03 位相空間を刻む音 1

 聞きなれたスマホのアラームが響きわたっていた。


「んんんぅー……ん」


 肌に馴染んだタオルケットと枕の感触。うつ伏せでいたのか目を閉じたまま顔を上げると、カーテンの隙間から漏れた朝日が瞼を焼いた。じわりと纏わりつく湿度に汗がにじむ。

 朝だ。

 子供の頃から変わらない自分の部屋の、いつも通りの朝。

 目が開けきらないまま机に手を伸ばし、アラームを止めようとした指にスマホではない、四角く硬い物が当たった。瞬間、ガシャリと乾いた音が響く。


「うっわー……」


 マジかよ。音に驚いて開けた目の前には、床にひっくり返った古いハンドル式鉛筆削り器。長く机の隅に追いやっていた物だ。それは見事に、削り粉の入っていたケースも吹っ飛ぶ勢いで。粉の散らばり具合なんていっそ芸術的だ。


「あぁー」


 信じられない。もう今日は、このままふて寝してしまいたい。

 けど……そうなれば遅刻だし、休む理由を考えるのもだるい。確か今日提出のレポートがあった。そのために夕べ遅くまで頑張ったんだよな。


「うぅ……ぁああ……」


 情けない呻き声を上げてから、もそりとベッドから這い出した。

 母さんはこの惨状を見ても「アホだね」と呟くだけで何もしないだろう。昔から自分で散らかした物は自分で片付けろが鉄則だった。掃除機で吸えばいいだけだから今やっちまってもいいのだけれど、階段下の納戸まで取りに行って掃除して、また納戸まで片付けに行くのがダルすぎる。何より時間が無い。

 とにかく今は踏んで更に広げないように軽く足場だけ手で払い、削り器を机に戻した。

 子供の頃に貼ったトラのシールの縁も粉だらけだ。色褪せ擦り切れているというのに、姉にねだって貰った記憶がいつも剥がす手をためらわせる。


「あぁ、もぅ、いいや」


 いつまでものんきな音を立ててるアラームを止めて髪を掻き、窓のカーテンを開けた。

 七月の朝陽と共に早起きな蝉の声が部屋に流れ込む。二階の窓を追い越しかけている金木犀の葉が揺れて、部屋の中にまだらの影を落としている。

 今日も暑い一日になりそうだ。

 まだ、頭の芯がぼんやりとしている。


 石造りの建物。白く輝く霧の世界。

 丸い球から生まれた、乳白と虹色に輝く少女。澄んだ瞳。不思議な言葉。


「変な夢……」


 呟きながら着替えと鞄を持ち、乾いた木の匂いの削り粉を避けて部屋を出る。

 夢なのにやけにハッキリとしていた。現実みたいに感覚がリアルで、目が覚めたこちら側の方が夢なのではと思うほど、まだ奇妙な感覚を引きずっている。

 軽くシャワーを浴びてから向かった洗面台の鏡に映る自分の姿すら、歪んで見えるほど。


 ――壊す、作る、いや、造るかそれとも創るなのか。そして剣。


 あの少女は、一体……何者なんだろう。

 夢なのだから、眠っている間に脳が勝手に作った空想のはずなのに、今でも俺をまっすぐに見上げた瞳の色が忘れられない。りんのように響く声や、頬に触れた手のひらと指先の感覚を覚えている。

 覚えて、いる……。


「変な顔」


 バスタオルで乱暴に髪や顔を拭きながら、呟いた。

 特徴の強い顔立ちじゃない。幼馴染みに眉の形がいいと褒められたことはあっても、ごく普通の目鼻立ちに長くも短くもない黒髪の高校生が、寝ぼけた顔でこちらを見つめ返している。さえない顔だ。

 いかにもモブといった、群衆の中に居ればあっという間に埋もれてしまうような存在。それなのに。


「世界を壊し創る王って、何だよ」


 可笑おかしくて笑いそうになった、瞬間、チリ、と心臓に軽い痛みが走った。思わず胸に手を当てたがもう感覚はない。

 なんなんだ、今の違和感は……。心臓にガタがくる年なんかじゃないぞ。


 もう夢のことは忘れよう。都合よく続きが見られるわけじゃない。

 一話目だけ見て打ち切りになったドラマだと思えばいい。もしくは少し不思議な気分を味わったVRの体験版みたいなもので、続きは想像力で補えと。

 忘れてしまおう。

 それより進路相談やもうすぐ始まる期末考査に気持ちを切り替えないと。


 手早く着替えてリビングからキッチンの側に向かうと、ダイニングテーブルにはいつも通り姉貴が朝食をとっていた。朝のニュース番組は梅雨明けの天気予報を伝えている。母さんが俺の姿を見て席を立ち、茶碗にご飯をよそい始める。早起きの祖父じいちゃんの姿は無い。

 いつも通りの朝。そして朝食。

 目玉焼きにソーセージ、生野菜のキャベツやレタスにトマトが皿から溢れている。それにご飯とダシから取ったみそ汁に自慢の浅漬け。毎朝変わり映えの無いメニューだが、食事に関して不満は無い。むしろきちんと作ってくれるのだからありがたい。遅刻しても飯は食う。


「おはよう、綾十あやと、ちょっとのんびりしすぎじゃない?」

「早起きできない程、夜遅くまで何をやっているのやら」

「レポートやってたんだよ。十和とわ姉ぇは早起きですねぇー」

「当然でしょ。今日は気合入ってるんだから。綾十のそのテキトーな頭、どうにかできないの?」


 言いながら髪の端を摘まむ。顔を合わせた早々、母さんに続いて姉貴の一撃だ。

 早めに起きてさっさと家を出ようと思っていたタイミングは逃したな。俺は椅子に座りながら話題をそらすように聞き返す。


「父さん、いつ出張から帰ってくる?」

「出張なんて行ってないわよ」

「なに、寝ぼけてるの~?」


 母さんと姉貴から、呆れたりニヤつかれながら返される。

 俺の、記憶違いだっただろうか。


「珍しいわね? 何かあるの?」

「夏休みのバイトの話。前に父さんに聞いてみてからって言ってただろ」

「そんな話あった?」


 きょとんとする母さんに、「いただきます」をしながら肩を落とした。話、テキトーに聞いてたのかよ。まぁ、俺も世間話程度にしか話してなかったかもだけど。


「バイトもいいけど、勉強もやってよね」

「今度のテストの結果次第じゃない?」


 にやにや笑う姉貴に「はいはい」と答えて朝食の箸を進める。

 進学を考えるなら手を抜けないのは分かってるけど、高校生活最初の夏休みなんだ、思いっきり楽しみたい。同じクラスの昌己まさみ優貴ゆうきと話を詰めてからにするか。

 隣から俺の顔を覗き込んで姉貴が聞いてくる。


「夏休み、部活は無いの?」

「確か……地域文化資源活用研究部、っていうのに入ってたわよね?」

「あーあれねー、うん」


 小難しい部活名をすらすら口にしながら問う母さん。昌己に誘われて名前貸しした部活の申し込みに、親のサインをもらったのを覚えていたのか。

 研究部の活動内容はよくわからない。部活と言っていいのか迷うほどのんびりした所で、先輩方いわく「文化祭の前後だけ顔出せば、いいかなぁー」という、とてもゆるーい部だ。夏休みの活動……は、あるのだろうか。


「父さんは早番で出たから、帰りは早いと思うわよ」

「んー」


 みそ汁を口をつけながら答える。仕事が忙しいのは知っているけど、最近父さんと言葉を交わしたのはいつだっただろう。

 一足先に「ごちそうさま」をした姉貴は、「さっきの話だけどさ」と言いながらカタログを取り出していた。とちらりと覗き込むと、シンプルな円筒状の写真と一緒に「スマートスピーカー」の文字が見える。音声認識で動く人工知能搭載のAIアシスタントだ。


「だからお母さん、機械は全然だって言ってるでしょ」

「ただ喋るだけだって。テレビ使えてるし、炊飯器も冷蔵庫も使えるじゃない」

「それとこれとはねぇ」

「洗濯機だってまだ壊していないんだから、だぁーいじょーぶだって」


 母さんの機械音痴は今に始まったことじゃない。スマホだって最低限の機能しか使ってないみたいだけど、人には得手不得手があるんだから仕方がない。

 十年前、祖母ばあちゃんが倒れたのをきっかけに専業主婦になってから、祖父ちゃんに付き添って町内会やらご近所の細々な事を引き受けつつ、家事と育児に専念してきた。化粧っ気はないし、今も白髪交じりの髪を後ろで一つにしばり、使い込んだエプロン姿という。

 元々のんびりした性格だけど……うぅーん、姉貴としてはそろそろ外の興味も持ってもらいたい、というところなのかな。


 三歳年上の姉貴――十和は、母さん同様にお洒落には興味なしの今時珍しいタイプだったが、高校卒業と同時に最近すっかり「普通の女の子」になった。今も髪を軽く結い上げ、明るく色を抜いてゆるふわなパーマにきっちりとメイクもしている。着ている水色のシャツも新しいものだろう。

 今年、隣の市の大学に進んだことで一人暮らしを始めるかと思ったのに、「お金ないもん」と実家通いを続けている。姉が家を出れば、西向きなのに風通しがよくて朝が快適な部屋に移れると期待していたのに。

 まぁ……身なりの無頓着に関しては、俺も人のことを言える立場じゃない。


「ねっ、綾十も欲しいよね?」


 食べ終わるタイミングを見計らったかのように、姉貴が上機嫌で声をかけてきた。残念だが、俺は母さんほど機械音痴ではないが、そもそも興味がない。


「別に……」

「何よー! ちょっとぐらい話にのりなさいよぉ」

「ごちそーさまぁー」

「今日は遅くなるの?」


 立ち上がる俺に、母さんが聞いてくる。


「いつも通りだと思うけど、何かある?」

「帰りに買い物頼むかも」

「んー」


 お使いがあればメッセージを入れてくるだろう。

 テレビでは、最近の連続失踪事件を報道していた。

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