第三話 (5)すべてを一つの事件とみなしているのが、そもそもの間違いなのさ。

「すべてを一つの事件とみなしているのが、そもそもの間違いなのさ」


 蓮水さんは勢いよくホワイトボードを回転させて、出てきた新しい面に『事件1』と書き込む。


「第一の事件は、トレーニング場で起きた。実詞くんは黒岩健二郎さんと赤崎恵理さんが二人で話している場面を見たのだったな」

「はい、そうです」


 仲睦じく喋る男女。とても交際していない関係の二人には見えなかった。


「事務室にいたスタッフが、黒岩さんと赤崎さんの言い争う声を聞いている。恐らくは実詞くんが帰ったあと、二人はなにかのきっかけで口論になった。揉み合いになるほどのね」


 なんとなく、想像はつく。二人とも感情のコントロールは下手そうだ。


「プロの選手である黒岩さんは当然、女性相手に本気を出したりはしないだろう。だが、格上の相手をする側である赤崎さんはどうだろう」


 毎日、足繁くジムに通っていた赤崎さんならば、油断しきったプロ選手の寝首をかくことぐらいはできるかもしれない。


「揉み合いの末押し倒された黒岩さんは、打ちどころが悪く死亡してしまった」

「それが、第一の事件なんですね」


 名探偵は頷いて、ホワイトボードに『事件2』と加える。


「ここからが第二の事件。想定外の事態に、赤崎さんはパニックに陥る。そこへ、想い人である白川さんが現れた。さて、どうする」

「うーん。状況からして、自分が殺してしまったことは隠しようがないから、助けを求めますかね。証拠隠滅とか、アリバイを偽装するために」


 誰だって、自ら殺人犯に名乗りを上げたりしないだろう。


「ふむ。では、赤崎さんも同様の行動をとったとしよう。白川さんなら、自分を庇ってくれるだろうと思ってね。結果、赤崎さんは帰らぬ人となってしまう」

「えっ、なんで?!」


 赤崎さんは無抵抗で背後から殴り殺されている。それも、ジムのトレーニング場の中で。


「なんらかの行動を起こそうとした際に、隙を突かれたのだろうな」

「誰に?」

「残る登場人物は一人しかいないではないか」


 白川さんが? 赤崎さんを殺したっていうのか?


「一撃で致命傷に至っているということは、明確な殺意を持って襲い掛かったようだな」

「どうして」


 体中の水分が揮発してしまったかのように乾いて、うまく声が出せない。


「これはあくまで私の自論だが、人が人に殺意を抱く理由は、突き詰めるとニ種類しかない」


 骨ばった人差し指と中指をVの字にして、僕に突きつけてくる。


「金か、恋愛か」

「そんなことはないと思いますけど」

「いいや。これが真理さ」


 こんな時に茶々を入れてくる片瀬さんは、思い当たる節があるかのように固く口を結んでいる。


「つまり、今回の件もそういうことさ」


 どういうことだ。

 金のため? いや、白川さんの金絡みの噂は聞いたことがないし、金遣いが荒いタイプであるとも思えない。

 片瀬さんも、メモをめくりながら『白川さんに金銭トラブルは確認されていない』と言っている。

 じゃあ、恋愛? そういえば、白川さん自身の色恋の話を耳にしたことはない。

 実は、白川さんも赤崎さんを好きだったとか? でも、それで殺してしまうのはどう考えてもおかしい。

 赤崎さんを殺したのは、白川さんが赤崎さんに憎しみを感じたからだろう。

 なぜ急に? 感情のトリガーとなり得るのは、第一の事件で赤崎さんが黒岩さんを殺してしまったことだろう。

 白川さんと黒岩さんは昔からライバル関係にあった。そんな相手が殺されたとあっては、大きなショックを受けたに違いない。

 たとえ、端からはそんなに親密な仲に見えなかったとしても。

 むしろ、白川さんだけが黒岩さんに一方的に構っていたように見えたとしても。


「あー……、そうか」


 僕はヘテロノーマティヴィティは時代に合ってないしナンセンスだと思っているのだが、刷り込まれた常識というものはそう簡単に覆せないようだ。


「なにがだ?」


 片瀬さんは未だに首を傾げている。


「まあ、故人の趣向を勝手に推測するのはよそう。強い動機があった。それだけでいい」


 名探偵は長い睫毛を伏せる。

 事情を飲み込めずとも、刑事は話を進めてくれる。


「とにかく、第一の事件では赤崎さんが黒岩さんを殺し、第二の事件では白川さんが赤さんを殺した」


 ホワイトボードに記されていく矢印。


「じゃあ、第三の事件は? 白川さんはだれに殺されたんだ」

「本人が言っていたではないか」


 通り魔に襲われた、と。


「茫然自失として外に出たトレーナーは、通り魔から見れば恰好の的だったのだろうな」


 暗闇を覚束ない足取りで進むトレーニングウェア姿の男性は、とてもプロを指導する立場の人間には見えない。

 そして、第三の事件は起きた。


「久しぶりに、頭を使う事件だったよ」


 絵画のような微笑を浮かべる名探偵。

 今にも反撃に出ようとする刑事に向けて、突きつける。


「私の推理に異を唱えたくば、速やかに通り魔を捕まえることだな」




 全身の痛みがようやく消えてきたころ。

 蓮水邸に投函されたすべての朝刊の一面記事が、『通り魔逮捕』の話題にジャックされていた。

 歴史に残る凶悪事件の首謀者は調べに対し、『好きだった女性に筋肉のある人が好きと言われ鍛えたがフラれ、力を誇示するためにトレーニングしている男性を狙った』と供述している。

 いわく、男性は警戒心が薄いうえに、トレーニング初心者は自分の力を過信しているので狙いやすかったのだとも。


「男の嫉妬ほど醜いものはないですね」

「美醜に男女差なんてないさ。人間は総じて醜い生き物だよ」


 いつも通り厭世家を気取る蓮水さんは、人並み外れた綺麗な横顔をしていた。

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