第7章 静寂は狂気を呼び寄せる


 8月27日、東京総合国際病院 地下二階。森谷の研究室に、米村の影があった。渡す約束だった脳の細胞、それを手渡す算段だった。

 米村は、森谷を快く思っていない。むしろ嫌悪している。しかし、その能力は捜査本部の折り紙付きでもあったし、何より迅速性が素晴らしかったのだ。今回の事件の被害者、渡辺の遺体は現在検死の真っただ中にある。その間、遺体からは何も得られないので、捜査を進展させる必要があった。それが、森谷に細胞を譲渡することだった。


「うん、約束通りですね」


 上機嫌の森谷と対極にある米村。それを渡したらさっさとここから出よう、そう考えていた彼だったが、昨日のことを思い出していた。彼は、高島 春来や、安藤 胡桃たちと一緒に現場にいた。それがせなかった。


「なぜ、あの子たちを現場に連れて来たのか、理由を聞かせてくれませんか」


 尋問するかのように森谷を睨みつける。昨日は不問にする、と言ってみたものの、どうしても嫌な予感が彼をふるい立たせた。彼らが妙なことを企んでいないだろうか、そんな考えにさえ発展してしまう。


「あの子たち? ……ああ、あの若い子たちですか。さぁ? 理由なんか知らないですけどね、花南ちゃんにお願いされたら断れないですもん」


 特に隠すこともなく理由を話す森谷。


(花南ちゃん……? ああ、湊 花南……安藤 胡桃の芸名だったな。しかし随分前に引退していたはずだが)

 そんな思案をしていた米村だったが、不意の叫び声にその思考は妨害された。


「あ! サイン貰ってない!」


 森谷の叫び声。思わぬ事態に身をすくませる米村。他の研究員たちも、揃ってこちらの方を見ている。


「あ、ああいや、すみません。しかし、ああ、しまったな……」


 恥ずかしそうに、しかし悔しそうにしている森谷。何があったのか、全く興味がなかった米村はそのまま席を立った。が、去ろうとする米村に森谷は何かの瓶を投げ渡した。


「おっと、いきなり何を……」

「いえ、何か疲れてそうなのでね、お礼も兼ねて」


 手に取った瓶を見る米村。エンドルパワー、そこにはそう書いてあった。もちろん、警察という立場上貰っていいはずがないし、そもそも森谷から何か受け取るなど彼には到底無理な話であった。


「結構です、お返ししておきます」


 投げ返すのは躊躇ためらわれたので、そのまま机に置いて帰ろうとした。しかし、少し気になったことがあった。


「森谷さん、これはどこで手に入れたんです? 俺はこれを売っている店をみたことがないんだが」


 以前、カフェで宮尾 藤花が言っていた、『どこにも売っていない』、と。彼はその言葉が気になり、興味本位で少し探してみたのだ。

 実はこの手の商品が好きな米村だったが、ついにそれを手にすることはなかったのだった。それだけに、こんなにも易々と他人にこれを渡すことが、彼にとっては信じられなかった。


「え? えっと、確か……そうだ、昨日遺体で発見された渡辺先生に貰ったんです。先生、たまにこういうの配るんですけどね、どれも絶妙に不味まずいんでこれも飲まなかったんですよ」


 不味い可能性の高いものを人に渡すなよ、そう思った米村だったが、これを配っていた、ということの意味を考えていた。配っていた、ということは、それなりにまとめて購入したことになる。それが可能な商品だったのなら、どこかしらのドラッグストアや、ネット通販で容易に買えるはずだ。


「被害者は、これを配った時に何か言っていなかったか?」


 それをこの男に聞くのは愚問かもしれないが、念のため訊ねてみた。昨日はそれで痛い目を見たのだから、もう同じてつは踏まない。そのつもりで聞いた。しかし、返答は目の前の森谷ではなく、後ろにいた女性の研究員から得られた。


「あの、その時は私もいました。確か、要らないけど頻繁にくれるからおすそ分け、というような感じだったかと思います」

「くれる……?」


 くれる、つまり貰うということ。それは、エンドルパワーの販売業者が渡辺に賄賂わいろを贈るようなものだ。

 最近では、医師に限らず医療職種に対してこういったもの、それどころかボールペンですら提供することは禁止されつつある。そんな中で、栄養ドリンクなんて高価なものを、しかも箱単位で渡すなんて胡散臭うさんくさい。これは、背景に何かが潜んでいる可能性を示唆するのだ。


「ありがとう、参考になった。それでは森谷さん、その細胞をよろしくお願いします」


 思いがけず情報を得た米村は、それから一度も振り返ることなく、研究室を去っていった。足早に去る米村を黙って見送った森谷だったが、彼の反応から、この栄養ドリンクが事件に関わりのある可能性を感じ取った。


「エンドルパワー、ねぇ……」


 森谷は、渡辺から貰ったという栄養ドリンクをしげしげと眺めていた。エンドルパワー、滋養強壮、薬に頼らず健やかな生活、製造販売『自然と共に生きる会』……。


「なるほど、こいつはちょっと面白そうだ。ちょっと調べてみるか……」


 ニヤりとした笑みを浮かべ、森谷は自室に戻っていった。









 8月28日、夜23時過ぎの代々木上原よよぎうえはら駅周辺。生憎あいにくの雨の中、傘もささずに歩く一人の影があった。ふらふらと左右に大きく振れながら、一心不乱に歩き続けている。周囲の歩行者も、その異様な光景に振り返り、嫌な顔をする。


 ロングコートに、長い髪、そして土気色の肌。まだ蒸し暑く、秋の訪れすら感じさせない気温。それにも関わらず、彼女には冬のような凍てつく視線が送られていた。

 彼女は、それを一切気にせず歩き続け、やがて夜の闇に姿を消した。そして、遠く闇の彼方、何かが蹴られたような大きな音が響いた。









 8月29日、8時。俺のスマホに朝から不穏な通知が届いた。送り主は、岬 千弦。


ちー『今日、10時に渋谷しぶや駅集合で!』

高島『いきなりなんだよ、こんな朝早くに』


 あの日以来、俺たちは直接会うことも、チャットもしていなかった。会うのが嫌だったとか、そういうことではないが、何となく今は会うべきではないような気がしていたのだ。

 そんな中、こんな話が飛び込んできた。この前の事件の時と似ていて、嫌な感じがした俺は、思わずすぐに返信した。


胡桃『えっと、何かあったんですか?』

ちー『お、みんな早起きだね! 感心しました!』

高島『誰目線だよ。それより、どういう要件なんだ?』

トーカ『おはよー、いいニュース?』


 珍しく宮尾が起きている。宮尾は、基本的に寝るのが早く、起きるのが遅い。高校時代も、毎日遅刻スレスレで通学していたし、帰宅したらほとんど寝ているような生活をしていたようだった。

 大学に入ってからもその生活は変わらないようで、俺や岬が、彼女の帰宅後に連絡を取ろうと思っても、大抵の場合は捕まらない。

 そんな宮尾が、こうして朝早くから起きているのだ。もしかして、あの病院での出来事をまだ引きずっているのかもしれない。


ちー『全員いるね、オッケー、集合場所は送っとくから!』

高島『おいちょっと』


 一方的にチャットを終わらせた岬。何か言いたいことがあるなら今言えばいいのに、そう考えた俺だったが、ちょうどこのところ外出もしていなかったところだ、と気分転換も兼ねて、集合場所へ行くことにした。









 「で、あいつは遅刻するんだよな……」


 渋谷駅、ハチ公が見えそうな微妙な場所に、俺、宮尾、胡桃は集合していた。微妙な場所だったが、さすが夏休み中の渋谷ともあって多くの人が行き交っている。時刻は10時を過ぎたところだ。

 俺の話に対し、特に意に介していない様子でスマホを操作する胡桃と、何か悩んでいる様子の宮尾。さっきからずっとこうだった。なんとなく、空気が重い。


「あ、ごめんごめん、少し遅れたね!」


 三人を見つけ、小走りで岬が現れた。急いで来たというアピールだと思うが、いつも遅れてくるのでその効果はない。


「あのな、自分で言い出しといて遅れるなよ。で、何の用なんだ?」


 単刀直入に尋ねる俺。それに呼応するように宮尾、胡桃も岬をじっと見ている。


「何の用って言い方はないでしょ、せっかく胡桃ちゃんと出会ったことだし、親睦しんぼくも兼ねてみんなで遊ぼうかと思って!」


 ふふん、と良い笑顔を浮かべている。それをただ呆然と見つめる俺と胡桃、そして宮尾もちょっと同意しかねている雰囲気だ。


「おい、俺たちはともかくとして、胡桃さんは社会人だぞ? 急に誘って失礼じゃないか」


 そう、確か胡桃は私立探偵をしていた。探偵業は、ほとんどが猫探しや不倫調査などの雑務で終わることが多く、収益もほとんどないと聞いたことがある。そんな彼女の時間を、思い付きで奪っていいはずがない。


「あ、ええと……特に今日は急ぎの用事もなかったですし、そもそもお姉ちゃんの事件以降は休業しているので……」


 気まずそうに話す胡桃。そうだった、姉の安藤 理佐が亡くなり、しかも最近になってようやく頭部が発見されたのだ、平常心で仕事ができる状態じゃない。それに、個人的に事件を調査しているんだったな。


「ま、まあ迷惑じゃなければ良いんだけど……」


 これは止められないパターンかな、そう考えたとき、岬が耳元でこそっと呟いた。


「トーカ、なんだか元気ないでしょ? ちょっと元気付けてあげないと。あのまんまだと調子狂うんだよね」


 岬が言った通り、集合場所に来た頃、いや、最後にみんなで会った病院の前……その時から宮尾は元気がなかった。宮尾からしてみれば、自分の思い付きで事件に首を突っ込み、それによってまた事件現場に遭遇してしまったのだ。しかも親友たちを巻き込んで。その辺の申し訳なさ、みたいなものがあったのかもしれない。


「……うん、俺たちも久しぶりに来たし、親睦会というのも悪くないか」


 思いがけず俺が岬に同調したためか、胡桃と宮尾は驚きの表情を見せている。


「それに、胡桃ちゃんはもっと可愛い服を着るべきです! そんな変な格好してたら、せっかくの可愛い顔が台無しです!」

「変っ……!?」


 急にビシっと指摘をされ、衝撃を受けている様子の胡桃。

 この前の病院の時も随分とおかしな格好をしていたが、今日もなかなか絶妙に外している。ミリタリーシャツ……ではなくミリタリー柄のワイシャツっぽい。それに透け感のある長めの白いスカート、そして黒い肩掛けカバン。一体どこでそのシャツを買ったのか、小一時間問い詰めたいところだ。


「はは……そういえば、テレビに出ていたころの服装は? あれは自前のものじゃないのか?」

「あれは大抵が衣装で……買い取ることもあったりしますけど、荷物が多くなりますし、服は良くわからなくて。あ、そういえば私が私服で楽屋に入ると、メンバーやスタッフみんなが悲しい目をしていたんです。嫌われているのかなって思っていたんですけど、もしかして服のことだったのかな……」


 みるみるうちに赤くなっていく胡桃。その様子を岬と俺は微笑ほほえましく見ていた。すると、


「……ふふっ」


 宮尾が今日初めて笑った。そして、意を決したかのように笑顔でこちらに向き直った。


「うん、遊ぼっか。悩むなんて私らしくないよね。行こう、みんな!」


 どうやら、元気づけよう、というこちらの意図はバレバレだったようだ。しかし元気になってくれたのなら何でもいい。やはり宮尾には笑顔が一番だ。綿雲が数個あるだけの真っ青な青空の下、俺たちは歩き始めた。


 そして、俺は大きな過ちを犯したことに気付いていなかった。ここ渋谷で、女子三人の遊びに付いていく……それは、男子にとって非常に大きな苦痛を強いられるのだ、ということに。









「……重い……」


 そろそろ陽が傾きかける15時。前を歩く三人と、両手いっぱいに紙袋を下げる俺。胡桃、宮尾は片手に少し、そして岬は自分のバッグしか持っていない。

 胡桃の服を揃える、とか言っておきながら、結局自分が一番買っていた。しかも全部俺に持たせている。

 こいつめ、全部放り投げてやろうか……そんな邪悪な思いを察知したかのように、岬はおもむろに振り返る。


「あ、ごめんこっちで盛り上がっちゃって。大丈夫? 少し持とうか?」


 岬が心配そうな顔でこちらを見ている。女性を不安にさせるようでは、男がすたるというものだ。少し、余裕のある所を見せておかねば。


「いやこんなの平気だよ、軽い軽い。」


 涼しげな表情で、荷物を軽く上下に動かす。……嘘だった。ちょっと指が悲鳴を上げてきている。真夏だというのに、指先が冷たくなっているのが分かる。


「そう……? ありがとう、助かるよ!」


 そういってまた岬は前に向き直った。そう素直に感謝されて、悪い気のする人はいない。気持ちの面で軽くなり、少々ばかり疲れも消えたような気がした。しかし……


「とまあ、こうやって飴を与えるわけですよ。これでお互いハッピーってわけ」

「なるほどですねー、参考になります……」

「ハルだから使える技なのかもしれないから、そこは注意しないとだよ、胡桃ちゃん」


 ……おい、聞こえているぞ、そこの三人。それにしても、女性、特に女の子の買い物に対する意欲たるや。もうこの世の全てを買い占める勢いではないか、俺はそんな皮肉めいたことを考えていた。

 そうやって、脳内で少し反撃をするのが関の山であるのだが……そんなとき、ふと岬が立ち止まった。


「そういえば、どうして胡桃ちゃんは敬語なの? ウチらの年齢、知ってるはずなんだけど」

「え……」


 そういえばそうだった、チャットの時も、こうした会話の時もいつも敬語。遠慮しているという雰囲気もあるが、何となく距離を置かれているような、そんな気がしてしまう。こっちがタメ語を使っているのも、それはそれでおかしいが、友達としての会話に敬語は相応ふさわしくない。


「……やっぱり、友達だと思ってくれてないんだ。そうなんだ」


 クスンクスンと泣き出す宮尾。あれは、宮尾お得意の嘘泣きだ。俺は出会いがしらにあれをやられているし、それ以降も何度かやられているためか、いい加減分かるようになった。しかし、当の胡桃は、嘘泣きだと気づいていないで少し焦っている。


「あ、ええと、いや、そうじゃなくて!」


 取り乱す胡桃に、まだ泣き真似する宮尾と、よーしよし、と宮尾の肩を抱く岬。少し後ろにいる俺は、そんな様子を微笑ほほえましく見守っている。


「あの、ほら私、芸能界に少しいたじゃないですか……じゃなくて、少しいた、じゃん? それで、その、後輩とか関係なく敬語を使うのが癖になって、それで!」


 語尾のおかしいところはあったが、概ね理解できる内容だ。それなりに長くあの世界に存在したのだから、うまく生きる方法、つまり嫌われない方法を身につけていくものだ。その中の一つが敬語、だったのだろう。


「ふーむ、納得されましたかな? トーカ殿」

「ええ、ちー殿。理由は分かりましてよ」


 なんで時代劇風なんだ。

 一方で胡桃も、虚を突かれたような、ぽかんとした表情を浮かべてる。宮尾がパタリと嘘泣きを止めたからなのか、二人のノリが分からないのかは不明だが、少なくとも胡桃は二人の会話に追い付いていない。彼女の表情が、まさにそれを物語っている。


「でも、寂しいですわね。敬語禁止令を出されてはいかがですか? ちー殿」

「おおそれは名案! よし、これより敬語禁止令を発布はっぷするのじゃ!」

「お前ら、年代とか性別の設定適当すぎるだろ」


 さすがにツッコんだ。俺のツッコミにちょっと満足そうな二人だったが、まだ理解が追い付いていない様子の胡桃を見て、岬は改めて言った。


「つまりね、敬語は止めてほしいの。年上だからとかじゃなくて、友達として。いいかな?」

「友達……」


 岬の言葉を反芻はんすうし、胡桃は少し泣きそうな表情になる。その変化に慌てだす俺たちだったが、その泣きそうな顔は、パッと笑顔に変わった。


「……頑張ってみます、いや、みるよ。友達だから」


 それは、今まで彼女が見せたことのなかった表情だった。今までの笑顔は、どちらかというとアイドルらしいというか、商業的な印象もあるものだった。でも今の笑顔は、取りつくろいのない、心の底からの笑顔だった。


「それじゃ、友達になったついでに、すこし私の話、聞いてくれる?」


 私の話? 急な展開に目を合わせる三人。

 しかし、そろそろ何か軽食でもつまみたい気分だったし、何より指が痛い。休むという口実を作ってくれたのだから、ここは胡桃の厚意に甘えよう。

 そう思い、俺は近くのカフェを指さした。


「じゃあ、あそこで少し休憩しながらとか、どうかな」

「賛成、ちょっと疲れちゃったかな」


 岬が同意した。全部俺に荷物持たせておいて言う台詞せりふではない。


「私も。じゃあ行こっか」


 俺たちは、そのまま何の変哲もないチェーン店のカフェに入っていった。全国規模のチェーン店であり、テレビCMでもたまに見かける程度に、世間一般に良く知られたカフェだ。

 その店内は、時間帯的にかなり混みあっていた。俺たちのように男女のグループもあれば、サラリーマン、OL、それに老人にいたるまで、多種多様な客で溢れかえっていた。しかし何とかして、四人分の席を確保できた。良かった、これで俺の指に血が通い出す。


 ピリピリとした痛みが指先に走る中、俺の目にふと、壁際の席に座る老人が映った。老人とはいうものの、初老、といったところだろう。綺麗に整えられた白髪と、これまた整えられたひげ……あの人を、どこかで見かけたような気がする。


「あれ、あの人……」


 俺が思わず口に出すと、他の三人も揃って同じ方向を向いた。見覚えはあるが、何か、どうにもここの雰囲気には似つかわしくない、そんな印象を受ける。


「あ、マスターだよ、あのお店の!」


 宮尾がそれに気づいたと同時に、向こうもこちらの視線に気づいたようだった。ああ、あの店……カフェ・レストリアだったか。彼はそこのマスターだ。一方で彼の方も少し思案したようだが、やがてこちらの方へゆっくりと近づいてくる。


「失礼、今日はウチにいらっしゃらなかったんですね」


 にこやかな顔で、マスターは俺たちへと問いかけている。何となくバツは悪い気もするが、マスターである彼がここにいるということは、そもそも店を開けていないと言える。多分、彼なりの冗談なのだろう。


「マスターこそ、チェーン店のカフェなんかに来るんですね。なんか意外です」


 うんうん、と岬は頷いた。コーヒーの研究のため、というにはチェーン店の中でも安い方の店だし、勉強にはならない。それにあそこ、カフェ・レストリアは紅茶が美味しいと米村は言っていた。そうだとすれば、このマスターはあまりコーヒーにこだわりがないのかもしれない。


「いやいや、偶然ちょっと疲れたので休んでいたのですよ。ああそれに、店以外ではマスターではないですからね、気軽に、大野さん、とでも呼んでくださいな」


 スッと名刺を差し出す大野。カフェ・レストリア 店長 大野おおの 幸貞ゆきさだ。そこにはそう書いてあった。

 カフェのマスターがどうして名刺を持っているのか、それは少し不思議であったが、彼の身なり……スーツ姿を見て、恐らくは何か取引の都合で渋谷まで来て、ここで休んでいたのだろう。


「わかりました、マスター大野さん」


 宮尾がにこやかに返事をした。


「それだと、何か敬称みたいだな……」

「え? じゃあ大野マスターさん?」


 いや、だからマスターを取れよ。大野も、その様子に苦笑いを浮かべている。


「いやぁ、大野マスターは止めてください。何か気持ちが悪いです。……ああ、お邪魔してしまいましたね、失礼します。また、いらしてくださいね」


 そう言うと、大野はそのまま店を後にしていった。あのカフェにいた時とは大分印象が異なるが、とても感じのいい人だ。また今度、レストリアにもお邪魔してみようかという気持ちになる。


「マスターって、なーんかカッコいいよね」


 岬が、大野の去る姿を見送りながら呟いた。胡桃もそれに同意するように、深く頷く。


「響きがいいよね……」


 そっちか、と心の中で軽くツッコんだ後、俺は一つ咳払いをして本題に戻す。


「ごめん、話があったんだよね?」


 胡桃に話を振るが、当の本人はそれを忘れていたようだった。すこしの間の後、思い出したように、胡桃は話し始めた。


「……ああ、ごめんなさい、私が忘れちゃってた。そう、話しておきたかったこと。私の友達、東野とうの はるかについて」


 東野 遥。胡桃と同じアイドルグループに所属し、リーダー的存在を務めていた。タクシー事故に遭って、それが原因で亡くなった、そう聞いている。


「遥はね、グループに入った時から一番可愛くて、それなのにいつも努力して、メンバー全員を気にかけてくれた、とても良い子だったの。そういうのを良く思わないメンバーもいたけど、そんな子たちにも優しくしてたし、こういう子が、トップアイドルになるんだなって、私はその時からずっと思っていた」


胡桃のアイドル時代の話……しかも本人の口から語られるのものだ。価値があるものに違いない、と俺は身を乗り出して話に聞き入る。


「私が遥と最初に話したのは、ダンスのフォーメーションについてメンバーの間で意見が対立していた時だった。全然まとまらなくて、空気も最悪で。それで何となく、遥に、これ、もうダメなんじゃないかな、って言ったの。そうしたら、『ダメなんて言わないで、私は絶対にこの曲を諦めたくないの』そう言われた。それで私、頭に来ちゃって、掴み合いの大喧嘩になっちゃって……」


 胡桃が、掴み合いの喧嘩? 芸能界、特に女性の人間関係は非常に恐ろしいということは聞いていたけれど、この目の前の穏やかな子……年上だけど、そんな人でも喧嘩になるのだと、そんな衝撃が俺たちの間に走った。


「それからかな、なんだか妙に打ち解けて。それ以来、私と遥は大の仲良しになって、自分で言うのも恥ずかしいけれど、グループでは私と遥が主役になったの。その頃は、毎日お仕事で大変だったけど、とても充実してた。それに、一人じゃなかったから」


 一人じゃない……それを言った胡桃は、とても良い表情をしている。胡桃にとって東野は、俺にとっての宮尾、岬と同じような存在、ということだろう。


「でも、そんな毎日はあっさりと終わった。五年前のあの夜、私と遥はタクシーに乗っていたの。CMの撮影が長引いて、二人ともクタクタで。遥はすぐに寝ちゃって、私もウトウトしてた、その時だった」


 暗く、悲痛な表情へと変わっていく胡桃。言葉も、それに応じるように徐々に震え出す。


「タクシーの運転手さんが急に変な声を上げだして、車が大きく蛇行し始めたの。私はその時、ヤバい、と思って遥を起こそうとした。だけど蛇行が激しくて、シートベルトが私の首に巻き付いてきたの。それで、慌ててシートベルトを外したら……タクシーが壁にぶつかって、私はその衝撃で外に放り出された。……そこからは、もう目覚めたら病室の中、だったな……」


 その話を聞く限りでは、あの事故現場に胡桃はいた、ということになる。そんなことが報道されていたことは、少なくとも俺の記憶にはない。恐らく、トップアイドルの『死』の方をキャプチャーされ、一般市民の記憶からは薄れてしまった可能性が高い。これは、ある種の情報操作にも似ている。


「……警察にはそれを証言したの?」


 岬が尋ねる。胡桃の話だと、タクシーの運転手は何か苦しみだしたのだという。それが事実なら、事故の原因はそれ以外に考えにくい。


「うん、それで運転手さんの会社とか、健康状態とか調べてもらったんだけど……何もなかった。健康状態は良かったし、会社の就業規則も問題なし。警察は、突発的な発作、心筋梗塞しんきんこうそくみたいな、そういうものだって決定づけた。それで、その事故は捜査終了になった」


 以前聞いていた話では、タクシーの運転手も、東野 遥も全身を強く打って死亡したそうだ。内臓破裂などにより、遺体からははっきりとした原因が分からなかったのだろう。


「私、中学生くらいの頃からデビューしたせいで、周りに友達なんかいなかった。遥だけが私の友達だった。……でも、遥はいなくなってしまって、私もしばらく入院。誰とも話すこともなく、話してくれる人がいても、警察だったり、マスコミの人。そういうこともあって、敬語が染みついちゃったのかも……」


 岬と宮尾は複雑な表情をしている。軽い気持ちで敬語禁止、と言ってしまったが、まさかこんな背景があったとは知らず。ああ、冗談よ、と胡桃は言ってくれているが、彼女たちも少し反省しているようだった。


「そんな私を救ってくれたのが、お姉ちゃんだったの。毎日のように病院に来てくれて、遅くまで話をしてくれてた。その時は知らなかったけど、お姉ちゃんもちょうどその頃バッシングされてて、だから来れたのかもしれないけどね」


 ふふっ、と笑う胡桃だったが、淋しそうな、悲しそうな、そんな笑顔だった。安藤のバッシングとは、口パクしていたことだ。あれのせいで、安藤は芸能活動をしばらく行えなかったのだから、胡桃としては相当に複雑だっただろう。


「そんなお姉ちゃんに支えられて、何とか退院して。その後、事務所とはちょっと揉めたけど、私は遥のいない芸能界に居たくなかったし、お姉ちゃんの支えになりたかったから、そのまま引退したの」


 胡桃が芸能界を去った理由、それは事故ではなく、それ以外の要因も大きく関わっていた。しかしそれ以上に、彼女はもう、あの業界に対する興味はないのだろう。それこそ、命を投げ打ってでもしがみ付いていたい世界ではない。


「でも、今度はお姉ちゃんが事件に巻き込まれてしまった。理由は何にも分からないし、私があの日、お姉ちゃんに電話したときはとっても元気だった。だから今でも信じられないし、認めたくない」


 そして、宮尾の方をパッと向いた。


「私、本気で事件を追おうと思ってる。それで、私のせいで誰かを巻き込んでも、もう関係ないって思ってるんだ。今回、宮尾さんはみんなを巻き込んじゃったことで悩んでるんだと思うけど……事件に関わるには、それくらいの覚悟が必要だよ」


 う……、と項垂うなだれる宮尾。


「ごめん、責めてるわけじゃないんだ。実際にみんなを巻き込んで、それでも事件を追おう、そう思うのなら、私は賛成するし、一緒に頑張りたいと思う。被害者家族の一人として、そして、友達として」


 重い空気が流れる。いつの間にか客数は減り、店内のBGMがはっきり聞こえるくらい静かになっていた。宮尾は、ぎゅっと、目を閉じる。彼女の言葉をじっくりと考え、そして答えを導き出したかのように、ぱっと目を開け、胡桃へ返答をした。


事件を追うのは止めるよ。軽い気持ちでやっていたことだったから、後悔させられたの。でも、事件を追うなら、私はなんでも手伝うよ。……友達だから」


 予期せぬ答えに目を見開く胡桃。すると岬も、うん、と頷く。


「その通り、友達は一方向を思いやるものじゃないでしょ。胡桃ちゃんが事件を追うって言ってんだから、ウチらも事件を追う。もとからトーカに付いてきただけのウチらだからね、何にも異論はないよ! ね、ハル!」

「うん、でも今後は現場に踏み込む、なんてことは控えてもらうけど……あ、病院の時は俺が誘導させたんだったな。ごめん」


 胡桃は、全員の答えを聞き、少し涙ぐんでいる。


「みんな……ありがとう。危険な目に合わせない努力はするから。ダメだったらごめんね」

「先に謝るなよ、縁起が悪い」


 思わずツッコんでしまった俺。途端に、岬と胡桃は小さく噴き出した。重い空気が嘘のように消え、俺たちの笑い声が店内に響き渡っていく。

 予感でしかないが……胡桃は、俺たちといい友達になれる。そんな気がする。友達思いで、一生懸命なこの子と助け合っていきたい。









「あ、そろそろ夜ご飯になっちゃう、長居しすぎたね」


 宮尾がスマホを見て、軽く驚いたように言った。その言葉に反応し店内の時計を見ると、18時を過ぎたようだった。夏とはいえ、大分陽が落ちているのが見える。


「おおっといけねぇ、間に合わなくなるとこだったぜ!」


 慌てた様子で岬はカバンを漁り始める。間に合わない、とはおそらくテレビ番組のことだろう。岬は男性アイドルグループの『台風』が好きで、19時から毎週放送されている番組、『VS台風』を欠かさず観ているのだと、随分前に言っていた。確かに、移動時間等も考えるとそろそろ帰らねば間に合わない。


「ああ、ごめんなさい、長話しちゃって。でも、今日は本当にありがとう。また連絡するからね」


 いそいそと帰り支度をする胡桃。しかしその表情は明るく、まるで明日旅行にでも行くかのようだった。

 店を出たときには、もう夜間照明が点灯しており、夜の訪れを告げていた。重い荷物がなくなったこと、そして結局事件を追うことになったが、理由がはっきりした……そういうこともあってか、俺の足取りはいつもより軽く感じた。


「じゃあ、今日はこれで帰ろっか。ハルは電車?」

「いや、ここからだと歩いた方が早いから。でも駅までは一緒に行くよ」


 友達として、一体感が出てきたところだ。できるならもう少し一緒にいたかったけど、駅まで送るというのは、少なくとも男としてのマナーのような気もした。


「おっ、じゃあ駅まで荷物よろしく!」


 岬が目を輝かせている。軽くなった足取りが、一気に重くなる。あの指先の痛みをまた経験することになろうとは……まさに自爆であった。


「しょうがない、ただし、少しは持て。じゃないと捨ててくからな」

「えー、ケチ」


 何がケチだ、さっきまで散々持ってただろうに。


「胡桃ちゃんはどっち?」


 そんな話を無視して、宮尾は胡桃に話しかける。


「私? 私は千駄ヶ谷せんだがやの方」

「あー、じゃあ方向一緒だね! 一緒に帰ろ!」


 午前とは打って変わって元気な二人。そんな二人を見て、自然と笑顔になる俺。


「どう、ウチの機転のお陰だと思うけど?」


 すごいドヤ顔の岬だが、実際、彼女の強引な誘いが無かったら、胡桃と俺たちの関係は、あのままフェードアウトしていた可能性が高い。すべてを警察に任せてしまった方が健全だったんだろうが、少なくとも俺の中のもやは晴れた気がした。

 ……それに、二人のあの笑顔を見ていると、この判断が間違いだった、とは思えない。


「そうだな、いつも気遣ってくれてありがとう」


 あまりにも自然な流れに任せ、不意に感謝の言葉を漏らしてしまった。しまった、と思い岬を見るが、何も言い返してこない。そればかりか、心なしか俯いている気もする。


「……岬?」

「え!? あ、うん。もう、いつもそのくらい正直でいてよね!」


 軽く小突こづかれる俺。照れ隠しだったのかな、などと考えていたら、いつの間にか宮尾と胡桃の背中が遠くなっていた。二人は会話に夢中で、こちらのやり取りに気づいていないようだ。


「お、おいちょっと!」


 暮れ行く渋谷の雑踏ざっとうをかき分け、二人の後を追う。

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