第六話 (6)今日のカレーは甘いね。

 自殺騒動の翌日。自動車学校はすっかり平穏を取り戻していた。

 変わったのは、三上先生の名が教官の一覧から消えていたことぐらいだ。

 別に、今日来る必要はなかったのだ。教習の予約はキャンセルすればいいだけ。

 僕は時間を持て余したフリーターなのだから。

 わかっていながら、昨日と同じ時間に玄関を通り、陽佑に捕まり、近くのコーヒーショップに連れ立って入店する。

 お揃いで生クリームのたっぷり乗ったドリンクを注文すれば、僕らはまるで普通の大学生の友達同士みたいだ。


「マジで久しぶりだよな。どうだよ、H大は」

「行ってないよ」


 クリームを掻き混ぜる陽佑の手が止まる。


「え、まさか浪人した?」

「いや、浪人は、してない」


 一瞬気まずそうに寄った眉が、すぐに安堵で緩む。

 僕は嘘は言っていない。


「俺もH大は落ちたけどさ、今の大学でなかなか楽しくやってるぜ。最近、サークルの子と付き合い初めてさ」

「それはよかったね。前からテニスサークルの女の子と付き合いたいって言ってたもんね」

「残念。時代はイベントサークルだぜ。テニサーで付き合ってんのはアミの方」


 ポケットに手を入れる。硬い感触を確かめて、すぐに離す。


「そうなんだ」


 試されている。

 陽佑は、わざと僕の神経を逆撫でるようなことを言っている。

 僕はただ相槌を打って、甘ったるいドリンクを啜る。これなら、蓮水さんのいれたコーヒーの方がまだマシだ。


「しっかし、あの時は驚いたぜー。センターの日な。まさか、あんな日に美女をお持ち帰りするなんて、やるなあ、色男」


 陽佑の中ではそれが事実なのだ。自分の目に疑いなんか持っていない。


「あ、でも続かなかったんだな。あの人、卒業式の日に来てたぜ」

「えっ?」


 今度は僕の手が止まる。


「ミサキさんが?」

「そーそー」


 どうしてミサキが高校に来ていたんだ? 

 僕は学校名はおろか自己紹介すらしていなかったはずだ。

 制服から割り出したのか? どこかの名探偵じゃあるまいし。

 第一、彼女は地元の人間ではないのだ。


「あ、そういや実詞に伝えてくれって言われたんだった。『生きてます』ってさ。どんな別れ方したんだよ」


 陽佑は教頭先生の髪型を揶揄するときと同じテンションで笑う。


「なに、失恋思い出して泣いてんの?」


 泣いている? 僕が?

 頬に触れてみると、確かに暖かく濡れていた。


「いや、よかったと思ってさ」


 生きてます。

 それはコウタさんのことだ。

 生きていた。

 僕の行動は無駄じゃなかった。

 一つの大切な命を救うことができた。

 これ以上誇らしいことはない。


「教えてくれてありがとう」


 掛け値ない、心からの感謝を伝えた。

 だというのに、陽佑はなにを汲み取ったのか、苦虫を噛み潰したような顔をする。


「あーあ、恋愛も学業も順調ですってか。凡人はやってらんね―な」


 見えないナイフを持つのがわかった。


「俺さ、ずっと実詞のこと嫌いだったんだ」


 僕は無言で頷く。それを見て、更に口調が荒くなる。


「家柄がよくて、イケメンで、勉強ができて、生徒会長って。普通ここまで揃ってたら性格悪いはずなのに、お前、めっちゃいいやつじゃん。だから嫌いだった。一緒にいると目立てるから利用してただけ。友達だなんて思ってなかった。お前だって、本当は俺のこと見下してたんだろ。態度に出てたぜ」


 ぜえぜえと息を切らす陽佑に、僕は笑いかけた。


「そっか。教えてくれてありがとう。でも、僕は親友だと思ってたよ」


 ナイフはどこに刺ったのだろう。だって、僕は痛くない。

 不意に、片瀬さんの言葉を思い出した。


『友情ってのは騙し合うことだぜ』


 今なら、諸手を挙げて同意できる気がした。





 生クリームをしっかりと飲み干して、二人で揃って店を出た。


「じゃあ、また」


 と言ったら、


「ああ、またな」


 と返ってきた。

 元気そうに見えたし、大人しくなったようにも見えた。


 僕らはもう二度と会わないかもしれないし、思いがけないところでまた会うかもしれない。

 会えばきっと、何くわぬ顔でまた喋るのだろう。

 関わらないという関係性もある。

 無関係ではない。

 無関係ではいられない。

 ならば、苦しいよりは、楽しい方がいい。

 名探偵の言葉を借れば、そういうことなのだ。




 蓮水邸に帰ると、流し台に違和感を感じた。

 綺麗に片付けられているが、使用感がある。食器棚の一番奥にしまっていたはずのティーセットが、手前に出ている。

 おまけに、見たことのない紅茶缶がインスタントコーヒーの隣に鎮座している。

 来客でもあったのだろうか。それにしても、コーヒー党の蓮水さんが紅茶を出すなんて珍しい。よくカップを割らなかったものだ。

 蓮水さんは屋内にいる気配はあるのだが、姿が見えない。

 大方、どこかの部屋で読書に熱中しているのだろう。

 僕はポケットに忍ばせていた包丁を出す。

 丁寧に洗い、煮沸消毒。今日一日持ち歩いたから。

 そして、スーパーで買ってきた玉ねぎを切り刻む。

 トントントントントントントントントン……。

 リズミカルに。細かく。細かく。硫化アリルがたくさん出るように。

 袋に入っていた玉ねぎを使い切って、それをすべてカレーに入れてトロトロに煮込んだら、一区切り付いたような、そんな気がした。




「今日のカレーは甘いね」


 蓮水さんはスプーンで一口頬張って、なぜか激辛カレーを食べたときのような涙目で呟いた。


「あ、わかっちゃいました? 玉ねぎ切りすぎたんで、全部入れちゃったんです」

「そうか。すっかり料理もうまくなったな」


 それっきり無言で、蓮水さんはカレーを掻き込む。昼休みのサラリーマンみたいな食べ方も珍しいし、甘いと言いながら鼻を啜っているのも不思議だ。

 食事を終えて片付けを済ませると、蓮水さんが大荷物を抱えてきて、僕の前にドンと置いた。

 僕がここに来たときに持ってきたスーツケースだ。中身がパンパンに詰っている。


「どういうことですか?」


 冷静に質問したはずなのに、僕はとても怒っていた。


「わかりやすく言おう。クビだよ。君はクビ。もう必要ない。早くここから出て行ってくれ」


 推理するときと同じようにペラペラとまくし立てて、スーツケースごと僕を玄関の外まで追いやり、バタンと扉を閉めた。

 締め出されてしまった。なにかを尋ねる暇もなく。

 扉を押してみても、びくともしない。入れない。

 急に冷たくなり出した秋風に撫でられながら、僕は途方に暮れた。

 静寂の中を、車のエンジン音が近づいて来て、館の前で止ったのがわかった。

 スーツケースを引っ張って門まで出ていくと、SATSUKI製の高級スポーツカーに出迎えられた。

 ガレージにあるものと色違いの燃えるような赤い車体。

 ウィンドウが開いて、販売元の社長が爽やかに顔を覗かせた。


「困っているように見えるけど、救いの手を差しのべてもいいのかな」


 こうして連続して見てみると、非常に二人は似ている。

 浮世離れした容姿も、まどろっこしい喋り方も、ハンドルを握る骨張った手も。

 纏う空気が違うだけ。

 僕は迷わず後部座席に乗り込んだ。


「計ったようなタイミングで現れますよね、維蔓いづるさんって」

「まるでどこぞの名探偵のようかい」


 静かに、車体は館を離れていく。

 状況は理解できないまま。

 整理ができない。

 するつもりもない。

 これで終わりじゃない。

 終われるわけがない。


 僕はまだ、名探偵を殺していない。認めさせてない。


 ほら、僕って完璧主義だからさ。

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