第210話 道に倒れて誰かの名を~後編~
今度こそイリアは言葉を返せなかった。
思わず「そのために『勇者』がいる」と返そうとしたところで、脳裏に
未だに、あの男の顔と声は、イリアの記憶の中から消えてくれることはない。
両腕が自由であれば、我が身を抱きかかえていたかもしれぬほどに。
だけれど――――同時に浮かぶ顔があった。
それは、シンヤと同じ黒髪黒瞳を持つが、まるで違う温かみを持った少年のもの。
「よしんば『魔族』の脅威が健在だとしても、そんなものはこれまで散々と死体の山を築き、血の河を作ってきたヒト族どもで勝手にやっていればいいことだ。俺たちは、暖かで豊かな南の大地を目指してただ駆け抜ける。この戦いは序章に過ぎない。だから、イリア。はっきりと言っておく。お前にもそこへ来てほしい。俺とともにな」
ラヴァナメルから真っ直ぐに差し出される手と、向けられる視線。
「戦争奴隷となってヒト族に買われることになったわたしは、もう――――」
「言うな。そんなものを俺は厭わない。一族の掟が何を与えてくれた? 俺は、お前さえいてくればそれで構わない……!」
なんの衒いもなく向けられる感情の奔流を受けながらイリアは思う。
おそらく、今放たれているラヴァナメルの言葉は、あの時言えなかったものなのだろう。
そして、それはイリアにとっても同じであった。
だから、もし自分が数年前のままで時が止まっていたのなら、イリアはその手を取っていたかもしれない。
だが――――。
「……ねぇ、ラヴィ。南進するために相手にしなければいけないノルターヘルンの軍はこれだけではないわ。もし眼前にいる敵軍を倒すことができたとしても、他のどれだけのヒト族の国が私たちの敵に回ることか」
敢えて、かつての愛称でラヴァナメルを呼ぶイリア。
それは、拒絶の言葉であった。
「わたしたち獣人の行動を人類に対する反乱として、教会は嬉々として軍を糾合するでしょうね。ヒト族全体を敵に回す方策なんてあまりにも無謀としかいいようがないわ。ねぇ、ラヴィ。たとえ、今は勝てたとしても――――」
その言葉を受けて、ラヴァナメルの瞳にそれまでのものとは違う感情が一瞬浮かび上がる。
しかし、それはほんの一刹那の間だけのものであった。
「俺を……その名で呼ぶな、イリア……!」
自身の内部――――誰も知らないその場所を抉ろうとする刃から我が身を守るように、憤怒の感情を込めて強く言い放つラヴァナメル。
イリアの言葉は、戦場に立つ男の決意を鈍らせるには到底至らなかった。
「いや、今はそれでもいい」
むしろ、その言葉の中にある過去の残滓を振り払うように、ラヴァナメルは全身に闘気を張り巡らせていく。
「だが、そこで見ているがいい。これより先、立ち塞がるすべてを俺は打ち破ってみせよう。そのために我が中で目覚めた力がある。俺はもう、“あの時”の何もできなかった無力な男ではない」
まるで自らに言い聞かせるためであるかのようにイリアには見えた。
「アナタは、まだ――――」
イリアはそれ以上言葉を続けることができなかった。
たしかに、ラヴァナメルの言葉に偽りはない。
他ならぬ当人がそう自分が信じ込んでいるからこそ。
だが、そのためにどれだけの同胞を死に向かって突き進ませるつもりなのか。
そして、そこに当のラヴァナメルが気付いていないわけなどない。
だからこそ、先ほどイリアが言おうとした言葉を遮ったのだろう。
イリアには感じ取ることができた。
彼の胸中に秘められた思い――――怒りや憎しみが、いかほどのものであるか。だからこそイリアはそれ以上を言葉にすることができなかったのだ。
イリアの逡巡する姿を見たラヴァナメルは何も言わなかった。
かといって、失望の表情が浮かんでいるわけでもない。
「……すぐに答えを出せとは言わない。まずはノルターヘルン軍大将の首級を挙げてやる。王族であれば戦果として申し分はなかろう。それを掲げ、我らが自由を掴むための咆吼を轟かせよう!」
強い語気で言い放ち、ラヴァナメルは戦場を駆けるため背中の大剣に手を伸ばす。
その時だった。
「――――?」
最初に変化を捉えたのは、ヒトよりも五感に優れた獣人たちの聴覚であった。
多くの獣人は天候が悪化していることから、初めは低く鳴り響く遠雷か何かと思っていた。
しかし、すぐにそれがこの地に鳴り響く雷鳴にしては、彼らの知るものとはまったく違うことに気が付くこととなる。
連続して鳴り響く、はじけるような荒々しい音。
もちろん、獣人たちには初めて聞くそれが何であるかまではわからない。
そんな彼らに構うことなく、次第にこちらへと近付いてくる未知の異音。困惑だけがノルターヘルン軍を飲み込む直前にまで迫っていた獣人軍へと徐々に伝わっていく。
そこに更なる現象が重なって起こる。
「なんだこの音楽は!!」
吼えるように叫ぶラヴァナメル。
その視線はイリアから外れ、遠くの空を見ていた。
「もしかして……あなたなの……? ショウジ――――」
イリアの口から漏れ出たつぶやきは、誰にも聞きとがめられることもなく雪の空へと消えていく。
一方、獣人たちの間では空気が変わってしまったとでも表現するしかない混乱が生じていた。
そして、一度生じた困惑はさらに大きな伝播を見せる。
空を切り裂く爆音の中から、それでもなお打ち消すことのできない大音量の音楽が流れてきたからだ。
響き渡る旋律から、勇壮な曲であることは聞こえてくる音でわかるのだが、なぜこの局地の戦場にそんなものが鳴り響くか皆目見当がつかない。
「なんだ……?」
それはこの場にいるほぼすべての人間が感じていたことらしく、決着をつけるべく包囲しようとしていた獣人軍の動きまでもが止まっていた。
そればかりか、壊走寸前となっているノルターヘルン軍兵士たちですら、足を止めて音の鳴る方へ顔を向けている。
やがて、その音の発生源が形となって空の彼方から姿を見せる。
「あれは……翼竜か……?」
「いや、羽ばたくための翼がないぞ」
「バカ言え、横に広がっているのが翼じゃないのか」
「それよりも上で回っているのはなんだ? あれこそ翼にしては――――」
見たことのない存在を目にし、にわかに騒然とし始める獣人軍兵士たち。
依然として誰も動けないでいる。
もし、竜――――それも高位のものであれば大きな脅威となる。
だが、聞こえてくる音はどう考えても生物の羽ばたきには思えなかった。
「じゃあ、この音楽は何なんだ!」
耳をつんざく爆音に耐えられなくなったのか、ひとりの獣人兵士が悲鳴を上げるかのように叫ぶ。
しかし、混乱の渦中に叩き込まれた兵士たちは誰もそれに答えることができない。
だから、彼らは気がつけなかった。
それが、ある意味においては竜などよりも遥かに凶悪な死神の羽音であることに、それこそ最期まで気が付けなかった。
空を飛ぶ鋼鉄の――――獣人たちが竜と見間違えた――――物体の翼から、山の斜面をノルターヘルン軍目がけて駆け下りようとしていた獣人軍に向かって何かが射出されてもなお。
「あれは、鋼の魔りゅ――――」
突如として山の斜面に生じた閃光が、彼らを飲み込んだのはその直後であった。
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