第六話 (4)自称できない名探偵なんて、ただの探偵さ。
早朝のバスに揺られながら、僕は違和感から辺りを見渡した。
この日は、いよいよ明日迎える卒業式の練習のため、約ニヶ月ぶりの登校日であった。
違和感の正体はすぐに判明した。バスの乗車人数が妙に少ないのだ。
それもそのはずで、以前は生徒会長の職務のため、引退してからも自習のためにこの始発の便を利用していた。いつも、部活の朝練に向かう生徒たちが座席の大多数を占拠していたが、今日はそれがない。他の生徒の登校時間には早すぎる。
僕だって、今日はこんな早い便に乗る必要はなかったのだ。
なにをやっているんだろう。
脱力のあまりうな垂れると、窓にこめかみををぶつけてしまい、二重の後悔を強いられる。
鈍い音に反応して、前の席の男性が振り向いた。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい、すいません」
「今日も早いね」
「ええ、まあ……」
その男性は時折見かけて話す人だ。
後ろ姿だけでも気品が溢れ出ていて、まじまじと見たことはなかったが、今ちらりと見えた横顔だけでも美形であることは一目瞭然。
数ヶ月に一度、同じ便に乗り合わせるのだが、いつも高級そうなスーツを着こなしていて、分厚い洋書を手にしている。
そういえば、この人と初めて喋ったときは、立場が逆だった。
あれは入学したばかりのころで、今よりも遅い便を利用していて、座ってスマホでWeb小説に熱中しているうちに、車内は満員になっていた。
目の前には疲労困ぱいをにじませて足をふらつかせているこの人がいて、心配のあまり席を譲った。
ただそれだけのことなのだが男性は大層恩義を感じてくれたらしく、あれ以来、時々顔を合わせると話しかけられるのだ。
一言、二言程度の会話の中で、一つだけ忘れられない言葉がある。
「君は善良だな」
この上ない褒め言葉だった。
どのような話の流れで言われたのかは忘れてしまったが、僕は過剰な謙遜は悪だと捉える性なので、あの時は素直に礼を言った。
しかし今考えると、遠回しな皮肉であったのではないかと勘ぐってしまうのだ。
僕が生まれるずっと前、遥か昔から、この世は悪意に満ちていて、僕がそれにもっと早く気づいていれば、こんなに傷つくことはなかったのではないか、と。
そんな風に感傷に浸りながら、窓の外の景色を後ろへと見送っていると、記憶よりも雪のの量が減っていることに気が付いた。
世間では、長い冬の終わりが近づいているのだ。
そして、目的地も近づいている。針葉樹の並木を抜け、川を渡れば、三年間通い詰めた校舎は目の前だ。
車内に僕と同じ制服は見えない。僕が降車ボタンを押さなくては、このバスは学校を通り過ぎてしまう。
だけれども、僕は一ミリたりとも腕を上げず、いつものバス停を見送った。
ただ、窓に顔を向けていた。
次第に街並みが見知らぬものになっていく。
ポン、と優しく肩を叩かれて、我に返った。
ひょっとして、もう終点に着いてしまったのか。運転手さんに迷惑をかけてしまったか。
否。見上げると、そこに立っていたのはあの優美な男性で、車内前方に表示されているのは終点のバス停ではなかった。だが、初めて見る地名だ。
「この先にはなにもないよ。コンビニすら峠の向こうだ」
「あ、そうなんですか」
異様な静けさに気がつき車内を見渡すと、乗客は僕と男性の二人きりになっていた。
「次で降りて少し歩けば、大きな公園があるよ」
「は、はあ」
突然なにを言い出すのだろう。
訝しんでいるのが態度に出てしまっていたようで、優しく微笑み返される。
「考えごとをするのであれば、大自然に身を投じるのが一番だ」
「なるほど」
端から見てもわかるほどに、僕は滅入った顔をしているのか。確かに、一度気分転換が必要かもしれない。
男性の助言通り、次のバス停で下車する。僕に続いて男性も降りたことによって、乗客がゼロになった車体は、更なる奥地へと去っていった。
男性は日常動作そのものの迷いのなさでバスの進行方向を辿って歩き出した。
別れの挨拶をしようと思ったが、なんだか勉強を教えてあげた友達の方がテストで良い点を取ってしまった、みたいな顔をして早足で行ってしまったので、やめておいた。
考えごとをするのにもってこいな公園とやらがどこにあるのかはわからないが、なんとなく、男性とは反対方向に歩いてみる。
どうして、こんなところまで来たのだろう。
ましてや、素性のわからぬ人の言うことに従ったのは、なぜだろう。
高校生活の中で、僕は遅刻というものをしたことがない。欠席すら、二年生のときの忌引のみだ。まさか、残り一日にして皆勤賞の逃すことになるなんて。
いや、今ならまだ間に合う。反対車線に渡って、次のバスを待てばいい。
この時間帯なら、十分も待てばバスは来るだろう。それに乗れば、なんとか校門が閉まるまでに学校に戻れるはずだ。
だが、僕の足は信号を渡らずに住宅地へと迷い込んでいく。目的地がこちらにあるのかはわからない。辿り着けなくてもいいと思った。
今はただ、誰もいない場所へ行きたかった。
案外あっさりと、公園に到着した。というよりは、入り込んでしまったが正しいかもしれない。
公園と呼ぶには広大すぎる。緑地。なんなら、森林。ぞんざいに置かれた柵やベンチのおかげで、かろうじて人の手によって整備された土地であることが読み取れる。どちらも、まだ深く積もっている雪に埋もれてしまって、無用の長物と化しているが。
踏み固められていない雪道を歩くのは久しぶりだ。この時期特有の水分を多く含んだ雪は、踏みしめればキュッと音がする。更に力を込めれば、春を待つ土が顔を出し、純白に浸食してくる。
川があった。
泥を含んだ激流だ。
川には小さな橋が架かっている。絵本に出てくるような、木製の緩やかなアーチ。
立入禁止の黄色いテープはいとも簡単に跨ぐことができて、たったの三歩でアーチの頂上に到達した。
腰の高さにも満たない欄干に寄りかかると、錆びた金具がギィと音を立てた。
それは、濁流の轟音と共鳴して、なんだか心地良かった。
その心地良さに、身をまかせてしまおうか。そして、なにもかもを終わらせてしまおうか。
欄干に右足を掛ける。
「やはり、そこか。見る目がないな」
川の縁に、あの男性が涼しい顔をして立っていた。
なぜなのか、頭を捻ったがなるほど、川沿いに反対側から歩いてきて行き当ったのか。まるで算数の問題のように。
「確かにそこは太宰ごっこの名所だが、その割にはこんな貧弱なテープ一本でしか守られていない。なぜだかわかるかい?」
「ここじゃ、死ねないから」
「ご名答」
不透明な濁流は、吸い込まれたくなるような底なしの魅力を放っているが、所詮はただの小川なのだろう。
「私のおすすめは、もう少し上流だな。川幅が広くて、浅く見えるが、一度足を取られればお終いだ」
「見かけによらないんですね」
「人生のようだろう」
僕は橋をギシギシと軋ませて、男性の立つ岸へと戻った。
「バスの中での僕はそんなに、激怒して全裸で走り出しそうでしたか」
男性は肩を震わせて、鼻をフフッと鳴らした。意外と優しさのない笑い方だ。
なぜ太宰作品が教科書に載っているのか、甚だ疑問だった。あんなに暗くて破滅的なのに。しかし、こんなときの僕のためなのかもしれない、と思った。
「別に死にたいほど苦しいことがあったわけじゃないんですよ。僕より苦しい思いをしている人なんかごまんといるだろうし。ただ、生き続ける活力が湧くほど楽しいこともないなって思っただけです」
こんなこと、他人に言ってどうするのだろう。
死ぬな、と説得してほしいのだろうか。
「好きにすればいいじゃないか」
思わぬ返事が返ってくる。
「苦楽は人と比べるものでないからな」
「促してどうするんですか」
つい、笑い声が漏れてしまう。なんだか久しぶりだ。
「これで、後日僕が下流で死体として見つかったら、自殺幇助になるんじゃないですか」
「証拠がない。君が遺書でも残さない限りな。それに、死体となってしまった君ははなにも言えないが、生きている私にはいくらでも言い訳ができる」
「確かに」
なんだか、モヤが晴れたような、枷が外れたような、清々しい気分だった。今、この瞬間春が訪れたかのような、開放感。
そうだ、死んでしまえばいいんだ。
それで終わりだ。正義感も、罪悪感も、もうなにも必要ない。
だって、一人の命より、誰かの進路の方が大切な世の中なのだから。
決めてしまえば、足は軽かった。
このまま川へ飛び込んでしまいたかったが、無意味だと知っていることに挑戦するわけにはいかない。
「もう一つ、アドバイスをするとすれば」
男性は明後日の方向に語りかける。張り上げていないのに、不思議と川の音に掻き消されずに僕の耳に届く。
「苦しいよりは楽しい方が良い、と私は思うよ」
確かに。と、僕は二度目の同意をしたかったのたけど、男性はそのまま雪道をランウェイのような優美さで去って行ってしまった。
僕はまた男性と反対方向を選んで歩き出した。
ただ、なんとなくだ。
知らない土地ではあるが、同じ市内だ。勘を働かせて国道に出るのは容易だった。
ここまで来てしまえば、なんとなしに所在する店は覚えていて、十五分も歩けば、目的のホームセンターが現れた。
この近辺の家庭の必需品を供給する場であるがために、屋外駐車場はどこぞのドームを比較対象にしたくなるほどに広く、売場面積も相応に広大。
しかし、平日の開店直後とあってどんなに歩き回っても、がらん以外の擬音が浮かばない。店を出る直前に制服姿であることを思い出し、万が一に備えて出まかせを八通りぐらい考えておいたが、出番はなさそうだ。
幼いころから、ホームセンターは心が高揚するスポットの筆頭だ。クリエイティブな気持ちになる。
さて、自慢じゃないが、僕の肉体は貧弱だ。あまりスポーツというものに触れてこなかった。おまけに、ここ数ヶ月は尻と椅子が癒着するのではないかというほどに勉強漬けだった。だから、必要なのだ。
僕は暖房コーナーと調理器具コーナーと工具コーナーを行き来して、それぞれのメリットとデメリットを脳内にリストアップする。
「やはりここか。センスがないな」
男性との三度目の邂逅に、僕はさほど驚かなかった。
「どういうスキルを使ってるんですか? 転生するときにドジッ娘女神から授かったんですか?」
「あいにく、私も人生一週目でね。単なる推理力の賜物さ」
「推理?」
非常に興味深い。なにせ、僕は母にアニメオタクであると勘違いを起こさせるほど、昔は夕方の探偵アニメに熱中していたのだ。
「もしかして、探偵さんですか?」
「いいや」
雅に首を横に振って、男性はスーツの胸ポケットに手を差し入れる。
「名探偵さ」
取り出したのは名刺ケースだ。高級ブランドのロゴが刻印されていて、かなり使いこまれている。
その中の一枚を受け取ると、紙の中央に小洒落た書体で、『名探偵・蓮水』と印されている。あとは、隅に小さく電話番号と住所が書かれているのみ。
「お名前は?」
「書いてあるじゃないか」
「ハスミさん? 苗字ですか?」
「それは個人情報さ、英実詞くん」
「わあ、すごい。本当に探偵なんですね。胡散臭いけど。なんでわかったんですか?」
「制服なんて、履歴書を見せびらかせて歩いているようなものさ」
そうなのか。そうなのか?
同意しかねていると、蓮水さんは「それに」と最高に二枚目な顔を僕に見せつけて、言う。
「探偵じゃない。名探偵さ」
「それって自称するものですか?」
「自称できない名探偵なんて、ただの探偵さ」
「どう違うんですか?」
「それは自身で決めることだ」
「スピリチュアルな話ですか」
僕が困惑する様子を見て、蓮水さんは肩を震わせる。
「もしかして、笑ってます?」
「そう思うかい? 寒くて凍えているのかもしれない」
「……、アホらしい」
どっと疲れが押し寄せて来て、僕は蓮水さんに背を向けて歩き出した。
この人は僕をからかって遊んでいるんだ。まともに相手にするもんじゃない。
「大量殺人、頑張って!」
妙に通りの良い低音が売場に響き渡って、僕はヒヤヒヤするよりも、カッとした。
ああ、確かにあなたは名探偵だよ。
なんていったって、僕は愛する学び舎で、多くの生徒を巻き込んで死んでやろうと企てているのだから。
通り魔? 自爆テロ? よくわからないけど、拡大自殺ってやつ。
まあ、部外者一人にバレたところで、やることは変わらない。どうやら、止める気はないようだし。
迷っていてもキリがないので、目についたものを手に取ってレジを通る。
そろそろ、学校では卒業式の練習が始まったころだろうか。
時刻を確認するために、ポケットからスマホを取り出してホーム画面を表示させる。
いくつかメッセージが届いていて、最新のものがポップアップ表示されていた。
あみたそ
今日休み? どうしたの? みんな心配してるよ。
うん、僕、どうかしちゃったみたいだ。どうしてだろうね。
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