05 赤のライン
夏の、抜けるような青空が広がっている。
目覚めたばかりの街はまだ、纏わりつくような蒸し暑さはない。それでも長い袖を肘近くまでまくり上げ、今更ながら半袖シャツかポロシャツにすればよかったと思う。どうも今朝は、ぼけぼけだ。
「この時間バスはもう行っちまってるし、自転車か……」
自宅から駅までは、延々と下りの坂道になっている。歩くとなれば片道四十分余り。徒歩では絶対に間に合わない。自転車は帰りが辛いけれど、バスの時間を逃してしまった以上仕方がない。
サドルに跨りハンドルを手にして、さっき
何気なく、耳に文字盤を当ててみた。
時を刻む音は驚くほどゆっくりで、人の心音のようだ。
「本当に動いてるんだ」
ぱっと見、壊れている様子もないから、祖父ちゃんが大切に手入れをしていたのだろう。多針アナログ表示の時刻を表す針は合っているが、それ以外の表示が何を指しているのか全く分からない。緯度や経度? いや、外国の現在時間だろうか?
縁を動く青い石も、北を指しているように見えない。
「不思議な時計……」
帰ったら祖父ちゃんに使い方を教えてもらおう。
玄関先で見送る姿を思い浮かべ、べダルを押して走り始めた。
長い坂を下り続け、広い
小学生の頃は一時間に数本のバスの発着所と、駅を挟んだ南と東側に商店街がある程度。駅の北側は大きな噴水のある山瀬公園、そして「閑静な街並み」がウリの住宅街だった。
それが今ではすっかり変わってしまった。
駅の南側は高層の複合商業施設が建ち並び、今じゃちょっとしたオフィス街になっている。単身者向けのマンションも増え、人も増え、活気は出てきたけれど、急激に変わりゆく姿は気味悪さすら覚える。
数ヶ月離れただけで、見知らぬ世界に変貌していそうな感覚。
消えた景色は目を離した隙に何が在ったかすら思い出せなくなる。大切なものを失っていくような、後戻りできない道に突き進んでいるような恐怖心。
そんなに風に思う俺の方が、きっとおかしいのだろうけれど……。
「おーはよ」
いつもの駐輪場の所定の位置に自転車を停め、いつもと同じ乗り口に向かうと、ホームに立つ人から軽い声がかけられた。二軒隣の幼馴染み、野々村
真っ直ぐ伸びた背筋。着崩すことのない夏の制服。
背丈は俺と同じくらいかやや低い程度だが、すらりとした立ち振る舞いから希里奈の方が高く見られる。自慢する深い栗色の背中まで伸びた真っ直ぐな髪も、洗練された清楚な印象を強めているのだろう。
かといって何かも優等生なお嬢様というわけではない。
変わった色や柄のリボンを集めるのが趣味でいつも器用に結んでる。今日は鮮やかな赤だ。
目鼻立ちも整っているせいで、いつも「可愛い子」と話題になっているけれど、今では積極的に声をかける男はいない。高校生になってから、少し気の強そうな感じが目元に現れてきたせいだ。
その印象は大筋で当たっている。
昔はもう少し引っ込み思案だったが、中学生くらいから友達を多く作るようになって、今は十和と変わらないくらい口うるさい。
黙っていれば可愛いのに、と思う事もあるが決して本人には言うまい。
言おうものなら、二倍三倍……下手をすれば十倍になって返ってくるのだから。
「
「何だよ、わざとらしい」
「挨拶ぐらいしなさいよ」
「オハヨウゴザイマス」
並んで乗車する。背中でドアが閉まる。
ちゃんと挨拶したのに希里奈の冷たい視線は変わらない。
「電車に間に合ってよかったわね。もう少し早く出られないの?」
「寝不足なの」
「早起きできない程、夜遅くまで何をやっているのかしら」
今朝も聞いたような気がするセリフだ。
眩しい朝日の中、ゆっくりと電車が動き出す。
車両の乗車率は半分ほど。混んでいるとは言えないが、座席はほとんど埋まっていた。空席を横目にドア側に立つと、何故か希里奈も並んで立つ。その距離が、少し……近いような気もするが、まぁ……いいか。
「なにそれ、面白い形ね。アンティーク?」
希里奈の視線の先には、左手首にはめたままの腕時計があった。
「聞いてくると思った」
「聞いてほしくて着けてきたんでしょ? そういうの好きよね。どこで買ったの?」
「祖父ちゃんに貰ったんだよ今朝」
「あら」
表情が変わった。
思えば希里奈も子供の頃はよく一緒に遊んだり散歩に行っていた。最近は家に来ることが少なくなったから、あまり祖父ちゃんと顔を合わせていないだろうけれど。
「お元気?」
「まぁまぁ」
「最近足が良くないって、お母さんから聞いた」
どっちのお母さんだろうと思ったが、どちらだろうと大して変わりはしないから聞き返さない。
「今日も散歩に行くだろうから、大丈夫じゃね?」
「そっか、いい天気だもの……」
そう呟いて窓の向こうに目を向けると、西の空に厚い雲が広がっていた。さっきまであんなにいい天気だったのに一雨来そうな空模様だ。どうでもいいニュースばかりが耳に入って、肝心の天気予報をチェックしてなかった。
今更スマホで確認しても遅い。雨の中、自転車を押して帰るのは怠いなぁ。
祖父ちゃんはもう、散歩に出ただろうか。
「……帰るまで降らなきゃいいな」
「雨はお昼過ぎからの予報だったから、午前中のお散歩ならきっと大丈夫よ」
同じことを考えていたのか説明するまでも無く希里奈が答える。
電車の、規則的な音と揺れと、さざ波の様な話し声が小さく響いている。
どこかの窓が少し開いているのだろう、濃い草の匂いがする。
会話が途切れる。
隣の駅が……やけに遠い。
「可愛いでしょ?」
「え?」
不意打ちのように俺を見つめて言った。
可愛いでしょう? って、何?
髪型が変わったのか。リボンの色のことか。
俺には分からないがメイクでもしているのだろうか。姉貴がよく仕上がりを聞くように。俺に聞いても分からないというのに。
ただ……今日は瞳の色がやけに明るく輝いて見える。
「可愛くない?」
「どれが?」
そこは「何が?」と聞くべきだったかもしれない。
「これよー。もふもふ」
「は?」
肩にかけていた鞄を俺に向けて、ぶら下がったチャームを見せた。というか、ぬいぐるみか?
小さな動物……兎なのかハムスターなのかよくわからない、耳の付いたフェイクファーの丸いかたまりだ。わずかに虹色に光る白い色合いのせいで、雪だるまにも見える。大きさは握りこぶしほど。チャームというにはちょっと大きい。
「もふもふ?」
「もふもふー! かわいー」
満面の笑み。
「昨日やっと見つけたの。限定色」
そういえば、希里奈はこういう物にも目が無かった。
「面白い形だな」
「可愛いでしょ?」
「はいはい、可愛い可愛い」
「テキトーな返事ねぇ」
口を尖らせて拗ねたような顔をする。
いつもそのぐらい表情豊にしていたら、普段の印象もずいぶん変わるのに。と、思う俺に重ねて聞いてきた。
「で、髪もうまくまとまってるでしょ?」
やっぱりそこもなんだ。
「うまくいってる。いってる。ってか、派手な赤だな」
「今日の雰囲気に合ってるでしょ?」
自信満々に微笑みながら答える。以前なら「やっぱり似合わなかったかな……」なんて自信を無くしていたのに希里奈は変わった。その急激な変化が眩しくて、嬉しいと同時に俺は少し、置いてけぼりにされているような気になる。
ほんの少し目を離しただけで、見知らぬ人に変貌してしまうような感覚。
変化は悪いことではないはずなのに……。
「似合ってるよ」
「よかった」
嬉しそうに肩を上げる。そのタイミングに合わせるように電車は停車して、ドアが開いた。
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