第190話 いいえわたしは~前編~
俺とサダマサは突如として目の前に現れた魔物への警戒から、後方にいるティアを除く面々は無目的に放出される圧倒的な存在感からろくに動けないでいた。
だが、それならまだマシだ。
俺たちを追い越して前に進み出た男など、あまりの恐怖からか足が笑ってしまっている始末だ。
「ば、ばば、ばけもの……」
震える足をどうにか動かし、こちらへと後ずさりを始めている傭兵の口から呻き声が漏れる。
その言葉は、この場にいる大半の人間の心情を代弁していた。
胴体だけでも長さは五メートルには達するであろうか、巨体を装甲のように見える灰褐色の金属質の外殻と棘で覆っている。
地面を踏みしめる四対の足とは別に備わる触肢――――両前脚には、地球のヤシガニのそれを巨大化させたような禍々しい形状のハサミがついており、胴体が動くのに連動してギチリギチリと金属質の音を立てている。
挟んで圧し潰してよし、重量で叩き潰してよしの高性能殺傷武器なのは一目瞭然だ。
そして、すでにこちらを獲物と認識しているのだろう。
口元には、顎部が進化したと思われる小さなノコギリ状の刃がついた四本のハサミ――――鋏角がこちらへと伸ばされるようにして蠢いていた。
おそらく、あれで捕らえた獲物を解体しながら口に運ぶに違いない。
また、頭上――――頭胸部の位置よりも高く振り上げられている長さ四メートルに及ぶ長く太い尾部の先端には、地球に生息する蠍と同じく毒針のような器官が備わっている。
しかし、そこには大きな相違点があった。
それは、
「アレは
刀の鞘に手を伸ばしたサダマサが小声でつぶやく。
実に仰々しい名前だが、その生物に俺は聞き覚えがあった。
ヘル・スコーピオン。それは、本来火山の近くに生息するといわれる魔物だ。
幼生のうちは、周囲の鉱物を体内の魔力と強力な消化液で取り込みながら、外殻をゆっくりと成長させていく。
短いスパンで脱皮を繰り返しながら急速に成長し、成体になったところで、主に山岳地帯を縄張りに付近の生物や魔物を食らい更に幾度かの脱皮をしながら成長を続ける。
成体になると、個体によってはワイバーンさえも捕食すると言われているが、基本的に生息域を離れて行動することは稀なため、普通に生活をしていてまず見かけることはないと言われる魔物だ。
こんなヤツが森の中にいれば、そりゃ獣人たちとも遭遇しないわけだ。
もし俺たちが、運よくヘル・スコーピオンに出くわさず、ノルターヘルン軍の一部が森の中を突破して側面を狙うようなことになっていたら……。
そう低くはない確率で、獲物を待ち伏せていたコイツによって壊滅的な打撃を受けた可能性がある。
「まさか、コイツのせいで……?」
そこで俺はある可能性に気が付く。
周囲一帯に広がる森林地帯は、間違いなくこの不毛な大地での生物の一大生息圏となっていたはずだ。
当然ながら、そこには様々な生物に魔物、そして獣人たちも暮らしていたに違いなく、それが突如としてどこからか現れたヘル・スコーピオンにその生活圏を追われたらどうなるか……。
もしかすると、獣人たちが南進を決めるに至った原因のひとつは、ここに住み着いたコイツの存在ではないだろうか。
この戦争の遠因に向けて戦闘態勢をとろうとする俺たちなど意にも介さず、ヘル・スコーピオンは鋏角を展開して口を開き、喉の奥にあるらしき器官を震わせて俺たちへと威嚇の金切り声を出す。
もう腹ペコで我慢できないってか!
次の瞬間には、その重そうな体躯からは想像もできない俊敏な動きでこちらに向けて前進を始める。
とは言っても、常人の走るスピードよりやや早いくらい。
だが、本当に恐ろしいのは、先ほどの威嚇とは別に体を動かしているのにほとんど外角の擦れ合う音がしないことだ。
巨体と重装甲を持ちながら、待ち伏せや奇襲が得意とされるのはこれゆえか。
「どうも逃がしてくれそうにはないな。このまま本隊のところまで連れて行くわけにもいかない。迎撃するぞ!」
こちらが警戒を強め、そのまま各自攻撃に移ろうとしたところで、突然ヘル・スコーピオンは動きを止めその巨体を小さく震わせる。
そこで俺の背筋に走る特大の悪寒と、同時に甦る記憶。
そうだ、コイツが『
傭兵たちの一部が未知の生物への恐怖に突き動かされるように、持っていた弓から矢を射かけるが、俺にそんな余裕はなかった。
「防御だ! 障壁を張れ! 防具じゃ無理だ!」
俺が鋭く叫ぶのと同時に、触肢を地面に軽く突き刺して屈み込むような姿勢になったヘル・スコーピオン。
次の瞬間、その全身に生えていた無数の棘が、こちらに向けて放射状に射出された。
すぐさま俺は魔法障壁を展開し、飛来する棘を防御。
表面に棘が次々に突き刺さり、火花を散らして魔力が削り取られていく。
拳銃弾に匹敵する威力だし、魔力まで散らしているぞ、これ!
「い、痛、いたギィィィィィッ!?」
不意打ちを回避したと安堵する間もなく、後方から上がる絶叫じみた悲鳴が俺の耳に飛び込んでくる。
障壁を展開したままで後方を見れば、ティアの強力な魔法障壁によりベアトリクスたちは無事だった。
だが、その一方で地面に倒れた傭兵たちがのたうち回る姿が目に飛び込んでくる。
傭兵たちの身体には無数の棘が突き刺さり、血を撒き散らしていた。
……ひどいものだ。
盾を持っていなかった連中――――特に至近距離にいた男に至っては、全身に指の太さほどの穴を無数に穿たれ即死している。
いや、結果からすればむしろその方が良かったのかもしれない。
生き残っていた傭兵たちは、今もなお死ぬことのできない状態で凄まじい激痛を与えられ、長い長い悲鳴を上げていた。
障壁の代わりに掲げた金属の盾を貫通して中途半端な威力となった棘が、即座に致命傷には至らぬ深さで身体へと突き刺さったためだ。
だが、あの出血ではすぐに手当てをしても助かるかは怪しい。
「エゲツねぇ……」
たったの一撃で俺たち以外の約七割が死亡、または戦闘不能に陥ってしまった。
とはいえ、俺がとっさに警告できたのは、転生して間もない――――といっても三歳くらいだが――――頃に実家の書庫で読んだ本に書いてあったからだ。
そう、この魔力で外殻の形状を変形させて射出することで、ヘル・スコーピオンは自分よりも格段に素早い獲物であろうとも狩ることができる。
大型種にいたっては、空を飛ぶワイバーンの羽の皮膜を穴だらけにすることで地面に墜落させ、そこに襲いかかって捕食するとも言われていることから、ワイバーンイーターの名で呼ばれているのだ。
いかにこの魔物が危険な存在かがわかる。
「よ、よくも、部下たちをぉぉぉっ!」
怒りの言葉を叫びながら飛び出したのは二つの影。
盾と周囲の木の二重の防御でヘッジホッグを咄嗟にやり過ごした傭兵団のリーダー二人が、槍と長剣を携えヘル・スコーピオン目がけて疾走を開始していた。
「バカ野郎! その武器じゃ無理だ!」
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