第207話 雪原、紅に染め上げて~前編~


 東へ東へと雲が流れていく空の下、純白の雪に包まれた大地を歩く数千の兵士たちの姿があった。

 彼らの歩みに合わせて、身を包む鎧や腰に吊るした剣などから金属の触れ合う音が鳴り響き、さながら交響曲の序章のようになっている。

 いずれそれが凄絶な戦場音楽を奏でるの前兆であるかのように。


 処女雪に足跡を刻みながら歩く兵士たちから漏れるのは白い吐息ばかりで、一同言葉を交わすことなく進んでいく。

 時折強く吹きつける風が、彼らの身体から容赦なく体温を奪っていこうとする。


「妙な空気だ……」


 ふと兵士の一人が、灰色に染まりつつある空を見上げながら漏らす。

 周りにいる中では最古参にあたる兵士だった。

 ひと目でわかるガッシリとした身体つきこそしているものの、皺の刻まれた顔を見れば壮年の域に達しており、往年の姿からすれば幾分か衰えているに違いない。

 だが、彼の持つ使い込まれた槍や鎧が、それを補うだけの風格を与えていた。


 だからだろう、その言葉につられるように、周囲の兵士たちの多くが辺りに視線をさまよわせる。


 いつしか辺りは雪が降り出しそうな空になっていた。

 つい数刻前まではしっかりと朝焼けが出ていたというのに、北方の大地の不安定な風向きは、より北の極寒の地から雪雲を頭上へと運んで来ていた。


「気配じゃなくてか?」


 すぐ近くにいた若い兵士が不思議そうに尋ねる。


「わからん。……が、こういう時は何か起きる」


「おいおい、天気が急に変わったからって、ちいっとばかし心配し過ぎなんじゃないのか? これからだろうが、手柄を上げて成り上がるための場所はよォ……」


 近くにいた長槍を担いだ巨漢の傭兵が、小馬鹿にしたような笑みを浮かべて言葉を挟んでくる。

 その表情から察するに、臆病風に吹かれたのかとでも言いたいのだろう。


 しかし、古参の兵士は、そちらをチラと見たものの言葉は返さなかった。

 それこそ長年の経験で、その強気な言葉が虚勢を張っているに過ぎないとわかっているからだ。

 同様に、彼の周りにいた兵士や傭兵たちも相手にする様子はない。

 むしろ、余計なひと言を挟みたがるヤツだと鼻白んでさえいた。


「戦いを前に威勢がいいのは結構だが、次は一発でやられないように気を付けるんだな」


 近くで別の傭兵から放たれた言葉に、待っていたかのような笑いが起こる。

 そう、皆知っているのだ。

 この巨漢の傭兵が、つい先日ティギリの街で同じ傭兵として集まった中にいた若い女に一瞬でノされたことを。


「……チッ!」


 最終的に自分が笑いものになってしまったことで、ちょっかいをかけた巨漢の傭兵は、小さく舌打ちをするとそのまま黙り込んでしまった。

 残されたのは、こんなことなら言わなきゃ良かったという後悔の顔。

 それがまた周りの兵士たちの失笑を買うのだが、さすがにこれ以上はと思ったらしく誰も冷やかしたりはしなかった。

 これも戦いの始まる前のよくある光景のひとつだった。


「……それは長年兵士をやってきた勘になるのかい?」


 どうしても気にせずにはいられなかったのか、近くにいたひとりの若い傭兵が古参兵に向けて尋ねる。

 問われた古参兵が見返すと、その傭兵はどうにも落ち着きがなく、しきりに手などを動かしていた。

 なるほどな、と思う。


 誰もが皆、顔には出さないようにしているが不安なのだ。

 これから繰り広げられる戦いは、前回のそれとは比較にならないほどの激戦になると理解しているがゆえに。


 ふと視界の中に、空から舞い降りた白い花びらが映る。

 とうとう戦場に雪が降り始めた。


 吉兆と凶兆、いったいどっちだろうな――――。


 内心をよぎった疑問を表情に出さないように務めながら、古参兵は口を開く。


「……いや、臆病者の勘だ。だから、こうしてこんなトシまでヒラの兵士なんかやっているんだがな。まぁ、こんな北の大地で雪に埋もれて死にたくはないからな。この勘が外れることを祈るだけさ」


 笑って言い放ったものの、誰も古参兵に言葉を返さない。

 彼の放った言葉は、この場にいるほぼすべての人間の心情の代弁だった。






~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





 行軍する集団の先頭近くでそのようなやり取りが繰り広げられている中、後方に位置する本隊ではまったく別のやり取りがなされていた。


「アガフォノフ侯爵、敵はまだ現れぬのか」


「はっ、殿下」


 馬上から発せられた神経質そうな声に対し、すぐ近くに控えていた壮年の男――――ルキヤン・ノル・アガフォノフ侯爵が、同じく馬に跨りながら背筋を伸ばして答える。


「出しておりました斥候によりますと、我が軍に恐れをなして逃げ出していた獣人どもはこの先の渓谷地帯に陣を張っているとのこと。予想よりも到達が早かったのでしょう。こちらに気が付いた様子はない模様です。すでに山頂から奇襲をかけるべく部隊を双方の山へ向かわせております」


 自信満々に答えるアガフォノフ侯爵。

 灰色の総髪と整えられた口髭が幾ばくかの精悍さを与えてこそいるが、身体つきだけで見れば戦場に似つかわしいとは言えず、その身分を主張する豪奢な鎧に身を纏っていてもどうにも頼りない印象を与えてしまう。


 もとより遠征に慣れていないのだろう。

 王族に随伴しているという意識を動員することで表情こそ保とうとしているが、その目元などには隠しきれない疲労が滲み出ていた。


「よろしい。それではここに本陣を敷く」


 その言葉に、アガフォノフ侯爵は内心で安堵の溜め息を漏らす。

 決して表には出さない。その程度の分別が彼にはあった。


「ふん、ヤツらも威勢がいいのは最初だけだったか。父上も甘いことをしていたものだ。これほど容易に事が進むのなら、さっさとあのような野蛮な連中は滅ぼしておくべきだったのだ。そうでなければ、忌々しい帝国のヤツらに先を越されることもなかったというのに」


 鼻を鳴らしながら、苛立たしげに吐き捨てる煌びやかな鎧姿の青年。

 その表情は、口元のみならず顔全体が歪んでいた。


 彼はエドアルト・クラスノヴァ・ノルターヘルン。ノルターヘルン王国第二王子にして、現国王の次男である。

 腹違いの弟――――三男であるアレクセイと同じ栗毛色の髪をしているが、それもどちらかというと金色に近い。おそらくは父親の遺伝子が強く出ているのだろう。

 人の良さそうなアレクセイとは違い、若干痩せ気味の容貌は線の細い鼻梁を描き酷薄な印象を与える。

 切れ長の鋭い双眸に宿る、緑色の瞳が北――――敵の本陣の方角を見据えていた。


 しかし、小さな山に挟まれた場所に陣を張るとはどいうつもりだ?


 エドアルトは疑問を覚えたが、周りに控える幕僚たちが何も言わないので、あくまで大規模な侵攻を防ぐためだと自らの中で結論付けた。

 侵攻するルートが狭ければ大軍を一度に投入できない。守りの姿勢に移っている証左だろう、と。


「殿下、この北伐が全ての始まりとなりましょう。いかに蛮族どもが理解しておらずとも、この地を征すれば話は異なります」


 何度似たような言葉を聞かされたか知れぬエドアルトは辟易しそうになるが、これも自分のため――――いや、更なる権力を得んとするアガフォノフ侯爵の野心を満足させるためには必要な儀式なのだろうと自らに言い聞かせ、臣下にひとしきり喋らせてやることにする。

 もちろん、ほとんど聞いてはいなかった。

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