【修正中】CHAPTER/4

街が燃えている。


火の粉や灰を舞い上げて、スラムの廃墟群の間を縫って炎が渦を巻く。

鼻を突く化学燃料の刺激臭が辺りに充満し、煙で周囲は白く靄が掛かっている。

乱層雲が覆う曇天の下、時折コンクリート壁ががらがらと崩れる音が雨を遮って響く。

第三次世界大戦後期、世界の至る所で似たような風景が繰り返された。

紫色の炎はひたすら燃え盛り、全ての物を、全ての人を、淡々と灰燼に帰す。

その光景を一言で表現するならば、正に、「世界の終末」。

人類史上最悪の大戦を経験しても尚、人間は何ひとつ進歩してなどいない。

もしくは進歩など期待する方が間違いかもしれない。

過ちは塩基配列のレベルでヒトに刻み込まれている。

遺伝子は罪を繰り返す。

何度も、何度も。






話は2日前の昼に遡る。

その日は、数日続いている嵐のせいで、真昼だというのに外はひどく暗かった。

暴風がエニグラドール本部の窓をがたがたと揺らし、打ち棄てられた新聞や空き缶が弄ばれて吹き飛んで行く様が窓枠を過る。

砂埃で汚れた談話室の窓を、大粒の雨が叩き付けられて見る間に洗い流して行く。

時折鳴り響く雷鳴は近く、曇天を切り裂いて輝く閃光が談話室に集まるメンバーを鋭く照らした。

白熱電球のやや黄色みを帯びた光が、雷を受けた大地に合わせて揺れている。

エニグラドールはテーブルを囲んで談話室のソファーに集まり、僅かな緊張と共にフォックスの目の前に置かれた中型モニターに注目している。

モニターには純白の壁を背景に、机に頬杖を付いた男が映し出されている。

男は濃い灰色の髪を一糸乱れぬオールバックにまとめ、軍服―――それは旧世界のナチス・ドイツを彷彿とさせる、やや物騒なデザインだが―――を身につけていた。

男の目線の先にもモニターが用意されているらしく、エニグラドールの様子を測るように間を置き、そして口を開いた。

豪雨による騒音の中でも良く通る、上品な声が談話室に響く。

『毎度毎度モニター越しで申し訳ない。こうして皆さんと顔を合わせるのは久し振りですね、エニグラドール』

男の名はオーウェン・メリック。

ありとあらゆる権利を掌握し箱庭の頂点に君臨する、ゼウスの現総局長である。

オリンポスの城壁の中で有害な日光から守られて暮らしているためか、陶器のように色白の恐ろしく整った顔で、オーウェンは画面越しにメンバーを見回した。

万が一彼の機嫌を損ねでもしたら、掌を軽く振るだけでエニグラドールの傭兵としての首を飛ばすことなど容易い。

メンバーは最高権力者を前に緊張し、どこか居心地が悪そうに畏まっている。

『もう長く会っていないのだから、無理もありません。しかし、肩の力を抜いて』

皆さんの活躍は聞いています、とオーウェンは続ける。

『最近ではインフレイム討伐に加え、ロス・ウェルタスの部下を制圧したと』

「我々の力だけでは成し得なかった功績です、総局長。これはゼウスの傭兵制度と資金援助によるもの……」

オーウェンは決まり文句のような言葉と共に頭を下げかけたフォックスを制した。

『この世界に住む者としてお互い様。協力せねば生き延びることはできません』

無表情ではやや人間離れした雰囲気を感じさせるが、彼は思いがけなく人が良さそうに微笑む。


オーウェンは掌を合わせて口元に寄せ、真剣な面持ちに切り替えた。

『さて。今回は非常に重要な任務を依頼するべくこの場を設けた訳ですが』

「あなたが直々に依頼するということは、上層部以外への情報漏洩を阻止する必要でも」

ギガが低い声で問うと、オーウェンは頷いて声を潜めて答えた。

『その通り。2日程前に、オリンポス北のスラム街の外れにある1区画を、我々ゼウスが閉鎖しましたね』

「ああ、区画整備するってアレか。ゼウス直下の傭兵と周辺住民とで一悶着起きたとか」

ナナシの歯に衣着せぬ返答に嫌な顔もせず、オーウェンはまた頷いた。

『我々が区画整備と銘打って、少々強引に閉鎖した訳ですが……無論、閉鎖の目的は整備などではありません』

メンバーはさほど驚いた様子を見せなかったが、それもそのはず。

放射能汚染の強い工場地帯と隣接し、超貧困層がひしめき合うスラム街の外れなど整備しても、新たにその区域に移住しようと考えるのは、ごくわずかな物好きだけだ。

もとよりスラムの住民から税を集めて成り立つ国家ゆえ、居住区を明確な意味も告げずに閉鎖し、税を使って無意味な整備を行うとなれば、その場所の住人と争いになっても致し方ない。

その上、区画整備を目的に閉鎖するにしてはあまりに早すぎる、たった1日という早さで全区域をぐるりと囲んだのだ。

まるで何かに怯え、元凶を閉じ込めるように。


オーウェンは額に手を遣り、深刻な表情で眉を寄せた。

『実は現在あの区画では、エンデミックが発生しているのです』

「エンデミック?」

聞きなれない単語にぽかんとしているジャックを、タタラが横から補足する。

「狭い地域に限定して感染病が流行することだよ。原因は解明したんですか」

『感染者を調査したところ、「K-1000」というウイルスであると結果が出ました』

「それは……旧米陸軍で開発されていた生物兵器では。なぜそんなものが、今頃になって」

フォックスが問いかけるが、オーウェンは絶望的な表情で頭を振った。

『流行の発端は未だ不明です。おそらく近接する廃工場地帯に保管されていた物が、施設の老朽化によって流出し、野生動物などを伝って伝染したのでは、と』

旧世界の終末と共に忘れ去られた施設は無数にあるが、管理を怠ればそれらが風化するのは当然だ。

過去の無責任な行為は、いつか必ず未来に多大な影響を及ぼす。

『資料によると空気感染のおそれはないが、感染者の体液が健常者の粘膜や傷に触れた場合、高い感染力を持つという性質があります』

そこで一旦言葉を切り、オーウェンが隣に立っていた秘書らしき女に耳打ちすると、モニターが切り替わって映像が流れ始めた。

『ゼウスの調査団が録画した物です』

モニターはゼウスと本部との距離で若干のノイズを走らせた後、電力供給が止まった暗い廊下を映し出した。


兵士のライトが唯一の光源であり、光の形に切り取られた壁は普遍的なコンクリート製の廃工場のそれである。

小声で合図を掛け合いながら、兵士は廊下にあるドアをひとつひとつ開けていく。

淡々とドアを蹴り破っては銃を構え、安全を確認した後に部屋の内部を調査しているのだが。

とあるドアを開いたその時、兵士たちは異変に気づきドアの外で銃を構えた。

真っ暗な闇の中から、野良犬がゴミ袋を漁るような物音。

兵士がライトで部屋の内部を照らしていくと、部屋の隅で光の円が人影を捉えた。

ボロボロの布を何重にも着込んだ、貧困層特有の後ろ姿が俯き気味に立っている。

『この区域は閉鎖されました、立ち退きを要求します』

兵士の1人が呼びかけると、人影はすっと振り返った。

ライトの所為か少々青白いものの、その男はしっかりとした足取りで兵士に近づく。

警戒を解いた兵士は銃を下そうとして同時に男の手元を照らし、手が赤黒い液体で汚れていることに気付き叫ぼうとした瞬間――――男が突然口を開いた。

白い光に照らされた男の口の中は酷くグロテスクに腐り、どろりとした赤黒い粘膜が溶けかかって纏わりついている。

男は顎が外れたのかと思うほど縦長に口を開けて兵士に咬み付き、その肩を野戦服ごと深々と抉った。

哀れな兵士のつんざくような悲鳴と、無力にも中空を貫いた銃声がぷつりと途絶え、モニターは再度オーウェンの姿を映し出した。


「えっ……ええ………完全にゾンビやん」

動画を観て呆然としたメンバーの中、シアンが瞬きを繰り返す。

B級ホラー映画ですら大騒ぎしながら目を逸らすタタラは半泣き状態で、ナナシは無表情のままミケの眼を掌で隠している。

「身体ノ外側ハ腐ラナイノカ」

「えいがとはちがうな」

スプラッターやホラーにめっぽう強い双子は興味津々だ。

「感染しても外的変化がほとんどなく、感染者と健常者の区別が非常に付きにくいことが特徴です」

そこで、とオーウェンは居住まいを正した。

それにつられてざわめいていた場も静まった。

『エニグラドール、皆さんには閉鎖区画の洗浄作業に伴って、生存者の捜索および救助を依頼したいと思っています。任務の間は、ご自身の生命を第一に優先してください。手段を選ぶ必要はありません。今なおインフレイムに太刀打ちできる傭兵は数少ない。あなた方のような貴重な防衛力を、ここで失う訳には行きません』

オーウェンは語気を強めて付け加えた。

『そして捜索が済んだ後、我々が閉鎖区画の焼却洗浄を行い、パンデミックへの進行を阻止する計画です』

少しの間の後、フォックスがほんの一瞬口元を引き攣らせる様に笑った。

「分かりました。引き受けましょう。必ず成功させてみせます」

『詳しい作戦内容と報酬、各種経費の補償に関しては電子資料を。それから、何かあれば彼女に。協力に感謝します』




「……嫌な言い方だった」

オーウェンがモニターから姿を消して通信が途絶え、談話室からメンバーが去った後で、ギガがぼそりと呟いた。

「君は……そう思うか。そうか」

フォックスは薄く微笑んで、軽く首を横に振った。

その顔にどことなく喜びが滲んでいることに違和感を覚えたが、ギガは些細な疑問には触れずに続ける。

「『手段を選ぶな』。要するに、ヤバかったら感染者を殺してでも逃げろと言ってんだよな」

「ああ」

「治らないからか、殺せってのは」

「だろうね。K-1000は細胞分裂に異常をきたすウイルス、治療は不可能だ」

兵器の犠牲になるのはいつも弱者だよ。

そう呟いた彼の顔を、ギガが大柄な体を屈めて気遣うように覗き込んだ。

フォックスは元々細い狐目をさらに細め、微かに困ったような顔を見せた。

「けれど、それだけじゃない。感染者を治せる確率があったところで、何らかの理由で任務中の君たちに生命の危険が及ぶようなら、同じことを言うさ。だから彼は箱庭の王になれた」






翌々日、早朝。

ウイルスは刻一刻と閉鎖エリアに蔓延しつつあり、生存者の救出は一刻を争う。

相変わらずの酸性雨が窓ガラスを叩いているが、状況が整うのをひたすら待っている訳にも行かない。

前日は深夜までメンバー全員で作戦会議を続け、やや不備がありつつも任務は計画通りに実行されることとなった。

談話室に全メンバーを集めたフォックスは、天候の情報を流し続けるラジオの電源を落として立ち上がった。

「というわけで、雨天決行。これから任務に入るが……そのガスマスクは目や口に敵の体液が入り感染するのを防ぐ。現地ではくれぐれも取らないように」

いつものダークスーツの下には酸性雨諸々から身体を防護するための厚いラバースーツを着込み、ガスマスクを小脇に抱えてメンバーは頷いた。

「雨はともかくだぜ。本当にあんたも行くつもりかよ、フォックス」

ホノメを除いたエニグラドール7人分に加えて、もう1つ用意されたガスマスクをナナシが手に取る。

「何しろ作戦が不十分だからね。無線越しに情報を得るより、私が現地を確認してリアルタイムに対処した方が手っ取り早い」

「いや、そりゃそうだけど……」

フォックスは一向に澄まし顔のまま、ゼウスから送られてきた閉鎖地区の地図を眺めている。

「で、でも、感染者に襲われたら命の保証はないって…」

「何、あの生物兵器には人体を強化するほどの能力は無い。廃工場ギリギリの貧困地帯ではサイボーグ化する資金もないだろう、相手はただの人間だ」

タタラが遠回しに引き止めようとするが、フォックスは肩を竦めるだけだ。

「ただの人間って、アンタも生身の人間やん。しかもインドアエンジニアの」

シアンがあからさまに失礼な指摘をしたが、彼は薄く笑っている。

「ここで問題だ。さて、君たちの基本格闘技能を訓練したのは誰でしょう」

「あ、言われてみると……」

「君たちの相手は多くが不確定な動作をするインフレイムや人間だから、基本プログラムに肉体を用いた演習の情報を積み重ね、実戦において最適解を導く必要がある。自我形成する前のことだから、覚えてはいないだろうけれどね」

フォックスは悪戯じみた顔でくつくつと笑い、唖然としているナナシの手からガスマスクを受け取った。

「それでは、30分後にガレージで」

飄々と言い残して、彼は談話室から消えた。


「やっぱり、ミケちゃん連れて行くのはどうかと思うぜ。まだここに来てひと月も経ってないってのに、初任務にしては重すぎるよなあ」

ミケのラバースーツの袖を直してやりながら、ナナシがメンバーに異議を唱えた。

「確かになあ。でも、機能チェックやらなんやらを兼ねてるんやろ、多分」

「ミケが前線に出ることはないし、9人で行く以上、彼女に危険が及ぶことはありませんわ。心配しすぎですわよ」

「そりゃそうだけどよ……なあミケちゃん、嫌だと思ったらすぐに周りの奴らに言えよ、俺様は捜索で傍にいられないから……」

「大丈夫なのです、ミケもがんばるですよ!」

ミケはやる気に満ちた瞳をきらきら輝かせて鼻を鳴らしたが、首を傾げてナナシの顔を見上げた。

「それとも、ナナシはミケを信じてないなのです?」

「い、いや、そんなことはないぜ! でも……」

慌てて弁解しつつ参った風に頭を掻く彼の姿に、各自でガスマスクの最終点検を行っていたメンバーはどこかニヤついている。

ミケがエニグラドールに加わってから彼女をいたく気に入ったナナシは、AIの情緒発達のために本を読んだり遊んだりと、加入以来ずっと付きっきりだった。

「首ったけだね」

「だらしねえ顔しちゃって」

悪戯じみた表情を浮かべながら小声で話すタタラとギガを、ミケに服のフードを被せたナナシが口を尖らせてちらりと睨んだ。


廃工場を改築して作ったエニグラドールの本部には、玄関とは真逆の位置に車を置くためのガレージがある。

フォックスとミケ、さらにシアンとタタラは本部の建物の外を回り、周りの建物と似て薄汚れたシャッターの前に辿り着いた。

吹き荒ぶ風が、雨水で海と化した地面に波模様を描いている。

シャッターを開けると、そこにはすすけた黒の大型ピックアップトラックが堂々と居座っていた。

目的地は本部からさほど離れてはいない。

既に出発したメンバーは体力的にも運動能力的にも優れており、その機動力を生かして自力で目的地に向かう方が早いのだ。

人間であるフォックスを含め、残りの4人はそれを車で追うこととなった。

閉鎖地区は本部から20kmほどの距離にあり、メインストリートに乗ってしまえば30分もかからない。

一向がさっさと器具を積んで乗り込み、フォックスがハンドルを握ると、旧世界の技術を彷彿とさせるディーゼル音と共にトラックは走り出した。




悪天候のおかげでほとんどの住民は屋内に籠り、ゴーストタウンと化したスラム街が一層の恐怖感を煽る。

と言っても、主にタタラの恐怖だが。

口にこそ出さないものの、彼は昨日にゼウスの兵士が録画した映像を観てからずっと青い顔をしている。

後部座席に乗っていたシアンが、からかい半分に前に座っているタタラの肩をぽんと叩いた。

露骨に驚いて跳ね上がったタタラは振り向き、眼鏡を直しながら泣き出さんばかりに喚く。

「もう! やめてよ!」

「ごめ……ごめんて、悪気はあったけど……」

「ひどい!」

その様子にシアンはひいひい笑っていたが、やがて落ち着いて彼に問うた。

「何がそんなに怖いん? 狙撃手でシールド使いなら、B級ホラーでも絶対に死なないジョブやん、なあ」

助手席で縮こまって体操座りをしているタタラは、フードを引っ張って俯いたまま口を開いた。

「……例えばゾンビとか、幽霊とか、元々は意思があった人間でしょ。そういう存在を、どうしても人間と切り離して考えられなくて。映画の主人公は結構容赦なく殺すけど、理解できないんだ」

そこへ、大人しく車に揺られていたミケが口を挿む。

「ミケはちょっと分かるですよ。えーと、ゾンビさんは、ゾンビさんになりたくてなったわけじゃなくて、ゾンビさんは悪い人じゃない、なのです?」

言いたいことが纏まっていないまま話し出したのか、途中からミケは首を傾げた。

「ふうん……分かるような、分からんような」

シアンは助手席の背もたれに顎を乗せた。

「ねえ、フォックス」

「ん」

しきりにワイパーで掻き分けられる歪んだ前方の景色を眺めつつ、フォックスはタタラの言葉を促す。

「僕たちの感情も思想も、全てはプログラムで制御される0と1の集合体なんだよね」

「ああ。一部は個性を作るために生体パーツからランダム電気信号を取り出しているが、それも最終的にはビットに行きつく」

タタラは傍らに抱えていたショットガンの銃身を無意識に撫でる。

熱伝導率の差によって、指先から熱が奪われる感触。


「例えば僕のAIが死んだら―――壊れたら、僕の思想はどこに行くんだろう」


フォックスは僅かにハンドルを切りながら唸った。

「実に高度で哲学的な疑問だ。残念ながらそれに関しては、私も死んでいないから答えられないが」

肩を竦める彼に、タタラは拍子抜けした表情を浮かべた。

「人間が死んだら思想は受け継がれて、魂のような物は楽園や地獄に行ったり、輪廻に乗ったりするって聞いた。そうでなければ幽霊になって目的を果たすまで彷徨うんだって」

人間ではない僕らは一体どこに行けるのか知りたいと思った、とタタラは囁くように言った。

フォックスは少しの沈黙を挟み、やがて言葉を選ぶようにゆっくりと話し出した。

「………死は死者だけの物だ。死者は具体的な行先や環境を語らない。だが、人間の脳とてAIとなんら変わりは無い。01がニューロンの発する電気信号に置き換わっただけのこと。人間とエニグラドールはよく似ている。同じだと言っても良い」

だから、と彼は続ける。


「ここからは私の推論に過ぎないから、冗談半分に聞いて欲しいんだが………おそらく、我々と君たちが死後に向かう場所も同じだよ。それが神の世界だろうと、虚無だろうと」


夢中になって大人組の会話を聞いていたミケが、小難しい話題に興味津々で口を挟む。

「それなら、それなら、生きてることは、生きている人だけのものなのです?」

「賢いね。その通りだ」

フォックスは後部座席に座っているミケに、ミラー越しに薄く微笑んだ。

「だが、我々が持てる生は限られている上に、何かを成すには短すぎる。だから、厄介な仕事は精々急いで終わらせようじゃないか―――――そろそろ着くぞ。あれが閉鎖地区だ」

彼が片手で指し示すその先に、汚染されたエリアを取り囲む鉄壁が徐々に近づいてくるのが確認できる。

メンバーは起こりうるあらゆる事態を想定し、腹を据えた。

今直面すべき戦場は目の前だ。




「閉鎖地区のゲートに着いた。ブロックごとに手分けして生存者の捜索を始める」

汚染区域を取り囲む鉄壁に取り付けられたシャッターの前で、あらかじめオーウェンから聞かされていたパスワードを端末に入力しながら、ギガが無線に呼びかける。

『もう少しで私達も着くが、先に行くのか』

重苦しい地響きを立てながら、ぶ厚い金属製のシャッターが開く。

先に向かっていたのは5人いたはずだが、扉の前にはギガとナナシしかいない。

「ああ。双子は壁乗り越えて、もう行っちまったからな。それを追ってホノメも」

『まったく気が早いな………汚染エリアのほぼ中央あたりに、汚染源があると予測されている。気を付けろ』

「承知」

すっぽりと頭を覆うガスマスクを調節しながら、ナナシが鼻を鳴らした。

「楽しそうにしやがって」

不謹慎な奴らだ、という意図が彼の言葉に滲み出ている。

これは決して映画やゲームの世界の出来事ではない。

現実に罪のない住民が犠牲となり、K-1000に感染している。

ギガはガスマスクのバイザー越しに、悪戯じみた光を宿す黄緑の眼を見開いてみせた。

「たまにはまともなことも言うな」

ナナシは長い犬歯をむき出して不服そうに唸る。

「俺様は麻痺したくない。インフレイムとの喧嘩が楽しいのと、この件を一緒にするのは間違いだ」

「俺はどうかな、麻痺」

「知らねえ。自分で考えろ」

「手厳しいな」

2人はごちゃごちゃと言い合いながら、閉鎖地区に足を踏み入れた。


シャッターは二重構造になっており、外側のシャッターが閉まり切ると同時に内部シャッターが開くように設計されていた。

ゲートはまるで監獄の門、2人を監禁するかのように軋みながら口を閉じる。

汚染区域内は、鉄壁の外とさほど変わらない風景が広がっていた。

見慣れた無機質で無彩色な工業地帯の残骸が立ち並んでいるが、雨天という状況を除いてもその風景はどことなく薄暗いように感じた。

建物の間に潜む闇は濃く、得体が知れない。

ガスマスクのフィルターを通して侵入する空気は、微かに死の匂いを湛えていた。


何はともあれ、2人は汚染区域の中心を目指して歩いて行くことに決めた。

「ところで、生存者の具体的な居場所は分かってんのか」

『一応はね。生存者側から無線で連絡があったらしい。クローン作物の培養実験に使われていた、一般企業の研究棟だそうだ』

ギガは腑に落ちた様子で頷いた。

「なるほど、そこなら食い物にも困らん。立てこもるにはもってこいだ」

『だが、研究棟以外にも生存者がいる可能性はある。屋外で鉢合わせて、誤って殺すことだけは避けたい』

フォックスの言葉が途切れ、またも空間を雨音が支配した。

繋ぎっぱなしの無線から洩れるノイズに混ざり、地面を踏む靴の音だけが淡々と響く。


永遠に続くかと思われた沈黙を破ったのはギガの方だった。

「……お前、何その手」

レインコートの袖にほぼ隠れているが、ナナシはすでに片腕を変形させ、その指先は鋭利な翼を象っている。

「俺様の勝手だろ! じゃあ、何でお前はノコギリ構えてんだよ」

ナナシはギガのごつい手が添えられた鋸の柄を顎で示した。

「べ、別に? 理由とか無いし?」

「ビビってんのか」

「んな訳ね………」

無え、とはっきり言い切れなかったギガは、1拍置いてから訂正した。

「無くねえ」

そう言いつつ、ぎろりと辺りを睨みつける。

「だよな。嫌な感じだぜ、『あいつら』」

廃墟の暗がりから誰かが、いや、何かがこちらを視ているような気がして、ギガは路地の暗闇を射るように目を凝らした。

すると微かに暗闇が蠢いて――――違う、目の錯覚だ、しかしアンドロイドに錯覚など。

また黒い塊が別の路地を過り、振り向いたころには何も無い。

「居るな」

音の反響で物体の位置を測ることができるナナシも感づいていたようで、雨で掻き消されて聞こえないほどの微かな声で言う。

2人は自然と背中合わせの臨戦態勢を取り、お互いの背中をカバーし合った。

その瞬間、路地の1つから1人の女性が走り出てきた。

その足取りはしっかりしていたが、女はギガに縋り付くと頼りなく崩れた。

女は雨水が吹き荒ぶ地面に座りこんで、すすり泣いている。

ギガは咄嗟に大鋸を地面に突き刺し、その肩に手を掛けてしゃがんだ。

「生存者か、俺たちはあんたを助けに来た傭兵だ。閉鎖区画から出してやる、立て」

安堵から腰が抜けたのか、女はただ首を横に振るばかりで立ち上がろうとしない。

ギガは困った様に頭を掻き、背を向けてしゃがむと女を背負った。

防護スーツを着込んでいてもはっきりと分かる猫背越しに、ナナシが低くぼやいた。

「効率悪いな。この調子だと、研究施設以外にもかなりの生存者がいるかもしれねえ。いちいちエリア外まで連れて行くってのも」

「確かにな。いっそその施設に生存者をまとめて、洗浄後にゼウスに救出させたら」

「よし、それで行こう」

同意のついで、何の気なしにナナシが視界の端に映るギガに振り向いた。

いつも通りの眠たげな顔がガスマスクの下にあるはずが、ナナシの赤い目は確かな殺意を持って鈍く光った。

そして、その場で翼状に変形した手をギガの顔に突き刺そうと、弾丸のような速さで手を突き出してきた。

「!!!」

ギガはナナシが何を考えているのか分からないまま、反射神経を生かして攻撃の軌道から顔を逸らす。

ぐじゅ、と耳元で泡が弾ける音。

背中に回した手の上、女の重みが倍ほどに増したような感覚。

ナナシが手首を軽く捻って翼を振ると、ギガの背中から泥のように力の抜けた女が落ちた。

「見ろ」

ナナシは長く伸びた指先でギガを制すると、額を貫いて殺した女の口を、翼を支える骨の先でこじ開ける。

ぽっかりと開いた空間を見ると、オーウェンが見せた動画に出てきた男と同様、赤黒くただれて腐り始めていた。

「感染者か」

女の後頭部からは、腐った黒い血液が水たまりを伝って広がり始めている。

ギガはしかめっ面でそれを一瞥し、無線に呼びかけた。

「感染者と遭遇した。外見は健常者と全く区別できないし、健常者のフリをする程度の知能は残ってる。ブリーフィングの動画の感染者より早期なのか……」

無線越しに口々にメンバーから返事が返ってくるが、フォックスは低い声で答えた。

『知能……K-1000は脳を補完できるウイルスではなかったはずだ。何故進化している』

「何だと」

『ウイルスは色々な動物を伝い、ヒトとヒトで感染して行くうちに、性質を変化させることがある。しかし進化が早すぎる。K-1000に肉体強化能力までは無いと判断していたが、あれは人造の生物兵器だ。保証は出来ない……あるいは……』

ナナシは両手を鋭利な翼に変え、ぐるりとあたりを見回した。

「は! そりゃ愉快だぜ」

「俺たちよりハイスペックってことは無いだろうが」

ギガも中腰で鋸を構えた。

路地の暗闇からざわざわと呻きながら現れた感染者の群れが、強風に煽られて亡霊のように揺らめき、2人を360度取り囲んでいる。




先にエリアへ入った一行とは違うシャッターの前にピックアップトラックを止め、フォックスたちは容赦なく叩き付ける雨の中に降りた。

エニグラドールにはそれぞれ戦う能力があり、そもそも彼らの身体はとびきり頑丈な造りをしている。

だがフォックスは何の変哲もないバールをその手に携えただけ、軽装すぎるほど軽装だった。

戦闘用に特化したヒューマノイドとは大きく異なり、フォックスは生身の人間だ。

タタラはガスマスクを装着しながら、杖のようにバールで地面を突いている彼に心配そうに尋ねた。

「……フォックス、本当に大丈夫なの?」

目の前に立っているのはいかにもインドアでいかにもインテリな、骨が皮を着ただけのエンジニアである。

実戦で役に立つとは到底信じられない外見のフォックスは、エニグラドールからすればどうしても貧弱に見える。

「私が弱そうに見えるんだろう」

「いや、えっと…………」

口下手なタタラはずばり核心に迫られて思わず黙ったが、フォックスはいやに子供めいた悪戯な流し目で彼を笑った。

「まぁ、それは仕方ない。私も自覚しているさ」

そこで、何かに気付いたミケが耳をぴくりと震わせ、壁を見上げて指さした。

「ん、どした。何か聞こえたんか」

「ここから入るのは良くないなのです。シャッターの向こうに、たくさん音がするなのです。こう、こういう音」

身を屈めて顔を覗き込むシアンに、ミケは地団太を踏むような動作で脚を鳴らした。

「多分、足音だね」

「せやな。この向こうに感染者が集まっとるんや」

フォックスはガスマスクを被り、雨を切り裂くようにバールを振り回した。

「とにかく様子見だ。壁の上に登ろう」

5mほどの壁には一番上に鼠返しがあり、内側は高圧電線で厳重に防御された鉄壁が汚染エリアを囲んでいる。

始めにミケを抱えてタタラとシアンが鉄壁の上に飛び乗り、シアンのカーボンワイヤーを伝ってフォックスが上る。

分厚い壁の鼠返しの部分からエリア内を覗き込み、その凄惨な光景に一行は言葉を失った。

見渡す限り、人間が立つことのできる平面の全て、全てを、感染者が埋め尽くしている。

感染者の身体がざわざわとひしめき合い、無数の頭が波のように揺れている。

ギガから「感染者には知性が残っている」という報告を受けたが、確かに感染者はシャッターを出口だと認識できているようだった。

感染者は出口を中心に放射状に集まり、シャッターを拳で殴りつけたり、引っ掻いたりして呻いている。

しかしフォックスは飄々とした態度を崩さず、壁の縁ギリギリに立って首を軽く鳴らした。

「とりあえず感染者の症状を観察する。それから……せめて早く解放してやりたい」

「解放……」

「私のエゴだよ、これは」

彼はタタラをわずかに振り返り、なんの躊躇もなく感染者の群れの中へ飛び込んだ。

突然のことに戸惑ったタタラが壁の縁から身を乗り出す。

「ミケはここで待っとき。ウチは下で援護する、アンタも行くで!!」

タタラの腕を容赦なく鷲掴みにし、引きずるようにシアンもエリア内へ飛び降りた。


フォックスは着地した時点で、足元に居た1人の頭蓋骨をバールで貫き既に仕留めていた。

感染者たちはふらついているものの、その動きは健常者の動作と変わらない。

いや、脳のブレーキ機能が危うい状態の感染者たちは、健常者よりも強いと言って過言ではなかった。

人間を捨て、獣さながらにフォックスの腕や足を掴んだり、咬み付こうとする。

しかし感染者が伸ばした手はバールによって軌道を逸らされ、次々と受け流されていく。

手での攻撃をあきらめ、強引に覆いかぶさろうとした感染者の手首を捉えたフォックスは、同時に胸倉を掴み背負い投げた。

巻き添えを喰らった感染者が共倒れになり、不器用に地面に転がる。

彼はまるで予測しているかのように余裕を持って攻撃を避け、振り向きざまにバールで横殴りに頭部を粉砕する。

渾身の力を込めて襲いかかる感染者の馬鹿力を逆に利用して、フォックス自身は全くダメージを受けずに攻撃をいなしている。

当然敵より消費体力も少ないのだから、これならば一方的な長期戦にも持ち込める。

あの頼り無げな細身の体で闘うための理に適っているスタイルだ。

そのうえ、彼の振うバールの矛先は感染者の頭部のみに向かっていて、一瞬で頭部を破壊することによって、更なる体力の温存を図っている。

「……そうか、無駄がないんだ」

中・近距離戦闘用にVSSの代わりに持って来たショットガンで援護しながらも、

タタラはあまりに整ったフォックスの戦闘スタイルに魅入っていた。

同時に、感染者の海へ飛び込む前に彼が囁いた言葉が、AIの片隅をよぎる。


エゴ。

一瞬で頭を貫き殺す優しさ?

意識が消える瞬間まで―――残っていればだが―――身体をじわじわと焼き殺されるよりは、いくらかマシだろうか。

彼がわからない。


そこへ、左腕からカーボンワイヤーを伸ばし手頃な柵に絡み付かせたシアンが、姿勢を低く保ち感染者の群れの周りを走り出した。

「このまま全員転ばせる!! 2人は避けて!!」

彼女はその怪力でワイヤーを張り、わらわらと蠢く感染者の脚を引きずり倒した。

タタラはワイヤーを避けるため咄嗟に跳び上がり、大柄な感染者の肩を蹴って着地する。

フォックスはすっかり感染者に取り囲まれてしまっているが、ヒューマノイドのように軽業は出来ない。

「フォックス!!」

タタラが即座に逃げ道を開こうとショットガンを構えるが―――フォックスは地面に膝を付き、しなやかな体幹を逸らして仰向けに倒れた。

シアンのカーボンワイヤーが感染者を薙ぎ払いながら、彼の体のすぐ上を恐ろしい速さで通り過ぎる。

フォックスはタイミングを見計らって素早く起き上がり、肩を押さえつけにのしかかる感染者の頭を刺し貫いた。

隙を狙ってシアンが足払いを繰り出したおかげで、感染者の半数は足首がねじれて折れ、雨に濡れた地面を這いずりまわっている。

フォックスは僅かに上がった呼吸を整えながらガスマスクに飛んだ血を拭った。

タタラとシアンが無傷なままの感染者を仕留めて行くのをちらりと見て、彼は弱った感染者1人1人の頭をバールで貫く作業に加わった。



周囲360度に動く者が見当たらなくなったところで、フォックスはバールにへばり付いた肉片を振り払った。

「長い事『運動』していないと腕も落ちるな。すっかり鈍ってしまった」

シアンは元から白目の多いはっきりした目をさらに見開いて、まだ信じられないという表情を浮かべている。

「どこでそんな芸当覚えたん!?」

「まぁ、大昔にちょっとね。ほら、そんなことよりミケを降ろしてあげて。きっと上で待ちくたびれている」

「はぁい」

彼はシアンが鉄壁の上に飛び乗る所を眺めている。

タタラは彼の背中を追って足を踏み出したが、靴底の下で頭蓋骨が砕ける感触を覚えて立ち止まってしまった。

まるで死者に踝を掴まれ、もう進むなと諭された様な気分だった。

それ以上は彼に立ち入るな、君の為にならない。

「……フォックス、僕はあなたのことを何も知らない。あなたは、一体……」

最後の一言は雨に掻き消され、彼に届いたかどうかは分からなかった。

視界を覆うガスマスクの歪んだ障壁、雨風の雑音、靴底の頭蓋骨、それから無限にも思える沈黙。

あらゆる物体や事象が、彼を知ろうとすると必ず目の前を遮って現れる。

エニグラドールの全てを把握しているフォックスは、最も彼らに近いはずのフォックスは、エニグラドールから最も遠い所に立っているような気がしてならなかった。


「……人生は短いが、真実を急く必要は無いさ。然るべき時には、真実の方から会いに来る」


フォックスはぼんやりと灰色の空を仰ぎ、誰に向けるでもなく呟いた。

深い吐息だけが大気に漂って消えてゆく。







汚染区域突入から数時間。

水たまりを跳ねさせ汚染区域を駆ける双子とそれを追うホノメの無線に、大勢の人間の呻く声がノイズと共に飛び込んだ。

鈍い打撃音とぐちゃぐちゃと肉を引き裂く醜い音が割り込んで、無線のスピーカーを震わせる。

突入以来全く感染者と巡り合えず、うずうずしていたロックが走りながら騒ぐ。

「ナンダヨ!! マタ戦ッテンノカヨ!!」

『いやお前がなんだよだぜ! 大人しく生存者探せ!』

「ヤダァ! 俺モ戦イタイ!!」

『ジャック、それお前の兄貴だろ! 黙らせとけ!』

「ええ~……」

ナナシが話す声の後ろから、戦闘中のギガの咆哮がノイズと共に紛れ込む。

「ハァ……ツマンナイ……」

あからさまに肩を落としたロックを呆れ顔で追いつつ、ホノメはジャックに声を掛けた。

「それにしても、感染者に遭いませんわね」

「ちょっとへんだな。おれたちがいちばんひろくさがしてるのに」

亜音速の双子と空を自由に飛び回るホノメはメンバーの中でも機動力に長け、障害物など無いも同然だ。

必然的に彼らが最も広範囲を走り回って、生存者を捜索することになっている。

しかし、生存者がいると報告があった研究棟を目指しつつ、汚染区域の中央付近で生存者を探してみるも未だに人っ子1人見当たらない。

生存者はおろか、感染者もいない。

無線でメンバーの戦況を聞いていると、感染区域中央から外れたエリアを探索していた方が、感染者の群れと遭遇する確率が極めて高いようだった。

「感染者は生存者を襲うんでしょう。どうしてあの研究棟に集まらないのかしら」

「建物ノがーどガ硬イカラ? 諦メタトカ」

「まさか。そんなことって」

怪訝そうな表情を浮べるホノメに、ロックは不敵な笑みを向けて目前に構えた灰色の巨大な塊を指した。

「マ、考エテル暇ガアッタラ入ロウゼ。答エハアノ中ニアルサ」

ロックが示したのは、汚染エリアを埋め尽くす廃墟群とは一線を画し、つい最近まで人の手で整備されていた面影のある建物だ。

例のクローン作物の研究棟である。

研究棟の前には、車が余裕を持ってすれ違えるほど広いロータリーが取られている。

街外れで放射能が多く地価が安いと言えど、スラムに新しく施設を建てられるこの財力。

クローン研究企業が戦前に超大手であったことも窺える。

しかし誇らしげなその姿とは裏腹に、ガラスでできた研究棟の入り口付近はおびただしい血液で汚れていた。

拳のような形に酸化した血が飛び散っている箇所を、ジャックが尖った大爪の先で引っ掻いた。

「なぐったのかな。かんせんしゃが」

「ここも1度は感染者が押し掛けたということですわね」

横開きのガラス戸が傷ひとつない所を見ると、少なくとも感染者を食い止められるだけの強度は持ち合わせているようだった。

非情に降り注ぐ豪雨でも流れ落ちない、しつこくこびり付いた血をホログラムの指先で触る仕草と同時に、ホノメは双子を振り返った。

「この扉は最後の砦。感染者が届かない位置から進入しますわよ」

「「分かった」」

双子は全く同じタイミングでガスマスクを立てに振った。

ジャックが地面を蹴って跳び上がり、研究棟の壁に鋭い爪を突き立てる。

彼は勢いに任せて体を振り上げ、ガラス窓を蹴破って3階に飛び込んだ。

粉々に砕けたガラス片が、3階から地表へと降り注いで白く煌めいた。

「だいじょうぶだ、だれもいない」

ジャックが地上に声を掛けると、ホノメとロックも同様に建物内部へと入った。


数日前から淀んだままの空気を洗い流すように、飛び込んだ部屋の一角へ雨が激しく吹き込む。

どうやらそこは何らかの研究を行う部屋だったらしく、机の上には小さなラベルが貼られた茶色の瓶や試験管立て、電子天秤などが所狭しと並んでいる。

戸棚へ乱雑に詰め込まれた資料の背に書いてあるタイトルや、机に散らばるプリントに記された言葉はどれも理解しがたい専門用語ばかりだ。

腕のせいで細かい作業ができないジャックのために、ガスマスクのグラスを手で拭いながらロックが呟く。

「……何コレ、何語?」

「英語ですわよ」

「ばかにはよめないんだ」

「オ前ハ分カルノカヨ」

「よ、よめるし……よゆうだし……」

双子は無数に置き去りになっている用途が分からない機器を、覗き込んだり手に取ったりと興味津々だ。

情報工学と機械工学を専攻するフォックスの作業室を思い出しつつ、ホノメは生物学専攻の研究室とを見比べた。

外見では感染者が侵入した形跡はなかったが、最悪の場合を想定し臨戦態勢を保ちながらさらに奥へ進む。

双子を引き連れたホノメが研究室を出ると、リノリウム製の白い床が扉の左右に伸びていて、両側を部屋で挟まれた廊下は蛍光灯が消えていた。

火災報知機の光が照らす極狭い範囲以外、廊下はすっかり闇に溶けている。

「ダメダ。電力供給ガ死ンデル」

スイッチをぱちぱちと切り替え、ロックは天井を仰ぐ。

「2人共、これを見て。まずは地下室を探しますわよ」

ホノメが壁に据えられた研究棟の地図を指さした。

双子が覗き込むと、彼女は地下室を指した指を6階のとある部屋にずらす。

「非常用電源が生きていれば、研究棟の放送室が使えますわ」

「ソレデ生存者ヲ集メルッテコトカ」

得意げなホノメに、ロックが感心したように頷く。

しかし2人の背中側へおもむろに目を遣ったジャックの表情は、瞬時に凍り付いた。

「ジャック、どうし……」

「しっ」

2人を制し、ジャックは声を潜めて低く言う。

「う、うしろ」

言われたとおり、2人は恐る恐る振り返った。

どろりとした黒の向こう、異界へつながっていると言われたら信じてしまいそうな闇の奥から現れた「それ」を、火災報知機の真っ赤な光が微かに照らした。

青白いであろう表皮は赤い光と混ざり合い、どす黒い紫色に変色している。

闇から、異様に長く細い手が。

足が奇妙に痙攣しながら伸びる。

「それ」は床に無数の手足を張り付け、ずるずると這っている。

暗闇に目が慣れてくるにつれて、3人には「それ」の全貌が掴めてしまった。

四角柱状の廊下の床から天井までを完全に埋め尽くしているそれを形容するなら、水死体と芋虫を足して2で割ったような外見。

水を吸って膨れ上がった水死体だ。

骨が浮いた手足にはたるんだ皮膚がぶら下がり、その手足は人型の腹から生えている。

虫のように蠢く手足の塊からは何かの幼虫に似た長い胴が伸び、ひっきりなしに蠕動するその人型には皮膚と同じ肌色の男の頭部があった。

しかし、短い黒髪から垣間見える目は諦めたように閉じられ、うなだれていた。

たくさんの手足で床を引っ掻きながらじわりじわり近づいてくる「それ」の姿に、3人は一呼吸置いてからくるりと踵を返した。

無言で元来た研究室へ戻り、速やかにドアを閉める。

一向は研究室のドアに背をぴったり寄せて座り込み、混乱するAIから小声で言葉を吐き出した。


「………と、とんだ冗談ですわね?」

「ジャック、何アレ」

「おれがききたいよ!」




「ナナシ、どこだ! どこにいる!」

廃墟の間から湧き続ける感染者の群れに対抗し、押し流されぬように鋸をふるっていたギガが突然ナナシを呼んだ。

「ンだよ!! 今めっちゃくちゃ忙しいんだけど!!」

感染者を横殴りに弾き飛ばし、腕を戻す勢いで肘を叩き付けて頬を粉砕してからナナシが怒鳴る。

彼の周りからはメデューサのように無数の腕が伸びては咬み付こうとしたり、髪や服を掴もうとしている。

ギガは一瞬腰を落として下段の前蹴りを繰り出し、感染者を数人吹っ飛ばすと跳び上がった。

戦場を取り囲む廃墟の1つを狙い、感染者の手が届かない2階へ避難する。

「退け!! 感染者の動きが変だ!!」

「はァ!?」

意図が読めないながらもナナシは翼を引っ込め、目の前の1人の頭を両手で掴んで思いきり振り回した。

彼を中心に感染者が薙ぎ倒され、その隙をついたナナシはどうにか群れから抜け出す。

「変って、何が」

「俺たちを囲んでた奴らは俺たちしか眼に入らなかったようだが、それ以外が」

ギガは2階へ上ってきたナナシに、鋸で感染者の群れを指す。

「みんな同じ方向へ走ってる。汚染エリアの中央がこっちだから」

そう言って自身の背中側を顎でしゃくる。

「まるで、エリア中央から遠ざかってるように見える」

「……確かに、言われてみれば」

眉間に皺を寄せ、崩れかけた廃墟の縁からナナシが下を覗いたその時。

カサカサ、という土を擦るような嫌な音と共に、2人が逃げ込んだ廃墟の1階から青白い「手」が現れた。

「あ?」

ナナシの間抜けな声につられてギガも地上を覗く。

青白い手は人間の物とは思えないほど長く、それに続いて幾本もの手足が、あらぬ方向に曲がった関節を震わせながら現れた。

地面に爪を立て這って進む上半身の形は、れっきとした人間、オリンポス界隈では珍しい顔つきの赤毛の男だ。

しかし「それ」の下半身には、グロテスクで巨大な芋虫がキメラのごとく癒着している。

ほぼ同時刻に研究棟で双子とホノメが遭遇し、その情報を無線で寄越した怪物と同種だった。

咄嗟に2人は体制を低くし、怪物の視線から身を潜めた。

「やっと『それっぽい』奴が出て来たって訳か」

ナナシが鼻で笑い、すぐ真顔に戻る。

「まぁ、戦わねえけど。せっかく逃げてきたし」

先程下で戦った限りでは、地表には生存者はいなかった。

あの青白いモンスターの視界に入る前に、この場を離れて余計な戦いを避けるのが妥当な決断である。

しかし、2人が廃墟の外階段から遠ざかろうとしたその時、感染者のうめき声でざわめく空間を甲高い叫び声が切り裂いた。

明らかに感染者とは異質な絶叫に、ギガとナナシが慌てて戻り地表を確認する。

「おい、嘘だろ」

「ありゃ生存者だぜ」

青白い怪物の腕にがっしりと抱きかかえられた少女が、スラム街の住人にしては整った服から伸びる細い腕を振って叫んでいる。

「小さい女の子が捕まっている。実に由々しき事態だぜ」

ギガに頭を叩かれつつ、妙に引き締まった顔つきのナナシは掌を翼に変形させた。

「お前が行かなくても俺様は行くぜ……ここで逃げたら男が廃る……」

「大抵のゾンビ映画はお前みたいな奴から死ぬぞ」

「不吉なこと言うなよ!!」

結局ギガも廃墟2階の縁から飛び降りたナナシに続き、青白い怪物の前に立ちはだかった。

感染者たちはどうやら、この巨大な青白い怪物から逃げていたらしい。

「情けねえなぁ、ゾンビの気合を見せろよ……」

ナナシは威嚇する獣さながらに牙を剥き出し、散り散りに走り回る感染者を一瞥した。

怪物は人形劇の傀儡に似た不器用な動きで幾本もある腕を広げた。

怪物の痩せ細った長い腕に振り回され、少女が泣き叫ぶ。

2人は左右に分かれて駆け出した。

怪物はその気味の悪い動きとそぐわない速さで、芋虫のような下半身をくねらせてナナシを狙って追う。

「俺様がこいつを路地に誘導する! 身動き取れなくなったらぶん殴れ!」

廃墟の壁に青白い体を叩きつけながら、暴走する車両にも劣らない勢いで怪物が追ってくる。

「おい、無計画な!」

その場の勢い任せのナナシにため息を零しつつ、ギガも鋸を担ぐと後を追った。


廃墟は怪物が身体を叩き付けた衝撃で粉々に崩れ、豪雨の中をもうもうと土埃が巻き上がる。

ナナシはあえて地上を走り、怪物の気を引きながら狭い路地へ飛び込んだ。

怪物は素直に誘導され、うねる胴体に振り回されつつ路地へ無い頭を突っ込む。

コンクリートの破片が飛び散り、その弾丸のような勢いに辺りの廃墟を巻き込んで破壊する。

怪物の後に着いていたギガは瞬時に間合いを測り、鋸を振りかざして地面を蹴って跳んだ。

全身の体重をかけて青白い胴体に規格外サイズの大鋸を貫通させると、鋸は怪物を貫き地面へ突き刺さった。

昆虫標本のようにピンで拘束された怪物は逃れようともがくが、ギガが鋸をがっちり捕えて離さない。

「ナナシ! 生きてるか!」

「何とか! 生存者も保護した!」

路地の奥は怪物で隠れてギガには見えないが、ナナシからは無線に応答があった。

ナナシが選んだ路地は運悪く行き止まりで、彼は壁に張り付くようにして引き攣った笑い声を上げた。

怪物の腕の内、1本が綺麗な切り口と共に無くなっている。

「へへ、惜しかったな」

彼の片腕には少女がしっかりと抱きかかえられていた。

怪物はナナシと少女に手を伸ばしているが、胴体部分をギガが固定しているためそれ以上近寄っては来ない。

ナナシは少女を抱え直し、もう片腕の翼を壁に引っ掛けて廃墟を上り、1番高い階の窓ガラスを蹴破って入った。

潤んだ瞳を泳がせている少女を、部屋の隅に座らせる。

「俺様はナナシ・ザ・バット、君を助けに来た」

「……………」

少女は混乱のあまり彼と視線を合わせられず、震えながら廃墟の中を見回している。

ナナシはレインコートを脱ぎ捨て、その下に着ていたジャケットで少女の身体を包んだ。

彼は大きな手を少女の両肩に掛け、真正面からその顔を見据える。

「突然信じろと言われたって、無理な話なのは分かってる」

ナナシがニッと笑い、その余裕にやや落ち着きを取り戻した少女はこくこくと頷いた。

「でも、俺様は必ず君を助けると約束する。だから、君は絶対に声を出さないと約束してくれ。いいな」

「……うん、分かった」

少女は微かに震えてはいるが、はっきりと答えた。

「良い子だ」

ナナシは少女にウインクを残してレインコートを羽織り、入ってきた窓から身を乗り出して下を見た。

青白い怪物は路地から抜け出そうと、胴体を伸縮させて暴れている。

ギガは腕をハンマーの如く振り被り、杭代わりの大鋸の柄を殴って地面に固定する。

彼は大鋸を置いて路地の壁を蹴り高く跳ぶと、怪物の上半身めがけて拳を叩き付けた。

メガトン級の破壊力が、怪物の脆い上半身に直撃する。

怪物の身体は柔らかい果実を握り潰すように辺り一面に四散し、路地の壁を粘度の高い真っ赤な液体が覆った。

怪物は上半身を失い、残った芋虫状の長い胴体だけで暴れている。

「クソ、頑丈な野郎だな」

顔をしかめるギガの頭上を飛び越え、廃墟から降りたナナシが普段の数倍も伸ばした片腕の翼で怪物の胴を叩き斬った。

「奴を刻んでみる。お前は押さえろ」

「承知」

ナナシが狭い路地の両側の壁を交互に蹴って跳び回っては斬撃を繰り返し、怪物は次第に至る所から血を吹きだし始めた。

内臓らしき肉塊が薄汚れた地面に溢れ出し、どす黒い血液が路地を埋める。

しかし、どう見ても致死量の血液が流れ出したというのに、怪物は動きを止めようとしない。

ナナシはどこからか漂う違和感に気付き、攻撃を止めた。

「どうし……!!」

鋸を支えていたギガが、ナナシの方を見て息を飲んだ。

さっき自分が粉砕した怪物の上半身が、再構築されて形を取り戻しているではないか。

吹き飛んだ肉片や手足が血液を辿って寄り集まり、パズルのピースを嵌めこむように組み合わさる。

怪物は左右にぐらぐら揺れつつ前傾した体を起こした。

「この再生速度、お前より悪いぜ」

「そりゃ、相当な『怪物』だ」

不満げに唸ったギガに標的を変えた怪物は、存在自体が怪しい背骨を反らせて体を突っ込んだ。

幸い攻撃はそれほど素早くないが、ギガは鋸を引き抜いて退散せざるを得ない。

怪物は路地から抜け出し、溶岩が泡立つかのような低く醜い轟音で吠えた。

再度廃墟に登って少女を抱きかかえたナナシが、地上で怪物と対面するギガに叫んだ。

「無理! 撤退! やっぱ作戦考え直す!!」

退却までの時間稼ぎにと、怪物へもう1発拳を叩き込んだギガが頷いた。

またも拳圧で胴体が粉々に飛散した怪物は、相変わらずの再生力で体を修復し始めている。




『……という訳で、あれは再生能力を持ってるぜ。無計画に戦うなよ』

『無計画とかな。お前が言うかね』

『うるせえ』

ナナシとギガからの報告が無線を伝ってメンバー全員に行き渡ったところで、研究棟に乗り込んだ3人は声を潜め、改めて頭を寄せた。

「再生ダッテ。超早イッテ」

「じゃああれ、たおせないよな」

「マタ戦ワナイデ逃ゲルノカ!?」

「あれは無視して、階を変えて地下へ行きま―――――」

ロックの我儘を喰い気味に出されたホノメの提案は、双子が並んで寄り掛かっていたドアが双子もろとも吹き飛んだことで遮られた。

廊下にいた怪物が狭いドアへ半身を押し入れ、骨のような腕で宙を掻く。

双子は物でごったがえす研究室のデスクを前転で転がり、同時に床に着地して口を揃えて叫ぶ。

「「ジーザス!」」

怪物と双子、それから自分の位置を瞬時に把握すると、ホノメは両手を広げた。

一瞬大気が歪み、彼女の手元にできた透明の球体が怪物にぶつかり爆発する。

「逃げますわよ!!」

圧縮窒素砲で怪物が怯んだ隙に、3人は身を翻して窓から跳んだ。

窓枠に手を掛けヘリからラぺリングする要領で、3階と同じ構造の窓から2階へ転がり込む。

「アレニモ知能ガアッタラ厄介ダ、追ッテクル前ニ地下ヘ」

「ええ……あら、ちょっと待って」

ホノメが部屋から駆け出そうとする双子を制した。

3階の研究室と見分けがつかない研究室のデスクに置かれた1台のPCが、殴り書きのメモで覆われていることに気付いたらしい。

彼女は無線でフォックスを呼び出した。

「これ、生存者の誰かがまとめたものかしら。フォックス、感染の経緯を調べた形跡が」

『簡潔で良い、内容を』

ホノメはデスク一杯に無造作に張り付けられたメモを要約しながら伝えた。

「それから、感染から約5時間で症状が現れるそうですわ」

『5時間、そうか……30分前にも、その研究棟にいる生存者からまた救助要請が入った。棟内で逃げ回っているかもしれない。なんとか見つけ出してくれ』

「了解ですわ」

3人は恐る恐るドアを開け、廊下へ顔を出した。

上を見ると、白いものが天井の石膏板を突き破り、根のように天井を覆い尽くしている。

それは規則的なリズムで脈打っていた。

「これ、あのかいぶつじゃないか」

「研究棟ノ全体ヲ浸食シテルッテ訳カ……生存者ナンテ居ルノカ、本当ニ」

3人は小声で状況を確認しつつ、足早に廊下を進んだ。

もしも他者の存在を振動や温度で感知しているとしたら、怪物に気付かれるのも時間の問題だ。

3人は1階の天井を這う白い根の動向に注意を払いつつ、最下層へ向かう階段を駆け下りた。

黒と黄色の縞模様で縁どられた重厚なドアの前で立ち止まる。ドアに手を掛けられそうなくぼみやノブはない。

暗証番号式の横開きのドアをロックとジャックが寸分狂わず同じタイミングで殴り、蹴ると、ドアは内側に重々しく倒れた。

電源室の中も廊下同様に暗く、電池が切れ気味の非常灯がちかちかと頼り無く点滅している。

ホノメは配線が入り組んだ電源室をふわりと飛び回り、非常電源のブレーカーを見つけると双子を呼び寄せた。

肘から手先ほどの長さのレバーをひとつずつ上げて行くと、電源室の中に機器の低い作動音が鳴り始め、蛍光灯が瞬きながら付いた。

ゆるゆると回り始めた換気扇を見て、ホノメがほっと安堵の息を吐く。

「良かった、電源も復活したようですわね」

「後ハ放送室カ」

さあ6階へ行こうと強引に破って壊したドアを振り返ると、3人をとてつもない既視感が襲った。

ぐねぐね身を捩らせてドアに滑り込もうとする怪物を前に、ロックは満面の笑みで拳と手のひらを打ち合わせる。

「コレハヤッツケルシカ無イナア!!!!」

「でも、再生能力が!」

ホノメが言い聞かせるが、双子は聞く耳を持たない。

「再生ヨリ速ク、細胞全テヲ殺セバイインジャネ」

「みみをうたがうさくせんだな」

「ココデ常識的ニ考エテドウスンダヨ。アレガ常識的ナ生キ物カ?」

「ああ………まあな。やってみるかあ」

双子は体制を低く構え、怪物に突っ込んだ。






汚染エリアに入ってから、半径1km単位でポイントを変えつつ生存者の探索を行い、早数時間。

「雨の音で難しいなのです………でも、こっちに人はいないなのです。感染者さんはたくさんいるですよ」

ミケは指向性集音機である猫耳をレインコートの下で小刻みに動かした。

彼女は泣いたり喚いたりすることはなく、どこか後ろめたいような表情を浮かべて辺りに転がる亡骸を見ていた。

「これでほぼ全域を調べたことになるな」

シアンは肩の関節を回して息を吐いた。

「だけど、生存者が1人もいないなんてことあるのかな」

「K-1000の性質が変化していた上に、これだけ感染者が増えてしまったら、普通の人間が逃げ切るのは難しいかもしれない」

タタラの問いに、フォックスは辺りに積み重なり、無言で雨に打たれている感染者の亡骸を見回して答えた。

バールで粉砕された頭部から流れ出た血が、ひび割れたコンクリートの隙間に浸み込んで行く。

フォックスは本日何度目かも分からない血振りをした。

握ったバールから肉片が飛び散る。

「とにかく今は、ギガたちと合流しよう。白い怪物とやらの対策を考えなければ」

そう言ってフォックスが耳の無線に手を遣る。

すると、4人の後ろから特徴的なかすれ声が聞こえた。

「だったらどうやってあの再生オバケを倒すんだよ。お前で練習でもするか?」

「暴力反対。練習なら他を当たってくれ。俺は平和主義者なんだ」

「その顔で平和主義?」

「俺の顔が怖いのは俺のせいじゃねえ」

廃墟と廃墟の間から言い争いながら現れたのはナナシとギガだ。

ギガの片腕には少女が抱きかかえられている。

「あ、合流したな」

「丁度ええな。アンタらを探しに行こうと思ってた所や……この子、生存者か」

抱きかかえられたまま震えている少女を、シアンがレインコートのフードを持ち上げて覗き込む。

雨に濡れて額に張り付いた黒髪を避けると、澄んだ深緑色の目がシアンを見つめた。

「あ、そうだ。ウチはシアン・ザ・スパイダー。アンタの名前は」

「…………ジーナ」

シアンの問いに、少女は恐る恐る蚊の鳴くような声で答えた。

ミケはレインコートで包まれた少女を見上げ、それに気づいたギガがしゃがみ込む。

少女は怯えてギガの腕にしがみ付いていたが、ミケがガスマスク越しに微笑むと、同年代の子供を見つけて気持ちが緩んだのか少女も微かに笑い返した。

緊張が解れた様子を窺い、シアンが続ける。

「ジーナ、ウチらと会ったからにはもう安心や。白いお化けもやっつけたるからな」

すると、少女はレインコートから細い手を突きだして慌てた。

「だめ、ちがうの……あれはお父さんのお友だちなの!!」

少女を取り囲むメンバーは彼女の言葉に唖然とし、数秒間置物のように固まった。

「おともだち?」

「おともだちって、お友達?」

「あ、アンタ、何言うとんねん」

「手遅れだったか、俺様がもっと早く駆けつけていれば、ああ」

素っ頓狂な声を上げるメンバーを制し、今まで黙っていたフォックスが口を開いた。

「―――――君の話を聞こう」




双子はバックステップで数メートル後ろに下がると、数歩の助走をつけて床を蹴りドアの両脇の壁に突っ込んだ。

鉄筋と石膏板が突き破られて飛び散り、白煙を巻き上げる。

双子は怪物の身体をぶち抜き廊下に出た。

「ホノメハ先ニ放送室ニ行ケ!! 生存者ヲ探セ!!」

怪物の赤黒い体液を全身から滴らせ、ロックが咆える。

「分かりましたわ!」

双子が作った壁の大穴をすり抜け、ホノメが廊下に飛び出した。

怪物は傷口から体液と臓器が溢れてくるにも関わらず、芋虫のような胴体を引きずって双子を追う。

だが振り向いた方向にオレンジ色の姿は既に無く、怪物はさらなる1撃、2撃でまたも胴体に風穴を開けられてバランスを崩した。

怪物の機動力・動体視力では音速の双子に追いつけるはずもない。

壁を蹴り超合金の鋭い爪で刺突を繰り返す。

皮膚を筋肉を骨を抉り、噴き出す血が無機質な白い壁を鮮やかに染める。

目にも止まらぬ速さとはこのことを指すのだろう、ロックの言葉通り再生する隙を与えられず、怪物の胴は次第に肉片となり直方体の廊下に叩き付けられて壁を伝う。

肉片は再生しようとその場で蠢くが、一定の筋肉が残っていないと移動できないらしく、再生するには至らない。

たった数分のうちに胴体が粉々に破壊され尽くし、床に上半身を投げ出された怪物は無数の手足で空を掻きながらもがいている。

ジャックは肉塊と化した怪物を足で仰向けに転がし、頭を潰してとどめを刺そうとした時だ。


「…………たしの………私の、娘を」


額に金属の大爪が突き刺さる寸前、怪物が――――否、男が口を開いた。

「ジャック?」

動きを止めた弟に気付き、ロックが怪訝そうな顔でジャックを追う。

男は血に濡れた黒髪の間で瞼を開き、深緑の眼で硬直したままのジャックを見据えた。

「………話を、聞いてください」

ジャックは男の額に付きつけたままの爪を離し、残った男の上半身を抱きかかえて壁に寄り掛からせた。

「ジャック!? 何シテンダ!!」

「こいつ、しゃべった。おれに……おれにむかって」




雨をしのげる廃墟に落ち着いたフォックス一行は、少女に詳細を問いつつも不明瞭な展開に頭を悩ませていた。

「えっと、それで。かいぶ……いや、白い彼はお父さんの友達で、お父さんはまだ研究所にいる、と」

眉根を寄せて唸るギガに、不安げに上目づかいで彼を見ていたジーナが頷く。

「お父さんがけんきゅうじょにいちゃだめだっていうから、お父さんのお友だちと外に逃げたの。でもお友だちがとつぜん……ジーナのお話聞いてくれなくなったから困ってたの」

彼女は小さな手を振って必死に弁明する。

「でも、ジーナにいじわるしなかったよ、お友だちわるくないよ」

「んん、そこを俺様とギガが見つけたってことか。じゃあアレも元は人間か」

「そ、そう考えるしかないけど……でもそうだとしたら、他の感染者と形態が違いすぎるよ」

メンバーの意見に何か思いついたのか、ひたすら話を聞いていたフォックスが問うた。

「……ジーナ、君が外に出た後、お友達が誰かに噛まれたり、引っ掻かれたりしたところを見たかい」

ジーナは俯いて少し考えて顔を上げ、確信を孕んだ瞳で答えた。

「ううん。見てないよ」

そうか、と呟き、フォックスはおもむろに無線へ呼び掛けた。

「ホノメ、無事か」

『ええ、怪物はふたりに任せて、今は研究棟にいる生存者に呼びかけている所ですわ』

メンバーの耳に彼女の鈴を転がすような声が届く。

「え、結局戦ってんのかよ」

「どうせロックの判断だろ」

呆れつつぼやくギガとナナシ。

『でも、もう20分経ったのに、生存者から何の応答もありませんの。どうしたのかしら』

そこへホノメに答えるように、双子からメンバーへ無線が入った。

だが聞き取れるのは双子の声ではなく、かすれた男の声だ。

双子の安否を気にしてどよめくメンバーを制し、フォックスは男に問うた。

「誰だ。名乗れ」

『……私はオルソ、ヘスティア製薬の研究員です』

オルソが答えた製薬会社は、救援要請が出ていた研究棟の親元である会社の名だ。

『おれたちはだいじょうぶだ。それより』

『エット、今名乗ッタノハ、白イ怪物ダッタ奴ダ。殺ソウトシタラ目ヲ覚マシタトイウカ、普通ニ会話デキル』

「会話できるって、それは感染者だろう」

『何ガ起キテルノカ俺ニモ分カラナイ……トニカク、話シタイコトガアルッテ言ッテル。オルソニ替ワル』

オルソは途切れ途切れながらも、はっきりとした口調で語り出した。


『私は、このクローン研究棟で研究員として働いていました。食糧として動植物を安定して生産するための、遺伝子組み換え技術を研究していました……しかし』

何か言おうか言うまいか迷っているかのように言葉に詰まったオルソに、フォックスが静かに問い掛ける。

「……生物兵器を開発していたのではありませんか。元々このウイルスは脳の神経細胞を喰い荒して完全に破壊し、人間を殺すために開発された物です。しかし、感染者は粗悪ながらも一定の知能を補完し、思考能力を持っていました」

フォックスは一息吐き、さらに淡々と解説する。

「K-1000感染者が現れ始めた時期は、つい最近。従来型のK-1000が脳を補完する能力を持つよう進化するためには、感染経路が短すぎます。となると、人為的に進化させられた可能性が残る。大まかな予想は可能です」

オルソは空気が抜けて行くような乾いた声で力なく笑った。

『なんでもお見通しという訳ですか……その通りです。あるプロジェクトの一環として、K-1000の改良、否、改悪を行っていました。しかしその研究過程で――――天罰が下ったんでしょうね……殺処分するはずだった被験動物が逃げ出したんです。研究過程で生成したK-1000の亜種がいくつか流出し、そこから一気に感染が広まりました』

オルソは遠い記憶を思い出すかのように続けた。

『あの日は、妻が体調を崩していた……やむを得ず、施設に娘を連れてきていたんです。感染に巻き込まれ、突然変異した私は同僚に娘を任せました………上手く逃げ切れただろうか』

黙ってやりとりを聞いていたナナシが、弾かれた様に顔を上げて身を乗り出した。

「そいつは……その同僚は、赤毛の、アジア系の男か!?」

『なぜ、それを……』

「あんたの娘、名前はジーナって言うんだろ!?」

『む、娘がそこにいるんですか!! 声を、声を聞かせてください』

ナナシは無線をジーナに差し出そうとして呟いた。

「あ、寝てる……」

父の友人だったとはいえ、人型を失ったモノに連れられて街を何時間も移動していたのだ。

当然疲れていたはずである。

ジーナはギガの腕の中で寝息を立てて眠っていた。

無線が寝息を拾ったのか、オルソは安堵に満ちた声色で、声を潜めて言った。

『………ああ、起こさないで。寝かせてやってください』

ギガはガスマスクの奥で目を細めた。

「あんたの友人も感染してた。だが、この子の話によると、発症後もしっかり娘さんを抱えて彷徨っていたらしい」

「まさか、そんな事情があるとは……あんたの友達には悪いことをしたぜ、娘さん、取り返そうと思って」

『いいえ、あなた方の判断は当然です………娘を任せたのが、彼で良かった』


暫しの間の後、フォックスは駄目元で問うた。

「オルソ。そのプロジェクトの詳細を教えては貰えないだろうか」

『……あなた方に危害が及ぶ。それは言えません』

フォックスは尚も食い下がった。

「我々は傭兵です。この小さな箱庭を護る為に存在している。悲しい事件が二度と起きないよう、我々に戦わせて欲しい」

オルソは長い沈黙の後、束縛を振り切ったように言った。

『………プロジェクトを管理していたのは「クロノス」という組織です。会話が上層部に盗聴されている可能性もある。これ以上は、あなた方に迷惑をかけてしまう』

「分かった。ありがとう」

『それから。この研究棟には、もう生存者はいません。あの救援要請を送ったのは私ですから……幸か不幸か、ウイルスが開発段階だったこともあって、発症後も時折我に返るんですよ。ですからその合間に。せめて誰かに娘だけでも助けて頂けたら、と』

半ば悟りを拓いたようなオルソの言葉に、耐えかねたタタラが吐き出すように言った。

「…………どうしても治せないんですか。あなたの意思はまだ脳に残っている、それを、どうにか」

『残念ながら治療法はありません。私を含めた感染者は、この地区ごと洗浄される他手段は無いのです』

タタラはガスマスクの中で目を潤ませ、口を噤んで俯いた。

『それに、生活のためとはいえ、悪だと分かっていながら兵器開発に協力し、無関係の人々まで巻き込んだ罪を償わなければ』

オルソの言葉からは、固い信念が滲んでいた。

「ゼウスにエリアの洗浄を要請しました。あと1時間ほどでエリア一帯は焼却洗浄されるが」

フォックスはそこで言葉を発するのを止めたが、オルソは続くだろう最後の宣告を理解していた。

『ええ。私に止めを刺す必要はありません。この研究棟が燃え尽きるまで、私はここに』

「………そうですか、それでは。皆、撤収だ」




鉄の城壁で取り囲まれた汚染区域の各所から、何本もの火柱が轟々と唸り燃え盛っている。


豪雨は弱まることを知らず、未だに大地を叩き続ける。

フォックスは現状報告をするべくオーウェンを呼び出した。

「総局長、協力に感謝します」

『礼を言うのはこちらの方です。生存者が居ないと確かめられてこその一斉焼却ですから。報酬に関しては後日』

「了解しました……ああ、そういえば」

通信を切ろうとしたオーウェンを何気なく引き留め、フォックスが尋ねる。

「『クロノス』という単語について、何かご存知ありませんか。過去に検挙した組織や、その関係者など」

『…………私、は覚えがありません。一応情報局の方に調査を依頼しましょう』

「そうですか。それはご迷惑をおかけします」

ぶつり、と乱暴なノイズを立てて通信が途絶えた。



悪天候でも機能する科学燃料がばら撒かれたエリア一帯は、紫色の火の粉が踊っている。

灼熱の地獄というにはもの悲しい、まるで終末を体現するかのような光景。

黒煙が曇天へと吸い込まれていく。

エニグラドールはレインコートのフードの下で紫色の炎に照らされながら、鉄壁の向こう、小さな世界の終わりを眺めていた。




CHAPTER/4 THE CREMATION AT THE RAINY CITY

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る