良き知らせを此方に

 研修医という立場ではあるが、アーセルトレイ全体に世界の危機による災害警戒が出された状況下では人手なら幾らあっても余ることはない。

 尤も、出来る事が限られている上に一応はまだ学生という立場である者達を拘束し続ける訳にはいかず、辰哉にも帰宅指令が出された。

 病棟の廊下を早足で進む辰哉だったが、ふと聞こえたか弱い声に足を止めた。

「ななち、先生?」

 入院着姿の子供が、辰哉を不安げに見上げている。研修医として院内で働いていた際に何度か見たことがあった。203号室の患者、名前は麻生 ミメイといった筈だ。抱いている白いウサギのぬいぐるみは遊戯室から持って来たものだろうか。ただ、以前はもっと派手な色味のものを持っていたような気がするが。

「ああ。どうした? こんな所で」

「ぬいぐるみのお部屋に、この子取りに戻ったら、空がすごくこわい色だったから……」

 不安げな瞳を一瞬だけ窓の外に向け、すぐに逸らす。ぎゅうとぬいぐるみを抱く手が小さく震えていた。

 世界を覆う脅威の影響は、一般市民への恐怖や混乱を与えるのに十分なものだった。数時間前は灼熱の日差しが照り付けていたというのに、今では吹雪く寸前のような空模様だ。病院内こそ安全が確保されているとはいえ、そこに集う人々の不安を払拭するのに十分とは到底言えない。幼子にとっては酷く恐ろしいものと感じるのも仕方のない事だ。

 しかし、と。小さな患者に対して辰哉は内心で溜息を吐いた。

 子供の相手は苦手だった。もとい、どう接したらいいのか分からないというのが正確な所だ。先輩医師や――自分よりも遥かに子供への対応に慣れているあの男ならどうするだろうかと考えて、まずはしゃがみ込んだ。

 近くになった目線にミメイが少し怯えたような様子を見せる。お世辞にも和やかとは言い難い雰囲気の顔が近付いたのだから当然の反応だろう。怖がらせるのは辰哉としても本意ではないのだが、同時にこういった態度を向けられるのにも慣れている。

「……部屋に、戻りなさい。眠っていれば、目が覚める頃には良くなっている」

 極力柔らかい声色を心掛けた心算なのだが、果たしてそれが成功していたのかの判断は付かない。

 しかし、一瞬目を丸くしたミメイはこくりと頷いた。

「は、はい。……おやすみなさい」

 ぱたぱたとぬいぐるみを抱いたまま、ミメイは自身の病室へと戻って行った。

 廊下の奥に目を凝らせば、恐らくミメイを探していたのだろう、白衣姿の人物がこちらに向けて軽く頭を下げていた。一見年若く見える黒髪の医者は、辰哉もよく知った顔だった。

 会釈を返した辰哉に彼の唇が『ありがとう。お疲れ様』と告げる。それに先程よりも深く頭を下げ、辰哉は病棟の廊下を後にする。

「滅びなど、必ず退けてみせる」

 自分達だけでない。他にも多くの星の騎士が、この世界の危機に立ち向かうべく剣を取り戦う筈だ。ロアテラの思うままにはさせやしないという意思は、恐らく星の騎士の総意だろう。少なくとも、辰哉が知る幾つかの馴染みの者達は皆そうだった。

 この学園都市の階層だけでない。あらゆる世界を脅威から守り抜く、その為の戦いに身を投じるのだから。


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