帰還不能点


ぼろ切れをまとった人々が行き交うストリートで、タタラは建物の角に立って往来を眺めていた。

工業的発展と度重なる戦争により、地球表面を覆うオゾン層は破壊された。スラムの地表に降り注ぐ紫外線量は、旧世界の平均よりもはるかに高い。かつては歓迎されていたさわやかな青空は、今や生き残ったソーラーパネルの蓄電池を満たすだけの道具として扱われていた。

人々はみな、焼け付く鷹に怯える兎だ。人々は生命の気配を押し隠すように、土と整備油、雨雲の匂いを何重にも纏う。

スラムに延々と降り注ぐ雨は、いくらか汚染されているとしても、太陽を避ける彼らにとっては好都合であった。すなわち今日のストリートは、店を開くには"絶好の曇天"である。所狭しと場所を奪い合う屋台の間を人が絶え間なく行き交い、商品を手に取ったり主人と言葉を交わしたりと芋を洗うよう。名も忘れられたストリートに、ありとあらゆる生活雑貨や食品が、傷んだ布地と錆びた金属のポールで作られた質素な屋根の下に並んでいる。青果や干し肉、五大湖で捕られる大きさや形も不揃いな食用魚。珍しい紙媒体の古びた書籍、医薬品に脱法薬物。オリンポス産のクローン生物、音楽や映画が入ったデータチップ、様々な中古の家電。その他諸々。

スラムで生きていくために必要なものなら、ここで何でも手に入る。万里の長城を登る驚きだとか、クジラが跳ねる海で揺られる感動などは、もはや本物を手に入れることは困難だ。きっと城は大戦で崩れたし、海に行く方法はほとんどない。けれどもここでは本物を知る必要などなく、手に入れようと思う必要もない。ゼウスに統治された法律が概ね機能し、近隣の新興国と貿易が行われ、無害な悪人も有害な善人もそれぞれの人生を送っている。オリンポスという概念の繭に覆われた、閉鎖的な空間ですべてが循環し、完結している。


思考する。

絶好の曇天なんて、妙な言い回しだ。

最後に青空を仰いだ日のことすら思い出せないのに。


タタラは自らの鼻梁にひっかかっている骨董品の弦を撫でた。丸みを帯びた金属の枠には、つま先、地面の石ころ、手指、カーキ色のコート、風に吹かれる紙くず、潰れた空き缶がある。

半径数メートルの視界。眼鏡を外してコンバットアイに切り替えれば、彼はそのような極小の円だけでなく、金属の枠の外にあるものをどこまでも見通すことができた。はるか荒野の山々まで続く空はいつでも、まるで長年使い古されたクッションの中で薄汚れてしまった綿だ。見飽きた孤高を旋回するカラスの瞳に、地上を這う人々の表情が写り込んでいる。コンクリートと曇天で埋め尽くされた背景には、箱状の要塞都市の異様な白さがやけに映える。眠くなるほど穏やかで、白昼夢のように色のない世界を知っている。

この旧世界は、第三次世界大戦と共に色彩を道連れにして死んだという。

景色を写真に収め、出来事を映像に残す技術が生まれたのは大戦よりも前のことで、文明の始まりはモノクロだった。それから人類は有機エレクトロルミネッセンスOLEDを集積し、650万の錐体細胞による受容量を越えた色を手に入れた。朝露滴る青葉や遠浅の海、摩天楼が立ち並ぶ大都会のネオン、みずみずしい果実や野を駆ける獣たち、星々がきらめく宇宙。世界のすべては極彩色だったらしい。

時代の外れ、人類は世界を白と黒と灰色に塗り潰すことを選んだ。

バケツからペンキをひっくり返すように、MIRVからばらばらに分裂した再突入体が文明を抉り、次から次へと世界の彩度を奪っていった。

やがて世界はモノクロに回帰し、不確かな脳髄の中へと戻った。


思考する。

人は怖い。

群衆は好きだ。


無数の個体が作る巨大な群れは、ストリートを流れて常に入れ代わり続けている。その流れは、彼がVSSを構えて狙いを定める、ひとつひとつの標的とは違った。目の前を通り過ぎる無数の個体すべてを認知することなんてできやしない。関わり合いの気遣いやリスクなどが生じない巨大な孤独の中、誰もが空になった洗剤や塩のケースを思い浮かべている。足りないものを補充する。そんな目的に向かって無人機ドローンのように歩くのだ。すり切れたコートの上にほつれた布を重ね、フードを目深に被って人工皮膚の継ぎ目を隠し、数多の目的に混ざり合う。視える目を伏せ、把握できないものだけを眺める。認知できなければ、認知されなければ、あらゆるものは彼の世界に存在しない――彼自身さえも。楕円のレンズにぎっしりと詰め込まれた人間を眺めて、タタラはどことなく諦めのように思った。


思考する。

毎朝、鏡を見たくない。

迷彩みたいに、あの群衆へ溶けてしまいたい。


タタラは彼自身の整った目鼻や豊かな癖毛を、一般的に"美しい"と称されてしまう肉体を、ひいては彼をそのように実装したフォックスを朧気に憎んでいた。彼の大脳辺縁系に組み込まれた臆病な人格は、凛々しい姿形にまるで合致していなかった。スラムに蔓延る都市伝説に怯え、次の任務の危険に怯え、人との関わりに怯える生活。

彼の望みはただひとつ、眠って起きて食事をして、端末の修理工かスラム内での運送業か、何かそれに代わる普遍的な仕事をして、帰ってまた眠ること。道行く女性はいちいち振り返らず、巨大な生物兵器などは他人に任せ、心を乱されることなく暮らし、苦痛なく死ぬこと。

だがひとつたりとも許されなかった。世界が、運命が許しはしなかった。貧困層に生まれたら貧しく暮らし、才能を持って生まれたら才能を活かす努力をしなければならない。人間に生まれたら人間として生き、戦闘用のヒューマノイドとして造られたら戦わなければならない。


思考する。

顔にナイフを突き立てよう。

気に食わなければ切り刻んでやる。


思考する。

やめて。

苦痛はいやだ。

怖いよ。


思考する。

運命が何だ。

変化には痛みを伴う。


思考す、





流れ行く群衆の中から、突如ふたりの人影が立体的に飛び出して見えた。

居心地の良い群衆から個が現れて、タタラのあてのない思考の薄皮は一気に引き裂かれて消えた。彼はぎょっとして数歩身を引いたが、それ以上の後退は建物の壁に背中を阻まれた。おまけに情けない悲鳴まで添えてしまいそうになり、人目を引きたくない一心でどうにか飲み込んだ。彼の前には通りがかった少女らの姿があって、露骨に歩く速度を落としては何度も振り返り、つぶらな瞳をぱちくりさせている。

タタラは自身の顔を隠すように眼鏡をずり上げ、少女らにあいまいな笑みを向けた。むやみに粗暴な態度は目立ってしまうし、かといって人当たりよく振る舞うのも――巡らせた考えも虚しく、過ぎてゆく黄色い声。彼としては口元もバンダナやマスクで隠してやりたい所だったが、スラム界隈では過激な武装集団と間違われ、いっそう厄介で恐ろしいことになりかねない。背の低い人間には、目線の高さのせいでフードの中まで見える。タタラは呻いた。有象無象の思考に没入すると、周囲への警戒を忘れてしまうのは悪い癖だった。

彼は背負っていたバックパックの肩紐を握りしめ、すり切れたフードを目深に被り直し、少女らが去った方とは逆方向に足を踏み出す。コートのポケットに手を突っ込むと、中で冷えた端末の角が指先に触った。彼がこの露店市場にやってきた本来の目的は、曇り空の下で人混みに紛れることではなく、日用品や食品の調達だった。


かの第三次世界大戦、国境では六角重工が開発した5、6メートルもある大型ドローンが、各家庭ではポター・エレクトロニクス社で量産されたメイドたちが粛々と歩き回っていた。当時からヒューマノイドの括りは漠然と広く、二足歩行であれば素材やディテールがどうであろうとひっくるめて"人間もどき"と呼ばれていた。身体のほとんどが合金で組み上げられた巨大なものから、人間に似た質感のシリコン外皮をもつものまで、様々な種類の"人間もどき"たちが当時の人口と同じくらい生産された。ヒューマノイドが人間へ近づいていくと同時に、老化や病、怪我への対策として、あるときは肉体を強化するため人間は人間から離れていった。

黄金期の終わり頃には、医薬品の副臨床試験のため、最後の砦とも呼べる脳の一部や生殖機能を除く"ヒトのすべて"を模倣したフル・バイオマテリアライズ・ヒューマノイドが試験的に造られた。もはやヒトとヒューマノイドの境界線はぼやけて曖昧で、倫理に振り回されるばかりとなった人類は、何がヒトをヒトたらしめるか再定義せんと考えた。そうしてヒトは、限りなくヒトに近づいた物体に人工知能を搭載した。「これは何か?」と問うために。

結局、黄金期は大戦で押し流されるようにして終わり、その問いに答えが出ることはなかった。戦争や時が無数のヒューマノイドを破壊し、無数の人間を殺した。文明は凍りつき、人間は寿命で世代交代した。かつて漸近線のように限りなく近づいた、人間とヒューマノイドのグラデーションは、真っ白な帯で分断された。時代の空白だった。何がヒトをヒトたらしめるかという形而上的な問いに、答えを急ぐ必要がなくなったのだ。大抵の人間にはまず生き延びるという責務が与えられ、衣食住が優先され、哲学の影は薄れた。

エニグラドールはかつて栄華を誇った、それらのテクノロジーの末裔である。

精密機器――マニュアル駆動の自動車や掃除機などの対極にあたる、分子単位で3Dプリントされたマザーボードだとか、ナノマシンの配列によって成型された手術用ロボットのことだ――は経年にも環境変化にも弱く、生産する企業が空襲で焼け落ちた時点でそれらは保守切れとなり、寿命は決定した。その点でフル・バイオマテリアライズ・ヒューマノイドであるエニグラドールは、スラムでしぶとく生き残る人類によく似て、スクラップ化を回避することに長けていたのだ。そんな技術進歩と倫理学の結晶が、どうしてスラムで泥まみれになって巨大な怪物と殴り合っているのかは、彼ら自身にもわからないのだが。

とにかく、エニグラドールは人間同様に飲食し、最大効率で吸収し、ある程度の傷も自然治癒するよう設計されている。だから、タタラが抱えているボロのバックパックには、買い集めた穀物の粉や人工調味料、虫食いの林檎などがめいっぱいに詰め込まれていた。彼はポケットから取り出した端末の画面を覗き込み、残る項目を小さく読み上げた。

「あとは包帯、止血用タンパク質と……」

薬局をうっかり通り過ぎようとした所で購入予定の項目を読み、数歩下がって薬局の扉に手を置いたその時だ。ストリートの向こう岸で立て続けに鋭い銃声が走り、脊髄反射で身を屈めた。一帯を埋め尽くしていた人々は一瞬静まり返った後、異様な速さでストリートの路地や建物の中に駆け込みはじめた。荒波を渡るヌーの群れに巻き込まれるような状況に、彼は例によって悲鳴を上げんばかりに焦ったが、片腕を強く引っ張られて薬局へ転がり込んだ。

「………めがね、めがね」

尻餅をついたときに落としてしまった。寄せ集めのパーツで強化されたエニグラドールは皆どこかが不完全で、タタラの場合は眼球の機能が一部欠落していた。彼の目ははるか遠くを見渡し、改造狙撃銃の組み込みアプリケーションと連動して標的を狙うコンバットアイだったが、あろうことか手の届く範囲はまるで盲目という厄介な代物だ。彼は四つん這いになって床を探り、落とした眼鏡を掴んでどうにか掛けた。大味にぼやけた景色の解像度が戻ると、ちょうど薬局の店主がシャッターを乱暴に下ろしていた。60代前半ほどだろうか、灰色の短髪に無精ひげを生やした男が散らばった物を拾い上げて、唖然としているタタラに声を掛けた。

「怪我は」

「えっ、あ、大丈夫です」

「この近くに住んでいる人間じゃあないな」

「は、はい、第39管区から」

タタラはエニグラドールのセーフハウスとは全く別の場所をでっち上げた。この店主がそうとは限らないが、用心に越したことはない。節度の無い傭兵団や興味本位の一般人にセーフハウスを狙われては面倒だ。

「でも、なぜそれが」

「逃げ足が遅いからだ。外を見てごらん」

薬局の店主は、先程閉めた金属製のシャッターの小窓を指し示した。

「武装している奴らが見えるだろう。ゼウスと対立している、なんとかというテロリストだ」

タタラは店主に言われた通り小窓を覗き込み、遠くの風景がぼやけていることに気付いて眼鏡を少し下げた。ストリートを歩き回る男たちは、骸骨をかたどった手製のマスクで口元を覆い、不揃いの野戦服と短機関銃を身に付けている。

「解放軍気取りか知らんが、時々現れて好き勝手暴れて行くものだから、それなりに有名でな。ここらに住んでいれば逃げ方を知っているという訳だ」

「確かに速かった。みなさん訓練されているんですか」

「このあたりの商工会ぐるみでね」

通りに隙間なく並ぶ数々の露店はそのまま置き去りにされ、まるで何かの拍子にこの世の人類が一瞬にして蒸発してしまったかのよう。

「ゼウスのやり方が不満なら、オリンポスを狙えば良いのに」

ストリートを吹き抜ける風に弄ばれる紙屑を目で追いながら、タタラは誰に言うでもなく呟いた。それを聞いた店主は、気の抜けた調子で微かに笑う。

「案外、大胆なことを言うな」

タタラは彼の言葉の意図がよく理解できず、内心首を傾げた。

「その通りなんだがな。ここではオリンポスから流れてきた物資も売られていて、商品の内かなりの割合を占めている。奴らはそれが気に食わないのさ。テロリストが少し暴れた程度じゃ、政府は見向きもしないってのに」

どうやら君は右翼じゃなさそうだから言うが、と店主はおどける。

「憂さ晴らしに無関係な人間を襲う奴らも、それを分かって何もしないゼウスも似たり寄ったりだな。命が惜しけりゃ自分の逃げ足だけが頼りだ。あとは奴らが飽きるのを待つだけさ」

ドライに嘯く店主を背に、タタラはなんとなく返す言葉が見つからなくて、シャッターの小窓に視線を戻した。彼の耐久性能であれば、今すぐにシャッターを開けて帰っても構わないのだが、性格と立場は薬局で静かに小さくなっている方を選んだ。


異変が起きたのは、タタラが何度目かに小窓からストリートを覘いた時のことだ。店主がカウンターに座ったまま声を掛けた。

「どうした」

通りから逸れた向かいの路地で、人らしき塊が動いている。

「お、女の子を拘束しています! 3人……」

ストリートで立っていた時にすれ違った少女らと、見覚えのない黒髪の少女だった。彼に倣って小窓から外を見た店主は、がらんと静まり返った景色に怪訝そうな表情を浮かべた。

「奴ら以外は、誰もいないじゃないか」

いや、あの路地裏に――タタラは喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。散らかったゴミ箱や空調の室外機を超えた先、路地裏にはテロリストが集まって、少女の腕や髪を掴みストリートへと連れ出そうとしている。少女たちは必死になって細腕で相手を殴り暴れているが、半ば手を焼くことを楽しんでいるテロリストは、少女たちをゆっくりと引きずってストリートへ現れた。

明るみに出たことで、店主はやっとその姿を確認した。店主はシャツの裾をぐしゃりと握り、苦い表情で歯を食いしばる。戦う能力を持たない一般市民が出て行ったところで、少女を安全に救える訳ではない。タタラは店主の形相を密かに見た。乾いた口調で逃げ足が全てと言ってはいても、それは自身を納得させる口実に過ぎない。不条理に対する怒りを抑えるための手段に過ぎない。

「………人間の所業じゃないんだよ、麻痺している。君に言っても仕方ないことだが」

店主は抑えきれない怒りを噛み締めるように呟いた。

「最近じゃ滅多に無くなったが、奴らが現れ始めた頃はよく女子供が捕まった。その度に奴らは、ゼウスの犬だと散々犯して殺して捨てた。多分、今回もそうする」

ただ服の裾を握りしめるばかりの、老いて骨ばった浅黒い拳が震えていた。少女の甲高い悲鳴とテロリストの罵声が、シャッター越しに薬局の内側まで届く。タタラの頭部に詰め込まれた人造の脳に、考えうるすべての選択肢が電流のように駆け抜けた。


銃を持った兵士たちの前に飛び出すなんて恐ろしいことはやめて、見知らぬ少女らを見殺しにして、一般人のふりを続けたらいいじゃないか。

助けに行くべきだ、戦う能力はあるくせに子供を見捨てて逃げ出すなんて、テロリストよりずっと邪悪だ。目の前のテロリストを片付けられたとして、奴らのバックヤードにはいくらでも同じ思想を持った人間が控えているに違いない。中途半端に手を出して、テロリストの残虐行為に拍車をかけてしまったら責任を取れるのか? 少数を切り捨てれば良かったものを、これからもっと多くの人間が犠牲になっても構わないのか? そんなのは戦いに怯えて言い訳をしているだけだ、不確かな憶測で人命を切り捨てて良い訳がない。

傷つくことが怖い、ゼロと言い切れない死の確率が怖い。仮に救えたとして、注目されることが怖い。少女らの亡骸を見ることが怖い。なにもかもが怖い。どこか遠くに隠れてしまいたい。今すぐ逃げて、誰も知らない場所に籠って、穏やかに暮らしたいのに。


僕らは選択を迫られる。




「………あの」

タタラはシャッターから離れ、背後に立ち竦む店主へ向き直った。

「この建物、裏口はありますか」

「何を……いいや、正気じゃない。冷静になれ、君のためだ」

引きとめようと手を伸ばしかけた店主に、タタラは食材が入ったバックパックを押し付けた。

「えっと、ごめんなさい、僕が戻ってくるまで預かってください」

「待て、悪いことは言わない。そんなことをしたら君まで……」

「だ、大丈夫なんです。本当に大丈夫。どうか、お願いします」

タタラは例の曖昧に困ったような笑みを浮かべて、コートの下に背負っていた銃を下ろした。付近のジャンク屋でパーツ漁りをした帰りで、運よく持っていた相棒――旧ソビエト連邦設計・中距離狙撃銃VSS―――別名「ヴィントレス」。ある程度の稼ぎがあれば拳銃くらいは家に置いてあるものだが、いくら治安の悪いスラム街といえども、さすがに護身用と称して狙撃銃を所持している酔狂はそういない。

「君は……そうか、分かった」

店主は彼が"一般市民"でないことを悟り、親指を立てて店の奥を示した。


薬局は3階建ての1階部分に位置し、裏通りに出られる勝手口が薬戸棚に挟まれてあった。隣接するビルは窓伝いに物を手渡せるほど近く、やっと回れ右ができるほどの幅ではあったが、テロリストが徘徊していない点はタタラにとって好都合だった。放置された粗大ゴミを踏んで音を立てないよう細心の注意を払い、勝手口の隣で錆びている外階段に手をかける。彼は地面を蹴って真上に跳び、外階段の踊り場とビルの壁を使って数回の動作で屋上に辿り着いた。

敵の視界に入らないよう素早く伏せ、屋上の縁に身を潜めて地上の状況を把握する。薬局側の岸に古ぼけたジープが停めてあり、少女らが引きずられるままに寄ってきたことも運が良かった。少女らはテロリストに突き飛ばされ、悲鳴を上げて薬局のドアの付近へ前のめりに転んだ。テロリストは太腿のベルトからコンバットナイフを取り外し、まるでそれが手慣れた退屈な動作かのように黙々と少女の服の裾を切り裂いた。紐状に整えた衣服の切れ端を使って、少女に轡を噛ませ手足を拘束する。視界で確認できる限りでは敵の数は23人、少女たちを守りながらの一対多では苦しい比率だが、仲間を呼んでいる時間の余裕もない。タタラは敵が携える銃を見た。仲間の付近でも銃口を下げないということは、テロリストがまともな訓練を受けていないことの証拠であり、乱戦になった場合は少女も仲間も構わず撃つであろうことを表していた。盤面をひっくり返す数秒間を、どうにかして稼ぐ必要がある。

タタラは咄嗟にコートを脱ぎ、愛機VSSの弾丸を数個ポケットに入れてボタンを留め、屋上の隅に転がっていた鉄パイプにコートを縛り付けた。地上からの死角になるまで十分に下がると、少しだけ眼鏡を下げてから、コートをストリートの対岸に向かって放り投げた。周囲の風景と投げた布の塊が、スローモーションに弧を描く。流れるように銃身を構え、コンバットアイとVSSの組み込み照準システムが瞬時に連動する。


「――――――捕捉」


トリガーを引くと同時に射出された弾丸は、宙に投げ出されたコートのポケットの中央を打ち抜いた。弾丸射出用の火薬が連鎖爆発を起こし、耳をつんざくような凄まじい破裂音を立てる。テロリストはその音に全員が上を見上げ、空中で煙を上げて落下するコートの切れ端に向けて、反射的に短機関銃を振り上げた。

タタラはコートを撃った直後に、屋上の縁から地上へ向かって身を投げだした。ド、と重い音を共に着地――考えている暇はない、動け、動け、行動のために脳をフル回転させる。ストリートの中央付近に素早くVSSを投げ、少女たちの前に駆け付ける。彼は少女らの足を拘束する布切れを引きちぎり、まとめて抱え上げ、建物の隙間に押し込んだ。

「隠れて!」

少女らが猫のように小さくしなやかな身体を滑り込ませ、入り組んだコンクリートの奥へ身を隠す。タタラはさらなる注意を引きつけるため、自らジープの前へと戻った。テロリストは容赦なく彼を追って弾丸を浴びせ、抉れた地面や車の窓ガラスの破片が好き勝手に弾け飛ぶ。外れた弾丸が水埃を巻き上げ、辺りは濁った空気によって視界が悪くなっていく。ジープの輪郭を判別できなくなった頃に、テロリストのリーダーらしき人物が腕を振って周りに怒鳴った。

「もういい! 無駄撃ちするんじゃねぇバカ野郎! さっさと死体を見てこい」

「了解……」

マスクの下で不機嫌そうに眉を顰めながら、立ち込める霧と埃の中に渋々ながら入った下っ端だったが、その姿は"消えてすぐに現れた"――――外に吹っ飛ばされて帰って来たのだ。下っ端は空中を踊ったのち地面に叩き付けられて、哀れにも白目を剥いて気を失っている。テロリストが持っていたアサルトライフルは、並の傭兵であればまず目にすることなく人生を終えるような形状に変り果て、グリップとマガジンの中間あたりで"く"の字に歪んでへし折れていた。立ちすくむテロリストの目の前で、ストリートを舐める風が煙を一気に吹き払った。逃げ遅れた一般人のように肩をすくめて、眼鏡の大柄な青年が申し訳なさそうに立っている。

「そ、そんなに撃たなくても、人は殺せますよ」

背景に添えられた穴だらけのジープと、眼鏡の傾きを直しながら上乗せされる間の抜けた言葉は、テロリストをいっそう呆然とさせた。もっと乱戦になることを覚悟していたタタラは、テロリストとの間に流れる奇妙な間を持て余し、何か言わねばと余計なことを口走った。

「あのう、その、ぼ、僕も怖い思いはしたくなくて……今日の所は、お帰りいただけると……」

無論、答えはノーだった。正確にはノーの2文字すらなく、代わりに弾丸が雨霰と飛んで来たのだが。ひええと情けない悲鳴を上げ、タタラはボクシングのような構えで頭部を庇った。薄い氷の膜に似た六角形のホログラムが隙間なく連なり、袖を捲った両腕、腹、脚を――襲い来る弾丸から彼の全身を守っている。

ホログラムの正体は、大戦前にDARPAが開発していたアシンメトリックマテリアルを用いた非対称透過シールドである。米空軍が廃棄した戦闘機から採取したマテリアルが彼の表皮全体に埋め込まれており、これらは物理的接触による運動、熱エネルギーを揃えて法線方向に反射する。開発中は史上最高の防御兵装と噂され、安価で普及した暁にはこの世の戦争理論がひっくり返るとまで言われた代物だ。

とはいえ、シールドの耐久性は有限である。タタラはその場にうずくまってしまいたい所をなんとか堪え、最も近い敵へと間合いを詰めた。乱射の反動で踊るバレルを掴んでライフルを奪い取り、元の持ち主の横っ腹に銃床を叩き込む。

彼は万一の事態に備えて路上へ放った相棒をちらりと見た――できれば今日は、おまえを使いたくないんだ。

アサルトライフルだって当たり所が悪ければ死ぬ、ましてや対巨大生物兵器用に改造を施したVSSは、とても人間に向けたいと思える性能ではなかった。ロックやジャックが喜んで見るスプラッター映画だって恐ろしいのに、現実にちぎれて放り出される腕や脚などは考えるだけで膝が笑う。タタラは脳裏をよぎる不吉な景色を振り払い、声を荒げて駆け寄るテロリストの太腿を奪ったライフルで射た。弾丸が肉を浅く掠め取り、男は血飛沫と共に呻きながら地面へつんのめって転ぶ。

さらにタタラは複数名の塊へ飛び込み、目の前に立ちはだかる兵士の腕を狙ってはライフルを叩き付ける。拳は使わないし、頭や腹も狙わない――拳が当たれば脳や内臓が挽肉のように崩れてしまうから、今は適当な場所の骨を折るだけだ。

ああ、ここにシアンがいてくれたら、テロリストを炭素繊維のワイヤーで片っ端から縛り上げてくれるから、取り押さえるために血を見る必要もないのに。悪人と呼ばれる人々の血液であっても、それらの鈍い赤色を見るたびに、彼は脳が淀む感覚に襲われた。

髪や頬を掠めて飛び交う銃弾の雨の中を、ひた走る。彼の身体に弾丸が命中するか否かの瞬間に、軌道を予測した六角形のシールドが現れて弾く。頭の中ではひたすら祈りながらも、タタラが放った弾丸は無慈悲に皮膚を削り、時には銃床で腕や脚を折り、的確に関節を外した。

戦闘を放棄して逃げ出そうとした最後のひとりに向かって、放り投げた弾切れのライフル本体が回転して襲いかかる。重い銃身が後頭部に命中した兵士はカエルのような醜い声で呻き、つんのめって転び気を失った。


静まりかえったストリートの真ん中で、タタラは音や景色から自分自身を覆い隠そうと項の辺りを探ったが、隠れ蓑は敵の気を引くために使ってしまったのだった。震えるため息とともにストリートを見渡せば、あちらこちらで負傷したテロリストが死屍累々に呻いている。足元でうごめく塊に恐る恐る近寄っては、地面に放り出された銃のバレルを折り曲げつつ、タタラは小さな声で何度も謝りながらストリートを横切った。不幸中の幸いで人へ向けずに済んだVSSを拾って背負い、手慣れた感触に安堵する。

彼はゼウスに武装集団の連行リクエストを入れつつ、少女らが走り去った路地裏へと駆け寄った。少女らはまだコンクリートの壁に囲まれた路地に隠れていて、タタラが近づくと同時にストリートへ躍り出た。

「ええっ、逃げたんじゃ……」

困惑するタタラをよそに、轡もすっかり解いていた少女らは、小鳥の群れがさえずるように喋り始めた。

「ああ、死ぬかと思った」

「捕まった時は、もうダメだってな、神に祈ったな」

「お兄さん、お兄さんが全部やっつけちゃったわけ?」

「こいつさ、すれ違ってからずっとあんたの話ばっかりで」

「あっやだ、秘密にしてよ!」

一種の死線をくぐり抜けたはずが、少女らは泣きも喚きもしない。むしろ緊張感に欠けるほど肝の据わった様子は、幼いころから険しい環境のスラムで生き延びてきた証拠だろう。

「そういえばあたし見たんだ! さっきお兄さんの腕が、こうやって、上手く説明できないんだけど」

「緑色の壁みたいな、あれ何? あんたサイコパス?」

「サイキックでしょ!」

「似たようなもんだろ。で、どうなんだ?」

興味津々で詰め寄る4つの瞳にどぎまぎしながら、タタラはこめかみや鼻先に落ち着きなく触れた。

「えっと、超能力とは違って……メタマテリアルと磁場操作の応用で、例えば弾丸の力学的エネルギーのベクトルを……」

思考の海で上手く泳げないことに加えて、物事の解説を始めると収拾がつかなくなる所も彼の悪い癖であった。少女たちはきょとんとして首を傾げ、"簡単な言葉を選んで説明する"タタラの顔を見上げた。

「なんかよくわかんないけど、お兄さんはすごいよ」

「そ、そんなこと」

「本当に助かったぜ、あんたは命の恩人だ」

「ねえ、どこに住んでるの? 名前は? 何かお礼がしたい!」

「いや、その……」

「ヒーローに住所聞くやつがあるか、そういうのは秘密がいいんだよ。こいつしつこいからな、走って逃げた方がいいぜ」

「あーもう、そゆこと言わないでよ!」

「あはは……」


一方の少女の猛追をどうにかこうにか丸め込み、別れ際になってタタラが口を開いた。

「この子、君たちの友達?」

口を閉じることを知らない雛鳥のようなふたりとは正反対に、黒髪の少女は終始言葉を発することなく、どこか疲れ切った様子だった。服はとびきり擦り切れて傷み、裸足の脚や腕は砂にまみれてひどく汚れている。

「違うよ。この子が逃げ遅れてたから、あたしが引っ張って一緒に隠れたの。結局、あいつらに見つかっちゃったけど。だから知らない子」

「そっか、分かった……じゃあ、帰り道も気を付けてね」

少女らを保護者の居る家まで送ってやりたい気持ちは山々だが、黒髪の少女の身元を探ることが先決だろう。少女たちは手を振りながら、広いストリートに沿って歩いて行った。


振っていた手を下げ、タタラは黒髪の少女を改めて観察した。彼が地面に膝を付いて座り、やっと同じくらいの身長。8~9歳くらいだろうか、劣悪な環境で成長が遅れているのか、か細い手足が痛々しい。本来はカメラのレンズのように円くて大きいであろう吊目も、周りが汚れて十分に開くことができず、黒髪は泥に塗れ束になって固まっている。今にも眠って倒れてしまいそうにぼんやりとしている少女の扱いに悩み、彼女の緊張が少しでも和らげばと自身の名を名乗る。

「僕はタタラ。タタラ・ザ・リザード」

「…………と、と、とか……げ、さん」

「そう、トカゲ。君の名前は?」

「な…………い。な、な、なま、え……な、」

黒髪の少女は拙く聞き取りづらい言葉でそう言った。治安が覚束ないスラムでは、与えられた名も無ければ親もいない孤児はいくらでもいる。彼らは崩れかけた廃墟やマンホールの中の下水道跡をねぐらに、市場で聞きかじった単語を名乗って暮らしている。おそらく彼女も孤児だろうと、タタラは口には出さなかったが考えていた。孤児を保護した場合、形式上はゼウスに届け出ることになっている。彼は届け出た後に孤児がどういった扱いを受けるのか詳しくは知らず、持っているのはせいぜい政府が運営する教育機関に入れられるという程度の知識だった。今回もその規則に従うしかないだろう。

タタラは少女を連れ、テロリストの目を盗んで路地へ入り、少し歩いて薬局の裏手へ回った。勝手口の軒下に少女を座らせ、このストリートを訪れた当初の目的――おつかいの成果を回収するべくドアを開く。薬局の店主は、やや興奮した口調でタタラを迎え入れた。

「驚いたな。傭兵か」

「はい、PMCに所属しています」

「道理で……いや、意外だな。あ、悪い意味じゃないんだが」

「き、気にしないでください。僕もヘンだと思います」

「そう言いなさんな。しかし、あの数をひとりで片付けてしまうとは。肩書に偽りなしか」

「相手が素人で、運が良かったんですよ」

「謙虚だな。もっと誇るべきだ」

「誇る……ど、努力します」

店主は一層からからと笑った。

カウンターでバックパックに医薬品を詰めてもらいながら、タタラは丸暗記した規則通りの文言を告げる。

「えっと……治安管理課には僕から連絡しました。当局の到着まで5分から30分を要します。武装集団の拘束完了までは施錠できる屋内で身を隠し、安全を確保してください……あっ、あの、すみません……シャッターはこのまま締めておいてください、ということです」

店主はうんうんと頷き、バックパックを差し出しかけて黙った。

「……失礼ついでに聞いても良いか」

「は、はい」

「君はどうして傭兵を続ける」

タタラは差し出した己の手を見つめた――よく観察すれば気づく、いくらも傷や色あせのない、つるりとした、人造の。戦闘用のヒューマノイドとして造られたら戦わねばならないから、逆らいもせず、ただ運命にひれ伏しているんですよ、ストリートを歩いていた人々だって、誰だって同じだ、ねえ、そうでしょう! 思い切り叫んでやって、気が触れたように笑いたかった。

「…………勇気がないんです。逃げ出す勇気が」

「なんだか安心したよ。立ち止まっている間は、少なくとも今以上に悪くなりはしないものな」

店主はバックパックを手放し、すり切れた薬の空き箱を玩びながら、そう呟いた。



勝手口に待たせておいた黒髪の少女は、しゃがみこんで壁に寄り掛かっていた。ビルの合間を抜け、高い曇天を旋回する大型猛禽類の黒いシルエットを眺めていたが、タタラの姿が現れると彼に視線を戻した。

万一、あくまで万が一。彼女が単なる家出少女で、意地を張って名も住処も隠している可能性を考える。戸籍管理がスラムの人口を把握しきれていないため、子供らはゼウスに引き渡した時点で速やかに孤児として扱われる。そうなれば実の親と再開するのはほとんど不可能と言えた。念のために質問を変えて少女を問い質したが、やはり彼女は、彼女自身に関する情報すら曖昧でよく理解していないようだった。

タタラは少女の傷を診るために、彼女の目線と同じ高さになるよう膝を着いた。少女の手足や頬には、深々と裂傷がある。しかし、細く頼りない腕の裂傷は既に治りかけているようだった。テロリストにやられたものではない。

「この傷、どうしたの」

タタラがおずおずと問うたが、少女は俯くばかりで口を開こうとはしない。子供同士の喧嘩や道端で転ぶ程度ではなく、自動車と接触事故でも起こしたのかと疑いたくなるほどの傷だ。しかし事故にあったのならばそれを隠す必要はない。となれば確率が高いのは人為的な原因、例を挙げるならば彼女よりも力のある者による暴行、など。この世には話したくない理由も存在する。彼が言葉を噤み、続いて頬の傷を診ようと少女の顔を覗き込むと、その瞳と視線が交錯した。


―――何だ、今の感覚は。


予想だにしない違和感が、緩んだ構えを電流がすり抜けるような衝撃として襲う。淀んだ鳶色の球体は微動だにせず、真っ直ぐにタタラの瞳孔を射抜いている。一体何がおかしい、一体何が"間違っている"。タタラの瞳の周りには彼の髪も耳も鼻も眉もあり、その更に外側には限りなく遠くまで廃墟や荒野、背景が広がっている。しかし、彼女の瞳はその一切に逸れることなく、定点カメラのように彼の瞳を見つめている。

「ちょっとごめんね、嫌だったら言ってね」

タタラはまさかとは思いながらも、無抵抗の少女を抱き上げた。やはり、少女たちを3人まとめて抱え上げたときは気付かなかったが、彼女はこの体格の女児にしては明らかに重い。金属骨格を持つ者―――否、"物"。タタラのAIの中では少女の眼に覚えた違和感について辻褄が合った。少女の視線はあまりにも「真っ直ぐ」だったのだ、人間であることを否定するには十分すぎるほどに。少女はタタラに抱え上げられたまま、前触れもなく彼に向けて手を伸ばした。彼は驚いて思わず身を引いたが、抱き上げている以上離れることはできない。柔らかい指先がタタラの耳元をぎこちなく撫でた。

「………けが、し………し……してい、る」

シールドのわずかな隙間を縫った弾の破片が、耳を掠めて作った小さな切り傷だった。彼は少女が発した思いがけない言葉に眩暈すら覚えるようで、触れられるがまま硬直して息を飲んだ。無力でちっぽけな少女の行動を、自身の人工知能が処理できなかった故に、思考回路が停止しているのかもしれない。そんな馬鹿げた考えを払拭する余裕もない程に混乱し、タタラは抱えていた少女をそっと地面に下すと、心奪われたように跪いたままで少女を仰いだ。

「痛くないよ、大丈夫」

少女は満足に開くこともできない目を糸のように細めた。少女は微笑んでいた。彼は完全なる偶然の元で出遭ったこの少女が、自らと同族であることを――――”意思を持つ物体”であることを直感的に感じ取っていた。

人間の孤児なら保護すべきだ、しかし人間でない場合は? タタラは何であれ、想定外の事態には弱かった。またもやあらゆる選択肢が一挙に押し寄せて、どれかひとつを選択することが不可能にすら思えてしまう。こんなときにパニックを起こさず、どんな選択肢の中からでも他愛もないことのように選択してくれるのは。

通信を切っていた小型通信デバイスを起動する。ナナシとフォックスで少し迷ってから、相手を選んでコールする。


『いいじゃん、連れて来ちまえ。その方が面白そうだ。みんな大騒ぎになるね』

状況を伝え、返ってきた言葉は拍子抜けするほど呑気なものだった。使い古した通信デバイスのやや頼りない電波で、ナナシのかすれた声がさらにざらついて揺れている。

「真剣な話なんだから。困ってるんだ」

『真剣に聞いてるよ。大切だぜ面白さ。生活の質が向上する……』

いつも通りの何となくくたびれて、眠気を誘う、少し気の抜けた炭酸水を思わせる口振り。知らぬ間に握りしめていた拳に気付き、張り詰めた力を抜いてひらひらと振ってみると、奔流と化した思考が絡んだ糸をほどくように整理される。真面目にしてくれと口を尖らせながら、本当はいつでもこの気怠いリアクションを待っているのだ、とタタラは思った。

「でも、誰が造ったのかわからないんだよ。スパイだったらどうしよう。トロイやゼウスの盗聴器とか」

『まあね、貴様のようなお人好しの前に、テロリスト大勢と女の子ふたりを動員して、廃棄個体を装ったガイノイドを放り込むってのも無かないけど。俺様だったら、ケシ粒くらいの無人機ドローンをターゲットの背中にくっつけると思うな~』

「それもそっか……ああ、維持費の心配もあって」

『7機が8機になったからって大差ないって。いつも通りお前が露店商の特売に行くし、いつも通りナノマシンは買えない』

「あ。来週はナナシが買い出し当番だからね」

『チッ、逃げないよ。大体、その子を放って帰れないから連絡したんでしょ』

「うん……腐って錆びて、って姿を想像しちゃって」

『だったら尚更、勢いで持って来りゃいいのに』

「フォックスに怒られるかなあ」

『四つん這いでケツをペンペン叩かれんの?』

「その時は共犯ってことで呼ぶよ」

『最悪だ、特殊な風俗みたいだぜ』

「ほんとに最悪だ」

成人男性の姿を象った戦闘用のヒューマノイドが仲良く並んで、骨格標本のようなエンジニアに折檻される様子を想像し、タタラは小さく吹き出した。通信デバイスの向こうでナナシも笑っている。

『じゃ、こっちで適当に話しとくね』

「うん、ありがとう。頼むよ」

タタラは喋りながら足下の方へうつむき、通信デバイスの丸い角を指の腹で撫でた。少女はしゃがみ、狭い路地の暗がりから薄明るい空を眺めている。こちらにかけて良かった――面と向かって会話するとき、ナナシの赤い眼には少したじろぐけれども、音声なら――相談しておいてその言い草はなんだと自身を叱責するうちに、ぷつりと通信の途切れる音がした。




路地の地面と靴底の触れる音が、湿ったコンクリート壁を反響している。風通しの悪い廃工場地帯では、昨日まで降っていた雨もろくに乾かない。トタン屋根の端から水滴が落ちて、路地にいくつもの水たまりを作っている。

かつての合衆国の国境は、所属する大陸をごっそり塗りつぶせるほど十分な面積があったはずだ。けれどもこの付近のエリアでは、子供がめちゃくちゃに組み上げたおもちゃのブロックのように、工場や工場だった建物がひしめき合っている。一体どういう経緯だったのか、フォックスなら知っているだろうか。不要な回転をやめない頭をのせて、タタラは歩いてゆく。

縦に背負っていた狙撃銃を横に倒し、上手くベルトをくくりつけて椅子のように支えてやり、少女はその上に尻を預けている。彼ははじめ、少女と手を繋いで帰ろうとしたが、恐ろしく華奢で小さな手を引こうものなら、不器用な自分ではうっかり握り潰してしまいそうだと考えてやめた。エニグラドールの誰よりも弱々しい姿で、一体どんな役割を与えることができるだろうか。

そこまで考えてはっと気付き、タタラは得意の自己嫌悪に片脚を突っ込んだ。なんてドジなんだ。僕は最も大切なことを確認していない。"一緒に来るかい"と、この展開を望んでいるか少女に問わなければならなかった。けれども、俯いたタタラの足元では、背中でまどろむ少女が水たまりの中に映り込んだ。呼んでみても、その場で小さく飛び跳ねてみても、少女は脳みそをどこかに落としたかのようで、くったり眠っている。タタラはため息を吐いた。無責任な安堵からくるものだった。これならもう答えを聞けない。義務や責任や憐憫というよりかは、少女とは初対面でありながら、なぜか体と記憶が吸い寄せられていて、どうにも捨てられそうにないという方が正しかった。それはまるで、油で深く磨き込んだ銃、文字で埋め尽くした日記帳、使い古して肌触りの良くなった毛布などに抱く感覚と似ていた。

やがて野良猫以外には通る者もない、狭く複雑に入り組んだ路地の突きあたりに辿りついた。なんの変哲もない廃墟――エニグラドールのセーフハウスの前で、ぴたりと足を止める。錆びた扉の横に立てば、頭上に設置されたカメラがタタラの姿を認証し、扉がゆっくりと開いた。


重苦しい玄関の先は薄暗い廊下で、コンクリート打ちっ放しの天井は無数の配線や塗装の剥げたパイプがむき出しになっている。扉や窓などに様々な強化を施してあると知っているからか、同族とはいえ幼い少女を連れているからか、今のタタラには自分が犯罪者でセーフハウスは監獄のように思えた。

彼は廊下に面した扉の前で立ち止まった。小窓に取り付けられた曇りガラスからは、煌々と輝く白熱電球の熱を感じる。扉の隙間から声が漏れている。声の調子は業務的な内容ではなく、数機が談話室に集まって談笑しているようだ。タタラは扉の前に立ち、背負っていた少女をおそるおそる腕に抱きかかえた。肩まで使って深く息を吸い込む。どんなリアクションが飛んできても動じるまい。多分。

腹を括ったのか括り切れていないのか曖昧なまま、勢い余って扉を押し開けた。


タタラは"場が凍りつく"という定形表現はまさしく、たった今の状況を表すのだと確信した。テレビゲームに盛り上がっていた双子とホノメも、ソファーを占領しているシアンとナナシも、タタラを見てブロンズ像のように固まっている。タタラは逃げ出したい衝動に駆られた。疾しい行動ではないはずが、いざ視線を浴びると何やら罪の意識がもくもくと湧いて現れる。

……いや。ナナシには事前に言ってあるのだから、その反応はおかしい。ナナシは困ったときに会話すると落ち着く相手だが、同時にいたずら好きの側面があって油断ならない。そしてタタラはパニックに陥っているとき、その側面をすっかり忘れているし、今回ももれなく忘れていた。扉を開けて約3秒、彼の思考回路はあみだくじのように嫌な予感を引き当てた。

「た………ただいま……」

悪あがきに、とりあえず挨拶をしてみる。

「遅かったじゃ」

隣接するキッチンから、ギガが飲み物をすすりながら顔を出した。少女を連れたタタラを見て威勢よく噴き出し、神妙な顔でカップをカウンターにそっと置き、それはそうとタタラに詰め寄る。

「まず、置け」

「はい……」

ギガが指すとおり、少女をソファーに――シアンは借りてきた猫のように隅へ寄った――寝かせてやる。みんな絵に描いたような反応だなあ、と場違いに悠長な感想が脳裏をよぎった瞬間、足の裏が床から離れた。首根っこや胸ぐらではなく、クマのぬいぐるみを取り扱うように、脇の下のあたりを支えて軽々と持ち上げられている。

「なんらかの言い訳は用意してあるか」

ここで簡潔にうまく説明できない場合、舗装されていない道をかっ飛ばすブルドーザーのバケットに引っかかっている気分をしこたま味わうことができる。ナナシや双子が組織内外で面倒を起こした時などに食らっているものだ。食らうと高い確率で首を痛める、過酷なアトラクションである。

「ちがっ、さささ、攫ってない、誤解」

「攫ったかとは聞いてねえぞ。やましいのか」

「いやその、待って違うの、理由が」

「誘拐に理由が……!?」

「誘拐ではなく!」

タタラはエクストリーム・重機ごっこを回避せんとして順調に墓穴を掘り、一方で新しい興味の矛先を見つけた双子は、今しがた盛り上がっていたテレビゲームを放り出した。彼らは少女へ左右からにじり寄った。犬のような仕草で床に座り、少々不躾に眺め回す。気配を感じた少女はようやく瞼をうっすらと持ち上げ、ソファーの上で辺りを仰いだ。

「ちいさい」

「汚れてル」

「げんきないな」

「眠イ?」

「なんかくう?」 

双子は少女の目の前で手を振ってみたり、どうにか笑いを誘おうと渾身の変顔を繰り出している。下水道で暮らす孤児には到底縁のない騒がしさに、少女はソファーの上でやんわりと身を縮めた。双子に敵意がないことは理解しているようだった。

「ひとさらいはよくないよな」

「警察に言ってやろウ」

「あやしいひとをみかけたらごれんらくください」

「電話かけヨ」

「うわーっやめて! ナナシ!」

「先に言わない方が面白いかなと……」

「ばか!」

タタラは未だ開放されることなく、宙ぶらりんのつま先をばたつかせ、共犯者を恨めしげに見下ろした。事前に話しておくとの言葉を信じた時点でまぬけだった。いつだって靴からバネじかけのおもちゃが飛び出して尻餅をついたり、窓にこっそり切り貼りしたダクトテープのせいで、月明かりで壁一面におそろしい幽霊の影絵ができて悲鳴を上げたり、ときにはホノメや双子と結託したりで、タタラは数え切れないほど被害を受けている。前回のイタズラの記憶が薄れ、ちょうど油断した頃にこうやって仕掛けてくるので尚更危険なのである。おかげで彼は今回も見事に引っかかってしまった。

いよいよ騒ぎが大きくなってきた所で、ホノメが掌を打ち合わせる仕草と共に声をかけた。

「まあ、まあ、いいわ、話を聞きましょう。あなたのことだから、ちゃんと事情があるのでしょう?」

「その感じやと、ナナシも何か聞いてるんちゃう。お仕置きならそっちかもよ」

「確かに」

「げッ、来んな来んな、ブルドーザーはごめんだ」

疑いの矛先がナナシに移り、ようやくつま先が床についたタタラは、血が滞った肩の関節をほぐしながら弁明する。

「僕も最初は孤児かと思って、ゼウスに引き渡そうと考えていたんだ。でも」

続く台詞を遮って談話室の扉が開き、フォックスが顔を出した。

「君たちねえ、静かにしたまえよ。ご近所迷惑……」

彼は一同が指し示す方を目で追い、ソファーの隅に小さく収まる少女を見た。軽口がぷつりと途切れる。

「"それ"は誰が連れてきたんだ」

「ぼ、僕が………」

「どこから」

「第42管区のストリート……あの、ろ、露店がたくさん集まってる所の」

フォックスはタタラの話を聞いているのかいないのか、機械的に質問を並べた。答えにもろくに反応せず、少女の手首を掴み、談話室の外へ引きずるように連れ出してしまう。思いがけない展開にどよめく一同を後目に、嫌な予感を察知したタタラは、後を追って廊下へ飛び出した。

「あらま、行ってもた」

「フォックスの奴、"それ"って言ったよな」

「あ、なんだよ。ネタばらし前なのに……眼鏡曰く、あの子ヒューマノイドなんだって。ゼウスに渡せばスクラップになるから、拾ってきちゃいましたァって」

「本当に? とても信じられないわ。ヒトに見えるもの」

「俺様は話だけ聞いてたけど、実物見たらかなりヒトだわ」

「けどよ、おれたちもいいせんいってるよな」

「サイボーグの傭兵よりはニンゲンらしイ」

「それ。ウチらとトントンか、もっと精度高い個体がスラムをウロチョロしてるってのは何か……気になるわ」

「そっかあ?」

「アンタね、エニグラドールはかなり特注品やねんで。こんなぷにぷにの贅沢生皮ヒューマノイドが、そうワンサカいてたまるか」

「いー」

シアンはジャックの浅黒くやわらかい頬をつまみ、左右へ存分に引っ張った。ナナシはソファの上に緊張感なく横たわり、少女が去った扉を眺めている。

「いいや、近頃じゃ愛玩用だのセクサロイドだのって、結構"いいせんいってる"ヒューマノイドも多いっていうじゃんか。だから連れて来ちまえって言ったんだ」

「やっぱお前が主犯じゃねえか」

「気持ち悪い知識ですわね。どこで覚えてくるのかしら」

「小金があって不思議な性癖のオッサンとか、スラムにいっぱいいるんだよ」

「普通はそういうのに関わるチャンスがないって話や」

ナナシは強引な沈黙で顎をかきかき、ふと思い出したように話題を変えた。

「……しかし、どっかで会ったような顔だぜ」

「俺も知ってる気がする」

「えいがとか」

「似てる子役とカ」

「どうだかなあ。思い出せねえや」

みなは首を傾げた。談話室に会した一同が揃って、あやふやで要領を得ないが、似通った既視感は抱いているようだった。



廊下は肌寒い。タタラは薄暗がりに浮かび上がる白い髪を呼び止めた。掌を無意識に握り締め、彼なりに語気を強めて問う。

「どうして一目でわかったの」

「長年の勘ってやつかな」

フォックスの背中が嘯いた。仲間たちは誰もが少女をヒトと認識した。旧世界から生き延びてスラムをうろつく、傷んだプラスチック製のヒューマノイドたちを思い返せばその判断は当然だった。それは同時に、他の認識が容易には発生しえないことを意味する。たとえエニグラドールを造った研究者であっても。

「……君にはこんな言い訳じゃダメか」

少女は手首を掴まれ、家畜さながらに売り買いされる奴隷のように俯いている。タタラは背筋が冷えていくように感じた。少女を同類と認識していたからだ。骨ばった指が、タタラ自身の手首を掴んでいるようにすら思えた。フォックスは振り返らない。

「これはプロトタイプだ。エニグラドールの。二度と顔を見ることはないと思っていた」

「なぜ、スラムに」

「失敗したのさ。当然、実験に失敗はつきものだ。いくつかの試験機は、君たちのようには生きられなかった」

機能停止した試験機を廃棄したが、まだ仮死状態だったせいで蘇生できた可能性はある。フォックスは呟いた。

「また、棄てなければいけないの」

「偶然とはいいがたいからね。過去に私が造り、棄てた個体だ。それが偶然息を吹き返し、偶然君と会い、偶然私と再会するなんてことは奇跡だ。中を開いてくまなく調べ、それから棄てるとも」

少女を連れてくる選択は、エニグラドールと少女が無関係であることが大前提にある。それが"奇跡的に"覆った今、少女の皮膚の下に、眼球や耳や筋肉のすきまに、脳髄に盗聴や盗撮用の有機デバイスが仕込まれている可能性が浮上する。

死神のような黒染めの白衣と怯える少女は、共に廊下の暗がりへ溶けてゆく。これから少女は作業部屋の手術台へ寝かされ、狐面の暗い眼窩を最後の記憶とし、隅々まで切り開かれてしまうのだろう。タタラは壁にもたれかかり、握りしめた拳をこめかみのあたりに押し付けた。あの有無を言わせぬ口ぶり、漆黒の瞳孔、毒蛇に見据えられるような絶望。彼はずるずると壁を伝って座り込んだ。群衆は好きだ。人間は怖い。その思考と直面することは恐ろしい。特に、フォックスのような人間の。


薄暗く時計もない廊下で、時間の感覚を失っていた。タタラは呻いた。天井のあたりで空調のダクトが唸る声を聞いて、何分――何時間が経過してしまっただろう。ふと談話室の方から光が差した。扉が少し開き、ナナシが顔を覗かせた。

「何やってんの……ああ……分かったぞ。悪い展開になったんだな」

ナナシはオフィスチェアに座ったまま、コンクリートの床をがらごろと滑って寄ってくる。

「…………僕が出ていってから、どのくらい」

「いくらも経っちゃいねえよ。あの小さいのは?」

「フォックスが連れて行った。棄てなきゃいけないって」

いきさつを説明すると、ナナシは牙を剥いて唸った。

「気に食わねー。盗聴器くらい、壊さなくたって取り除けるに決まってる。赤の他人が、造った本人より複雑な所に仕込めるもんか」

壊さなくていいなら、棄てる必要なんかない。変なこと言ってないだろ、と首を傾げる。

「そう……なんだけど……フォックスにも何か事情あるみたいだから……」

「そりゃあるだろうよ、あの様子じゃ。ところが事情なら貴様にもあるし」

ナナシはタタラの前に椅子を放って通り過ぎ、作業部屋の扉の前で立ち止まる。錆びかけたドアノブが砂っぽい音を立てて進入を拒んだ。鍵がかかっている。突如、ゴッと重い悲鳴を上げ、扉が内側に開いた。ドアノブは空き缶のように床へ放られて転がった。

「ナナシ?!」

思わぬできごとに、タタラはただでさえ弱々しい声をすっかり裏返して叫んだ。足も縺れながら廊下を走り、遅れて作業部屋に飛び込む。無数の配線や電子機器、資材の箱で足の踏み場もないほど散らかった部屋を、ジャングルの探検隊さながらにかき分けてゆく。部屋の最も奥、ライトで煌々と照らされた作業台の上に少女が横たわっている。汚れて擦り切れた衣類はなく、皮膚の泥や砂は拭き取られていた。ナナシはすでにパイプ椅子をふてぶてしく占領し、少女をまじまじと観察していた。

「行儀が悪いな。扉をノックするべきだ」

「誰に教育されたんだっけな」

ナナシも、無表情の狐面も穏やかな口調で、しかし空気は刺すように緊張している。タタラは生唾を飲んだ。

「俺にも見せてよ、バラバラにして棄てるとこ」

「…………」

フォックスは口を噤んだ。

「タタラが拾ってきたんだから、棄てる前にこいつを納得させるのが筋じゃん」

話の引き合いに出され、タタラは狼狽えた。ナナシに服の裾を掴んで引き寄せられて、作業台と、少女と共にライトの下で照らされる。

「失敗した、と言っただろう。プロトタイプの脳髄は情緒が欠けていた――まったくの無ではなくとも、私が想定するより遥かに足りなかった」

喜怒哀楽の有無であれば、プロトタイプにも有意に存在した。問題はその強さ、複雑さ。観察を続ける間、少女の情動はどのパラメータの計測においても、人為的に書き込んだレベルからいくらも変動しなかった。生まれた瞬間に固定され、精神も肉体も成長することのない永遠の少女。

「もはや発達の余地はほとんどない。あっても、ひどく時間がかかるだろう。並行して改良を重ねていたシステ厶が――君たちに搭載しているものが形になってきたから、そちらの実装へ本腰を入れたのさ」

フォックスは淀みなく答えたが、タタラは食い下がった。彼は握った手の中で、親指と人差し指の爪を擦り合わせた。震えている。震えているけれど、この場においては矛盾を指摘せずにはいられない。知性はタタラにとって衝動や本能だった。

「あ……頭の中に、何がどれだけあれば十分かなんて、誰にも定義できないよ。それはあなたが一番よくわかってるはずだ。……僕らの存在意義は――はっきりと聞いたことはないけれど、姿や性質から考えてヒトらしくあることじゃないかと思う。それなら、ヒトって何? ヒトの平均って何なの。例えば…………事故で脳を欠損して、特定の感情だけを失ったらヒトではなくなるの? 生まれつき痛みを感じない者は、ヒトではない何かなの?」

タタラはまくし立てた。途端に、後悔が暗雲のように彼の頭上を覆ってゆく。

「どうしよう…………ご、ごめんなさい。変なこと言って……でも……あなたはまだ、何か嘘をついていると思う。棄てたい一番の理由はスパイの可能性でもないし、失敗したからでもない。いいや……極端なことを言えば、あなたの定義では失敗作なんか生じないはずだ」

タタラはずっと目を背けて、俯いたまま言い切った。沈黙の中、恐る恐る視線を上げる。フォックスは頬をひっぱたかれたような顔でタタラを見ていた。いっそ勢いよく怒ってくれた方がずっと気が楽だった。夜が来て日が昇り、幾度となく繰り返されるまで、その沈黙は終わらないように思えた。タタラは自ら作った状況がいたたまれなくなって、俯いた姿勢のまま壁を見た。部屋中に並んだ金属ラックの中に不釣り合いに玩具じみた目覚まし時計が埋もれていて、その長針はやはりいくらも進んではいなかった。


「…………この世は恐ろしいから、不幸な運命が待っているに違いないから、幼い精神を開放してやろうとしたんだ」

見るに耐えないから殺したかった。フォックスはふと口を開いてそう言った。例えるなら、末期の難病にかかった動物を無理やりに生き長らえさせているような気分だったのだ、と。

「責任を持ってきちんと壊すべきだったのにね。ハンマーやらバールで頭を潰そうとした。劇薬を投与することも考えた。死体袋に詰めて焼却炉に放り込もうとしたこともある。そのどれも、なぜだか私には難しかった。今日こそどうにかして――確実に壊してやらねばと思っていた」

フォックスはマスクを外して、散らかった机の上に放った。彼専用の軋む椅子へ座り、深くため息を吐く。

「……………………この子が本当に不幸だと言ったら、殺せばいいよ」

思わず口元に手をやった。自分から尖った破片のような言葉がこぼれ出るとは思いもよらず、タタラは背筋がざわめく感覚を味わった。何か自分自身の言葉を補足しなければと焦った直後、ナナシが普段と変わりない調子でからりと笑った。

「こいつの言う通りだ。まあ、あんただけじゃ不幸にするかもだけど……今は小煩いのも陽気なのも、お硬いのもお人好しもいるし。試す価値あるって」

最早フォックスには何かをごまかす余地もないとナナシは踏んでいた。彼は途端に目を見開き、落ち着きのないおどけた仕草でタタラとフォックスを交互に見比べた。少女は屋根のある安全なベッドで眠るのだ、今晩からでも。ナナシの口調はそう言っている。

フォックスは祈るように両手を合わせて握りしめた。しばらく殉教者の彫像のように動かず――やがて目を細め、かすかに微笑んだ。


タタラはようやく会話のバトンが手から離れたのを良いことに、今更ながら、自分が大きな間違いをしでかしたのではないかと考えた――だって、僕にこんな微笑みが作れるだろうか? 大切な誰かからナイフを突きつけられて、「君に殺されたって許せるよ」と囁くような表情を。









少女を拾った翌日、夜。

タタラはマグカップや軽食を載せたトレイを慎重に持ち、作業部屋のドアを肩でそろそろと押し開いた。昨晩から籠ったきりで夜が明けていたため、心配になったタタラと、ほとんど冷やかし目的のナナシが様子を見に来たのだった。

「フォックス。死んだか」

ナナシの冗談にも一向に返事がない。

「らしい。不摂生な中年はすぐ死ぬ」

「縁起でもないなあ。まだ一晩しか経ってないんだから……」

フォックスは一旦作業に取り掛かってしまうと、それからの集中力は尋常ではない。時間どころか日付すらも忘れて、取り憑かれたように作業に没頭してしまう性質だ。タタラはある出来事のことを思い返しながら、利用目的の分からない配線や金属ラックに積まれた工具の山、電源の入っていないモニタなどでできた森を掻き分けて進んだ。

以前、「作業に専念するから放っておけ」と言われ、言葉の通り部屋に籠った彼を放置したことがある。ドアに鍵もかけてあるし、知らないうちに食事や睡眠をとっているのかと思い、皆は数日気に掛けずにいた。ところが、あまりに長期間姿を見かけないため、さすがに心配になった一同が部屋に押し入った。案の定、集中しすぎてエネルギー切れになり床に倒れているフォックスが発見された――という逸話が残っている。フォックスが死んだら誰がエニグラドールをメンテナンスするのか、という意味でとても洒落にはならない話のはずが、これを逸話と呼ばないのはタタラだけである。

作業中に話しかけられることはあまり好まないフォックスも、さすがにそれ以来ドアに鍵をかけるのは控えているし、この日に関しては壊したドアノブの修理をナナシが放置している。おかげで、すんなりと部屋を覗くことはできた。足場が判別できないほど暗い部屋を奥へ進むと、フォックスは骨ばった背中をまるく曲げて作業台に向かっていた。

この部屋に立ち入るときはいつでも、例え椅子に座った背中が見えていようと、それがすでに即身仏と化してはいないかと不安になる。手のひらが確かに後頭部を掻きまわして、タタラは安堵した。

「休憩しませんか」

肩を叩くと、本当に彼が入ってきたことに気が付いていなかったのだろう、狐面が弾かれた様に振り向いた。

「来ていたのか、気付かなかった。ありがとう、トレイはそこに置いてくれ」

フォックスは狐面を外してディスプレイの端に放り、トレイに乗ったマグカップへ手を伸ばした。タタラは作業台に寝かされている少女に視線を移した。少女はハーフパンツと大きすぎるトレーナーを身に着けていた。何か言いたげな様子の彼に気付きながら、フォックスはコーヒー風味の合成飲料を少し口に含んだ。

「急ぎの作業は済んだよ。盗聴盗撮、諸々の機器を調べた。システム面でもマルウェアが混入していないか確認した」

「何か仕込まれてたの」

「ひとつもなかった。正直、今でも信じられないが……疑いようがない程に調べ尽くしてしまったよ」

「奇跡って訳。そりゃめったに起きないけど、起こったっていいよな」

ナナシは例によってパイプ椅子を占領し、さも他愛ないことのように言った。それからすぐに、服のセンスが悪いだの、もっとかわいい柄にしろだのと好き勝手な話題を始める。

「可能な限りの調整を加えて、週末明け頃にはリブートできるだろう。服は……知っての通り専門外さ。ホノメに頼むといい」

少女を処分せんと冷え切っていた声色も、異様な微笑みも今はなく、フォックスは普段と変わりのない様子に戻っている。タタラは長いこと肩の辺りに凝り固まっていた緊張がようやく解れるのを感じた。


「幸せになれるだろうか?」

フォックスは椅子の背もたれに体を深く預け、マグカップを揺らしながら呟いた。

「て、定義が難しすぎるよ。この子にとって、銃の整備が幸せな時間とは思えないもの」

「はー、コレだからインテリ共は!」

ナナシは大袈裟に両手を振って呆れてみせた。

「いいか、まずはギガのケツを叩いて美味いビスケットを焼かせる。そしたら、この小さいのがビスケットを食う。ついでに俺やおまえらも食う。そういうことでしょ」

「ふふ。きっとそうだ」

「ええっ、何、僕だけ全然分かんないよ。説明してよ」

「この世の全てを言葉で的確に表せると思ってんだろ。現実のボンヤリ性をなめんなよ」

「なにそれ……」


フォックスは伸ばした指先で、少女の煤けた黒髪をゆるやかに梳く。穏やかな眼差し。

奇跡。あるいは、呪いだね。

微かに呟いた言葉は、ナナシと不毛な言い合いを始めたタタラには届かなかった。









――そんな日があった。

タタラはつい最近でありながら、まるで大昔に感じるあの日を思い出していた。彼が少女を拾った日を。

少女は談話室のソファーの隅で控えめに座り、古びた絵本を読んでいる。どこからともなく紙の本を拾ってきたナナシが、大袈裟な演技で読み聞かせていたものだ。あまりにも大声なものだから、同じ部屋に居れば絵本の内容がほとんど聞こえていて、子供が鯨に飲み込まれるシーンはタタラもなんとなく覚えていた。少女はストーリーを理解しているのだろうか。鯨の暗い胃袋に恐怖を抱くのだろうか。物静かに、機械的に、教わった通りページをめくっているようにも見える。


ホノメが談話室の宙を漂っている。何機かは任務で、談話室に姿はない――ホノメはギガの不在を良いことに、仲間たちの前で得意の声真似を披露している。声真似よりは、精密な声帯模写が正しいか。

「あの日よ、フォックスが作業部屋に籠もっている時……『奴がどんな悪事をはたらいているか確かめねばならん。最悪、俺がジャーマンスープレックスをかけて阻止する』『フォックス、命と腰骨が惜しければ女の子を返せ』」

「パイルドライバーやった気もするわ」

「『俺がパイルドライバーをかけて阻止する! くらえフォックス!』」

「ひいい、本物すぎる」

可憐な顔から獣のような低い声と、真似されている本人が到底言いもしない台詞が飛び出す様子はあまりに奇妙で、シアンはソファーにひっくり返ってゲラゲラと笑っている。しかし何も、眉間に深いしわを寄せて、ギガの強面まで再現することはあるまい。少女は絵本から視線を外し、喋るオウムを初めて見るような顔でホノメを追いかけている。鮮やかな赤に変わった髪と、指向性集音器――メンテナンスで新たに取り付けられた、ネコ科の耳に似た索敵モジュール――が小刻みに揺れる。

「物真似はいいんだよ、今日の議題はチーム名ですよ。エニグラドールとかいう辛気臭え名前を変えようと、俺はァ……」

見事な隠し芸に皆の注目が奪われてしまい、いよいよ痺れを切らしたナナシが喚いた。

「一応、候補を聞いてやってもよろしくてよ」

「そや、言うてみ」

「こねこちゃんランド」

「せめて一瞬でも議論できる提案をしなさいな」

「アンタだけ名乗れ」

「なんだよ、こんな……こんな"できたて"のが増えたんだから、チーム名も丸くなって当然ってもんだろ」

「普通、"できたて"って出てくるかしら」

「アンタと同じ言語セットが自分の頭に入ってるかと思うとゾッとするわ」

「そんなに褒めんな。形容するぞ」

言葉に合わせて左右に首を振り、言葉のキャッチボール……否、ドッジボールの行く末を追いかけていた少女は困り果て、ついにするりとソファーから降りた。迷いなく3機の間に割って入る。

「けんか、だめ」

「わァ、喋った!」

「ナナシ、あなたの声が大きすぎるのよ。喧嘩に見えても仕方ないわ」

「ご、ごめんね……」

棒読みで文法におかしな点はあれど、少女はタタラが路上で出会った時よりもはるかに上手く言葉を発している。フォックスは索敵モジュールを備え付けるだけでなく、少女の壊れた発声機構にも手を加えていた。けれどもフォックスは、リブートの直前に皆を集めて言った。声は直ったが、依然にして情緒や認知能力の顕著な発達は期待できない。スラムで過ごした苦痛の記憶を消すこともできない。きっと彼女はこの先も、傷の癒えない少女のままだ。

しかし、たった今タタラの視界にある限りでは、皆は口数や感情表現に乏しいことなどいくらも気にしていないようだった。彼らの態度は、そこに居てよいことを端的に表している。セーフハウスの廃工場は空き部屋がひとつ減り、新たな遊び相手を得た双子はこれまでにも増してやかましく、ギガが作る食事の量は少し増えた。それだけだ。





"Hello, world!"――そして少女は名付けられた。

シリアルナンバー08、ミケ・ザ・キトゥン。

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