第八話 (2)名探偵は死んだ。
五日ぶりの蓮水邸は、ひっそりとした静けさに満ちていた。
室内に明かりはない。帰っていないのだろうか。いや、そんなはずはない。
僕の足は自然と庭へ向く。
秋特有の控えめな色彩を持つ花々が、月明かりに照らされている。
まるでここは異国の演劇場だ。
中央で、一際強く主張している花がある。私が主役よ、とばかりに。
真っ白。そして、たくさん。
吸い寄せられるように近づいていくと、次第に花弁の細部が見えてくる。
茎からスッと伸びて、ドレスのようにパッと開いた六つの花びら。
それがユリの花であると気づくと同時に、おでこが透明ななにかにぶつかった。
ガラス。
そうだ、ここには温室があったのだった。
春にはただの四畳半の空間でしかなかったそこは、今や満開のユリの花に埋めつくされている。
どこまでも真っ白。全部、真っ白。
空気もなんだが、白みがかっている。
そこにまぎれて、蓮水さんが横たわっている。しがない花の一輪のように。
美しい人だな、としみじみ思う。目を閉じていると、天使が迎えに来そうだ。
――そもそも、あんな密室に同じ種類の植物を集めていいのだろうか。
だめな植物があった気がする。たしか花だ。よく見る有名な花。アンドロイドとか、アルカディアみたいな名前の毒を出すのだ。
ネットで見た。ユリの花には猛毒のアルカロイドが含まれていて、ユリの花に満たされた部屋で一晩寝ると、徐々に心臓が停止して安らかに美しく死ねるんだっけ。
中学二年生が好きそうな発想だ。
僕は庭の隅に立てかけられていたスコップを持ち、ガラスの壁に向かってフルスイング。
トレーニングの成果か、遠心カに振り回されることなくガラスを叩き割ることに成功。
月明かりを集めたみたいな雨の模造品が、花園に降り注ぐ。
「危ないなあ。破片が刺って死んだらどうする」
「そんな死に方は望んでない? 美しくないから?」
蓮水さんは上半身を起こして、仄かに赤い顔をこちらに向ける。
「早とちりだよ。ユリの中で寝れば死ねるなんて都市伝説を信じているのかい」
「いいえ」
御託を並べる蓮水さんを無視して、僕は花園を粗雑に踏み荒らす。
そして、つま先に当った硬い塊に思いっきりスコップを振り下ろした。
蓮根みたいな形の炭が入った、変わった形の七輪。こんなの、考えなくたってわかる。死にたいときの定番品。
僕が次々とそれらを破壊していく様を、蓮水さんは呆然と見ていた。無情を見るみたいに。
全ての花の命をへし折って、土が剥き出しになったころ。
「もうないよ」
吐息を空気に溶かすように言って、涙を流した。
「僕、実は小さい頃から探偵になりたかったんですよね。なかなかの名推理でしょ」
「ああ、さすがだ。探偵に向いているよ。私より、よっぽど」
バタン、と蓮水さんは土の上に寝転ぶ。
「人間は嫌いだ」
「でも、僕のことはけっこう好きでしょ」
「うん、まあね。身勝手に死にたがる君を引き止めるために奔走するくらいには、君には甘くなってしまうし、共同生活は楽しかったよ。だけど、もういいんだ」
両手に覆われて隠される表情。
「君を甘やかしているようで、本当は私が君に依存していたんだ。だけど、もう君に私は必要ないだろう。必要とされないものに存在価値はないんだ。だから、」
「死ぬなら美しくってか。つまらないなあ」
僕は嘲り笑う。
「あんたの目論見はお見通しなんだよ。情けないなあ、名探偵」
横たわる肢体に跨がり、その首に両手を這わせる。
左中指を頸動脈に添えると、伝わってくるのは暢気な鼓動。
腹が立つ。
無抵抗に、運命みたいに受け入れているのが腹立たしい。
「名探偵が、計画を解き明かされてちゃあ、お終いでしょ。それも、こんな一介の浪人生にさ」
指に力を込めると、黒真珠みたいな瞳が彼方を向いた。
ああ、ついにやった。
しかしなぜか達成感はまったくなく。無性に気にくわない。
力まかせに肩を揺さぶると、視線がこちらに戻ってきた。
「名探偵は死んだ」
顔を引き寄せて、吐息を肌で感じる。
「じゃあ、今のあんたはいったい誰だよ」
深い呼吸。まるで新芽が芽吹くような。
「君はすごいなあ。うん、君こそが名探偵だ」
楽しそうに言う。心底楽しそうに。
僕は全身の細胞が生まれ変わるような心地に襲われた。
「実は、昔から――」
名探偵は死んだ。
そして、新たな誰かが生まれた。
そんな夜だった。
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