第209話 道に倒れて誰かの名を~前編~


 強く吹きつける北からの風で、空が寒々しくく。

 その寂寥感ですべてを覆い、世界を白く染め上げようと舞う雪の中に、剣戟と怒号の響き渡る戦場があった。


 生と死の交錯する舞台を、山頂付近にある切り立った崖の上から悠然と見下ろしていたのは、巨躯を持った白い虎の獣人――――ラヴァナメルだ。

 身に纏うのは、身体の動きを阻害しないよう、胴体以外は手足の急所を覆い隠すのに重きを置いた鎧。

 背中には、自身の巨躯に匹敵するほどの漆黒に彩られた大剣を背負っている。


 そんな戦鬼と見紛うほどの覇気を放出するラヴァナメルは、丸太のように太い腕を組み、青灰色の目で静かに戦場を睥睨していた。


「フン、なんと他愛のない。所詮は口先ばかりの雑兵どもか……」


 忌々しげにラヴァナメルが吐き捨てたそれは、ほんの少し前にノルターヘルン王国の第二王子であるエドアルトが放ったセリフとほぼ同じものであった。


 しかしながら、現在獣人軍は、相対あいたいするノルターヘルン軍を徐々に圧倒しつつある。


 予想以上に上手くいったものだ、とラヴァナメルは口元に小さな笑みを浮かべた。


 敢えて、敵部隊の接近に気付いていないふりをして敵をすぐ近くまでおびき寄せ、油断を誘った時点で勝敗を分ける天秤は傾いていたのだ。

 そこから、さらに戦力を分断させて別働隊で釘付けにし、身動きが取れなくなった本隊に対して圧力プレッシャーをかけ、機動力を担う騎兵を引っ張り出したところに一斉に矢を放つ。

 二重の策で個々に分断されたノルターヘルン軍は、すでに組織だった反撃がとれなくなっていた。


 そして今、本陣の側面を突くべく雪中に潜んでいた隠密部隊が、本陣の防衛線を突き破らんとしている。

 もちろん、この程度の寡兵で本陣が落とせるとは、ラヴァナメルも毛頭考えてはいない。


 あくまでも狙いはだ。


 すでに山頂を目指して進んでいたノルターヘルン軍の別動隊は、伏撃を受け擦り潰されようとしていた。

 それさえ片付けば、いよいよ敵本陣の後方に向けて回り込みながら包囲網を構築することができる。

 そうなれば、もはや勝ちは決まったも同然であり、そこから“新たな歴史”が始まるのだ。


「ご満足な様子ね」


 すでに勝利を確信していたラヴァナメルの背後から声が投げかけられる。


「……何か言いたげだな、イリア」


 わずかに興を削がれながらも、静かに後ろを振り返ったラヴァナメルの目に、自身を睨みつける獣人の女の姿が映る。


 それは、この地の情勢を探るため、帝国クリスによって派遣されたイリアであった。

 とはいうものの、実際にはクリスから受けた依頼を果たすどころか、早々に事態の渦中へと飛び込んでしまったらしく、昔の知り合いの手の者に捕まった挙句、実家からも関与はしないと放置状態。

 挙句の果てに戦場にまで連れて来られ、半ば事態に思考が追いついていなかった。


 こうなった以上、事態を予想していなかったわけではないけれど、我ながらたった数日でずいぶんと波乱万丈な人生を歩んでいるものね――――と、イリアは心中で他人事風に小さく自嘲するしかなかった。


「言いたいことなら山ほどあるわ。まず、このまま戦争に勝ってどうするつもりなの? 数年後には『勇者』が現れ、おそらく『魔族』とも戦争になる。これは確定事項のハズよ。こんな風に人類同士で争い合っている場合じゃないわ」


? どうやら少しばかり勘違いをしているようだな」


 答えるラヴァナメルは、イリアの言葉を意に介した様子もない。

 逃げられない状況下では、こうして強がるしかないとでも思っているのだろう。


 事実、イリアは両手を後ろ手に麻縄で縛られており、二の腕も胸部を挟み込むように結ばれていて自由に動かすこともままならない。

 ついでに逃走を防止するためか、両足も歩くくらいしかできないように縛られている。

 アキレス腱を切られるのに比べれば遥かにマシだが、どうにも倒錯的な何かを感じずにはいられない。


 そして、縄は背後に無言で立つ狐耳を生やした女獣人の手元に繋がっていた。

 身動きがまるで取れないということはないが、全力で疾走をしての逃走を敢行するにはまず両腕を何とかせねばならず、いささか厳しい状況といえる。


 少なくとも今の戦況では、戦場の混乱に紛れて逃げおおせることができるとはイリアは到底思えなかった。

 だから、抵抗する素振りは見せていない。


 今のところはまだ――――。


「勘違い?」


 鸚鵡おうむ返しに問いかける。


「そうだ。我ら獣人たちが、この極寒の地にいったいどれほどの間押し込められてきたと思っている? この厳しい大地にあっては、我らの勢力は一向に増すこともできない。それにひきかえ、南にのさばるヒト族の脅威は増すばかりだ。そんな我らが、これより先生き残る術は南進しかあるまい。それくらいはお前にもわかっていよう」


 まっすぐにイリアを見据える白虎の瞳。

 イリアからの反応はなかったが、一度その身に秘めた感情の堰を切ったラヴァナメルはなおも言葉を続けていく。


「正直なところ、『魔族』との戦いなど、はっきり言って俺にはどうでもいいことだ。第一、それによって我々は何を得ることができる? むしろ、今まで何も得られていないことこそが“答え”なのではないか?」


「それは……。でも、だからといって『魔族』にこの大陸へと侵入を許せば、それこそ人類すべての生存圏が狭められることになりかねないわ」


 突きつけられた『事実』に、わずかに言い澱むイリア。

 彼女としても、ラヴァナメルの言葉に思い当たる部分があったのだろう。


 遥かな昔よりこの大陸へと侵攻を繰り返す『魔族』に対抗するため、人類は種族の垣根を越えて団結し戦ってきた歴史がある。


 しかし、それはあくまでも表向きの話。


 幾度かの戦いを経て実態を見れば、繁栄を享受できている種族は、ほぼヒト族一種に限られており、それ以外の種族となると、大陸の中央より外れた環境下――――お世辞にも恵まれたとは言いがたい地帯を住み処としているのが現状であった。


「南の世界を知ったお前はそのように思うかもしれん。だが、それはヒト族の価値観での話であり、その犠牲となる我らの存在が欠落している。このまま北の辺境に留まり続けていれば未来がないことに変わりはあるまい」


 イリアの縄が吹き付ける風以外の力で揺れる。

 振り返らずとも想像はついた。おそらく、背後で縄を持っている狐の獣人が力強く頷いたのだろう。


 なるほど、たしかに――――とイリアは考える。


 ドワーフは元より異種族から離れて山岳地帯に坑道を掘って暮らしているため例外扱いとなり、エルフたちの例を挙げても『大森林』という豊かな自然に囲まれた“聖域”に閉じこもって生活することで獣人のような過酷な環境下にはおかれなかった。

 だが、それですら閉ざされた環境で生まれたひずみにより内情は崩壊寸前の危機にまで陥っていた。

 直接見たわけではないものの、イリアはそれを知っている。


 そしてそれは、『勇者』の存在を嵩に聖堂教会を中心に、ヒト族が他種族を迫害してきたからに他ならない。


「ヒト族の世界で教会の狂信者たちの喧伝に毒されてきたのではないか? 考えてもみろ。もし本当に『魔族』がそれだけの力を持っているのなら、これほどまでに長い期間に渡って戦いが繰り広げられるような事態にはなっていないはずだ」


「そ、れは――――」


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