第171話 雪上の銀閃~後編~
「ルォ…………?」
追撃が来るかと思ったそのタイミングで、突如としてスローターウルフは動きを止めた。
まず最初に動いたのはその耳。目の前に仕留めるべき獲物がいるにもかかわらず、スローターウルフは視線を周囲に彷徨わせ始める。獣の瞳には、不安にも似た感情が宿っていた。
まるで、何かを探しているかのようだ。不安を取り除こうとするかのように。
「……なんだ?」
ショウジが視線を動かそうとしたのとほぼ同じタイミングで、遥か後方から浴びせかけられるように放たれた極大の殺気。
まともに喰らったショウジは一瞬呼吸ができなくなる。
「ゴァッ!?」
ビリビリと空気が震える錯覚すら覚えるそれを受けて、スローターウルフは生存本能によるものか後方に飛びのこうと虚空に身を躍らせる。
その瞬間、その両足の甲に上空から降り注いだアンカーが突き刺さった。
どれほどの超高速で放たれたのか、アンカーは勢いをそのままにスローターウルフを地面に縫い付ける。
「ゴギャァァァァァァッ!!」
遅れてやってきたのであろう激痛に、再び上がるスローターウルフの聞くに堪えない悲鳴。
必死で抜こうともがくが、凄まじい威力で地中深くまで撃ち込まれたアンカーには“返し”が付いているのか、一向に抜ける気配は見られない。
「手を出すのはどうかと思ったが……」
落ち着きを払った声とともに、ふわりとショウジとスローターウルフの間にある地面へと降り立つ臙脂色の着物を纏った男。腰には一振りの刀を佩いている。
「コイツを取り逃がさずに仕留めるにはまだ少し荷が重かったようだな」
「サダマサ……さん……」
殺気を当てるのに間を置かず、スローターウルフへと拷問じみた一撃を繰り出したのは、ショウジとともにこの森へと来ていた剣鬼サダマサであった。
「それとも邪魔をしたか?」
「……いえ、あのまま逃げられでもしていたら、俺では追撃はできないでしょうから」
素直に応じるショウジだが、その声色に少なからぬ悔しさが滲み出ていたことにサダマサは気付いていた。
「そうか。では選手交代だ。見て覚えるのも修行の内だぞ」
軽く言い放つと、サダマサは静かに腰の刀の柄へと手を伸ばす。
握り込んだ右手の動きに合わせるように、鞘走りの音を立ててゆっくりと鞘から姿を覗かせる緩やかに反った典雅な刃。
白銀の刀身が、ほんのわずかな木々の隙間から差し込んだ陽光を受け、冷たく波打つ刃紋を妖しく煌めかせる。
「ゴ……ゴガァァァァァァァッ!!」
眼前に現れた異形の
「ほぅ……。まだ抗う気概を見せるのか」
感嘆の吐息を漏らし、まるでスローターウルフを待ち構えるかのように、サダマサは雪を踏みしめる足の動きを止める。
歩みを止めた侍と、その身体に自身の爪牙を届かさんとする魔物。
なぜか時が止まったような錯覚をショウジは覚えた。
しかし、その時間も長くは続かない。
肉の裂ける生々しい音を立てて、スローターウルフが虚空に躍り出た。
あろうことか、自分の足の甲に突き刺さったアンカーの拘束を、引き抜くのではなくその根元を自身の肉体内部を通過させる方法で解き放ったのだ。
「――――来い」
「ガルァァァッ!!」
サダマサの言葉に呼応するように、傷口から噴き出す血飛沫など意に介さず、スローターウルフは全身の筋肉をたわめると弓から放たれる矢の如く跳躍。一直線にサダマサ目がけて襲い掛かる。
真正面からの攻撃だが、筋力のリミッターを解除したかのような全力の突進。
果たして、今の自分にアレを躱すことができるだろうかと、戦いの行方を見守るショウジは脳内でシミュレーションを行う。
全力で躱しにいって一撃目は凌げるかもしれない。
しかし、追撃を受けた場合はどうだろうか? カウンターで左手の爪を無力化できなければ、遠からず自分が殺られる。
未だこのレベルの敵を相手にするには力不足なのかと考える暇もなく、降り積もった雪を溶かすかのように、右斜め前方へと砂地に染み渡る水を思わせる動きで一歩進み出たサダマサの刀が静かに振るわれる。
流れるような一閃。
神速で放たれたわけでもないそれが、スローターウルフの残された左の爪を腕ごと斬り飛ばした。
――――あの動きで!?
ショウジの顔が驚愕を浮かべる。
そして、それはスローターウルフも同様であった。
魔力を吸収することで、強固な防御すら突破するはずの『神剣』。それをもってしても深手を与えられなかったスローターウルフの体毛を、サダマサの刃はただの一撃で難なく切断してのけた。
腕が斬り飛ばされたことよりも、敵であるサダマサの動きからなぜこのような結果に繋がったのかまったく理解できていないのだ。
だが、スローターウルフにそれを理解する機会が訪れることはなかった。
斬り飛ばされた左腕が地面に落ちるよりも早く、翻ったサダマサの刃が袈裟懸けに落とされ、すれ違う直前のスローターウルフを左肩口から斜めに両断していた。
肺を横断する形で切断されれば、喉が無事でも声は出せない。
ずるりと切断面から滑り落ちた上半身が、誰にも踏み荒らされていなかった処女雪の大地を赤く染め上げる。
一瞬にして切断されたスローターウルフの上半身は、少しの間痙攣を繰り返していたが、やがて動かなくなった。
「この個体が一番いい動きをしていたな」
事切れるまで見届けたところで、サダマサは誰にでもなく呟きつつ血払いをした刀を鞘に納め、それからゆっくりとショウジの方を振り向く。
つい今しがた、命のやり取りを終えたばかりのサダマサの目に、感情の揺らぎのようなものは感じられなかった。
「帰るぞ。身体が冷えた」
そう何事もなかったかのように放たれたサダマサの言葉に、ショウジは別の意味で身体を冷やすことになった。
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