ENNEGRADOLL
@zero_ujino
鉄塊
第三次世界大戦。
人は燃えさかる地平に立ち尽くし、史上最悪の10年を"終末"と呼んだ。
中央アジアに小さな戦火が燻りはじめた頃、遠い国の衝突をテレビで眺めながら、身近な世界はこの先もさして変わりなく回るだろうと誰もが考えていた。恐ろしい過ちが目前で待ち構えているなら、人はどこかで立ち止まるはずだ――と。けれどもそれは、人が発端ながら制御不可能な雪崩や津波のような性質を持ち、転がり始めた"終末"が通ったあとには何も残らなかった。
戦後の政治と経済は、20世紀の水準に戻ることすら不可能となっていた。放射能汚染された大地の生存可能領域はごくわずかで、世界人口は飢餓によって12億まで減った。守るべきものがない土地を囲む線など、誰も価値を見いださない。石灰で引いた白線を靴底でもみ消すよりも簡単に、文明が定義した国境は消えた。人々はただ命を繋ぐことができる場所を求めて、きわめて原始的な動機をもって彷徨った。
この戦いに勝者はいない。誰もが何かを失って、それだけだった。
終戦間際、全世界の財閥、企業、あるいは国家だったものの残滓が寄り集まり、ひとつの巨大な建造物を作り上げた。それは底面7km四方、高さにして550mの白い箱。強化アクリル樹脂と合金、コンクリートの防護壁を5層重ねて形作られた、墓標のようなモニュメントだった。
箱の名は――オリンポス。
奇跡的に汚染を逃れたこの土地には、科学者や技術者、医師、著名な作家や実業家、役者に至るまで様々な人種が集められた。これらの
どうか、痛みのない世界を。
どうか、苦しみのない世界を。
オリンポスの建国と共に終戦が訪れ、人類史に炎のない夜が来た。
"大衆の戦争"は終わりを告げた。文明を再生するその時まで、人々は暗い安寧の中で眠ることを許されたかのように見えた。
西暦2210年。
この荒れ果てた広大な大地を失われた国境で示すなら、旧米国領ミシガン州に位置する。かつて軍需産業や水耕農業で隆盛を極めた土地に、その喧噪はない。
厚く垂れこめた雨雲から、大粒の水滴が落ちる。水滴は濃い黄土色の地面を容赦なく叩く。豪雨の合間をぬって吹きすさぶ風。飛沫がもてあそばれて砕け、荒野に霧となって満ちている。オリンポスの白く冷たい壁には、ぼんやりと淡く雨粒のノイズが掛かっていた。この内気な要塞都市の外壁には、10m間隔で整備用の足場が設置されている。もし上空から近づくことができるなら、横縞の模様が入っていることが見て取れるだろう。地上から5本目の横縞に、純白の城壁を背景に人影が浮かび上がった。大柄と形容するにも、あまりに背の高い男。男は巨体を押し込むようにして、黒のコートを纏っていた。低いフェンスの付いた足場に仁王立ちで構えている。コートだけが暴風で好き勝手にはためき、せわしなく翻る。男の体は鉄塊のように重く、微動だにしない。
「昔話はいいが……安寧? 街を見ろ。一時でも……そんなものがあったようには見えねえよ」
男はヘッドセットから通信相手へ笑いかけた。退屈なコメディを眺めているような乾いた笑い。声は大型獣のようで、目元は不安定なホログラムで覆われている。歯を見せた口角だけが彼の笑顔を物語った。
『ヒトがまどろみに見る白昼夢なんて、支離滅裂で破綻しているものさ。記憶にない安寧も描写されるし、宇宙人やビッグフットにだって会えるとも』
音声がゆれる。通信相手――フォックスも笑ったのか、些細な電波障害によるものか判断はつかない。声も形も感情も、世界のすべては砂埃や水煙で輪郭を失っていた。
「俺はネッシーを釣る夢なら見たよ。デカい生物兵器と戦う夢も見たことがある」
『後者は事実じゃないか』
大柄な男――ギガは、目元を覆うホログラムの奥から景色を見下ろした。廃墟の群れが遥か遠くまで荒野を埋め尽くす。
「そういう趣向の言葉遊びか。"支離滅裂で破綻している"ってことかと」
彼は長方形の金属塊を背負っていた。背に手を伸ばして、肩に斜めがけのベルトから奇妙な塊を取り外す。塊を一振りすると、先端から均一な幅の金属板が飛び出す。板は衝撃とともに固定され、塊と合わせて倍の長さに拡張された。板は曇天を鈍く照り返している。それは巨大な刃だった。六角重工がパワードスーツユーザ向けに開発したものの、お蔵入りになった近接戦闘用実験兵器。ギガは金属塊を――彼は"鋸"と呼ぶ――羽でも扱うように難なく振り回した。
『君にとってはどちらがマシだろうか』
フォックスがからかう。ギガは大して興味のない事柄、例えばファッションについて説明する時のように答えた。
「マシも何も、事実じゃなけりゃ壊せねえ。破綻していても壊せりゃいいさ」
『それは良かった。10時の方向、500m地点の地下に振動源を確認。破壊できる方が来るぞ』
「そっちが"好み"って訳じゃねえからな」
ヘッドセットの向こうで、フォックスが少年じみた声を上げた。確実に笑っていた。
『住民の避難が済んだそうだよ』
「承知」
どこからともなく、地響きが辺りに満ちた。その音は次第に白い城壁へ近づいている。地上50メートルの足場からスラム街を見下ろす。足場を伝って靴底へ振動が伝わる。地震の前触れを思わせる低い音。
スラムの一角を抜ける大通りの中央、地面に亀裂が走る。立ち並ぶ廃墟が振動し、ついに――――大地が崩れた。
地下に開いた空洞へ、砕けた土や倒壊した廃墟が飲み込まれていく。もうもうと巻き上げられる砂埃、水飛沫。何十年も前に乗り捨てられた車が沈み込む。豪雨と塵で濁った大気をかき分け、陥没したストリートに注ぐ瓦礫を押し退け、巨影が姿を見せる。それはB級のSF映画に出る怪物を彷彿とさせる、邪神さながらに巨大な異形だった。遠い昔に絶滅した、甲殻を持つ頭足類を模している。
土砂降りの雨が土煙を洗い流し、異様な姿が鮮明に浮かび上がる。
廃材を寄せ集めて、幾重にも装甲をかさねた外殻。無数の脚も汚れた金属の鎧で覆われ、絡まりあって伸びている。廃墟の隙間を縫って、軟体の脚が蜘蛛の巣のように広がる。鎧の隙間でうごめく人工筋肉。そこには眼球らしき赤い光が並び、鼓動のように点滅する。
それは陥没したストリートから巨体を引っ張り上げ、オリンポスの壁へと進行を始めた。
「今日のはデカいな」
『ごらんよ、あんなに腕だか脚だかを生やして。眠れないときに数えたいね』
「あれなら目でもいい。目がたくさんあるやつってのは、頭の中でどんな風に見えてるんだ?」
ギガは足場のフェンスに爪先を掛けて登った。廃墟を削って屋台を押しつぶし、巨影は壁へと差し迫る。巨影のXZ座標がギガと重なり合う。
オリンポスの壁には内部との連絡用通路がある。巨影は通路の出入口、すなわちシャッターを狙っていた。数えきれない脚にはレーザーカッター紛いの武装を施されている。巨影はストリートの建物には目もくれず――強固なシャッターへとまっしぐらに向かった。レーザーカッターが豪雨の合間に火花を散らした。有機的なシルエットの怪物は、その姿には似つかない寸分違わぬ精緻なグリッドを、赤く熱された線としてシャッターに描いてゆく。
『タタラの方が得意だろう、その手の豆知識は』
「そうか。帰れたら聞くよ」
彼は眠たげなささやきと共に、足の竦むような高さから空中へ身を投げ出した。上空から重力加速度に倣って落下するギガの姿を捉え、巨影が出迎えるように脚を振りかざす。それはレーザーカッターこそ付いていないものの、ナイフ状に尖った装甲をまとっている。刃先が雨を切り裂いて彼を襲った。対するは大鋸――刃物と形容するには粗暴な、形状としては盾に近い鉄塊を空中で取り回す。怪物の脚と大鋸とが接触し、火花が散る。
ギガの出力は敵を上回った。長く伸びた怪物の脚をまとめて叩き、引きちぎる。それらはタールに似た黒の体液を溢れさせながら、途切れてコントロールを失った。肉の束が宙を踊り狂っては、あらぬ方向へと吹き飛ぶ。ギガは宙で体勢を立て直し、大鋸を両手に構え直した。巨影の背に着地すると同時に、振りかぶった鉄塊を突き立てる。衛星投擲兵器を思わせる一撃。錆びた金属装甲に覆われた怪物の外皮は、戦艦の主砲でも喰らったかのように飛び散った。圧力と振動で、分厚い装甲の内部は掻き回される。筋繊維が装甲の隙間から液化して吹き出し、怪物は今し方這い上がった奈落へ後退る。
ぶつ切りの脚から、黒い体液の雨が遅れて降り注ぐ。ギガは黒い雨を浴びながら、大きく揺れる外骨格から大鋸を引き抜いた。刹那、残っていた脚がギガの横腹を捉え、彼を引きずって斜め上方へと振り飛ばした。廃墟の壁に叩き付けられる寸前で大鋸を突き刺し、威力を殺して垂直の壁へ着地する。空気抵抗でコートが宙に置き去りにされ、くすんだ紫色の髪と、猛獣の拘束具を思わせる下顎の装甲が露わになった。廃ビルの合間を吹き抜ける突風に、喪服じみたダークスーツが激しくはためく。ギガはビルの壁面を駆け下り、元いた外殻の上に戻らんと飛びかかったが――視界の端に何かが過る。彼は大鋸の進路を変更し、自身の頭を守るように構えた。擲弾、いわゆるロケットランチャーの弾が構えた大鋸を直撃し、彼は爆風でまたも空中に放り出された。廃ビルのガラスを突き破って、かつてはオフィスだった空間へ転がり込む。
「痛え! ゼウスは何やってんだ……」
『おっと、政府契約ではない傭兵だ。例によって撤退勧告までだと』
瓦礫を蹴り飛ばして起き上がり、倒壊寸前のビルから躍り出る。ギガが水飛沫と共に地上へ着地した直後、廃墟が達磨落としのようにぐしゃりと潰れた。コンクリート片や断熱材が、消火器が放つ白い粉のように吐き出される。しかめ面で爆風を背に受け、ギガは大鋸を地面に突き立てた。辺りの状況を見回しつつ、ヘッドセットへ悪態をつく。
「"
『よくもまあ、効果も無いのにあれだけの武器を調達してくるものだ。その金で豆の缶詰でも買った方が有意義だろう』
「食い物なら食えば正解だからな。扱いの分からん玩具なんか買いやがって、俺が先に殺されちまうよ」
『イモータルには過ぎた冗談じゃないか』
「俺はいつでも大真面目ですけど」
ギガの脇腹から背中にかけて、擲弾の爆風で飛び散った怪物の破片が貫通している。彼はそれを掴み、無造作に引き抜いて放った。破れたシャツの間から溢れていた血は、いくらもしないうちに止まった。傷口から濃い蒸気――ではなく、ドライアイスのそれに似た冷気が立ちのぼる。ガン細胞を応用した無限増殖する細胞が、露出した筋肉を皮膚となって覆ってゆく。蛍光グリーンの血液が下顎の装甲を伝い、浅黒い首へと彩度の高い線を描いた。ギガは大げさに呻き、口に残った血を水たまりに吐き捨てた。
『やめたまえ、食欲がなくなるだろう。君がいないから、昼食はあやしい屋台のあやしい中華なんだ。ただでさえ妙な味がするのに』
「第7管区の店がいい。あんたはあのクラブ・ラングーンを喰うべきだ」
『へえ』
「たまには外に出ろよ。カビが生えるぞ」
『謹んで聞いておこう』
ギガの一撃によって地下へ沈んだ巨影だったが、それは懲りることなく陥没した地面から這い上がった。オリンポスのシャッターから伸びる、古典的な神殿じみた階段を登ってゆく。レーザーカッターを再び構え、プログラムされた等間隔のグリッドを無感情に引き直している。レーザーカッターの赤くまばゆい閃光が、一帯に濃い影を落とす。あの熱量を維持するための巨体か――場違いに感心しつつ、ギガは付近を見渡した。今必要な物は、怪物の姿を俯瞰できる高台。彼は目標へ駆け出した……。
異形の巨影を、人は"インフレイム"と呼称する。
史上最悪の不正プログラムになぞらえる者。闇を照らす灯火。地獄の業火。戦火の権化、――ゼウスに反旗を翻す"プロメテウスの火"と論ずる者。由来は無数に存在し、いつ誰がそう呼び始めたのかは定かではない。
インフレイムが初めて姿を現したのは約10年前。オリンポス建国による終戦から、40年が経過した年のことだった。
当時のオリンポスは、他の要塞都市とも貿易を行うようになり、白い箱を取り囲むスラム――ゼウスの恩寵からあぶれた者たち――への支援も始めていた。政治・経済的安定を約束しづらい新興国でありながら、ゼウスは社会基盤の修復を試みていた。ゼウスは独裁的でありながら、再生への希望を与え、歪ながらも人々の心を掴みつつあった。
再建の兆しを支える信頼の源は、非暴力による平和を貫く姿勢にある。オリンポスは外部への攻撃手段となり得る兵器を徹底的に廃絶した。今は城壁の防衛性能を主体とした、守りに特化した軍のみを有する。オリンポスはしばしば、
ところが、噛みあっていた歯車を突き崩し、ある日突然インフレイムが現れた。
スラム街の先に広がる地平線から、地下から、上空から、装甲をまとった巨大な生物兵器が襲いかかった。核シェルターに匹敵するオリンポスの城壁を突破せんと、怪物は牙を剥いた。オリンポスには熱風や死の雨、ハリケーンや地震災害への耐性も持ち合わせているが、人間が住む以上は密室ではない。インフレイムはオリンポスの中でも比較的もろい、連絡通路のシャッターを狙った。この"5.17事変"において、ゼウス軍が怪物を追い払うまでの間に、城壁の外側3層を突破されるという大打撃を受けた。
まるでヒトという種の否定。ようやく訪れた安寧の拒絶。インフレイムは荒れ果てた荒野から押し寄せ、戦争の古傷を抉った。傷口からは血が溢れ、人類は闇の中で戦いを再開した。
"5.17事変"の後、自己防衛機能の不足を改善するべく、中央管理局ゼウスは新たな政策に乗り出す。それはスラムに住む貧困層を、インフレイムやテロ攻撃などからオリンポスを護衛する傭兵として雇う"有志傭兵雇用制度"の布設だった。
インフレイムの襲撃より前から、スラムで雑用や要人警護を行うような民間軍事会社は、大小様々合わせれば星の数ほど存在していた。彼らは小売店の経営者からギャング集団の首領まで、金さえあればいかなる人間でも守っていて、ゼウスは彼らに目を付けた。スラムから立候補したPMCを国の管理下に置き、スラムでは得られない報酬とサポートを与える。その代わりに、襲撃時には住民の避難を先導し、壊れた町を復興し、ときにはインフレイムと対峙せよ――といった制度だった。
なぜ住めもしない城を守らねばならないのか。そんな主張もあった。しかしスラムで暮らす人々の大半は貧しく、ゼウスの報酬はまばゆく輝いて見えた。功績を重ねることで、ゼウス直属のPMCとして雇われるようにもなる。特に優秀な個人はゼウス軍へ昇格される。オリンポスの保護から弾かれた住民にとっては、ある意味で人生を返り咲くチャンスでもあった。
ゼウスと契約を結んだPMCは、危険な組織と関わる契約から足を洗うこともできた。彼らはスラムの自治体警察と協力して犯罪抑制に貢献した。インフレイム襲撃の対策に加えて、ハリケーン等の災害を含めた被災地区の復興に尽くした。着実にスラムの治安を改善してゆく契約PMCの存在は、次第に人々の懸念を取り払っていった。有志傭兵雇用制度はある種の親しみを込め、"雇われヒーロー政策"などと呼ばれるようになった。
そして、たった今インフレイムと戦っている男――ギガ・ザ・ウルフの所属もまた、スラム発祥のPMC"エニグラドール"である。彼を含めた7名の実働メンバーがいる極めて小規模なチームで、司令塔はハル・フォックス。彼はオリンポスのスカウトを長年蹴り続ける風変わりな技術者で、実働メンバーにインフレイムに対抗しうる能力を与えた。彼らは揃いの黒服に身を包み、荒野を駆っては幾度となくオリンポスへの侵攻を阻止してきた。
「さあて、どうしたもんかな」
ギガは手頃な廃墟の外階段を駆け上がっていた。
『側面の眼はやりづらいでしょ、僕が半分壊すよ……左側に狙撃ポイントを取れた』
フォックスに替わって、どこか頼りない青年の声が通信に割り込む。
「じゃ反対側は俺が。擲弾もお前に任せていいか」
『無理だよ!』
「頼む、やれるって」
『無理無理無理……』
――インフレイムの左側面から約半km離れた地点。ヘッドセットに泣き言をこぼす眼鏡の青年は、並び立つ高層ビルの中腹にいた。青年はインフレイムの深紅の眼球を見据えていた。その視野の中で、怪物の背に飛び乗ったギガが、無数の脚を次から次へと大鋸で断ち切ってゆく。
吹きさらしの高層階を抜ける強い風に、青年のレインコートがはためいた。袖口からは、ギガのものとよく似た黒い布地が覗く。彼は子供の身長ほどもある対物ライフルを抱きかかえている。銃にスコープはない。彼は半分ずり下げていた眼鏡を外して脇へ置き、銃身を廃墟の窓枠に添えた。
「的が大きくて良かった」
小さく囁きながら槓桿を引き、戻す。銃床に頬を寄せ、トリガーを引く。それらは流れるように5回繰り返された。青年に抱かれた銃身には反動らしい反動もなく、ただ等間隔で銃口が高く吼える。左側面に並んだ眼球は、針で突いた水風船さながらに破裂した。
『あっははは! 早えな!』
何らかの物体が殴打される悲鳴がヘッドセットに届き、その合間にギガが笑っている。
「油断しちゃ……」
青年は取り外した空の弾倉を背後に放り、新たな弾倉を手に取ろうとして言葉を切った。対物ライフルから手を離し、自らの肩にかけていた中距離用の狙撃銃を構える。その動作は到底、人間には視認できないほどの速さで――はるか前方で視界を横切る擲弾。風。豪雨。彼の眼に埋め込まれた照準デバイスが、すべてをスローモーションに引き延ばして知覚した。辺りを支配する雨の騒音が消え失せる。標的と軌道計算と感覚が合致する。
「捕捉」
呼吸するようにそう発し、トリガーを引いた。
狙撃銃は薬莢を吐き出し、弾丸は触手の網目を縫って飛び、そして
『ほらな、やれるだろ』
「勘弁してよ、2.53%は外れるんだから!」
青年は――エニグラドールの狙撃手、タタラ・ザ・リザードは大きなため息とともに、対物ライフルを拾い上げた。手早く弾倉を取り付ける。そうして数分も要することなく、怪物の13対の眼球は破壊された。怪物は黒い涙を流し、平衡感覚を失ってぐらついている。レーザーカッターのついた脚も制御を失った。シャッターに繋がる長い階段の斜面を、怪物の巨体がわずかに後退しつつある。
「やっと弱ってきたみたいだ、はあ……」
『あとは俺が』
インフレイムは視覚を失い、敵の座標を特定できずにいる。闇雲に脚を振り回すが、その背に乗ったギガには何ら脅威ではなかった。廃材を重ねた装甲を踏みしめ、鋸と踊るようにして脚を切り落としてゆく。いよいよ装甲に鋸を突き立てんとした時、フォックスが間の抜けた声を上げた。
『ああ、ところで。そろそろ増援が着くと思う』
「え、なんで」
『メンテ中だったし、私も一応声をかけたんだがね。人の話をまるで聞きやしない』
「もっと全力で阻止してくれよ」
『無茶を言うな、誰にも止められないさ。あの速さだよ』
「そう設計したのはあんただろ……」
ギガはどこか憐れみを含んだ仕草で、足元の装甲板を鋸の先でコツコツと叩いた。
「お前、オリンポスに構ってる場合じゃねえと思うぞ」
その言葉の直後。怪物は側面から何らかの衝撃波を受けた――――原因である
「呼んでねー」
『お前が呼ばずとモ!』
『たたかいがおれたちをよんでいる!』
「……」
狙撃ポイントで待機中のタタラも、うわずった声で喚く。
『やめて! RPGかと思った! 撃っちゃうから!』
乱戦をかき回すオレンジのつむじ風。彼らはギガやタタラの小言にも構わず、ヘッドセットの先で奔放に笑っている。装甲を失い、黒ずんだ筋肉が剥き出しになった怪物を、姿のない第2波が容赦なく襲う。怪物の背中――ギガが立つ頂上付近に鋭利な裂け目が走り、そこから肉塊が抉れて滑り落ちた。ピックアップトラックほどもある、ベタベタとした嫌な光沢の肉塊がはるか地上へ消えていった。遅れて傷口から漆黒の体液が噴き出し、ギガは頬に飛び散ったそれを掌で拭う。怪物の傷口はやはり部分的に炭化し、焼けた植物に似た異臭を放っている。
オレンジ色の風たちは、インフレイムに隣接する高層ビルの側面へ、鏡映しのそっくりな姿と仕草で着地した。1秒の間もなく、弾丸顔負けの速度で空中へと飛び出す。林立する廃墟の間を、風がゴムボールのように飛び交う。その度に怪物の巨大な肉片が剥がれては放り出された。双子の少年――ロック・ザ・オストリッチ、ジャック・ザ・スウィフトには鋭利な爪とスピードがある。それは怪物を2m四方の肉塊へ分割するために不足のない切れ味である。
「遊んでんのか、お前らが倒すのか。どっちなんだ」
『『遊んでる!』』
「だろうな。ちょっと引っ込め」
『『やだ!』』
ギガは揺れるインフレイムの背を歩き、装甲がひときわ酷くひしゃげて剥がれた位置まで移動した。鋸の"刃を収納し"、クレーターのようになったその中心へ突き立てる。純粋な鉄塊は怪物の筋肉の中へ沈み込んだ。
「シャッターをひとつでも破られてみろ、報酬がパーだぜ」
『『ええっ!』』
「奴らはいくらでも来やがるが、ジャンク屋の爺さんはいつまで生きてるか分からんぞ」
『どうすル?』
『どうしよう!』
趣味のレトロゲームをジャンク屋で買い漁れない生活は、彼らにとって少々苦痛である。飛び交っていた少年らは、インフレイムから一目散に遠ざかってゆく。
その様子を確認しつつ、ギガは掌の動作を確かめるように数回握りしめた。掌の内部に仕込まれたトリガーを介して出力リミッターがすべて解除される。並の戦闘、ましてや日常生活では到底必要のない膨大な出力が、彼の挙動から細やかな"生物らしさ"を奪う。彼はどこか錆びたクランクのようなぎこちない仕草で、怪物の金属装甲を剥ぎ取った。それをたやすく曲げ、包帯のように拳へ巻き付ける。彼は深く息を吸い、背後に振り被った拳を固く結ぶ。腕に隙間無く詰められた筋繊維が、
ギガは足下の怪物に開いた暗い大穴を一瞥してから、雨水の滴る袖口をわずかに捲った。衝撃によって、筋繊維の束の方向に合わせて皮膚が裂けている。わずかに震える腕の表面で傷が蠢き、すでに肉体が修復を始めている。衝撃波ではね除けられていた雨が、やがて彼の頭や肩の上へ戻ってきた。
鋸によって体内で神経系が断ち切られ、怪物の細胞は自らの居場所を見失った。それらは互いの結合を手放し、怪物の半身はぼろぼろと、あるいは液体のように崩れ始める。ビルほどもある巨体にみっしりと詰まっていた細胞がどろりと流れ、すさまじい質量と体積で廃墟の合間を迸る。体を支える強度を失ったインフレイムは、オリンポスのシャッターの前でぐらりと揺らいだ。ギガは怪物の最期を見届けるため、倒れ伏す巨体とは逆方向へ跳んだ。
巨影は音もなく傾ぐ。黒い影が曇天を遮る様は、時の流速が半減しているかのようだった。荒野へと吸い寄せられ――――鼓膜を破らんばかりの地響きと共に倒れた。大地が揺れる。怪物に残るもう半身も、接地とともに自重で弾けた。周囲の廃墟が巻き込まれ、積み木の城のように易々と崩れた。
一帯は濁ったタール色に染まった。ギガはシャッターの前に立ち、一部始終を眺めていた。シャッターからはまだ黒煙が登っている。怪物のカッターによって切り刻まれ、溶けた金属と塗料が悲鳴を上げていた。腕にまとわりつく黒い液体を振り払いながら、彼はふと呟いた。
「俺の鋸どうしよう。なあフォックス、座標分かるか」
『ビーコンなら前の仕事で壊したじゃないか。直しておけと言ったのに』
「鋸がなくなったら何で戦えばいいんだ」
『考えよう………………………油圧ブレーカーはどうだろう。防弾盾と組み合わせても面白い』
「……なんだよ、悪くねえな。フライパンとか言うと思った」
『大真面目な君に合わせたのさ』
ギガはしばらく肉と瓦礫の海を眺め、やがて観念して階段を降りて行った。
錆びついた金属装甲の山から、蛍光グリーンの淡い光がちらついた。折り重なる残骸をかき分け、インフレイムの崩落に巻き込まれた乗用車を押し遣り、ようやく愛用の大鋸を引っ張り出す。
「あった! 奇跡ってあるんだな………!」
『鋸は良いがね君、
「それは無えんだよなあ」
『無いよ』
『『なーい』』
いまだ煙が立ち上る雨の戦場。実働メンバーは残骸の海を歩き回り、"核"を探していた。フォックスの催促に対する答えは、どれも芳しくない。
『まさかぁ、そんな訳ないだろう。よく探したまえよ』
「いや、それがな……」
うず高く積まれた残骸の頂上に立ち、ギガは周囲を見回した。
エニグラドールを初めとするPMCによって、これまでにインフレイムは何度か撃退されてきた。インフレイムはどこから来るのか。どのように製造されているのか。なぜオリンポスの壁を突破しようと企むのか。謎はいずれも明らかにされていない。けれどもその残骸だけは、ゼウス配下の研究組織によって調査が進められていた。
インフレイムに用いられる筋組織は、動物のそれではない。どちらかと言えばオジギソウやハエトリグサなど"動く植物"の細胞に近いものである。基礎となる細胞に水と二酸化炭素、光などを供給することで細胞は分裂し、無限に増殖する。インフレイムには、その膨大な細胞を動物の形にまとめ上げるための"核"が存在する。核からは神経線維が伸び、巨大な怪物の身体を網羅している。
エニグラドールはインフレイムの神経を断ち、細胞の結合を損なわせて破壊する。逆の表現をすれば、核をすべての神経繊維から分離する必要がある……ということでもある。遺伝子情報と再生パラメータ、それから――"オリンポスを襲撃せよ"というオーダーを詰め込まれた核を回収しなければ、かすかな日光と雨を浴びた細胞が再増殖し、怪物の半身はまた動き出す。
残骸と細胞の合間に投げ出された神経繊維は赤い。ギガはもう小一時間も、俯いて血の川を辿っていた。流れに沿って進めば、いずれ源流にたどり着くものだ。しかし、核はどこにも見当たらなかった。
『神経線維の太さと分布からして、ここにあったはず、って場所は見つかったんだ』
「なんとかかんとかは、なんとかかんとかの所に」
『頭足類は、腕神経節の先に…』
「ん、要はここだ。でも肝心の核がねえ」
タタラの話が小難しいのはいつもの事だと言わんばかりに、ギガは慣れた様子で続ける。
「外殻はあるんだぜ。そいつはカチ割られて……」
残骸の丘を越えたあたりで、ギガは地面から顔を上げた。
彼は目の前の光景に言葉を失った。
先の戦いで壁を削り取られた廃墟が、丘を越えてすぐ目前に残っている。その3階の縁に、人影が片膝を立てて座っていた。宙に投げ出した片脚がわずかに揺れる。四足歩行の小さな――といっても、人間が背に乗れるほどの――獣を隣に侍らせている。獣は、たった今までギガが踏みしだいてきた残骸によく似た装甲を纏っていた。人影は深紅のぼろきれで体を包んでいる。それは味気ない灰色の廃墟が、傷から血を流すように際立って見えた。
"5.17事変"の首謀者。たったひとりの戦争を仕切る女。現生人類最悪の脅威、インフレイムの指揮官。名はラクーンドッグ。
彼女は赤い球体――核を掌で弄んでいた。顔を覆う奇妙なマスクに口はなく、ただふたつの暗い眼窩があるだけだ。眼窩は泥濘む地面を見つめていた。
静寂。ヘッドセットにはノイズひとつ無かった。それはジャミングされ、完全に機能を失っていた。髪や肩に大粒の雨が降り注ぐ。彼は耳に染みついて忘れていた雨音を思い出した。
ラクーンドッグは獣にコアを咥えさせ、廃墟から飛び降りた。音もなく着地すると、まとった深紅が大気にゆるりと流れた。彼女は何も考えていないかのよう、無邪気とすら取れる足取りで歩み寄る。ギガは大鋸を背負ったまま展開した。
――――これを抜き、振りかざす猶予が俺にあるか。片腕を盾にして刀を止め、胴を殴り付けた方が確実か。確実なことなどない、猶予など与えられていない。
ギガの指先は震えていた。雨粒がひっきりなしに滴る。ラクーンドッグは彼の数メートル手前で立ち止まった。数時間に引き伸ばされた数秒。ざり、とラクーンドッグの軍靴が荒野を擦った。
ギガは居合の軌道に腕を重ねる。覚えのあるあの太刀筋も、金属骨格までは斬れまい。逆の拳は胴を狙って振りかざす。ここで内臓のひとつでも潰せたらそれでいい。俺が殺されたあとは、もっと適任の仲間が――ー
ラクーンドッグがギガの懐へ踏み込む。一瞬。
低く身を屈めたギガの首筋では、電熱刀が雨粒を受けてじりじりと音を立てる。ラクーンドッグは片腕に刀を、もう片腕で彼の拳を軽く牽制したまま彫像のように動かない。
ギガにはたった今に至るまでの過程を視認できなかった。彼の
獣のマスクに空いた虚ろな眼窩から、闇が見据えている。表情を隠すホログラムと、ギガの肉体そのものとの間にある隙間から、彼の蛍光グリーンの瞳孔を、ラクーンドッグの眼窩が浅く抉った。浅黒い皮膚がアーク加熱で融ける。思わず息を飲んだせいで皮膚が裂け、血液が首に一筋の線を描いた。それすら間もなく雨に流され、シャツの下へ消えていく。
獣のマスクの下で、嗄れた声が囁いた。
「…………
雨音にも掻き消されるほど微かだった。ふと、一触即発の殺気が消え去った。ラクーンドッグは刃を鞘に納め、ギガに背を向けた。彼女自身の問いに反するような素振りだ――さあ殺せと言わんばかりの無防備な背中が遠ざかる。核を咥えた小柄なインフレイムは、ガラスに似た眼球でしばらくギガを見ていた。やがてそれも、ラクーンドッグを追って水煙の中に消えた。
「……………………刀向けて言うセリフかよ……」
ギガは声を絞り出して呟いた。止まった時間の流れを無理やり再開しようという試みだった。ラクーンドッグと対峙する瞬間、時間も、肉体も、思考も凍りつく。暗い冷凍庫に整然と吊るされた、背骨から半分に割られた家畜のように、言葉もなく切り刻まれるのを待つ肉塊となる。ようやく傷に触れると、蝋にナイフを滑らせたような凹凸があり、血が焼き付いていた。
もしもあれが腹や胸を貫いたら、一度は切り口が焼き固められて、焦げてこびりついた血肉は刃を引き抜くと同時に持ち去られる。切り口は刺したときよりもずたずたに開かれて、中に残る熱傷のせいで再生機構は働かない。残忍な人間だ――ギガは少し笑った。
オリンポスを取り囲む広大なスラム街、そこから外は廃工場の群れが地表を覆い尽くしている。人は大戦以前に使われていた薬品などの物資を調達し、それ以外は廃工場地帯へ立ち入ろうとしない。スラム街の中でもひどい貧困に喘いでいる者や、罪を犯して生活圏から逃げた犯罪者ですら居住を避ける地区である。この工場地帯に紛れ込むように、エニグラドールのセーフハウスは存在する。
"神出鬼没の怪物ハンター"という肩書きは、娯楽のないスラムではあまりにも消費されやすい。そうして今やある種の都市伝説となってしまった彼らが、人々から身を隠して休息するには、廃工場はもってこいの立地だった。細い路地が入り組んだ迷路を抜けると、路地の突き当りに何の変哲もない鉄製の錆びたドアが現れる。訪問者にドアを開ける権利があれば、その中には一般的なスラムのPMCと同じ、きわめて"普通"の生活があると知ることができる。
「いてえ! もっとやさしくやってくれ。麻酔しろよ」
スキンステープラーが、医療器具らしからぬ軽快な音を立てる。立て続けに3回弾くようにして、浅黒い肌にシルバーの小さな鎹が並ぶ。
「22世紀の縫合器具は、タトゥーを彫るより痛くないと名高く………第一、泣き言なら他に言うべきタイミングがあっただろう」
「すぐ再生するのとは事情が違う」
フォックスが発泡タンパク質を薄くスプレーし、胸に零れて固まっていた黄緑色の血を布で拭う。さらに、重ねて包帯を巻く。煮沸して繰り返し使われる布はヤスリのようにざらついて、ギガはその感触にも呻いた。
「憂鬱だ。この傷と何日も一緒に暮らさなきゃならんのか。寝返りはどうする……枕に触ったら飛び起きちまう」
「傷を負った生物はだいたい皆そうさ。観念したまえ」
フォックスはくるりと背を向け、次の"メンテナンス"の準備を始めた。
痩せて埃っぽい黒の背中は、元は白衣なのだという。戦前に医者や研究者が着ていたもので、その型紙を使って黒い布で作られたのか、彼が黒い染料で染めたのかは不明だった。それから、顔を覆う獣のマスク。仕事中にギガやタタラが顔を覆うホログラムとは異なり、フォックスのマスクには実体がある。あのマスクが机や爪に触れると、乾いた骨のような音がする。彼は"作業に集中できる"という理由で着用しているが、スラムのPMCから代表者をかき集めて並べたとしても、2人といない奇妙な風貌だった。
PMCのボスと言えば、もっと……顔の半分に金属骨格が露出している奴とか、ナイフで全身に聖書の文言を刻んである奴とか、"残った"腰から上を4脚の運搬特化ドローンに括り付けている奴とか……。ギガの視線は雑然と散らかった部屋を眺め、配管がむき出しの天井を呆けたように仰ぎ、それからフォックスの背中へ帰ってきた。
「奇妙でもねえか」
「ん?」
「……」
振り返ったフォックスは端子の束を握っていた。そこから1本ずつ端子を引き出しては、ギガの裸の背骨や上腕、太腿に接続した。継ぎ目から皮膚をわずかに捲り上げると、その下の筋肉に埋もれるようにして無数のポートがある。端子がそれらを網羅していく。端子の先はいくつかの黒い箱やら白い箱やら、ギガの興味をそそらない機器を通して、最終的には天井を擦るような高さの金属ラックへ消えていく。フォックスは煌々と主張するモニタの群れを見る。滝のように流れていく文字列を認識しているのか、それとも後で加工して分析するためのデータなのか、何度メンテナンスを繰り返してもギガには分からなかった。フォックスからは「君のステータスだよ」とだけ聞かされていた。ギガ自身にも表現が難しいものが数値や文章で出力されていることは、彼をいつもどことなく落ち着かない気持ちにさせる。彼は手持ち無沙汰に眺める次の標的を、足元で絡みあうケーブルの混沌に決めた。
フォックスはエンジニアで、ヒューマノイドや人工知能に関する膨大な知識を持ち、それらを造り、直し、壊すこともできる。ギガは人間ではない。タタラも、ロックとジャックも人間ではなく、フォックスによって精巧に造られたヒューマノイドである。"エニグラドール"は屋号であり、全部で7機の"作品"を指すシリーズ名でもあった。
「今のところは異常なし。骨のひとつ位は取り替えになると予想していたが、運が良かったか」
「スナイパーの腕が良かったんだ。直撃してりゃ、どこか曲がってたかも。あいつはまた部屋に籠ってんのか?」
「例によって、最低24時間は出てこないね。すぐに次の敵が現れたらどうするのだろう、彼は」
「部屋の窓から狙撃してもらうさ」
「なんと手厳しい」
フォックスはギガから端子を取り外してゆく。メンテナンスは日に7回、つまりエニグラドール全機に行われることもある。それを無限とも言える回数繰り返してきただけあって、フォックスは手元を見る必要すらない。当然、端子の取り外しは時計の秒針を気にする間もなく終わるはずだった。
鎖骨の下に刺した端子へ指がかかり、それは何か思案するように止まった。フォックスの手はいつも冷たい。その手が端子から離れ、ギガの胸にある深い傷痕を指した。肩から横腹にかけて、まるで彼を斜め半分に切り分けようと試みたかのような火傷の跡。薄くなった皮膚に血の色が透けている。ギガが足元のカオスから顔を上げると、獣のマスクが見下ろしていた。
「…………君を斬らなかった」
「今日も殺せたのにな」
なぜ生きようとしない?
不可視の速度で刀を振るうサイボーグの前に立ち、まだ生きられると考えられるなら、それこそ異常だ。ひとりで戦争をやろうと考えるような人間は、こぼす言葉まで狂っている――そんな風に、フォックスに一字一句余すことなく伝えたらいい。ギガはそう考えながら、ラクーンドッグの問いかけを飲み込んだ。
マスクの眼窩は暗い。その暗がりの中で、フォックスと視線が合っているような感覚がある。彼の黒い目は電源の入っていない液晶画面のようで、いつも見るものの輪郭だけを映し出す。自分の輪郭であるはずが、顔や手指は色が混じりあってぼやけ、別の誰かのように感じさせる。
すべてのマスクに同じ闇が宿るのだろうか。強盗が被るブギーマンじみた麻袋や、溶接に使うフェイスガード、プラスチック製のフィリックス・ザ・キャットは? ギガは考えて、すぐに否定した。ラクーンドッグと同じ色をしているのは、この眼窩だけだ。彼の知る限りでは。
敵の素性を掴めないのと同じように、フォックスがどこから来た何者で、何のためにエニグラドールを造ったのか誰にも分からなかった。聞けばフォックスは答えるかもしれない。けれど誰もがそうしなかった。作品たちに巨大なインフレイムを壊す能力を備えたこと自体、ラクーンドッグとの関係を示唆してはいたが。
「死なれては困るよ」
「分かってる」
だからきっと、これは同じ意味の言葉だ。ギガは明らかな根拠もなく確信していた。フォックスの手が傷痕をわずかになぞり、最後の端子を引き抜いた。
フォックスはマスクを外して、有象無象の器具でいっぱいの机に放った。銀か白か、ひどく色褪せた髪をかき回して、破れた合成皮革の椅子に体を預ける。
「やはり君には、局所的熱傷の対策が必要だね。欲を言えば高圧電流も。金属主体のナノマシンでも手に入れば良いが」
「えらく金のかかりそうな話だな」
「グラム単価で言えば、プラチナと良い勝負さ」
エニグラドールは政府に認可されたPMCであり、ゼウスから支援を受けている。
「今月末の経済状況は、我々の歴史に残る厳しさとなるだろう」
「毎月歴史に刻んでおかねえとな」
フォックスはくすくすと笑った。彼がヒューマノイドたちと冗談を投げ合うときの、秘密を共有するような笑い方は何かに似ている。ギガはそれを記憶野から検索しようと試みた――ベッドに入った子供に絵本を読む親、そんなシーンを思い起こさせる。しかしそれはいつか見た古い映画の受け売りで、ギガが探している真の答えとは少し違った。いずれにせよ、この既視感は暗い眼窩と共には訪れない。いつかあのマスクを、この部屋のどこか奥の方へ隠してしまおうか。約10年前のある日、ヒューマノイドたちに唐突に意識が始まって以来、ギガはこの部屋の床がどんな素材で作られているか知らなかった。ここに隠せば二度と出てこないだろう。
ギガは首の刀傷に触れないよう、すりきれたスウェットに恐る恐る袖を通す。セーフハウスの外では雨が強さを増し、分厚いガラスとコンクリートの壁に雨音が染みこむ。永遠に曇天が続く土地では、朝も夕方もはっきりとしない。ギガは自室の頑丈なベッドのことを考えた。今日は家事の当番でもないし、このまま寝てしまおうか。あるいはキッチンが空いていれば、合成肉のレシピをひとつ試しても良い……。
そんなタイミングを見計らってか偶然か、ロックとジャックがドアから顔を覗かせた。いつも合金製の鍵爪でドアを蹴破らんばかりの勢いで、実際に数回は蹴破ったこともある。今し方そのドアを出ようとしていたギガの胴回りに、ふたつのオレンジ色の塊が飛びついた。
「第5管区西、自警とPMCが交戦中!」
「かんかつあらそいだ!」
「人間同士かよ、めんどくせ。お前ら絶対に関わんなよ」
途端にロックが平手でギガの胸板をはたき、ジャックが横っ腹に頭突きをする。双子はすべての行動選択をコンマ1秒以下に収められるらしく、彼らの思考は手足の神経、眼、耳、舌から始まり、脊髄を通って体全体で表現される。必ずしも大脳を介する必要はない。
「わかっタ!」
「やってやるぜ!」
「英語通じてねえのか?」
双子の背中を追い、ギガが開け放たれたドアから廊下へ身を乗り出す。セーフハウスのドアはどれも平等に蹴破られる可能性を備えており、今日は24時間引きこもる予定だったタタラの部屋が蹴破られたらしい。相棒の狙撃銃を背負ったタタラが廊下を横切り、鼻をすすりながらのろのろと歩いていく。
「今の見たか、世界の終わりにする顔だ。哀れになってきた」
椅子の上で溶けかかっていたフォックスは姿勢を直し、スリープ状態の端末を叩き起こした。彼が指揮に使うヘッドセットのLEDに、青白い光が点る。
「哀れついでに、君も向かってくれないか。双子じゃ事態が悪化する」
「そう来ると思いました。この格好で行っちまおうかな」
「それじゃ露店で買い物じゃないか」
ほつれたスウェットを伸ばして戯けるギガに、機器の山から引っ張り出した予備のレインコートが放られた。わずかに滞空するそれを引き寄せて羽織り、フードを被ると同時に、ギガの目元にホログラムのマスクが現れる。レインコートの背中とヘッドセットへ向けて、フォックスが囁いた。
「皆、いってらっしゃい。怪我に気をつけて」
「行ってくる」
廊下に据えてあった大鋸を担ぎ上げ、ギガは双子を追った。
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