第三話 (2)女性って怖い。

 キックボクシングを習い始めて、一ヶ月が経った。

 名探偵の助手業は自由時間が多いので、ほぼ毎日ジムに通うことができた。

 朝、オープンと同時にトレーニングを始めて、昼前には蓮水邸に戻るのがいつものルーティーン。

 そのおかげで、だいぶ体力はついた。買い出しに行って大量の荷物を持っても息切れしなくなったし。

 とはいえ、まだまだ実戦で使うには程遠いレベルである。きっと、片瀬さんのお知り合いの方とは基礎体力が違う。

 できれば、会費が半額になっている三ヶ月のお試し期間の間に習得してしまいたい。僕の貯金にも限りがあるので。

 助手業のバイト代に関しては、最初に断わってしまったので懐の中身が増えることはない。こんなに長く続けるつもりではなかったから。

 きちんと契約を交わしておけばよかったと少し後悔はするが、家賃や食費、光熱費等すべて負担してもらっているので、今更言い出せないのだ。




 今日は珍しく午前中に依頼が入っていた。

 なのでジムには来られないかと思ったが、ものの数分で解決したため、依頼人にランチをご馳走になっても、午後には時間をつくることができた。

 習慣を絶やすことにならずに済んで安心したが、実を言うと、午後からジムに来るのは気が乗らない。

 午後は女性客が多いのだ。それも、イケメントレーナー目当ての。


 大人気トレーナー・白川しらかわ 俊介しゅんすけさんは、中性的な顔立ちと裏腹な引き締まった肉体、そして人当たりの良さによって人気を博している。

 数少ない男性初心者である僕を気にかけてくれていて、非常に丁寧に指導してくれるのはとてもありがたいのだが、午後からは女性たちに囲まれてしまって近づけない。その人気ぶりはもはやアイドル級だ。

 おかげで僕はまったく練習にならない。

 仕方なしに、サンドバック相手に自主練を試みるのだが、


「この野郎っ、白川めっ、俺の方がっ、恵理ちゃんをっ、好きなのにっ」


 あからさまな恨み節に気圧される。

 サンドバックが奏でる重低音から、その蹴りの威力と想いの強さが放出されていて、自主練スペースに近づくことすらかなわない。

 彼は黒岩くろいわ 健二郎けんじろうさんといって、立派なプロのキックボクサー。このジムの看板選手である。

 本当はプロのフォームを観察するだけでも十分な練習になるのだが、いかんせん空気が重い。

 そして大抵、ここで爆薬が投入される。


「健二郎、フォームが乱れてるぞ」

「うるせえ!!」


 このように。

 ファンに囲まれてにっちもさっちもいかないはずの白川トレーナーだが、黒岩プロの変化には目敏いのである。


「ねえ、俊ちゃぁん、あんなやつほっといてスパーリングしようよお」

「いや、健二郎の管理をすることが、僕の仕事だから」

「きゃあ! 格好いい! あたしも管理されたい!」


 更なる火薬の追加。

 猫なで声で白川さんにすり寄る女性は赤崎あかざき 恵理えりさん。

 見てわかる通り、黒岩さんの想い人にして、白川さんの熱狂的ファンである。

 この赤崎さんという人は、二十代後半の社会人であるはずなのに、毎日ジムに顔を出す。

 なんなら、午前中に来ることさえある。

 そして、白川さんからマンツーマン指導を受ける僕に対して、『このメス豚め』みたいな視線を打ちつけてくるのである。

 僕を巻き込まないでほしい。メスでも豚でもないんだし。

 しかも、赤崎さんは元々黒岩さんのファンであったことをきっかけにこのジムに入会したらしく、今でも、白川さんのいないところでは黒岩さんに対して思わせぶりな態度をとっているらしい。

 女性って怖い。

 なにが一番怖いって、これらの情報はすべておば様方の世間話から漏れ聞こえてきたものであるということだ。

 断じて、僕が積極的に仕入れたものではないことだけ、注釈しておく。


 もつれまくった痴情に辟易として、隅のベンチに腰かけると、人集りから離れて黙々とサンドバックを叩く男性が目に入った。

 綺麗だな、と思った。

 流れるような足捌き。

 無駄な力の入っていない、お手本みたいなフォーム。

 ピタリと張りついたウェアから浮かび上がる、鍛えぬかれた筋肉のライン。

 それでいて細身の長身で、モデル休型とはまさにこのこと。

 浮かび上がる感情は純粋なる羨望。その後ろ姿から目を離すことができない。


「あ、変わるかい?」


 男性は動きを止め、こちらへ振り向いた。声はなんだか、聞き覚えがある。


「す、すいません。ジロジロ見ちゃって。続けてくださ――」


 ようやく拝見が叶ったご尊顔は、ファッション誌の表紙で見たことがある。


「SATSUKIの社長?!」


 自動車製造で国内シェア一位を誇る世界的大企業を三十五歳の若さにしてまとめ上げるやり手社長。

 咲月さつき 維蔓いづる氏がそこにいた。


「君みたいな若い子にも知ってもらえているなんて光景だな」


 穏やかな笑みには後光がさして見える。

 全身からあふれるアクティブな爽やかさは、どこぞの名探偵に見習わせてやりたいものである。

 あまりの爽やかパワーにやられたのか、僕はいつの間にか自己紹介を済ませたうえに、色恋沙汰に巻き込まれて練習にならないという愚痴まで話していた。

 聞き上手の人たらし。咲月社長を前にすると、まるで台本が用意されているかのようにスルスルと言葉が出て行くのだ。

 これぞカリスマのなせる技。時代の寵児と呼ばれるのもうなづける。


「よかったら、僕が練習をみてあげようか」

「えっ、社長自らですか?!」

「ここでは一般会員の一人にすぎないよ。それでも、プロにスカウトされた経験はあるんだ。白川トレーナーには及ばないが、役に立てるはずだよ」


 いい人すぎる。涙が出そうだ。


「そんなの、断わる理由がないですよ。でも、なんで僕にそこまでしてくれるんですか?」


 数分世間話をした程度の仲なのに。

 咲月社長は高い鼻をヒクヒクとさせて、言う。


「君は僕の愛しい僕の弟と同じ匂いがするからね。つい構いたくなるんだ」

「へえ。同じ銘柄のシャンプー使ってるんですかね」


 もちろん冗談だし、シャンプーの銘柄は蓮水邸にあったものを勝手に拝借しているのでよくわからない。




 それからは時間が経つのを忘れ、かつてないほど、キックボクシングに熱中した。

 維蔓さん(本人からそう呼ぶように言われた)の教育スタイルは褒めて伸ばすことが主体で、わかりやすさでは確かに白川トレーナーには敵わないが、僕のモチベーションをぐんぐんと高めてくれた。

 この人の下で働く社員はハラスメントのハの字も知らないに違いない。


 維蔓さんが帰った後もサンドバックと格闘し続け、例のごとく、気がつけば日はとっぷりと暮れていた。

 大慌てで帰り支度をしていると、人の少なくなったトレーニング場で赤崎さんと黒岩さんが睦まじく話していた。

 やっぱり女性って怖いし、男ってバカだ。

 今日はあまり見てあげられなくてごめんと謝ってくれた白川さんに苦笑いで返し、幾度目かわからない蓮水さんのお小言を回避するために、夜道をひた走る。

 着替える時間さえ惜しんで、黒いジャージ姿のまま。

 近道をするために、街灯の少ない路地裏を通る。

 

 僕は忘れていた。名探偵や刑事さんによる忠告を。


 それは、音もなく目の前に現れた。

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