04 位相空間を刻む音 2

 どこかに出かけてそのまま帰ってこない、というのではなく、家の中や職場から忽然こつぜんと消えるという。ネットでは「神隠しだ」と言って騒いでいるのだと昌己まさみが言っていた。

 どちらにしろ無関係な俺には遠い国の事のようで、いつものようにニュースを聞き流したまま鞄を手に取った。


「そういえば希望進路の提出、まだだって連絡入ってたわよ」

「う……」

「期末考査の結果と合わせて、二学期からカリキュラムが追加されるんでしょ?」

「お母さん、無理無理。まだ入学したての気分でいるんだから、将来なんてなぁーんにも考えてないわよ」


 反論できない。とりあえず進学の方向……という大雑把おおざっぱなことしか考えていない。小学生の頃は街を作る人になりたいと言って、あちこちの街並みを描いたり模型を作ったり公共施設を調べたりと頑張っていたが、今は昔の話だ。

 あれほど好きで夢中になっていたのに止めてしまった理由は何だっただろうか。

 それより。


「十和こそ、たしか発展途上国で働きたいとか言ってなかったか?」

「はぁー?」


 あからさまに不機嫌な声と視線が返る。


「綾十には関係ないでしょ」

「偉そうなこと言ってたじゃん」

「そこまで! 綾十も提出物はちゃんと守ってよ」

「おかぁーさん、甘すぎ! 綾十もちゃんとネクタイしてきなさいよ!」

「うっさいなぁ」


 えんじ色の地に細いストライプが入ったネクタイは、ワンタッチタイではないからいちいち結ぶのが面倒だ。とは言え、また煩くなりそうなので手早く結びつつリビングから逃げ出した。




 姉貴は中学生の終わりの頃、誰だかの講演にひどく感銘かんめいを受け、それこそ高校生の遊びや楽しみそっちのけにしてボランティアに勤しんでいた。

 本人はやりたくてやっているのだから周りがとやかく言う事ではない。

 むしろ高い目標をもって高校生活を送る姉を応援したい気持ちでいたのだが、家族以外の周囲の人間による姉と俺の比較は、ひどく居心地の悪い物だった。


「お姉ちゃんはとっても頑張っているけれど、綾十くんは何かやらないの?」と。

「勉強以外にも人の為に働くなんて偉いわね」と。


 俺は、姉のようには頑張れないし人の為になりたいという気持ちも薄い。

 頼まれれば手は貸すだろうけど、わざわざ出向いて「助けてあげましょう」という気持ちになれないでいる。人が見れば姉の行為は素晴らしく、それに追従しない俺の姿はどれほど自分勝手で怠け者に映っていただろうか。

 もやもやした気持ちを抱えながら「受験があるので」と逃げて過ごした。周囲の人たちも無理強いしなかったから、余計に姉貴との距離は開いていった。

 そんなふうに遠くから活動を眺めていた昨年の夏頃、姉の周囲でトラブルめいた出来事があったらしい。慌ただしい様子は察していたが「何かあったの?」の一声をかけることもできず、事情も分からず、年が明けて俺の高校受験が終わった頃にはあっさりと進路を変更して地元の大学に進学していた。


 それ以来、この話題は禁句になっているように思う。

 思っていたのに言い返してしまった。今のは失言だったな……と思う。




「ったく、十和の靴何足あるんだよ」


 玄関先で散らばったパンプスやスニーカーを除けながら自分の靴を探す。足は二本しかないというのに。


「綾十……」

「なに?」


 不機嫌に答えてから振り向き、声の相手に気づいて驚いた。てっきりもう散歩に行っていたと思っていた祖父じいちゃんが、おぼつかない足取りで玄関先に歩いてくる。


 わずかに黒髪が残った白髪はきちんと切りそろえて、厚い眼鏡の向こうにはいつもと変わらない優しい瞳が覗く。着古したシャツだけど皺は無い。生真面目な性格は今も変わらず、八十近い年の割にしっかりしていると近所でも評判だ。

 最近すっかり足腰が弱って、天気のいい午前中は近所の公園や公民館まで行くのが毎日の日課……もといリハビリになっている。俺も休みの日には散歩に付き合っていた。

 弱ってきた足腰とは違って、記憶力は俺よりいいんじゃないかと思う。

 散歩の道すがら、この建物は何年に作られた何建築様式だとか、素材は何でできているとか。季節で移り変わる花や草木を指さしては名前や実の形、食用や薬用になるものならその活用方法まで穏やかな口調で説明してくれる。

 移り変わる街並みを眺め、古い建物が取り壊されるのを惜しみつつも新しい建物に興味を示す。酒も煙草もやらない祖父ちゃんはバス通り終点の東にある古い和菓子屋の新作を、いつも楽しみにしていた。


 そんな祖父ちゃんが苦笑いしながら眼鏡の向こうの目を細めた。


「朝から元気だな」

「十和がうるさいんだよ」


 子供の頃、俺が抱いていた夢は多分にして祖父母と過ごした影響だ。

 祖父ちゃんが大切にしているこの街をせめて模型にして残しておきたいのだと、作文に書いた記憶もある。


「天気いいのに、今日は散歩行かないの?」

「綾十に、これを……渡しておこうと思ってね」


 俺の手を取ってのせた、少しひんやりとした物。


「なに?」


 渡されたのは腕時計だった。

 古くおもむきのある真鍮しんちゅうの縁には、見慣れない文字とボタンのような突起がある。部分的にスケルトン仕様となっていて、覗き見える幾つもの歯車は恐ろしいほど精巧だ。文字盤には時間を見る以外にも見慣れない文字と数字が並んでいる。ダイヤリー機能だろうか。

 更にもう一つ、方位磁石のように時計盤の縁を滑る青い石。

 ベルトは古い本革のようで合成樹脂やシリコンといった大量生産品では無く、一点一点デザインされ組み上げた物のように見える。

 時計としての実用性は分からないが、造りはめちゃくちゃカッコイイ。

 細部を眺めているうちに、遠い昔の子供の頃に見たことがあるのを思い出した。


「どうして急に? これ、祖母ばあちゃんの形見でしょ?」

「綾十に渡してくれと」


 これは十年前に亡くなった祖母ちゃんが大切にしていた時計だ。その見かけの恰好良さから、ずいぶん欲しいとねだった記憶が蘇る。

 いつ誰に言われたかはっきり覚えていないが「大人になったら譲る」と言われ、代わりに子供用の腕時計を買ってもらったはずだ。だが流行りのアニメキャラが描かれた時計はそれほど経たないうちに壊してしまい、以来時計をねだることは止めてしまった。

 言われた時の「大人」が、具体的に何歳を指していたのか分からない。ただぼんやりと、「成人したら」なのだと記憶していたように思う。そのまま時計のことは忘れてしまっていた。


「祖母ちゃんが? 夢にでも出て来た?」


 冗談っぽく笑ってたずねる。

 夢枕にでも立って孫に譲ってやってくれと言っただろうか。誕生日やクリスマスや入学式でもない、中途半端な、七月の期末考査の前というのがマイペースな祖母ちゃんらしいというか。

 左手首にはめると腕時計は驚くほどしっくりとなじんだ。


「あ、後で返してくれって言っても、返さないよ」


 幼馴染みの希里奈きりなにはおもちゃみたいだと笑われそうだけど、嬉しいものは嬉しい。


「もちろんだ。大切に、外さないようにな」


 穏やかな笑みが返る。


 朝日が窓から差し込んで、見慣れた玄関がまるであの夢の中のように白く輝いた。漂う塵のひとつひとつまで見えるように、祖父の輪郭は浮かび上がり、輝いている。


 今朝、ひどく印象的な夢を見た。


 これはその続きだろうか。


 景色も目の前に居る人も全く別のものなのに、同じ空間に居るような、繋がっているような錯覚すらある。目が離せなくなる。


「……じいちゃん……」

「綾十! まだ居るの? 遅刻するわよ!」


 リビングの方から響く母さんの声で目が覚めた。


「やべっ! 祖父ちゃん、もうすぐテストだから終わったらまた一緒に散歩しような! 十和ぁ! 玄関邪魔だから靴片づけろよな!」

「うっさい! 綾十がやっといてよ」

「なんでだよ、全部捨てるぞ!」


 理不尽な姉貴の声が返る。

 笑う祖父ちゃん。


「楽しみにしているよ」


 ドアを閉めるその瞬間まで、祖父は微笑んでいた。

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