第六話 自殺
第六話 (1)英実詞という人間のすべてが過去形になるまでのお話。
自分で言うのもなんだが、かつての僕は善良を絵に描いたような人間だったと思う。
人の期待に答えることが生きがいだった。
大学医学部教授を務める父を尊敬していた。
父を支えながら、僕を育ててくれた母に感謝していた。
僕も父のような医師を目指して勉学に励み、国立大学医学部合格は確実だと教師から太鼓判を頂いていた。
高校では生徒会長を務め、生徒・教師から厚い信頼を得ていた。
友人にも恵まれ、学生生活は華やかで楽しかった。
とくに、中等部からの付き合いである陽佑は腹心の友と言っても過言ではないと思っていた。
容姿に自身があるわけではないが、高校に入ってからはニヶ月以上彼女のいない時期はなかった。
学生らしい交際を心がけていたけれど、あの時まで付き合っていたアミとは将来を共にしたいと思っていた。
順風満帆。
されど、感謝を忘れず傲ることなかれをモットーにして生きていた。
バスの車内でお年寄りに席を譲るのは息をするのと同じくらい当たり前のことで、社会のために汗を流して働いているサラリーマンこそ、ゆっくりと腰を落ち着けてもらうべきなのだ。
人のために動く。
そうすれば必ず自分に返ってくる。
この世は幸福に満ちていて、自己犠牲と性善説こそが世の
ここからは、そんな
事の始まりは、センター試験当日の朝。
前日夜の猛吹雪が嘘だったかのような、気持ちの良い快晴の日だった。
人生を賭けた大勝負。体調は万全。やれることはすべてやった。
時刻は試験開始の一時間前。
会場の最寄り駅で地下鉄を降り、人の波にもみくちゃにされながら、改札ヘ向かう階段を昇っていた。
ふと、焦った女性の声が聞こえて、僕のお節介魂が、自然と足の動きを鈍らせる。
その声は、「すいません、通してください」とみるみる近づいてきて、あっという間に僕と他校の男子生徒の間を通り抜けた。
声の主は二十代前半くらいの小柄な女性で、雪道にはそぐわなそうなハイヒールの足取りは覚束ない。
危なっかしいなあ、なんて思っているうちに、そのヒールがつるりと横滑り。僕の足元を通ってゴロゴロと転がり落ちていった。
事情を知らぬサラリーマンに邪魔だとばかりに押し退けられて初めて、自分が呆気に取られて硬直していることに気がついた。
「だ、大丈夫ですか!!」
急いで階段を駆け下り、踊り場にうずくまる女性を抱き起こす。
「歩けますか?」
「あっ、はい。痛っ」
立ち上がろうとするものの、痛みに顔をゆがませる。
自分で歩いてもらうのは無理そうだ。
突き進んでくるブルドーザーみたいな人波から逃げるように、僕は女性を引きずって歩き、どうにかベンチまで避難した。
女性の右足首は素人目にもわかるほど真っ赤に腫れあがっていた。
「これはひどいな。折れているかもしれないし、病院に行かないと」
「そ、そんな場合じゃないんです!!」
嘘みたいな声量が駅構内に響き渡る。
無関心な目でさえも、一瞥せざるを得ないほどに。
それは彼女自身も想定外のボリュームだったようで、すぐに「ごめんなさい……」と萎縮してしまった。
「時間がなくて……。早く彼のところに行かないと……」
僕だってあり余っているわけじゃないんだけどな。
けれども、痛々しく縮こまりながらも今にも走り出してしまいそうな人を放っておくことはできない。
「とりあえず、僕、包帯とか冷やすものを買ってきますから、ここにいてください」
「えっ」
「動かないでくださいよ!」
駅を出てすぐのところにコンビニがあったはずだ。
ダッシュで階段を上ったり下りたり。所要時間はものの五分ほどだが、季節外れの大量の汗をかいて戻ったとき、女性は先ほどと変わらぬ姿勢でそこにいた。
かなり焦っているようだったので、ひょっとしたらいなくなっているかもしれないと思ったが、骨折り損にならなくて安心した。
「この時期でも、氷って売ってるんですね。よかったよかった」
「それ、私のために買ってきてくれたの……?」
「そりゃそうでしょ」
ぐだぐだとした言い分を無視して、僕は買ってきた包帯で患部をぐるぐる巻きにしていく。
仕上げに、氷の入った袋を一緒に買ったフェイスタオルにくるんであてがった。
「これで良し。あとはあまり動かさないように」
「ありがとうございます。慣れてるんですね」
「そんなことないですよ」
そもそも、一番良い処置はすぐに病院に行くことだ。
「それで、どうして急いで彼氏のもとに行きたいんですか?」
「えっ、私、言いましたっけ」
明言していたわけではないが、処置をしながら聞いた言葉と状況を繋ぎ合わせれば、自ずと答えは導き出せた。
「彼氏のことが心配で、東京から大急ぎで来たんですね」
「なんで、そんなことまで……?」
「全部喋ってましたよ」
「そうだっけ……」
観念したように、女性は事の次第を話し始めた。
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