夜行

雨のスラムは人が多い。

人、人、人、人……角砂糖に群がる蟻。あるいは死肉を漁るハゲタカ。陰鬱な曇天が有害な日光を遮るとき、人々はストリートを埋め尽くす。

白い箱を取り囲む旧市街地は、終戦直後こそ閑散としていたものの、時が経つにつれて人は増加した。職を、医療を、金を、あらゆる文明を、あるいは人そのものの存在を求めて、各地で戦争難民としてさまよっていた人々が白い神殿を取り囲む。大地に種を蒔き、永久とも思える時間をかけて汚染を取り除く。人々はただ繰り返した。記憶を上書きするかのように。傷に包帯を巻くように。重ねて覆ったその場所へ、雨が降っていた。

午後の雨はしとしとと降り止まない。広いストリートには露店が並び、喧噪に満ちている。誰かが怒鳴る。かすかな悲鳴。若者がガラクタの値段に文句を付け、中年の女が笑う。言い争う声に、檻で騒ぐ鶏、犬。板に刃物を叩き付ける音。犬の骨が砕ける。肉を焼く音。

その男は喧噪から少し離れた路地にいた。レンガの壁でどうにか肩を支え、地面の水たまりに向かって吐いた。音が脳を踏み荒らしているようだった。金属製の頭蓋に囲まれた狭い虚の中で、柔らかい脂とタンパク質の塊を犬が食っている。汚れた靴底に踏みにじられ、ペーストになった脳が鼻や喉から溢れて地面に落ちていく。水たまりには大量の血が混じっていた。そこに脳のかけらは含まれていないし、血も男のものではなく、夜明け前に彼と会った人間のものだ。男は忌々しいそれを早く胃から捨て去った上で、ある人物らに会わなければならなかった。


ストリートでは少年たちをが水たまりを踏みしめて駆け抜ける。彼らは黄のペンキで染めた揃いの服を纏っている。ある者はペニーの古いスケートボードを蹴って、人混みを押しのけ、あるときは障害物を蹴り倒して、罵声や怒号すらあとにして走る。彼らは人垣を突き破るようにして、人のまばらな広場へ躍り出た。四方を巨大な廃ビル群に囲まれた交差点で、歩道の名残を歩く老人や女を――ちょうど中央あたりをふらふらと歩いている、コートとマフラーで顔を隠した陰気な男を乱暴に突き飛ばす。男は体勢を崩してつんのめった。路地裏から這い出てきたばかりの彼は、空を忌々しいもののように一瞥して俯いた。彼には曇天すら眩しいようだった。そして不機嫌に舌打ちをする。

少年らはそれを聞きつけて振り返った。手持無沙汰に叩きのめすサンドバッグを見つけて、わずかに昂揚していた。陰気なマフラーの男に詰め寄る。面倒に巻き込まれては敵わないと、スラムの住民は交差点から足早に離れた。とはいえ熱心な野次馬根性により、物陰の安全圏から一部始終を眺めようともしている。誰にも人助けをする余裕はなかったし、スラムには娯楽が少なかった。

男はどちらかと言えば小柄で、猫背が彼を一層みすぼらしくしていた。対する筆頭らしき少年は体格がよく、天賦の肉体を持って集団のリーダーに居座っていることを窺える。男の胸倉を掴み、そのまま鼻先へ噛みつきそうな程に顔を突き合わせる。男はレインコートのフードとマフラーで顔のほとんどを隠し、目の前の顔からほんの数インチでも距離を取ろうとしていた。男の頬に拳が打ち付けられ、男は水溜まりに倒れた。筆頭の少年が馬乗りになり、金属のサックで顔を執拗に殴打する。しかし少年は、拳を10回振り下ろす前に誤算に気付いていた。厚い前髪が水溜まりに濡れて固まり、フードの隙間に赤い目がある。少年はその目に見覚えがあった。殴っても殴っても大した傷のつかない肌や、フードからこぼれるくすんだ青の長髪にも記憶があった。しかし少年は兎角引き下がらない生き方をしてきたから、仲間の手前、それらに気付いたときも逃走を選べなかった。ポケットからナイフを取り出して、男に振り上げた切っ先を見せる。それで肩やら腕を切り付けようとした瞬間――ナイフを持った拳を男の指先が捉え、人差し指と親指がてこの原理で刃を折った。途端に少年の視界は一回転する。優勢のリーダーを眺めていた取り巻きの少年たちが喚き、駆け寄らんと――しかしすべてが遅かった。

2人の立場は数秒でいれかわっていた。少年は泥水に背を浸して、男がその腹へ馬乗りになっている。男のレインコートの袖口から刃先が覗いて、少年の眼球をぴたりと狙っていた。ナイフから折り取った刃だ。それは身じろぎすればすぐに角膜を破る距離にあり、少年は後頭部を地面に縫い付けられて大人しくなった。

「黄色い服の……お前ら、会ったことあるよな。忘れた?」

「…………」

少年は額から嫌な汗を滲ませながら男を睨みつけた。粗悪な人工声帯から発される、ほとんどノイズのようなひどい声を忘れるはずもなかった。数ヵ月前ーー手当たり次第に空き家を荒らしていた日、あるダイナーで遭遇した男だ。ダイナーはあの日も廃墟同然で、大戦前に放置された貴金属のひとつでも見つかればと彼らは踏み込んだ。無人と見ていたダイナーには老女と男がいて、その男に――少年は無様な結末について思い出すのをやめた。わざわざ思い出さずとも、現在進行形で上書きされている。取り巻きたちが今でもあのダイナーに行っているらしい――そんな話題を併せて思い出したのも、少年のプライドを逆撫でした。

「用が……あってさ、今日は。俺の方から会いに来たんだよ」

男は折れた刃先を眼球に向けたまま、もう一方の腕でレインコートの懐を探った。目当てのものは見つからない。パンツのポケットをもたもたと探り、ようやく何かを取り出した。

「これ、お前らが売ってるやつ」

薄緑色の錠剤が3つ、ビニールの小袋に詰められている。それが男の指先に吊るされて、ストリートの風にゆらゆらと揺れている。

「……知らねえ」

「セント・ウェルタスから仕入れたんだろ」

「知らねえよ!」

男はひどく疲れた風に言った。

「もう……悪いことすんなって言ったのに」

「…………………………そいつは、死ねって意味か?」

「……」

「"悪いこと"以外の何で生きろってんだよ。ヤク売るか、金持ってる奴から盗る他にあんのかよ。今日やめりゃ数日のうちに死ぬ。売れば1ヶ月生きられるかもしれねえ。そうだろ」

組敷かれたまま少年は言った。わずかに喉が震えている。それでも少年は――折られた刃先の代わりに男を睨んでいた。責めるような眼差しは、前髪の奥に隠れている男へ突き刺さった。

「ダメだ」

「だったら……!」

男はナイフの刃先を放り捨て、その掌で少年の口を覆う。少年は少しの呼吸と言葉を奪われた。

「それでもダメなんだよ。悪いことはするな。特に……薬だけはやめろ。マフィアとは取引するな」

男の掌は異様な握力で、少年は自身の頭蓋骨がわずかに軋む音を聞いた気がした。

「何も言うな。何にも関わるな……全部忘れて逃げろ……」

少年は今にも上顎の骨を砕かれそうで、喉で呻きながら脚をばたつかせた。陸で酸素を失った魚のように悶える。男の意識はどこか遠くを漂いはじめ、少年の頭蓋の強度まで意識が回らないようだった。

取り巻きがひとり飛び出して、男を渾身の力で突き飛ばした。取り巻きはリーダーを取り囲んで抱え上げ、泥水にうずくまる男から距離を取る。

「悪いことはするな、消えろ。ここから消えろ、どこかに隠れて……」

男はうわ言のように繰り返した。泥水に長い髪を浸して、這いつくばって――懇願した。男は懇願していた。

「頼む、はやく逃げてくれ…………遠くに、見つからないように」

少年らには、男が見たことのない不気味な生物のように思えた。薬物売買を責め、暴力で圧倒し、懇願する。文脈が破綻していたからだ。少年らは男から後退りし、やがて背を向けて走り去った。

目的の人物――カラーギャングの少年らに伝えられるのはそれだけだった。男は汚れた水溜まりにいて、しばらくの後にはスラムの住人も彼から興味を失った。往来の誰もがただの浮浪者と思うようになった頃、男はレインコートを引きずってのろのろと立ち上がり、元来た路地へ消えた。



そうして数時間が過ぎた頃、男はそのダイナーにいた。

ヒビの多いコンクリートの壁は薄く、降りしきる雨の音をいくらも遮ることはない。音は雨ざらしのように近い。空間には戦前のダイナーの面影こそあるが、ほとんどの窓はベニヤやトタン板を打ち付けてある。夕暮れの迫る店内は薄暗く、すべてのソファーは何かしらの傷を負って綿を吐き出している。

男はろくに服を着ていない。生乾きの服が壁に吊るしてある。服はすでに洗い流されていて、水たまりの泥は残っていない。男は傷だらけのテーブルに座っていて、目の前の欠けたボウルに向かって何か呟いた。

ボウルには足の長い昆虫がいくつか入っている。昆虫は皆死んでいた。それは炒ったか炙ったかで乾いていて、かすかな塩と混じり合っている。男はそれを手づかみでいくつかすくい上げ、口へ放り込んだ。奥歯で甲殻をすりつぶしながら、トタンの間に残る窓ガラスから外を見る。土色の荒野。埃っぽい雨。ボロの養殖ハウス。

スーパーマーケットの旗やブルーシート、漁業で用いられる強靭な網、なんでも繋ぎあわせて作ったあのハウスの中には、深い水溜まりがある。そこには苔や藻が生えていて、それを食うワームが無数に蠢いている。ワームは生まれた瞬間から体内に卵を持つネオテニーで、手足のない姿のまま繁殖する。男はボウルからそれを食べている日もあった。ワーム養殖は戦後に一時期流行ったが、廃れるのも早かった。人間が原始時代の感覚まで遡れなかったせいだ。人の遺伝子から22世紀の常識が失われた頃、また昆虫食が流行る可能性はわずかにある。

ハウスの持ち主は老女で、店には男と老女しかいなかった。老女は枯れ木のように痩せていて、髪は白く、寝物語の魔女のような身なりをしている。不気味な店と養殖ハウスに人は近付かない。心底餓えている者と、この男を除いては。

「おばちゃん……」

「なあに」

男は空のボウルを意味もなく抱えて、老女の近くにのろのろと移動した。奇妙な幼さの残る顔つきが、二十歳かそこらの男を子供のように見せていた。長い前髪が男の視野を覆っている。それが彼を外界から切り離す。

「俺どこにも行きたくないよ」

彼が抱えたいくつかの問題について、老女が何かの解決をもたらす訳ではない。彼女に限らず、スラムに冴えた解決法がある訳でもない。老女はただ、あるままに男を見つめた。男はそれで良かった。

「眠たい」

「ソファーを使って。ボロボロだし、黴っぽいけれど……」

「そんなこと言わないで、俺はここが結構好きだよ」

「そうよね……昔はもっと華やかだったから。本当は、壁は薄水色のペイズリーで、ソファーの革もつやつやしていたの……」

男はソファーの背もたれから、擦りきれたブランケットを引き寄せた。それで体を包み、膝を抱える。背中を丸めて、老女の向かいの席に横たわる。

「昔の話をして。続きを」

「子守唄ね」

「俺は大人だよ」

「あなたは時々、小さな子供のように見えるから……でも、お店を守ってくれた日は、とても頼もしく見えたのよ。不思議ね」

「あいつらはまだ来るの?」

「来るわ。ここで何か食べて、またどこかへ行くの。でも、とても礼儀正しくなったわ。あなたのお陰ね」

「ちゃんとお金もらってる? 金じゃなくても、何か他に」

「みんな必死でしょう。子供たちは特に。だから」

「そっか」

「よくなってからでいいの。きっとよくなるわ、いつかは」

「うん」

老女はどこか遠くへ視線をやった。

「昔は……目の前に大きな通りがあったの。そこはシカゴへまっすぐ通じていて、銀に輝くバイクや、立派なトレーラーがたくさん通ったわ。そのほとんどが、うちでステーキやサンドウィッチを食べていったのよ……」

カウンターの端に、写真立てが伏せてある。そこに何が写っているか男は知っている。まだ若い頃の老女と、彼女より少し年上の男。それから10才くらいの少年。彼らが老いた姿に見覚えはなかった。老女は彼らについては話さなかったし、男も聞かなかった。

「おばちゃんは泣くの?」

「ええ、いつでも」

わずかに残った窓ガラスを雨が伝う。雨の陰が老女の顔に流れている。そのせいで、老女が涙をこぼすシーンを想像するのは男にも容易だった。

男はブランケットの中で何か呟いた。衣擦れと雨の音にかき消されるほどの小さな声で、老女には届かない。

男は目蓋を閉じた。


********





スラムには治安を維持するための組織がいくつか存在する。代表格は自治体警察で、彼らは管区ごとに組織を作って軽犯罪者を捕らえ、管理し、更正させる――有り体に言えば、何らかの労働を割り当てることを目的とする。本来のスラムは法らしい法が働かない界隈ではあるが、自治体警察の実態がゼウスの支署であることから、法は「従うと何らかのメリットがあるもの」として知れ渡ってはいた。

法の中で重罪とされる行為のひとつに、違法薬物の生成や売買がある。違法薬物は特定組織にカネを集める。有力な敵対組織の発生をゼウスが危惧しての措置だが、スラムではゼウスの憂慮などお構いなしに「自治体警察はマフィアに牛耳られている」だの、逆に「マフィアはゼウスの手足である」などと噂が飛び交っている。

そうしてひっきりなしに流れる根も葉もない噂の合間で、誰も触れない話題がある。


捕らえた重罪人はどこへ収容するのか・・・・・・・・・・・・・・・・


人類史の再建と幸福を願う今も――戦前さながらに復興することを、すなわち"幸福"と呼べるかはいざ知らず――旧世界の広大なアメリカ合衆国を思えば、未だオリンポスは狭く貧しい。いつかの灌漑農園のように、核兵器が作った円形の高濃度土壌汚染区域が荒野に点々と連なり、人間はその隙間にあるささやかな土地を縫ってどうにか暮らしている。

そんなスラムに、懲役80年の犯罪者を生かしておくほどの経済的安定がないことは明らかだった。その現実を直視してはならないことも、「直視せず済むよう誰かが取り計らっている」ことにも、人々は感づいていた。人々はその「誰か」から目を逸らし、けれども漠然とした恐怖を視界の端に感じ取りながら暮らしてきた。


なぜスラムでは人間が失踪するのか・・・・・・・・・・・・・・・・


朽ちた高層ビルの一部を改装して作った居住区の住人は、陽気な隣人がなんの音沙汰もなく姿を消したと証言する。

スラムで児童養護施設を運営していた気のいい男が、翌日から顔を見せなくなったという。

とあるストリートの角に休まず露店を出していた女が、店構えもそのままに、商売仲間に何も告げることなく霧消したらしい。

ろくに戸籍管理も住所登録もなされず、"そこに人間がいたこと"の証明が不確実なスラムでは、時折まるで夢を見ていたかのように人が消えるという。

住処から離れた場所で死体が発見され、運よく捜索願と特徴が一致すれば、自治体警察の手によって家族や知人のもとへ還されることはある。あるいは、残虐な意図によって殺された被害者であれば積極的な調査が行われる。時にはゲイシーやチカチーロのようなシリアルキラーの名が、有志の電波帯を震撼させることもある。

しかし遺体のほとんどは、謎のない死――大抵は病死か事故死――を迎えた無数のジョンとジェーンに分類され、人の形が腐り落ちてしまう前に処分され、人知れずこの世から姿を消す。従って現在のスラムでは、年間通して失踪した人間のうち、いったい何割が発見されていないのか知る術はない。

失踪の原因は多くが不可解である。名探偵のいないスラムでは、謎は謎のまま捨て置かれて朽ちる。謎に怯え、謎を解く力をもたない人々は、"不可解"に"理由"を与え始める。

夜な夜な墓地から現れる死者の残留思念が、謎の研究施設で実験に使われた被検体の成れの果てが、遠い星から密かにやってきた地球外生命体が、古い物語だけが残っている天使や悪魔が、その他諸々がさらってしまうのだと彼らは言うようになった。酒場や露店で、あるときは戦場で、またあるときは眠りにつく前の子供の枕元で、それらのフィクションは緩やかに浸透する。

"理由"がたとえ理にかなった根拠でなくとも、分子構造や回路図で説明できなくとも構わない。十字架を身に着けていれば憑りつかれない、決まった呪文や言葉を唱えれば追い払うことができる。たとえ胡乱であろうとも、そういった逃げ道を持つ都市伝説ロアとして定義する。得体の知れないものへ形を与え、咀嚼する。吸血鬼や悪霊が空想の産物であると心のどこかで知りながら、真実を包み隠し、どうにか飲み込んで――――


*****








ある晩、男は雨の下にいた。

それは何かを語り始めるにはあまりに平凡な景色で、霧に煙る真夜中のストリートには何もない。誰もいない。物語は冒頭が重要だというのに、愉快な書き出しで使える気の利いたシーンなどもってのほかだった。書き出しがありふれているなら、読者は物語の世界へ真っ逆さまに飛び込む前に物語を放り出すだろう。起承転結も念入りな伏線も、まずは現実の縁から足を踏み外してしまわなければ意味をなさない。

男はいつも雨の下にいた。雨は足音を隠し、衣擦れの音を隠す。呼吸の音を隠す。皆が放り出すつまらないシーンの中に男は隠れていた。それは男の立場にとって好都合だった。

ストリートに並ぶ街灯はひとつも点灯していない。電球が切れたか伝線が切れたか、あるいはソーラーパネルを奪われたかで壊れていた。すべてはただのオブジェである。男のいる狭い路地裏は尚更で、月明かりすらない暗闇の中、彼は肌の表面に流れる雨を手の甲で拭った。雨には血が混じっている。額も頬も血だらけで、手の甲も血にまみれていた。血は顔から手へ、手から顔へ循環している。拭っても拭っても血は落ちない。男はあまりにも疲弊していて、やがて繰り返しを放棄した。ストリートの方に向かって歩き出そうと、足元に横たわるいくつかの死体を跨ぐ。靴底が滑って転びかけた。暗闇の中では地面に何が落ちているのか判別できない。けれども男は知っていた。地面には血や髪がベッドカバーのように広がり、頭蓋の隙間からよく分からない塊がこぼれている。人間はたくさんの脂が含まれているから、体液が染みたアスファルトは滑って危険だった。

いっそ思い切り転んでしまえばよかった――男は思った。死体に仲間入りし、みっともなくひっくり返っていられたら良かったのに。俺は転んだからずっとそこにいたんだ、起き上がるほどの理由もなかったから。

男はストリートに出る直前で立ち止まった。やはり天地の判別すらおぼつかない闇で真上を仰ぎ、廃墟の2階へ跳び乗った。ベランダの壊れた室外機に登り、次の階へ跳ぶ。男のポケットの中で、脚の屈伸に合わせて携帯端末が四角い存在を主張する。端末にはある人物の顔写真が送られてくる。一連の仕事の間に、ゼウスのデータベースと連携して10枚の写真が届いた。男はそのうち数名を先日片付けた。そしてつい数分前に彼の足を滑らせた脳漿も写真に含まれていて、残りは2名だった。男は人より頑丈で、肉体にはこれといった支障はなかった。けれども男はとにかく疲弊していて、頭の中はいつも渦を巻いていた。いつの出来事か思い出せないような古い記憶や、今の今に捏ねる必要のない杞憂。どうでもいい事柄が次から次へと湧いて現れて、彼が直視しようと見つめた物をべたべたと覆い隠す。10枚の顔も、実物の顔も、雨も、何もかも。すべては赤黒く汚れたモザイクのようになって、いつも彼の思考を妨げた。

それでも、その渦巻きが今夜の標的の数に影響してくれることはない。映像解析による顔認証で一段階、それからゼウス当局によるDNA検査で二段階。そうして標的が本物であると認められなければ仕事は終わらない。現状から逃亡する試みは常に無駄だった。


昼間は数えきれないほどの人間で埋め尽くされていた露店街――黄色の服を纏った少年らに"声をかけた"通り――は、今は屋根と骨組みだけを残して、光も音もなく夜明けを待っている。地面から離れるほど風が強くなる。背中から風が吹き抜けていって、男は通りの開けた方を認識した。

通りを進んでいった先に小さなバーがある。スラムの住人はみな貧しいが、その中にもいくらか格差があって、あの店に入れる者と入れない者がいる。通りの暗闇をひとつの懐中電灯が揺れながら移動している。男はこんばんはと呟いた。男は”9枚目”の人影がバーの客になることを知っていたし、”自力でバーまで辿り着かない”ことも知っていた。

人影は廃墟の軒下を辿るようにして雨を避け、足早に進んでゆく。人影は声を上げることもなく、狂ったように駆けだすこともなかった。怯えているときに分かりやすく取り乱すのは案外難しい。それでも人影は何度か真後ろを振り返った。追っ手の気配を感じた人間が振り返ることはあっても、空を見上げることはない。追っ手は基本的に空から降ってきたりしないからだ。廃墟を飛び移って光を追っていた男は、人影の目前に飛び降りた。

人影は懐から拳銃を抜いた。冷静かつ勇気ある最善の行動だ。だが最善でも不足することがある。男は身を屈めて拳銃を蹴り上げた。金属の塊がアスファルトに落ちる音。それから懐中電灯も。次いで人影の頭を蹴ると首が折れた。体が倒れてしまう前に片腕を掴み、胴に手を添えて、タンゴでも踊るようなドラマチックな姿勢で支える。体は運悪くまだ生きていて、わずかに呻いた。男はあと数分で死体になる"それ"の首元を鼻先で探り、歯を立てた。血の温度は37度程度だという。あらゆる食い物が一番まずく感じる温度だ――男は血を飲み込んだ。

死体のほとんどは適当に路地裏へ放った。男は一番最初の仕事を思い出した。最悪の仕事だった。形がよく分からなくなるくらいに人を切り刻んでしまって、次の日に死体を置き去りにした場所へ戻ってみたら、そこには綺麗さっぱり何も残っていなかった。以来、ずっと夢を見てるような気分でいる。何もしなかった休日の夕方に見るような、喉の奥に焦りが引っ掛かったままの無気力な夢だ。

あの路地も明朝にはゼウスの掃除人スカベンジャーがすっかり化学洗浄を済ませて、血の一滴さえ検出されなくなっている。掃除人などと名付けられる組織と言えば、凶悪なモンスターを秘密裏に始末する特殊部隊か何かを指すもんだ――あれはただ本当に、冗談みたいに掃除のうまいやつらなのだ。座標さえ送っておけば、どんな死体でもいつのまにか綺麗さっぱりなくなっている。ありふれた雨にふさわしい、つまらない組織。


路地裏からできるだけのろのろと歩き始めても、同じ通りにあるバーにはものの数分で到着してしまった。扉に20㎝四方の小さな窓がついていて、そこから店内の光が漏れている。ドアノブには貸し切りの看板が掛かっていた。男は扉の前に突っ立って表情をこねくり回していた。店内は殺してはいけないやつと、殺すべき”10枚目”と、無関係の一般市民がごちゃ混ぜの空間である。どんな顔と態度で振る舞えば良いかわからない。男はその空間が一番嫌いだった。いつも頭の中が散らかっていて、やりたくないことがたくさんあって、いったいどこから手を付けていいのか分からない。男は扉の前で泣き出しそうだった。男はそのままの表情でバーの扉を開けた。


貸し切りの札をかけていたから、バーの扉についたベルが陽気な音を立てたことに店主も客も少し狼狽した。それで、男が店内をぐるりと見回すにも十分な間があった。ポーチにかかった布製の屋根を雨が叩く。男の幅に開いたドアから雨が吹き込む。カウンターの端にラジオが置いてあって、何か囁いている。電気ランタンひとつが担当する店内は暗く、カウンターから離れたテーブル席は仄暗く陰っている。座っている客は白人のグループだった。

当店は本日貸切です――老いた女店主が声を上げた。

「外の案内をご覧になりませんでしたか」

男はぼろぼろのレインコートを揺らして咳をした。フードとマフラーで顔はほとんど隠れている。男は店主に構うことなく店内へ進む。木張りの床をエンジニアブーツの底が叩く。

店主は何が目的かと声を荒げた。強引な来客に考えられることといえば、アルコールや強盗や強姦が目的か、ただ人を殺しに来たか。貧しさのあまり、人肉を食う者もいるという噂である。店主はカウンターの天板裏に隠した拳銃へ手を添えた。男は何か言わんとして息を吸い、結局、微かに肩を震わせる店主を黙って見つめた。羽振りのいい客が貸し切った日に限って厄介事が舞い込んでくる――店主はそう思っているのだろう。その薬指に煤けたような銀のリングがある。この女の夫も先に死んだのだろうか。おばちゃんと同じように。リングを隠さずに今まで暮らせたのは単に運がいいからだ。男が飲み込んだのは「指ごと切り取られる前に隠しなよ」という忠告だった。

男は片手に持っていた塊を前方に放り投げた。サッカーボール大の塊は床を転がり、けれども形の歪さによってすぐに止まった。店主がカウンターから床を覗き込むと、塊と目が合った。首だ。人間の首。店主は身を引いてよろけた。

客が一斉に懐へ手を差し入れ、いくつもの拳銃が男に向けられた。男は即座に身を屈め、背後の壁にあるスイッチをはたき落とした。頭があった所を弾丸が掠め、ランタンが消えて暗闇が訪れる。マズルフラッシュが狂ったように瞬き、それも数秒のうちに鳴り止んだ。

店主はカウンターの奥で頭を抱え、息を殺していた。かろうじて言葉と認識できるか否か――ノイズのひどい声が、客席の方で呟いている。

「9人目が死んだって、あんたに……10人目に伝えなきゃと思って」

何かを叩く鈍い音。誰かが荒い息遣いで呻く。

「首切って連れてきたんだけど、血が……」

同じ音。

「そのせいで10分遅刻した。これって誤差かな……」

男が客を殴っている。

「誤差かって聞いてんだよ」

立て続けに殴る。殴る、殴る――――ほんの少し間が空いて、突如ランタンが点灯した。壁は弾丸を受けて穴だらけになり、テーブルやカウンターの上には客が累々と倒れている。床には意識のある客がひとり、折れた両脚を引きずりながら這っている。男は壁際のスイッチから手を離し、代わりに酒瓶を拾い上げた。カウンターの天板で瓶を叩き割り、客の背中に歩み寄る。男は客の傍らに跪き、割れ瓶を背中に突き刺した。客は錆びた機械のような悲鳴を上げた。

男は瓶を放り、つま先で客を仰向けに転がした。そうして、腹の上に馬乗りで座る。

「そうだ、俺は……そう。あんたの組織が、次にどこで仕事をするか知りたかったんだ。教えてくれたら……もう痛くしない。そうでなければ……できるだけ苦しむように殺す」

男は客の口に指を突っ込んだ。割れた瓶の破片をいくつか拾い、こじ開けた口の真上でからからと鳴らした。男が掌を返せば、破片が喉まで落ちるだろう。

「ゼウスが目をつけた以上、あんたの組織は遅かれ早かれ潰されるし、俺はそのとき必ず……あんたが情報を漏らしたと言うよ」

「……」

「秘密を守って死んでも、誰にも感謝させない。死んだあんたは世界にいない。あんたのことを誰も見ていない。神が見てるって言うなら……」

朦朧としつつも男を睨んでいた客は、糸が切れたように視線を泳がせた。震える腕を挙げ、テーブルの陰にある汚れたアタッシュケースを指した。それから、自身のコートを指す。そのポケットには手帳か小型端末ほどの物体が入っているようだった。

男は口から指を引き抜き、ガラスの破片を脇へ手放した。男は客の額を撫でた。客は眠りにつく前のように長く息を吐き、囁いた。

「神がいるなら……とうに……俺たちへ罰を与えられたはずだ」

「……そうだね」

「第8管区の地下。それ以外は俺も知らない」

「ありがとう」

男は客の首とコートの間に手を差し入れ、血まみれの首に牙を立てた。客が瞼を閉じてまもなく、呼吸の音も消えた。男は唇から血と雨水を滴らせながら顔を上げた。死んだ10枚目の顔に水滴が落ちる。男は何度か鼻をすすった。彼は泣いていた。



『―――――場所は伏せますが、ある管区で出るそうですよ。雨の日の夜だけ。人を襲い、さらってしまう「吸血鬼」。毎回同じセリフを残して消えるそうです、それは……』

男はしばらく呆然として、ラジオの音声でふと我に返った。少し戸惑うような素振りで目元を拭い、死体の上から退いた。

四つん這いでテーブルの下を覗き、アタッシュケースを引き寄せる。男はケースの留め具を外してからダイヤル錠に触れたが、ダイヤルをひとつも回そうとせず、かわりにケースを二分する溝に両手の指をかけて左右へ引いた。鍵は難なく破壊された。ケースには茶瓶が隙間なく詰め込まれていた。男は瓶をひとつ開封し、中身が半透明の結晶であることを確認する。

続いて、男は強盗のような手荒さで死体のコートのポケットを探った。取り出した携帯端末を自身の懐に収める。死体の周りで気絶している・・・・・・客の上着も同様に漁り、彼らが持っていた銃と弾丸を集めた。

男はアタッシュケースをカウンターに置いた。カウンターの奥でうずくまっている老店主を一瞥する。老店主は心底怯えながらも男を見ていた。

「客はよく選びなよ。共犯と判断されたらあんたも終わりだ」

男はアタッシュケースの中身を老店主に見せ、乱暴に閉めた。ランタンに近いカウンターの上では、男の手がおびただしい血で赤黒く濡れている様子が鮮明に見え、老店主は瓶詰めの薬物よりもそちらに気を取られた。同じ手がカウンターに拳銃を並べていく。

「すぐにゼウスの役人が来るから、早くどこかへ隠せ。この型ならジャンク屋が良い値で買ってくれる」

男はばつの悪そうな口調で付け加えた。

「それで……壁の傷でも直して」

男はアタッシュケースを掴んだ。老店主はその背中に何か言わんとして口を開き、震える手足で重い体を起こした。老店主がカウンターを伝って客席を見渡したとき、男の姿はすでになかった。ドアベルが陽気に揺れている。


雨は激しさを増していた。レインコートに叩きつける雨粒が苛立ちと八つ当たりに似た音を立てる。男はぼそぼそと何か言った。独り言のようなそれは、男の喉元にあるマイクに向けられている。

「終わった。薬は回収した」

『やっと連絡が……君は……!』

「バーは無関係だった。あの人は……記憶処理だけにして。あんたなら交渉できんだろ、フォックス」

男は相手の言葉を遮り、メモでも読み上げるように言った。

『安心したまえ。今回は君が用意した調査報告書もあるし、その女性は確実に保護される』

「…………」

男は黙り込んだ。帯域に容赦なく雨音が満ちる。

『大丈夫かね』

「…………」

『そこで待っていなさい、誰かを』

「いや、帰れる。一人で帰りたい」

『…………気を付けておいで、ナナシ』

「うん」

男はストリートを歩いていく。背中を丸めて俯き、袖口から薄い血を滴らせて。

雨に紛れて人を狙い、足音を隠して人を追い、暗闇の中で人を消す。

シリアルナンバー05、ナナシ・ザ・バット。

彼はスラムの「失踪」である。


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ナナシは爪先にある排水溝を見ていた。昼の太陽光発電で温めた水は保温され、消費され、セーフハウスに戻った彼がシャワーを使う時間帯にはほとんど冷めている。こびりついた血が水に溶け出し、マーブル模様に渦を巻いて排水溝へ吸い込まれてゆく。

渦を追っていたら目眩がした。彼は壁に手を這わせて体を折り、水浸しの床に膝をついた。何度か咳をして、それから血を吐く。最後に殺した2人分の血が胃から溢れ、彼の太腿と床のタイルを汚した。喉元と長い髪を汚した。それらを頭上から降ってくる水が無感情に洗い流す。

ナナシは座り込んだまま腕だけを伸ばし、蛇口を締めた。呆けたようにシャワールームの天井を見上げる。配管が剥き出しの壁に独房のような小さな窓があり、それは見慣れた曇り空の色に光っている。夜明けが近い。彼は唐突に空腹を感じた。発作的に貪っただけの一切を吐き出し、本来あるべき正しい感覚が戻ってきたのだ。責っ付かれるような気持ちで立ち上がり、シャワールームを後にする。


セーフハウスの談話室にはキッチンが隣り合っている。キッチンに立つギガはえらく早起きで、日が昇る前には目覚めて何かしらの作業をしている。談話室のソファーではタタラが眠っている。テーブルには粗酒の瓶とチェス盤が置いてあり、誰かさんの長い晩酌に付き合わされた様子だった。

ギガは談話室に現れたナナシに囁いた。彼の囁きは大型獣の寝息のようだ。

「寝んのか、飯食うか?」

「それとも貴様」

「バカ」

調理器具を洗う手は止めず、グリーンの目だけがちらりと見る。ナナシはタオル代わりの擦り切れた古着を頭に被せていて、何か摘んでやろうとキッチンを覗き込んだ。

「今日は何の日、シェフ」

「グラタン・レジェとやらの試作の日だ」

市場の古本や旧世界の記憶媒体からレシピを入手し、それをギガが明け方の静かな時間に1人か2人分だけ試作する。試作品は夜勤帰りの誰かが遅すぎる夕食として食べる。

ナナシは差し出された皿を抱えるようにして、立ったままスプーンを手に取った。皿はまだ十分に熱を保っている。

「うん。うまい」

「お前なんでも美味いって言うからな……」

作業を終え、手を拭いながらギガが言う。

「代用品だらけで、あんまり自信作とは言えねえ。チーズってやつを市場で見かけたのは一度っきりだ」

「見つけたら買ってきた方が良い?」

「あんまり高価じゃなけりゃあな。マリネリスの輸入品は高い」

「でもコレ美味いよ。ほんと」

「なら良い。もう少しだけ工夫して……来週あたり、全員分作るとするか」

ナナシは頷き、さらに料理を頬張る。あまり表情のない口元をわずかに緩め、ギガは談話室から出ていった。これから洗濯でもするのだろう。

ポケットに入れていた携帯端末が振動した。ナナシはスプーンを咥えたまま端末を取り出して確認し、しばらくその姿勢のままでいた。端末を投げ捨てて踏みにじってぶち壊してしまおうと考え、そうする寸前で凍りついていた。ゼウスからのメッセージで、次の数週間のうちに消す人物の情報が添付されている。あの黄色の服を身にまとった少年らの顔だった。彼らの生き死にには大した価値はなく、その消失をきっかけに薬物密売組織の動向を探るのだという。

指先で皿の温かさが主張し、ナナシはようやく動けるようになった。タタラから離れた位置に座り、脇に端末を放った。また黙々と食べながら、彼はあの廃墟じみたダイナーのことを思い出した。少年らに食べ物を与えていた老女のことを思い出した。

ナナシは仕事の収入を何に使ったら良いのか分からず、意味もなく貯め込んでいた。この世界では突然ただの紙くずや金属の塊になってしまうかもしれないが、今自分が持っているよりマシな使い道だ――彼は考えた。近々、今あるすべてをあのダイナーへ置きに行こう。おばちゃんが眠っている間にカウンターの中に隠しておく。昨夜のバーと同じように、ダイナーは無関係なのだとゼウスに伝えて――そしてもう二度と、あのダイナーには行かない。


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