を潜り抜けたが、コロッセオは人間限定の拳闘場のため、戦闘用ヒューマノイドは会場にはいない。

チート行為に心が痛むが、任務は任務だ、とギガは自分に言い聞かせた。

彼がリングに視線を戻すと、試合は青コーナーの大柄なサイボーグが優勢のようで、白コートのエアファウルは1度も反撃することなくひたすら相手の攻撃を避けている。

「ん…………違うな」

ギガは眼を凝らして2人の挙動を注視した。

真に優位に立っているのはどうやらエアファウルの方らしく、重力を感じさせない身軽さで敵の突進や腕によるスタンプ攻撃を避けている。

驚くべきことにエアファウルはまだ1度も攻撃を受けていないらしく、動作が大きいレーヴァテインは自身の攻撃モーションでかなりの体力を消耗していた。

白コートの男に完全に遊ばれている彼は生体部分が僅かに残る額に汗を流し、息苦しそうに肩を上下させている。

見るからに強そうなレーヴァテインに賭けていた観客は試合開始直後に意気揚々と騒いでいたが、今は大多数の絶望に満ちた呻きとダークホースを狙ってエアファウルに賭けた客の歓声に変わっている。

レーヴァテインは改造された喉から猛獣のように低い唸り声を上げ、相変わらずポケットに手を突っ込んだままのエアファウルに拳を振り下ろした。

なぜか白コートは避けようともせず、彼の無残なノックアウト姿を想像した観客が息を飲んだ瞬間。

レーヴァテインの片腕は宙に浮いたまま止まった。

否、そのハンマーのような巨大な腕は、真上に伸ばしたエアファウルの掌に受け止められていたのだ。

レーヴァテインは慌てて片腕を引こうと試みたが、エアファウルは無言で掴んだ腕を後ろに引っ張り、そしてレーヴァテインの顔面を殴り付けた。

レーヴァテインは風船でできた張りぼてのごとく宙を舞い、そしてリングに背中から落ちて気を失った。

「き、キックア―――――ッス!!! なんてニュージャックだ!!! 観たかお前ら、俺は観たぜ!!!あのレーヴァテインが1発でノックダウンだ!!!!」

リングアナウンサーの解説に状況を理解した観客が、レーヴァテインに賭けていた客までもが歓声に沸く。

「勝者、赤コーナー!! アースト・エアファウル!!!!!!」

怒涛の歓声の中、エアファウルは目の前で仰向けに倒れているレーヴァテインの顔を覗き込み、どうやら生きていることを確認できたらしく場外へ出てきた。


会場に熱気が渦巻く中、続く第2試合はアルタイルと対するアラゴナイトの組み合わせだ。

ゴングの音と共に、両者は距離を保ちながらリング上を動き回り、相手の隙を狙っている。

開始した第2試合を後目に、エアファウルは無言でギガのふたつ隣へと座った。

言葉も発しない上に一風変わった戦闘スタイルからは、彼の目的は読めない。

待機していた時と同様に微動だにせず座っているのかと、ギガは彼を横目で見た。

しかしエアファウルは、爆音で鳴り響いているスラッシュメタルに鳥脚の爪先を揺らしている。

エアファウルはギガに気付いてか否か突然彼の方を向き、フードの下でにやりと笑った。

「第3試合はあんただろ、狼さん」

「……そうだ」

「あんたも物好きだな」

どこか馴れ馴れしいエアファウルの口調に、ギガは警戒を解いて答える。

「人のことを言えた口じゃないだろ」

「はは!! その通りだ」

存外に高く少年らしさの残る声で、エアファウルが笑った。


「――――コロッセオだけは、地位も身分も存在しない」


脚同様に青く試合後も汗1つ無い肌が、コートの隙間からちらりと覘く。

「相手を殴る力を持つ者だけが勝つ」

彼の爛々と輝く黄色の瞳がフードの影に潜み、その視線はリング上でたった今アラゴナイトの顎にアッパーカットをぶち当てたアルタイルに向けられていた。

「俺も、俺の飼い主も、このシンプルな理が好きでさ」

「飼い主?」

ギガが尋ねるが、それを掻き消すように、アルタイルの勝利を告げるゴングがけたたましく鳴った。


エアファウルはギガの方をちらりと向き、耳に掌を添える仕草を見せる。

そのジェスチャーに、ギガはリングアナウンサーのコールに気付き、リング上から気絶したアラゴナイトが撤去されていくのを見計らって立ち上がった。

「お次は第3試合だ!!!! 赤コーナー、レイジング・タイタン!!! 青コーナー、アンデッドウルフ!!! さァ――――ッ張った張った!!!!」

ギガはロープをくぐってリングに上がり、ネクタイを緩めて首回りのボタンを外した。

目の前に現れたレイジング・タイタンもやはり超大型のサイボーグで、肩から背中にかけて曲面の金属装甲が取り付けられている。

装甲の形状がまるでアルマジロのようなタイタンを観察しながら、ギガは無線で2人へと声をかけた。

「第3試合開始のお知らせだ」

『ギガ、頑張って!』

「おうよ」

『あ。あのさ』

「何だ」

『欲しかった感覚が手に入るかもね』

「………ああ」

ギガはくつくつと笑った。

エニグラドール最高の物理攻撃能力を持つギガだが、彼の筋力にはいくつか段階がある。

例えばアンモナイト型のインフレイムを背負い投げた時、対人戦闘の時、日常生活の時、それぞれで筋力の最高出力値が異なっている。

これは、筋力を最大出力で固定してしまうと繊細な作業を行うことは困難になるため、力をセーブするべく備えられたリミッター機能だ。

今回の試合では、人間の能力に合わせて力をセーブし、人間を殺さないように戦わなければならない。

タイタンが金属の拳を打ち合わせると、衝突音とともに火花が散った。

開戦を告げるゴングが鳴った瞬間、タイタンはそのずんぐりとした体型とは裏腹に、驚くべきスピードでロケットスタートを仕掛けた。

ギガは愚直とも取れる正面からの攻撃をあえて避けず、真っ向勝負で拳を受け止める。

筋力をセーブした状況では相手の拳は重く、Yシャツの袖を捲った腕には普段使っているのかも怪しい筋肉がくっきり浮かび上がる。

タイタンは握っていた拳を開き、ギガの掌を鷲掴みにした。

ギガもかなりの重量があるが、タイタンの身体は更に重い。

タイタンは彼の腕を引っ張って軽々と空中に振り上げ、リングの上に叩き落とした。

「がッ!!!!」

申し訳程度の弾力を持ったリングに背中で着地、肺が圧迫されて息が詰まる。

視界が1回転する感覚など何年振りだろうか、彼はもう長い間相手を投げる側だったのだ。

タイタンは両腕を組み合わせて跳ね上がり、仰向けに倒れているギガへハンマーのように腕を振り下ろす。

彼はタイタンの腕が頬を掠るか否かで体を捻り、リングの上に立った。

タイタンは格闘技の心得があるらしく、サイボーグ化され人間離れした体格であっても愚鈍さは感じられない。

恐ろしい威力を秘めつつも丁寧なジャブに、ギガは次第に押されていく。

背中にリングロープが当たった瞬間、タイタンの腕を掻い潜って背後へ回ろうとしたギガの腹を金属の拳が襲った。

ギガはリングに叩き付けられ、彼の胴体をタイタンの脚が踏みつける。

せり上がる胃液に苦しげな咳を漏らしながら、ギガはタイタンの膝関節を狙って殴る。


―――――これが欲しかった。


不利な立場に置かれながら、彼は内心笑っていた。

いつ殺されるか分からない敵を相手にする任務と、不殺のルールで制御された拳闘では訳が違う。

自身の安全のため十分に敵を圧倒できる力を使わなければならない任務と、枷で自身を縛り「敵に追い詰められる」感覚を味わうことができる拳闘。

ありとあらゆる物を捻じ曲げ砕き破壊してきたこの腕が、今はサイボーグの拳を押し返す事すら困難だ。

掌に加わるタイタンの重力が、悲鳴を上げる金属骨格が、関節が、血液が、その全てが心地良い。

組み敷かれたまま、ひたすらタイタンの打撃に耐える。

力を得過ぎた弊害、危機感のない日常は鋼鉄の本能を鈍らせる。

敵の拳は恐ろしく速く、ギガの頬を容赦なく殴る。

鼻や口から温い液体が流れ出している。

そうだ、これでいい。

AIの底で腐っている俺の闘争本能を引きずり出せ。

止めを刺そうと、馬乗りになったタイタンが大きく身を引いた。

拳が遠く、天井のライトに黒い影となって踊る。

再生に伴う蒸気に揺らめき、顔面に迫る拳が次第に大きく、スローモーションのように蛍光グリーンの血飛沫が飛び散る。

ギガは自身の顔を狙って放たれたタイタンの拳を、相手の思惑通り顔で止めてやった。

正しくは額で頭突きを喰らわせたのだが、タイタンの腕はその衝撃で一瞬動きを止めて背後に黒煙を噴き出した。

タイタンは相当驚愕したのだろう、だらりと垂れさがった片腕を庇うように数歩後ずさりする。

ギガの反撃に会場の歓声がヒートアップする。

ギガは目に流れ込む血液を片手で拭いながら、ややフラつきつつも立ち上がった。

鈍い紫の鬣が逆立ち、捕食者としての衝動が喉から咆哮となって迸る。

コロッセオを揺るがすようなその声に、もはやこれはファイター同士の戦いではなく、猛獣が憐れなグラディエーターを食い荒らす狩りに変化したことを観客は察した。

ギガは戸惑うタイタンの頭に飛び掛かった。

故障した方の肩装甲に取りついて首に脚を掛け、無理やりに装甲を引きはがす。

タイタンは残った片腕で必死に抵抗するも、身体に対して妙に小さい頭を狙って何度も何度も拳を叩き付ける。

タイタンは次第に凹んで行く頭部装甲に危険を感じて降参の意を示そうと試みるが、彼に言葉を発する間などなかった。

ギガは片腕を後ろに回し、そしてタイタンの頸部に向かって横殴りに振るった。

ラリアットが直撃したタイタンはその場で踊るように巨体を揺らし、そしてリングの上に倒れた。

タイタンが倒れる直前に飛び退いたギガがリングに着地すると同時にゴングが鳴り響く。

「新たな!! プレデターの!!! 誕生だ――――――ッ!!!!!! 不死の獣に平伏せ、狩人の王者を畏怖せよ!!!!!! 勝者、青コーナー!! アンデッドウルフ!!!!!!!」

ギガは拳を高く突き上げて観客席に向かって咆えた。

彼の仕草を真似して観客が振り上げる無数の腕が、大海のように会場を波打つ。


ギガが乱れた呼吸を整えながらリングロープをくぐり待機席に戻ると、気障に脚を組んだエアファウルが勿体を付けた拍手で彼を迎えた。

「なかなかやるね」

「そりゃどうも」

リングに上がる次のファイターには興味が無いらしく、エアファウルは席に座ったギガを煽る。

「俺は『本気の』あんたと戦いたいね、狼さん」

ギガは内心たじろいだ。

エアファウルはたった数分の試合の情報だけで、力を制御していることに気付いたというのか。

「………第13試合まで待てよ」

不気味な相手とのこれ以上の会話は避けようと、ギガはその意思を表すために腕を組んで目を閉じた。




「ねえねえ、俺様の試合観なかっただろ、起きろこの野郎」

突然頭を襲う衝撃と、聞きなれた掠れ声。

「……………あっ、おはようございます」

ギガが目を擦りながら顔を上げると、彼の前にはややくたびれた様子のナナシとタタラが立っていた。

力を制限した状態で戦ったせいでハイになりすぎたか、半ば気を失うように眠っていたらしい。

見れば純戦闘用の頑丈なタタラはコートの裾が破れる程度の被害で済んでいるが、さすがに翼を使って飛び回る訳には行かなかったナナシはかなり苦戦したらしい。

未だ止まる気配を見せない鼻血をずるずると吸いつつ、彼は寝ぼけているギガの両耳をぐいぐい引っ張る。

「おはようございますじゃねえよこの野郎、この野郎、貴様などこうしてやる」

「痛っ、いたたた」

ギガはどうにかナナシを引き剥がし、情けない顔で言い訳をする。

「隣のあいつが絡んでくるから、寝たフリしようと……本当に寝るつもりは……」

「嘘つくな」

「う、嘘じゃねえよ……」

タタラは呆れて肩を竦めた。

「とにかく、3人とも勝ち進んだのは良かった。この調子で行くとあの白コートが勝って、次は第10試合、ギガの番だ」

タタラの言葉にリングを見れば、第1試合と同様にエアファウルが敵の攻撃から身軽に逃げ回っている。

この作戦はどの敵にも比較的有効らしく、一向に手を出そうとしないエアファウルに痺れを切らした相手は攻撃を繰り出す度に消耗している。

「でも、この後の試合にちょっと問題があるんだ」

「問題?」

「多分、運営側は新人の僕たちが初戦で敗退すると踏んでいたんだと思う。そのせいで、全員勝ち進んだ場合に第14試合で僕とナナシが当たる」

観客は血と暴力に満ちた過激なパフォーマンスを求めている。

リング上で白旗を振るにしても、それなりにどちらかが追い詰められるシーンを見せなければ観客は満足しない。

つまり、ナナシとタタラのどちらかが負ける演技を上手く見せる必要があった。

「それなら俺様が負けてやる。お前は第13試合で白コートを倒して、決勝でタタラと戦えばいい」

「決定だな。俺は殴られた時のエフェクトも派手だし、観客も喜ぶ」

とんとん拍子で進む話にすっかり置いて行かれたタタラは、決勝でギガが負けて自身が優勝する話になっているポイントまでやっと追いついた。

「俺ならいくら殴っても治る。合理的だろ、ベイビードレイク」

「えっ、え、待って……」

タタラが異論を唱えようと手を伸ばしかけたタイミングで、丁度第10試合のコールが鳴り響いた。

ギガは拳でタタラの額を小突き、くるりと背を向けるとロープをくぐってリングへ登った。


しかし、相手コーナーに現れたファイターの姿に、彼の余裕は崩壊した。

「青コーナー、コーラル・ローズ!!!!!!!!!」

淡い赤のドレッドヘアーを1つにまとめ、気の強そうな吊目がなんとも凛々しい。

彼女は16人の中で唯一の女性ファイターである。

両足の太腿から爪先はパワードスーツを着用し、肩から手のひらは油圧式のナックルアームで覆われ、アームは背中を渡るアーチ状の鉄骨に支えられている。

「………ま、まずい」

油断していた、と、ギガは思わず呟いた。

まさか彼女が第4試合を突破してくるとは、彼にとって予想しない事態だったのだ。

ゴングが鳴ると同時にローズはナックルアームをボクシングの型に構え、迷うことなくギガの腹めがけて拳を放った。

彼とローズの身長差は約1m、ギガは下段を狙って繰り出されるローズの拳を持て余している。

だが、彼にとって今最大の問題はローズの攻撃を避けることではなく、全く別の所にあった。

コロッセオのルールは簡単である。

相手が白旗を挙げるか、相手をノックアウトすればこちらの勝利だ。

白旗を挙げさせるにも、ノックアウトするにも共通して必要な行為はたった1つ、相手を殴ること。

しかし、ナックルアームを装備し容赦ないラッシュを掛けて来ようと、彼女はあまりに生身の部分が多すぎた。

おそらく全身の6割以上はサイボーグ化してある他のファイターと比較すると、生身に筋力強化とアームを付けただけの彼女は武装を外せば人間そのもの。

リングに上がってギガと対峙して尚、野心に満ちた笑みを浮かべるローズは、ちょっとやそっとの怪我では降参しそうになかった。

何と言ってもこのトーナメントで優勝すれば彼女はコロッセオのオーナーになり、たった数時間の大会で億万長者になり替わることができるのだから、野心に燃えるのも当然である。

負ける気などさらさらない彼女に勝利するためには、やはり生身の体を痛めつけねばならないだろう。

人体はサイボーグの金属部品のように取り替えは効かないし、スラムの医療では今後長年にかかって傷も残る。


リングの外でギガに声援を送っていたナナシとタタラは、彼の動向の異変に気付いた。

「ギガ、やっぱりダメかな」

「あの野郎、要らねえ情けかけやがって」

「運が悪かったよね、トーナメントの割り当てがランダムだったし……」

「けッ!!」

ナナシは悪魔のように長い犬歯を剥き出した。

「ったく、仕方ねえ」

ローズの拳を避けるためにリングを不恰好に跳び回るギガへ、ナナシが両腕を振って注意を引く。

ギガがそれに気付いたことを確認し、彼を指さし、次に隣に立っているタタラを指さす。

ナナシはタタラの顔面を殴るジェスチャーをすると、タタラはわざとらしく倒れると1段上がったリングの影に消え、ナナシが最後に掌でOKマークを示した。

ギガはローズの打撃を避けながらも、情けない顔で安堵した様子を見せる。


その瞬間からギガは見る間にローズの攻撃に押され始めた。

明らかにローズの拳を受け止める回数が減り、胸や腹にストレートを喰らっている。

攻撃がヒットする度に僅かに顔をしかめてはいるが、ギガは自身よりもはるかに小さいローズに勝機が見えてきたことで盛り上がる観客の熱を推し測っている。

盛り上がりが最高潮になったその時を狙って、彼は上手く負けようとしていた。

「おいおいおいおいアンデッド!!!! 第3試合の勢いはどこに行きやがった!!!! 対するローズはラッシュ!!! ラッシュ!!! ラァァァアアアアア――――ッシュ!!!! ナックルガールの猛攻ゥ―――――――ッ!!!!!」

解説ポイントを知り尽くしたリングアナウンサーがローズと観客を煽る。

彼女は身体を折って咳き込むギガを狙い、リングロープを支える柱の上に飛び乗ってナックルアームを高々と振り上げた。

サービスの効いたパフォーマンスに円形闘技場に歓声が反響し、ローズはそのタイミングに合わせて支柱の上から跳ぶ。

円を描いたナックルアームがギガの背中を直撃し、彼はリングの上に叩き付けられた。

ローズはギガの背中にパワードスーツの脚を乗せ、ガッツポーズで黄色い歓声を上げる。

ギガは咄嗟にリングの床を掌で数回叩いた。

白旗の合図を確認したレフェリーがローズとギガの間に割って入ると、それを見計らったリングアナウンサーがマイクに向かって結果を叫んだ。

「コロッセオに咲くワイルドフラワー!! 可愛い顔して棘がある!!!! 勝者、青コーナー、コーラル・ロ――――――――ズ!!!!!!!!!」

ローズはリングの上でへばるギガの隣に膝を突いて座り、歯並びの良い口でにっこりと笑って小声で言った。

「ありがと。世の中、悪い狼ばかりじゃないみたいね」

自身のくるぶしを誰かに掴まれたのは分かっていたが、ギガはうつ伏せのままリング外に引きずられながらローズに小さく手を振った。


再生に伴う蒸気を体中から吹き出しながら、ギガは長時間日光に晒されて溶けたゴムさながらにリングから引きずり降ろされた。

「狼の名を返上しろ、ギガ・ザ・チワワ」

「はい」

「お座り」

「はい」

「お手」

「何なりと」

ギガは大柄な体をめいっぱい縮めて、肩身の狭い顔でコロッセオの床に正座した。

ナナシは俯いているギガの前にしゃがみ、彼の顔を覗き込んだ。

「情けねえな。これは一応任務なんだぜ、上手く勝たなきゃならねえ。賭博場自体が違法なんだから、コロッセオに参加してる時点でローズだって黒だ」

「分かってる……けど、人を殺す意思もないし、俺に傷付けられるべき悪人じゃない……」

「分かってない。お前がやらなくても、俺様に当たれば俺様がやる。結局は誰かがやる」

そう言って背中を向けたナナシはギガに怒りを覚えているというよりも、どこか本心を押し殺しているようだった。




このまま何事もなくトーナメント戦が続くかと思われた矢先、リングアナウンサーが突然ファイターをリング脇に集めた。

現時点ではエアファウル、ローズ、ナナシとタタラに加えて、ドミネーターとフォーミュラという名のファイターが生き残っている。

この中のドミネーターが18回連続でチャンピオン防衛に成功している現オーナーらしく、もう1人のフォーミュラは彼の部下だ。

このオーナー・ドミネーターからの提案で、急遽ルールの変更を検討するという。

「トーナメントに従って1対1で第11・12試合を行っても構わないが、我々と君たち、仲間同士で2人組になりタッグマッチを行うのは如何かな」

全身を黒光りする西洋鎧のような姿にサイボーグ化したドミネーターは、劇がかった手つきでナナシとタタラに問うた。

ナナシとタタラ、ドミネーターとフォーミュラ、それぞれ1人ずつが上手く勝ち残って、敵同士で第14戦を行えるとも限らない。

敵側はフォーミュラの扱いによって調整が効くようだが、こちらは仲間同士で戦いになれば、お互いに多少なりとも手を抜かざるを得ないことを示唆しているのだろう。

「トーナメント方式はどうすんだよ、おっさん。今更ルール変えたら客から文句出るんじゃねえの。それに、今まで1対1でやってきた奴らにとってアンフェアだ」

胡散臭いドミネーターの口調にナナシが噛み付いたが、ドミネーターは高らかに笑った。

「フェア、アンフェア? 彼らにとってはどうだって良いのだよ、そんなものは」

彼はすり鉢状の客席に犇めく観客を、両腕を広げて仰ぎ見た。

甲冑に覆われた顔にどんな表情が刻まれているのか、表情を刻む肉体すらもうそこには無いのかは分からない。

しかしドミネーターはやはり笑いながら、怪物じみた巨大な鎧を屈めてナナシを覗き込んだ。

「見よ青年、この燃え盛るような熱気を。観客が求めているのはスポーツではない。暴力だ。申し訳程度にスポーツの仮面を被せ、暴力を欲する己の反社会性から逃れようとしているに過ぎない。そして力と血を求める本能こそが、人類の本質。我々は彼らにとって面白い物を見せるだけ」

ドミネーターはカツカツと床を鳴らしてリングに近づき、レフェリーのヘッドセットを甲冑の鋭く尖った指先でつまみ上げる。

「お集まりの皆様!!! 第11、12試合は急遽、タッグマッチにルールを変更致します!!!!」

観客はルール変更に当然戸惑うだろうと思っていたナナシとタタラは、ドミネーターの言葉に喰いつくかのごとく湧き立つ観客の声に逆に驚かされてしまった。

「全てはパフォーマンスとして理解される、んだとよ」

2人の背後から人混みを掻き分けてギガが現れた。

「あいつが言っていた」

2人がギガを振り返ると、彼は定位置で座って次の試合を待っているエアファウルを指し示す。

「本当にルールなんて『どうだって良い』んだね」

暴れ狂う獣さながらに口々に暴言を叫ぶ観客をぐるりと見回し、タタラは僅かに怯えたような口調で呟いた。

「………決まったんなら仕方ねえ、俺様が先に行く」

リングに上がるフォーミュラを追うナナシを、ギガが呼び止めた。

「お前、あの2人に第6、7試合で倒された相手を見たか」

「いいや。何で」

「腕やら脚やら複雑骨折の上に内臓までやられて、かろうじて生きている状態だった。リングの上では殺さねえが、あのまま死んだっておかしくは無い」

「……そこは『ルール通りに』やるって訳か」

ナナシは皮肉を込めて鼻で笑い、ロープを飛び越えてリングに登った。


「赤コーナー!!! ジョン・バット&ベイビードレイク!!!!! 対する青コーナー!!!! コロッセオ現オーナー・ドミネーター&フォーミュラ!!!!!!」

ナナシと対峙するフォーミュラは肘辺りから機関車のように蒸気を噴き出した。

フォーミュラの片肘から下は、腕の中で蒸気を圧縮するタイプの掘削メカに似た機構を持っていた。

おそらく掘削機構を応用することでパンチの威力を加算する仕組みだが、その威力を吸収する肩部分にもサイボーグ化が施されているのだろう。

「……何が『拳だけ』だよ」

ナナシがぼやいた直後にゴングが鳴り、彼は敵の移動に合わせてじりじりとリング状を動き始めた。

翼を使えば、DNAレベルから造られたサイボーグ以外のモノだと観客に知られてしまう。

斬ることとZ軸方向の移動に特化したナナシは、リングと立場に縛られた今は圧倒的に不利だった。

タッグマッチのルールはエリミネーション、つまりチームの一方が戦闘不能になった場合、残りの1人が敵チームをまるごと相手することになる。

タタラに1人目をみすみす引き渡すわけには行かなかった。


フォーミュラは片腕を盾代わりに自身の顔の前で構え、蒸気機関を持つ片腕の兵器は胴体に寄せて後ろに引いている。

付け入る隙のない完璧な構えだ。

フォーミュラの初戦を記録した映像ではこの構えは一切崩れず、片腕の蒸気機関で対戦相手を蹂躙し尽くしていた。

無暗に手を出そうものなら盾で攻撃を止められ、頭を狙われるのがオチだ。

この空間においてナナシがフォーミュラに勝っている点と言えばスピードのみ。

相手の攻撃を避け、身軽さで撒く以外に方法は無い。

勝機を悟ったのか、フォーミュラの巨体が流れるように間合いを詰めて来た。

予想通り、片腕の掘削機構でナナシの胴を狙ってストレートを繰り出してくる。

拳を突き出す間には1秒弱のかなり長い間が開き、次の攻撃を読むのはさほど難しくはない。

ナナシはコーナーに追い込まれないよう敵の攻撃を避け、反撃のチャンスを待つ。

頭を守っているということは頭が弱点だと相手に教えているようなものだ。

ナナシはガタイに対して妙に小さいフォーミュラの頭部に狙いを定めた。

敵の拳を誘う様に身を屈め、フォーミュラが彼を追ってリングの床に拳を叩きつけた瞬間。

ナナシはリングから跳び上がってフォーミュラの頭上を舞った。

リングを照らす照明にフォーミュラの眼を眩ませ、床を狙わせて塞いだ蒸気掘削機構は咄嗟に頭上を殴ることはできない。

このまま敵の背後に着地し、後頭部を狙って一撃を―――――――――


瞬間、視界が揺れ、ノイズの後に白く濁った。




何時間も経過してしまったかのような感覚と共に、遥か遠くでギガが叫ぶ声が聞こえる。

「……し、……ナシ、ナナシ!!!」


レフェリーのカウントはまだ6、7、8……。

ナナシはリングに這いつくばるように身体を起こした。

鼻か、こめかみか、それとも臓器からか、薄汚れた白のリングに人工血液の赤が色を添える。

「奴の本当の得物はそっちじゃねえ、『盾』の方だ!!!!」

リング外から必死に叫ぶギガの言葉に、ナナシは四つん這いで敵を見上げて理解した。

フォーミュラが顔の前に構えていた盾代わりの腕に、べっとりと血が付着している。

派手に蒸気を噴き出し、これでもかと武器らしさを前面に押した方の腕はブラフ。

ナナシは空中に躍り出た瞬間、盾によるアッパーカットを腹に喰らっていたのだ。

不安定に揺れる景色には、巨木の如くリングを踏みしめるサイボーグ化されたフォーミュラの脚がある。


……脚……この脚。


ナナシは気付いた。

「………何だ、簡単な事だったのか」

ナナシは自身にしか聞こえないような微かな声で呟き、咳き込みながら立ち上がった。

カウントがギリギリの所で復活したナナシに、会場から声援が上がる。

ナナシは両腕を仰ぐように振り、観客のさらなる声援を要求する。

「俺様を一撃で仕留めなかったのが、てめえの敗因になるぜ」

その挑発的な台詞に、フォーミュラがにやりと笑って彼の懐に飛び込んだ。

真の武器を隠すために使っていたものと言えど、前試合で相手を蹴散らした蒸気掘削機によるストレートも強力だ。

ナナシは蒸気を噴き出す腕の攻撃を避けつつ、次のチャンスを待っていた。

相手のストレートを避け、時には軋む金属骨格で受け止める。

早く、早く本命を出せ。

ついに腕の皮膚が裂け、ナナシは防御が崩れた「ふり」をした。


血飛沫が飛び散るその刹那。


フォーミュラのサイボーグ化された踵のスパイクが、リングと彼の身体をがっちりと固定した。

身体を固定することで巨体が持てる力を逃がすことなく、ナナシに向かって盾が牙を剥く。


今だ。


盾側の腕によるアッパーカットを避け――――

掠める盾の威力に肩の関節が外れかけるが、気にかける暇はない

――――ナナシはリングを蹴り、攻撃モーションで隙だらけのフォーミュラがスパイクを外すその0.5秒、敵の顎にアッパーカットを喰らわせた。

フォーミュラはリングの端から端へ吹っ飛ぶ。

レフェリーが仰向けに倒れたフォーミュラに駆け寄ってリングの床を叩いてカウント、10カウントと共にゴングが鳴った。


見事な逆転劇に湧く会場を背に、ナナシはよろよろとタタラが待つ赤コーナーへと戻る。

コーナーポストに辿り着くとすぐ、彼は膝を折って床に頽れた。

「ナナシ!!」

「悪い、もうダメ。後は任せるぜ」

ナナシがリングロープ越しにタタラの肩を叩く。

ギガに背を押され、タタラがリングへと飛び込んだ。ギガはリングからどうにかナナシを降ろし、アッパーが直撃した肋骨辺りの金属骨格が折れていないかを確かめる。

殴られて吹っ飛んだ際に血を吐いていたが、臓器への影響か口腔を切ったか。

「ナナシ、大丈夫か、しっかりしろ。血が」

「大丈夫だよ、これは口だ…………それより助けて、肩、肩外れた」

ナナシはリングに登るタタラの背中を仰ぎ見、リング上で彼と並ぶ漆黒の西洋鎧を睨んだ。




唇を噛んでリングに上がったタタラに対して、ドミネーターはリングロープを優雅にくぐって現れた。

頭からつま先までがマット加工の黒い鎧に覆われ、眼元に開いた横長の隙間からは白く光る1つ目がこちらを伺っている。

人体の筋肉の流れに沿って鋼鉄の板を添えたようなサイボーグ部分のデザインは、どこか禍々しさすら感じさせる。

鎧の奥で反響する独特のくぐもった声と共に、ドミネーターは空気を愉しむかのように両腕を広げた。

「…………良い。非常に良い戦いだ。この空間には決して裏切らないセオリーがある。この空間にはすべてを裏切る逆転劇がある。コロッセオこそ世界の縮図だ」

関節部分の装甲がぶつかり合い、人間離れした金属音がマイクに拾われて会場に響く。


ドミネーターは片手を前へ、もう片手の掌を天井に向けて自身の頭の上に構え、そして腰を低く落とした。

彼と対峙するタタラには、人のサイズを大幅に凌駕した西洋鎧には不釣り合いとも、いっそ不気味とも取れるその体勢に見覚えがあった。

オリンポスが位置する大陸とは別の巨大な大陸、旧東アジアに位置する某国に色濃く根付いた格闘技、少林拳。

「………初めて、見た」

映画や資料でしか観たことのない、今では古代の格闘技と化したフォームを生で目にし、タタラは思わず生唾を飲んだ。

ドミネーターは前に突き出した掌を返し、くい、と指先でタタラを煽った。


「敗者を踏み拉き上り詰めた高みから見るコロッセオは絶景だった。だが、君が私を屈服させるも真実。そして、私が君を再起不能まで叩きのめし、19回目の防衛を成し遂げるも真実―――――――――――来い、青年」


相手がサイボーグ化されている時点で、身体強化のチート技は暗黙に了解されているようなものだ。

タタラはコートで隠れた自身の腕をシールドでぴったりと覆い、後方支援という役割では滅多に使わない接近戦専用のスタイルを取った。

まずは敵にある程度の攻撃を仕掛け、うまく時間を稼いで冷静に能力を観察しなければならない。

タタラは拳を顔の前に構え、ドミネーターとの間合いを詰めた。

謎多き少林拳を相手に王道の軍用格闘技が通用するのか、こんな組み合わせの異種格闘技戦は見たこともない。

ダウンだけは避けるために頭を頑なに守り、彼はドミネーターの胸めがけてジャブを数発繰り出した。

案の定、タタラの拳はドミネーターの防御によって威力をいなされ、独特の蛇のような腕の動きで絡め取られてしまう。

タタラは突き出した腕をすんでの所で引きつけた。

おそらく威力をいなすだけではなく、隙をついて相手の腕を捕えて関節を外すタイプの攻撃だろう。

正攻法は仕掛けるだけ無駄か、と一旦距離を取ったタタラに、今度はドミネーターがぐっと詰め寄った。

「随分と冷静だな、青年」

開いていた掌はハンマーのように握られ、前試合のフォーミュラとは比べ物にならないスピードで拳が飛んでくる。

飛翔するインフレイムを追うために特化した動体視力が、まさかこんな所で役に立つなんて。

防御は平手で掴み、攻撃は拳。

漆黒の鎧が弾丸の如く飛び交う中、シールドで防御しつつタタラは淡々と分析する。

ドミネーターの拳から飛び散る火花に目が眩む。

慌てたら最後、その精神の隙間に付け込まれておしまいだ。

落ち着け、平静を保て。

2人の拳が飛び交うスピードについてリングアナウンサーが何か解説していたが、タタラの耳にはもはや届いてはいない。

それは興味深い研究結果や史実を夢中でAIに取り込むときに出る、彼の癖とよく似ている状態だった。

タタラは未知数であるドミネーターの強さを分析する作業の虜になっていた。

敵の底知れない単眼には何が映り、その耳では何を聴いているのだろうか。

解説か歓声か、拳の衝撃音か、自身のサイボーグ部分の駆動音か、それとも僕と同じように、全ての情報がシャットアウトされてしまっているのか。

タタラにはドミネーターが無邪気さすら感じさせるほど楽しげに見えた。

ドミネーターが繰り出した拳は正拳突きの途中で槍のように開き、鎧の鋭く尖った指先がタタラの頬を掠めて行く。

敵との戦いに時間をかけるということは、互いに手の内を晒していくことに等しい。

逆の例を挙げるならば、狙撃手は敵との接触を避けて手の内を見せずに相手を始末する手段のひとつと言える。

殺し屋は敵と遭遇しないで済む手段か、あるいは背後から近づいて首を掻き斬る等――――つまり接触を一瞬に抑える技術を持っている。

両者がどれほど優秀な兵士であろうと、時間の経過は致命的な弱点となりうる。

その理論はこのコロッセオが正に適用される環境だった。

面と向かって殴り合うルールでは、狙撃銃を相手の前に並べてその射程距離から弾丸の種類、製造会社や型番まで逐一丁寧に説明し、同様に相手の得物についても解説される時間がたっぷり与えられる。

ドミネーターの理解力は計り知れないが、タタラも相手の独特の格闘術の弱点について手がかりを掴みかけていた。

だが敵はリトル・デーヴィッドを隠し持っていて、こちらが降伏しない限りはいつか必ず秘密兵器を行使する、という確信もある。

そして、自身は奥の手を持たないことも分かりきっていた。


ドミネーターはまるで鎧の中に幽霊を飼っているかのようで、体力という概念から外れた攻撃が続く。

対するタタラはシールドで攻撃の威力を広範囲に分散させているとはいえ、攻撃の負荷はすべて彼自身に加わる。

サイボーグの1発程度では大した威力は無いが、積み重なったエネルギーはタタラに疲労を蓄積し始めていた。


潮時だ。


彼は防御を貫いて試合中に集めた情報を頼りに、ドミネーターが繰り出した上段回し蹴りをしゃがんで避けた。

外れた攻撃は体勢を立て直すと同時に、必ず新たな攻撃として返って来る。

後ろ回し蹴りからの飛び蹴り、着地後には2発の突きを受け止める。

必ずそのタイミングで敵は一旦下がる。

タタラはそこを狙って飛び、胸目掛けて蹴りを入れた。

蛇のような腕が両足を絡め取るがそれは計画の範疇、脚でドミネーターの両腕を塞いで上半身を敵に引き寄せ、甲冑の頭頂部にシールドを叩きつけた。

ドラム缶がひしゃげるような音と共に、ドミネーターがタタラの脚を離してよろめいた。

彼は甲冑へスライディングし足払いを仕掛ける。

敵は背中からリングに落ちる直前でバック宙、リングに着地した。

タタラはさらに追い打ちをかけるべく、体勢を立て直すために隙だらけのドミネーターへと殴り掛かった、しかし。


一瞬の前傾姿勢の後、ドミネーターが視界から「消えた」。


フェイントか、視界の左端を影が過った気もする、タタラは攻撃モーションを咄嗟にリセットして振り返る。

「効いたぞ?」

歌うような台詞と迫る黒い鉄塊、顔面を貫く衝撃。

タタラは後方に吹っ飛んでリングの上を転がった。

直前でシールドを展開していなければ頭が吹き飛ぶレベルの正拳突きだ。

まさか殺す気で掛かってきているのか、それともシールドの能力範囲をすでに分析済みで殴ったか。

ドミネーターは踵を高らかに鳴らし、ガントレットの指先でタタラを煽った。

黒い甲冑の踵はやや分厚い構造になっているようで、タタラはそれが敵の奥の手であると悟った。

鎧がリングを踏みしめた瞬間にくぐもった爆発音が響き、同時にまるでその踵の機能を主張するかのごとく突進を仕掛けて来る。

おそらく脚部に小型エンジンでも積んでいて、そのエネルギーを踵で推進力に変換しているのだろう。

ドミネーターの突進をシールドで受け止め、ラッシュの合間の隙を狙う。

確かに他のサイボーグよりは断然速い。

だが、数km先の動き回るターゲットを裸眼で打ち抜く狙撃手の動体視力を上回るほどではないはずだ。

ドミネーターの顎を狙って繰り出したアッパーは避けられ、その頭を追って肘で狙うも黒い甲冑は「消えた」。

今度は視界の右側に残像を感じ、慌てて振り返って両腕でドミネーターの蹴りを止める。


なぜだ、なぜ捕捉できない。


ドミネーターの攻撃を受け続けた腕や脚はウェイトを纏ったように重く、シールド展開に使うエネルギーの限界が近いことを示していた。

コートの袖口から、明るい黄緑色のシールド片が時折零れ落ちている。


突然ドミネーターがその場から飛び退き、タタラとリングの対角線上に立った。

コーナーポスト付近で不満げに腕を組み、尖った鎧の爪で頬を撫でる。

「―――――――疑っている」

「……は」

「君は自分を疑っている」

タタラにはドミネーターの意図する内容がさっぱり理解できなかったが、乱れた呼吸を整えるチャンスとばかりに言葉を繋ぐ。

「何を言って、」

「何を、だと? では、君は無意識で自分を疑っているとでも言うのか。私には信じ難い思考回路だ!」

ドミネーターは鎧の頭をコツコツと叩き、リングの角を歩き回る。

「コロッセオに来るファイターは皆、私のようなナルシシストの負けず嫌いの野心家の拳闘バカだと思っていたのに!」

タタラはフードの奥で首を傾げた。

「一体全体そんな闘い方をして楽しいのか!」

その動作がすっかり癖になっているのか、漆黒の鎧は両手を大げさに広げる。

「私は手の内もすっかり明かした。少林拳に対する君の観察眼に、小手先だけの技は通用しないと踏んだからだ。準備はすっかり出来ているというのに、なぜ君は楽しもうとしない」

ドミネーターは踵のアクセル―――「手の内」をリングに打ちつけて鳴らした。


「己を信じることを恐れているのか?」


無意識のうちに握りしめた拳の内側で、シールド片が粉々に砕けた。

「………わからない。罪のようには、感じていたけれど」

タタラは残りのエネルギー全てを片腕のシールドに集め、向かいのコーナーに立つ黒い鎧の単眼を見据える。

彼はドミネーターの意図をようやく理解した。


「でも、ここはコロッセオなんですよね」


タタラの雰囲気が一変したことを察し、ドミネーターは直立状態から少林拳の構えに移った。

「そうだ。ここでは誰も暴力や傲慢を責めはしない。『真っ直ぐ』かかって来るが良い、青年」


タタラとドミネーターは同時にロケットスタートして拳を振り被った。

本当は最初からドミネーターの挙動を見ることができていた。

もっと早く決着をつけることはできたのだ。

敵の狙いを疑い、自身の能力を疑い、疑いから生まれる思考にAIが凝り固まっていたに過ぎない。

鎧騎士のフェイントモーションを予期した方向―――つまり「残像」を追っていたその刹那が、敵が姿を消すための隙となっていた。


ドミネーターはアクセルで加速し、ガントレットを槍のように構えて真正面から飛び込んでくる。

ドミネーターの爪が肩を切り裂き、後方へと血飛沫が飛び散る。

今なら見える、逃がしはしない。


「―――――――――捕捉」


タタラはシールドで覆った拳をすれ違いざまに鎧の腹へと叩き込んだ。

真っ直ぐに伸ばした腕は鎧の装甲をぶち抜いて貫通し、紫電が走る。

背中からばらばらと内蔵パーツが落ちていく様に我に返り、タタラは自身の拳から離れて仰向けに倒れるドミネーターの隣へ膝をついた。

サイボーグと言っても残る生体部分の割合は人それぞれであり、下手な攻撃を当てれば死ぬ場合もある。

しかし。

「心配は要らない。私に残っているのは脳だけだ……それはともかく、派手にやってくれたな! 修理が大変だ!」

ドミネーターは泣きそうなタタラをよそにノイズの混ざるくぐもった合成音声で高く笑い、リングを軽く叩いて白旗の意を示した。

次第に戻ってくる会場の歓声の中、リングアナウンサーがタタラのリングネームを叫んでいる。


「この黒鋼の身体にも熱が伝わるような拳だった。またいつか会おう、青年」


仰向けで大の字になったドミネーターは拳を突き出した。

「………はい」

タタラはその黒い鎧に軽く自身の拳を打ち合わせ、そして微かに頷く。




まだ決勝戦ではないにも関わらず異様な盛り上がりを見せたタッグマッチは、どうにかエニグラドール一行の勝利に終わった。

ひとしきり歓声を浴びたタタラとナナシがリングから降り、入れ替わった第12試合のローズVSエアファウル戦のゴングが鳴った。


「エルさんの―――というか、知り合いの団長さんからの情報じゃ、あと40分後に孤児の輸送が始まるらしい」

「お前が戦ってる間の調査で、この競技場のもっと地下から外界に通じる抜け道があることが分かった。

人身売買の証拠は掴んでる、あとは阻止するだけって訳だ」

3人はリング脇のファイター用待機席で作戦の調整をしていた。

「輸送妨害と同時に、この競技場の全警備メカがそのルートに集まると思う。僕がオーナーの権限を手に入れるまで、2人はなんとか持ちこたえて」

ギガとナナシが頷いた所を確認し、タタラはリングに眼を遣って付け加える。

「僕がもしエアファウルに負けたら……」

「その時はその時だ。人間相手じゃなけりゃこのワン公は役に立つぜ」

「わう」

ナナシが隣に座るギガを小突くと、ギガがばつの悪そうな顔で一声鳴く。




作戦の確認を終えたナナシとギガは獣の如く咆える観客の合間を縫って進み、とある扉からフラスコ型の競技場を出た。

どうやらこのフラスコ型競技場は地中に無数のトンネルが通り、そこから地上の各所へと出る仕組みになっているらしい。

競技場を中心にトンネルが蜘蛛の巣を描いているイメージだろうか、トンネルには横穴が開いて他の主要通路と繋がっている。

旧世界では貯水槽の役割を果たしていた施設であるから、このトンネルは人間ではなく雨水が通っていたのだろう。

2人が足早に進む通路の天井には、一定間隔で監視カメラが取り付けられている。

まだ警備が2人に気付いていないはずはなかったが、一向に警備メカが追ってくる様子はない。

会場の観客への配慮で警鐘を鳴らさないシステムだろうか。

先程の調査で携帯端末に記憶した簡易地図にナビを任せ、2人は三次元空間に縦横無尽に広がる通路を選んでは地下へと降りていく。


端末がフラスコの真下を示す頃には、鉄筋を挟んで1段上で反響する歓声が地下道にも振動となって届いていた。

競技場の真下は幾本もの柱で支えられた空間が広がっており、その空間には人間が歩いて通るトンネルよりも幅や高さのある車両用のトンネルが通じている。

この空間の照明は無人の間は消灯してあるらしく、非常灯の青色LEDだけがアクアリウム染みた雰囲気を醸し出していた。

空間の床面積を半分ほど埋め尽くして並ぶ平ボディの中型トラックには、誂えたかのようにぴったりの大きさのコンテナが2つずつ積まれている。

ナナシが何の気なしにコンテナに取りつけられている掌ほどの窓を覘くと、薄暗い内側からカッと見開かれた瞳と目が合った。

ナナシは思わず数歩後ずさり、敵が現れる可能性の高い通路を調べていたギガを呼んだ。

「どうした」

「このコンテナ、もう人が入ってる。てっきり、これから連れて来ると」

身体を屈めて窓を覗き込んだギガも息を飲んだ。

そのとき、薄暗い青に照らされていた空間が強い光に照らされた。

空間全体は蛍光灯の明かりに白く浮かび上がり、2人は腕で天井からの光を遮って敵の位置を確認する。

コロッセオに入る時にIDチェックを担当していた人型メカよりもひとまわり大きく、4脚で身体を支えるタイプの警備メカがわらわらと集まってきた。

背中合わせの状態で警備メカに取り囲まれた2人はちらりと視線を交わす。

「ナナシ、腕は」

「微妙に神経がイッてる。正直戦いたくねえ」

肩の関節を直したもののフォーミュラとの試合で受けたダメージは思いのほか重く、神経の情報伝達に支障が起きているのか、ナナシの指先は奇妙に力を込めて握りしめられたまま微かに震えている。

ギガは自身の不甲斐ない試合結果に憤りすら抱いていたが、ナナシは支障の無い方の肘でそんな彼をつついた。

「顔怖いぜ」

「……それは元からだ」

ナナシは牙を剥き出してヘラっと笑い、端末で時間を確認した。

「あと15分か。じゃあ、俺様はトラックの自動運転機構を壊す。警備メカは全部任せるわ」

「合点承知」

ギガはシャツの袖を捲って首を鳴らすと、ガンブレードを構える警備メカに飛び掛かった。




第12試合が終了したのは数分前、そして血まみれのローズを乗せた担架がタタラの横を慌ただしく通り過ぎたのがほんの数秒前。


リングの上には純白のコートのポケットに両手を突っ込み、試合開始と同じ格好でエアファウルが構えている。

一瞬だった。

一瞬でカタが付いたのだ。

観客のうち一体何割があの刹那を知覚し、状況を理解できたのだろう。


数分前、両者がお互いの様子を伺ったまま硬直状態が続き、観客やレフェリーを含めた会場がじれったい展開に苛つきを見せ始めた時のことだ。

エアファウルは徐にリングを蹴ってローズに詰め寄った。

ローズはエアファウルの胴体を狙ってナックルアームを叩きつけようとしたが、青い掌は羽根でも扱うかのごとくアームを受け止めた。

アームの肘部分を鷲掴みにし、ローズの身長には不釣り合いな得物を支える油圧機構のシリンダを握り潰す。

ローズはやや狼狽えたが、咄嗟に持ち直して逆の腕で目の前のエアファウルを殴りつけた。

しかしそのナックルアームも易々と捉えると、エアファウルはローズを片手で宙づりに持ち上げて呟いた。


「手加減、苦手なんだよ」


リングに最も近い位置に座っていずれ戦うであろう2人の出方を観察していたタタラには、彼の呟く内容を聞き取ることができた。

そして、エアファウルの拳がローズの腹へ叩き込まれるシーンも、彼女の口の端から流れ出した血液が空中に置き去りになるシーンも、スローモーションではっきりと見えた。


「…………し、勝者、青コーナー!!!! アースト・エアファウル!!!!! なんて残虐なファイトスタイルだ!!!!! まさに戦い、これが真実、これぞコロッセオだ!!!!!!!!」


リングアナウンサーが我に返ったかのように結果を告げると、ワンテンポ遅れながらも観客が割れんばかりの歓声を上げた。

タタラはコロッセオ自体が歓声で小刻みに揺れていることを、足の裏から伝わる振動で察した。

観客が求めている物は流血であり、暴力そのもの。

ドミネーターの台詞が今になって蘇ってくる。

リングの上に倒れて血を吐くローズを覗き込み、まだ生きていることを確認したエアファウルは、勝利を示すために腕を取ろうとしたレフェリーの手を払い除けた。


涼しい表情でリングロープに寄り掛かったエアファウルは、リング脇で椅子に座って決勝を待つタタラを見下ろす。

彼はロープの上で妙に長い腕を組み、その上に顎を乗せてタタラに声をかけてきた。

「あのさぁ、ベイビードレイクさん」

「………」

「シカトすんなよ。それとも、こう呼んだ方が良いか? 『タタラ・ザ・リザード』」

本名を呼ばれ、タタラは微かに俯いていた顔を上げた。

フードの隙間からはエアファウルの肩から下あたりが見えているが、彼には敵の顔を見据える自信がなかった。

リングから降ろされたローズは担架に乗せられ、数人の医療スタッフに慌ただしく運ばれていく。

リングに広がった彼女の血液が拭い去られていく様子を背景に、エアファウルは淡々と囁いた。

「俺が勝ったら、困るらしいな」

「………」

「まあ、俺の目的はコロッセオの所有権じゃない。第一そんな物が手に入っても俺には邪魔なだけだ」

「………だったら」

「本当は狼に用があって来たんだけど、早々に負けやがったからさ。もうやることもないし、優勝するわけにも行かないし」

エアファウルは気障な仕草で白いコートに飛び散った血を払い、リングロープを乗り越えて客席側へと降りた。


「………お前は、誰だ」

「『今は』、ただの喧嘩好き」


エアファウルは歌うような口調で嘯き、そしてリングアナウンサーが待機する席まで近づく。

マイクスタンドやスケジュール管理用の型落ちディスプレイが所狭しに並ぶテーブルに自身のカードキーを置き、訝しげに彼を見上げるリングアナウンサーの手ごとマイクを引き寄せ、会場全体に通る声ではっきりと言い切った。


「――――――アースト・エアファウル、決勝戦は辞退する」


全ての観客が一気に死に絶えたかのようにコロッセオが静まり返ったかと思うと、観客はゾンビさながらに生き返り、会場はどの試合のどの名シーンの歓声よりも大きいブーイングの波で満たされた。

エアファウルは背を揺らして堪えていたが、リングに飛び乗って不満げな観客の顔をぐるりと見回すとついに笑い出した。

レフェリーやリングアナウンサーが慌てて制するのもかまわず、リング上には空き缶やファストフードの紙屑が次々に放り込まれる。

エアファウルは観客のブーイングを心行くまで味わった後、足元に転がって来た酒の瓶をリフティングの要領で蹴り上げてキャッチし、元の持ち主の顔面に投げて返した。

思わぬ反撃に観客が攻撃の手を止めたその時、エアファウルはリングの上で身を屈め、そして真上へ跳んだ。

観客がどよめきながら白いコートの残像を追うが、フラスコ型のコロッセオの高い天井付近には照明の光が届いておらず、エアファウルはその暗闇に溶けて消えた。

後に残ったのは恐ろしい脚力によって中央が抉れたリングと、ややあって空中から羽根のように舞い落ちてきたコートだけだった。


「…………そ、そうだ」

エアファウルが何者かなどを呑気に考えている暇はない。

タタラは唖然と天井の暗闇を見上げるリングアナウンサーに駆け寄り、彼の肩を揺すった。

「あの、あの! 僕、不戦勝ですよね、これで優勝なんですよね!」

「えっ、ああ、その通りだ!」

リングアナウンサーは思い出したかのようにタタラのリングネームを呼ぼうとしたが、タタラは彼の言葉を遮った。

「権利は! コロッセオの所有権の証明は!」

「それなら、エアファウルが辞退した時点で、あんたのカードキーにドミネーターから権利が譲渡されているはずだ。正式な譲渡契約は後で………おい、ちょっと待てって!!」

自身をリング上に引っ張り上げようと寄ってきたレフェリーを振り払い、タタラはひしめき合う観客の合間を縫って飛び込んだ。




「ギガ、死んだかぁ」

警備メカの残骸が山となった駐車スペースで仰向けに倒れていたナナシが、やけくそになってギガを呼んだ。

「残念ながら、まだ生きてるよ」

瓦礫の山ががらがらと崩れ、埃に咳き込みながら下敷きになっていたギガが起き上がる。

使い慣れた大鋸は無論コロッセオ内に持ち込み禁止だったため、今はガンブレードが取り付けられた警備メカの腕を肩に担いでいる。

彼は脇腹に刺さった鉄片を無造作に引き抜いて放り、無尽蔵に現れる警備メカに辟易した表情を浮かべた。

数こそ数えてはいないが、少なくともこの地下空間の空いた床面積が埋め尽くされるくらいの警備メカを倒したはずだが、一向に敵の攻撃は止む気配を見せない。

加えて、輸送されるはずだった孤児たちが押し込められているコンテナが100近く並んでいる。

敵は排除対象以外の人間を避けて戦うようプログラムされているものの、ナナシとギガはそう簡単な話では済まない。

敵を叩きつける床まで気を配らなければならない状況で戦うのは、厳しすぎる制限だった。

額から一筋の血を滴らせ、ナナシが残骸の上にどうにか立ち上がる。

2人の逃げ道を塞ぎ行動範囲を狭めようと、ガンブレードの切っ先を向けた警備メカたちがにじり寄る。

このままではキリがない、犠牲を覚悟で全力の攻めに出るか。

ギガが担いだ鉄塊を握る手に力を込めた瞬間。


「待って!! 待って待って待って!!!」


2人の右手方向、つまり彼らがこの駐車空間に辿り着くために通ったトンネルの方から、聞きなれたやや情けない声が叫んだ。

新たな敵かと認識したのか、警備ロボは声の主を一斉に振り返る。

しかし、そこに立っていたのはまぎれもなく警備ロボたちの現オーナーの姿だった。

タタラはカードキーを覆うように表示されたモザイク状のホログラムを示した。

「今は僕がコロッセオのオーナーだ。彼らは敵じゃない。それから、輸送計画も中止する」

警備メカはガンブレードを格納し、タタラの通り道を空けて粛々と下がった。


「早かったな。もっと楽しんできても良かったんだぜ」

瓦礫を跨ぎながら大口を叩くナナシに、隣のギガが呆れた顔で鼻を鳴らす。

「それが、エアファウルが決勝戦を辞退したんだ」

「辞退だと」

ギガは眉間に皺を寄せて首を傾げた。

「うん、僕も変だと思ったんだけど……あ、あとね、本当はギガに用があるって言ってた」

「俺に?」

そう伝えたもののタタラ自身もその意味を理解している訳ではなく、彼は戸惑い気味に頷いた。

そこへナナシが口を挟む。

「細かい話は後だ。一旦地上に出てフォックスに報告しようぜ。子供たちを保護しないと」

一向は元来た道を戻るべくトンネルへと駆け出した。








白熱灯にぼんやりと照らし出された仕立屋「La Nuit」の店内には、カウンター席に座るフォックスとエルネストの姿があった。

音量を最小に落としたラジオからはモダンジャズが流れている。


フォックスはコーヒーカップをソーサーの上に置き、呟くように言葉を紡ぐ。

「情報屋からは足を洗ったんじゃなかったのか」

エルネストは艶のある髪を耳に掛けながら、俯いたままで微笑んだ。

「性よね、もう。今更辞めようとしたって、『チーズイーター』の悪癖が身体に染みついているのよ」

アンティーク時計の秒針がカチカチと時を刻む様子を眺めつつ、フォックスは低く問うた。

「仕立屋として生きていく選択肢は」

「この仕事に不満は無いし、楽しいわ。でも、性質は人工血液のように入れ替えることは出来ない」

「…………いつか必ず身に危険が及ぶぞ」

「覚悟はできているわよ」

光の差し込むことのない漆黒の瞳がエルネストを見つめるが、彼は飄々とした口ぶりと共にやはり笑っていた。


途切れがちな会話の合間、フォックスが徐にポケットに手を遣った。

取り出した携帯端末の画面を確認し、彼はすっと立ち上がった。

「どうやら、片付いたらしい」

「そう………あの子たちによろしくね」

「ああ」

エルネストの掌が揺れているのを後ろに、フォックスは仕立屋の扉を押し開けた。




CHAPTER/7 I CAN TALK ONLY WITH MY FIST

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