第五話 (4)探偵に向いているよ。私よりよっぽどね。

 カラン、と。間抜けな音が廊下に反響する。

 己の頸動脈へ向けていた獲物を奪われ、三上先生は脱力して床にへたり込んだ。


「邪魔をしないでくれ」


 力のない声を聞いて確信する。

 この人もまた、自らの手で命を絶とうとしていた。

 あらかじめナイフを用意していたことが、なによりの証拠だ。


「そんな小さな刃では、死に損なって後遺症を引きずりながら、結局生きていかなくてはならならなくなるのがオチですよ」


 相変わらずのなめらかな所作で自殺を阻止した蓮水さんは、ナイフよりも冷たく鋭い言葉を言い放つ。


「あなたが死んだところで、なんの意味もない」

「恵理香が待っているだ」


 天井を見上げる虚ろな瞳には、風景なんか映っちゃいない。

 本気なのだ。衝動なんかじゃなく、何日も何ヶ月も前から入念に練り上げた計画なのだ。

 それを名探偵は、鼻で笑う。


「待ってなんかいませんよ」

「お前になにがわかる」

「死人が待っているはずないでしょう」


 だって、死んでいるのだから。


 ぼろぼろと涙を流す三上先生を、僕らはただ眺めていた。

 やがて警察に呼び出され、会議室に吸い込まれていってもなお、目を背けることができない。


 可能なのであれば、三上先生にはすべてを償って、そして彼女のことなんか忘れて、生きて欲しいと思う。

 都合が良すぎるかもしれないけれど。


「あとは、事情を知った五十嵐先生が気に病まないといいんですけど」


 ほう、と蓮水さんは息を吐く。


「やはり、君は善良だな。探偵に向いているよ。私よりよっぽどね」


 そう思うならどうして、そんな眩しそうな、泣きそうな目をするのだろう。





「しかし、私の知らぬ間に自動車学校にまで通っていたとはね。そんなお金を持っていたことに、私は驚いているよ」


 しばらく続いた沈黙を破ったのは、蓮水さんの大袈裟なリアクションだった。本当に両手を挙げて上体を仰け反らせる人を初めて見た。


「知り合いの口利きで、少し値引いてもらったんです。だから、十万円くらいで済みました」

「それは随分と太っ腹な知り合いを持ったな。いったいどういう――」


 これは根ほり葉ほり聞かれるな。と思いきや、蓮水さんの言葉はそこで止まってしまった。


「蓮水さん?」

 虚空を見つめて、なにやら口をもにょもにょと動かしている。ものすごく煮えきらない態度だ。

 煮えきらないまま、早口で問うてくる。


「そんな甘言を吐いたのは、どこのどいつだ?」

「えっ、えーっと」


 見ず知らずの人物に対して、物言いが辛辣すぎやしないか。

 本来出会うはずのない大物人物との関わりをどう説明しようか考えあぐねていると、


「――さん」

 不明瞭は発音の呼び掛け。

 というか、奇声にしか聞こえなくて、蓮水さんが振り向いたことによってようやく、呼び掛けであることに気づいたほどだ。

 入れ歯をかぱかぱと揺らしながら、年配の男性が近づいてくる。


「お知り合いですか?」

「あ、ああ。そうだった、ここだったな」


 蓮水さんは片頬をひくひくとさせて、独りちている。つくづく、今日は珍しいものが見られる日だ。


 男性の方はなにやら蓮水さんに話があるらしい。蓮水さんに促されて、僕は先に玄関ヘ行って待つことにした。

 正直、話の内容はめちゃくちゃ気になる。

 やっと思い出したが、あの男性はこの自動車学校の経営者だ。つまり、維蔓さんの知り合いなのだ。

 そのような人と蓮水さんはどのような繋がりがあるのだろうか。

 あの人は、僕よりも蓮水さんのことを知っているのだろうか。


 つらつらとそんなことを考えながら歩いていると、反対側から歩いてきた人と目が合った。


 合ってしまった。


 そしてすぐに気づいてしまった。

 それが旧知の相手であることに。


「実詞? おい、実詞だよな!」


 他人の空似の振りでもすればいいものを、僕は馬鹿正直に答えてしまう。


「やあ、陽佑。久しぶり」


 二度と会いたくなかったよ、という言葉はぐっと飲み込む。

 その名の通り陽気な彼は、パーソナルスペースなんか無視して僕の背中をバシバシと叩いてくる。


「久しぶり、じゃね―よ! なにしてたんだよ。LINEも通じねーしさ」

「スマホなくしちゃったんだよ」


 大嘘。

 捨てたんだよ。

 お前と話したくなかったから。


 平常心を装いきれている自分を自分で褒めてあげたい。

 本当は気持ち悪くて、吐きそうで、今すぐここから逃げ去りたいのに。


 どうして、こんなところで会ってしまったんだ。

 いや、大学生が夏休みを利用して免許を取りにくるのはよくあることである。

 そんなことすら失念していた僕が悪い。これが平和ボケか。


「じゃあ、新しいLINE教えてくれよ」

「ないよ。スマホ新しいの、買ってないから」

「スマホ持ってねーの?! 原始人かよ!」


 じゃあ、また明日ここで会おう、と勝手な約束を取りつけて、陽佑は去っていった。

 嫌だ。でも、きっと僕は律儀にここに来てしまうのだ。嫌気が差す。


 いつの間にか、蓮水さんが僕の視界の中に佇んでいた。


「半年ぶりに親友と再会した感想は?」

「片瀬さんって、実はすごい人なのかもしれませんね」


 三日ぶりみたいな態度をとることなんて、僕にはできなかった。


「人付き合いのコツは適度な無関心だ。関わらないという関係性も、この世の中にはある」

「それって逃げじゃないですか」

「馬鹿正直に向き合うことだけが正解じゃないさ」


 冷たいな。

 まるで、あの冬の日を想起させるような冷たさだ。

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