第240話 何度目かの雨も上がった(後編)
ハインドのローターが空気を叩き、ターボシャフトエンジンの駆動音が響く中、俺たちは雪の大地を後にしていく。
隣からは小さな寝息。ベアトリクスとミーナのものだった。
俺たちの戦いを見守り、時に援護してくれたふたりは、体力の限界を迎えて肩を寄せ合うようにして眠っていた。
「無理もないか……」
今回はかなりの長丁場だった。俺だって回復魔法でドーピングしているようなもので中身はクタクタだ。
ふたりの穏やかな寝顔を見て、思わず口元が綻びるのを感じながら、視線を外して窓の向こう側を見る。
真下に広がる雪の大地に、今や動くものは何ひとつ存在しない。
戦場跡に漂う静けさが、戦いの後に何も残るものなど何もないと関わった者すべてを嘲笑っているようだった。
どれだけ多くの命を飲み込んでも、静けさの質が変わるわけでもない。
なのに、人間ははるか昔から“世界”さえも越えてこんな行為を繰り返している。
戦いに自ら身を投じ続ける男はどう感じるのか。
ふとよぎった思いから、座りながら大太刀を肩に抱くサダマサを見る。俺の視線を感じたサダマサが目を開けてこちらを見返してきた。
すぐ横には、ダークエルフのシルヴィアがそっと控えるように腰を下ろしていた。
「……言っておくが、返さないぞ」
サダマサがはっとしたように大太刀を俺から遠ざけようとする。
子どもの反応か!
「んなもん、いまさら返せなんて言わねぇよ……」
敢えてボケたな。こんな反応を返す時点で話をする気もないのだろう。
いや、サダマサでも今回の戦いでは少なからぬ疲労を覚えているようだ。気取られるのがイヤなのか静かに目を閉じる。
なんだかんだと難儀なヤツだな……。
小さな疲労感が新たに生まれた。
静かに溜め息を吐き出し、襲いかかる疲労感の蓄積に負けた俺は冷たい壁に背中を預ける。
寝てしまうべきなのだろう。だが、不思議と眠気はやってこない。
目だけを動かせば、いつの間にかショウジは眠りに落ちていた。
同じく極度の緊張から解放されて眠っているイリアにその肩を貸しながら。
悲劇と呼ぶべき出来事があっても、人は呼吸を止めることはできないし、程度の差はあれども極度の疲労には抗えない。
きっと、目覚めたふたりは戦いを思い出すのだろう。
それが気になってしまうのは、ずっと昔に自分が置いてきてしまったモノに似ているからかもしれない。
「すべて、変わっていってしまうものなのかのぅ……」
すぐ近くで同じように窓の外を眺めながら、ティアが吐息を漏らすようにつぶやいた。
誰に向けたわけでもないように虚空へと吐き出された言葉だが、それは問いとして俺の耳に届いた。
「落ち着いたか?」
「少しだけじゃが」
「そうか……。変わらないでいられる方が少ないだろうさ」
続く言葉でティアの黄金の瞳が俺へと向けられる。
交差した視線。ティアの瞳がわずかに潤んでいたように感じたのは、きっと俺の見間違いだと思う。
「出会いがあるなら、必然的に別れも存在する。それもまた“変化”のひとつだ」
長い寿命を持ちながら外界との関りを持ってこなかった『神魔竜にとって、寿命によって死ぬのではなく、今回のように戦って訪れた別離は初めての経験なのかもしれない。
「じゃが、あのような結末を受け入れるには――――」
ティアとしては到底納得できないのだろう。
あくまでも、当人が選択をした上での結末であり、それを同じように他者が納得できるとは限らないのだ。
視線を正面に戻し、俺は少しだけ頭の中で考えをまとめてみる。
「……否定的な意味で言っているんじゃねぇさ。俺が生まれた世界に『諸行無常』って言葉がある。まぁ、ざっくり言ったら、「一瞬として変わらずにいられるものなんかない」って言葉だな」
ティアに向けると言うよりは、目の前の虚空へと放つようなつもりで口を開く。
「すべては望もうと望むまいと変わっていくものだよ。だけど、変化をどう受け止めるかは別の問題だ。それは自分自身で決めなきゃいけないものだと俺は思う」
「自分自身の選択……」
言葉の意味を反芻するようにつぶやくティア。
「ティアだって“変化”を求めてアルデルートを出たんだろう? 同じように、白虎は『守護者』としての
そこまでの決意をもってしても、彼らは願いを叶えることはできなかった。
俺たちの願いとぶつかってしまったがゆえに。
それぞれの形で『愛』を求めようとした者たちと対峙し、結果として命を奪うこととなった。今はその事実しか残っていない。
「じゃが、我らと戦ったのじゃぞ? クリスとて死の危険を感じたのは一度や二度ではあるまい。そんな相手の選択を肯定すると申すのか……?」
ティアは理解できないといった表情を浮かべる。
彼女にとっては、それほどまでに衝撃的なことだったのだろう。
あるいは、一歩間違えれば自分も同じ道を歩んでいた可能性を無意識に理解したからか。
「ヤツの選択がどうかなんていいのさ」
言葉は自然と出ていた。
「すべてが終わって結末が訪れた以上、何の言葉にはできるかもしれない。でも、それはあくまで相手に自分を重ね合わせて理解した気になっているだけだ」
「気になっているだけ……」
「そうだ。そうでもしなければ、俺たちは他者を理解することさえできない」
上手く言葉にできているとは思わない。
今だってわからないことばかりだ。俺が重ねる言葉はきっと戯言みたいなものなのだろう。
それでも自分の意志を伝えるために言葉は存在している。
だから、俺はそれを行使するしかない。
「俺たちは、自分の持つ感覚の狭い範囲でしか世界を――他者を認識することができない。孤独を埋めようとしても、独りの力でどうにかなるほど、世界は単純じゃないし、みんなそんなに賢くは生きられない。だから、わからないなりに動いて四苦八苦して、自分に足りないものを埋めるために他人を必要とするんだ」
おまえが俺のそばにいてくれるように――
ティアの肩をそっと抱く。
どれほど『神魔竜』として強大な存在と世に見なされようと、今のティアは俺の目にはひどく儚い存在に映っていた。まるで少女のようだ。
見ているだけなんて、絶対にできなかった。
「他人を必要とする想い――そこに愛とかそういう感情が生まれる。頭の中だけの幻想かもしれないけど、俺は素直に愛おしいと思えるよ。だから、人は想いを遂げるために泥に塗れようと生きていけるんだ」
同時にこうも思う。
足搔いた末に得られた結果がこうなら、世界にはどれほど救いがないのか――
だからといって、歩みを止めることはできない。
ここで立ち止まっても、今までのすべてがチャラにはならないのだから。
過去はいつか自分に迫ってくる。
何もしないままなら、今度は自分と自分の大事な存在が相手の願いに潰されるだけだ。
だから俺は想う。自分の隣に立ってくれるひとたちを。
俯いたままのティアの頭を自分の首元へとそっと引き寄せる。
愛用している香の匂いなのだろう。ふわりと漂う香りが、鼻腔をくすぐった。
「でも、今回はつらい思いをさせちまったな……」
ティアは返事の代わりにゆっくりと身体を預けてくる。
「……かまわぬ。竜峰を出る時に、覚悟していたことじゃ。……いや、したつもりになっていただけかもしれぬ」
袖を掴まれた。指を通してティアの身体が小さく震えているのがわかった。
「妾が竜の姿で戦わなかったせいで、クリスを何度も危険に曝してしまった。妾のワガママに付き合わせて……」
かすかな声とともに、顔が胸元へ倒れてきた。
「……いいさ。自分で決めたことなんだろ」
語りかけるように返し、俺はティアの黒髪に手をやる。
ともに生きると決めた相手と近い目線で生きたい。
そのためだけに、ティアは竜の姿に戻ることを頑なに拒んでいると知っていた。
そうまで想ってくれる相手の願いのひとつも受け止めてやれねぇ男に価値なんかあるまい。
「頼りっぱなしってものなんかカッコ悪いよな。もう少し俺が強けりゃカッコもついたんだが……」
苦い笑みを浮かべて語りかけた。
「俺たちはひとりじゃない。世界の“変化”を望む以上、いつ誰がどんな戦いに巻き込まれるかわからない。でも、そこで誰かひとりが無理や無茶をしなきゃいけない――そんな自己犠牲を俺は望んじゃいないんだよ……。みんなで進んでいこうぜ。もう、“家族”になったんだからさ」
「うん……」
胸元に顔をうずめるティアの体温を感じながら、俺は眠っているショウジに目を向けた。
もう決して止まらない。とっくの昔にそう決めている。
止まりそうになることはあっても、絶対に歩みは止めない。
それは、こうして支えてくれるティアやベアトリクス、それにミーナたち家族と仲間がいるからだ。
ショウジはどう向き合っていくのだろうか。
今回、自ら選択をしたがゆえに、少年は現実も突きつけられた。
選んだは覆せない。もし選択の重さがショウジを苛んだとしても。
ふと外を見れば、空を覆っていた分厚い雪雲は風に流され、わずかに残った雲間からは茜色の陽光が差し込んでいた。夕暮れが近い。
いつしか空には虹がかかっていた。
きっと、この星の歴史の中では幾度となく繰り返された光景のひとつなのだろう。
「ティア、虹が――――」
言いかけて俺は口を噤む。ティアもまた眠っていた。
軽くティアの頭を撫でてから、俺はふたたび窓の外へ目を向ける。
どれだけ荒れた空があっても、いつかはこの虹が出るように晴れ間を覗かせる。
もし、ショウジの中に今は雨が降っていたとしても、きっとその雨も上がってくれるのだと信じたい。
そのために何ができるだろうか?
ひとりでは堂々巡りになりそうなことを考えていると不意に睡魔がやってくる。
どうやら俺の気力・体力も限界を迎えたらしい。
瞼の重みに懸命に抗いながら、外に広がる美しい風景を目に焼き付けようとする。
せめて今だけでも、この風景に少しだけ思いを馳せさせてくれと願いながら――
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