第170話 雪上の銀閃~前編~


 降り積もった雪に覆われた針葉樹の林。


 外の雪原を吹き荒ぶ北方からの風さえも入り込まぬその場所は、深い静寂に包まれていた。

 無音ゆえの騒々しさとでもいうべきだろうか。

 静寂が、そこにいる者の耳に、痛みにも似た感覚となって押し寄せていた。


「ルォォオオオオオオオッ!!」


 そんな静寂を切り裂く肉食獣の咆吼が、新たな音として青年の鼓膜に叩きつけられた。

 同時に迫る灰色の颶風ぐふう


 ギリギリのところで低めの軌道で跳躍して躱すと、それはそのまま背後の木を蹂躙した。

 木こりが切り倒すのも容易ではなさそうな太い幹は、秘められた破壊力により深くまでを抉られ、禍々しいまでの傷跡を刻み込まれ、今にも倒れそうな姿へと変えられる。


 その破壊の痕跡を見て、青年――――ショウジは思わず泣きそうになる。

 こんなものを食らえば、自分の身体はたちどころにズタズタの挽肉にされてしまうだろう。


 命の危険を感じる度に、なぜ21世紀の平和な日本で生きていたはずの自分が、こんな目に遭っているのかという気持ちが湧いてくる。

 視界が一瞬ボヤけかけたのは、おそらく身も凍るような寒さのせいだと深くハマりそうになる思考を強引に打ち消す。


 だが、そんなことを思ったり口に出したところで相手は手加減などしてはくれない。

 なにしろ言葉さえ交わせないのだから。


 目の前で自分を睨みつけている存在は、凄まじい――――それこそ異常なまでに発達した上半身の筋肉を灰色の毛皮で覆い、頭部にはほぼ狼のままの顔がついている。

 人狼ワーウルフかと思いきや、人狼はこの世界では一応知性を持った獣人に含まれるため扱いが違うし、彼ら単身ではここまでの破壊はやってのけられない。

 それに、この人型狼は半二足歩行といった前傾姿勢でありながら、その体長は3m近くもある。

 明らかに異常な生物だ。


 ショウジは知らないが、この化物狼は惨殺狼スローターウルフと呼ばれる魔物だ。

 魔素の影響を強く受けた高位の魔物とされ、魔素の濃い山奥深くに生息するとされているが、その目撃例はほとんどないことでも知られている。

 それは、元々の生息数が少ないこと、また並の冒険者などでは遭遇したとしても生きて帰っては来られないからだ。


 両手――――厳密には前脚なのだろうが、そこには刃物を思わせる鋭く長い爪が生え揃っており、これが筋力と相まって獲物に一撃で致命傷を与えるのだろう。

 ショウジへ向けて唸り声を上げて威嚇を続ける狼の顔は牙を剥き出しにしているが、そこが動物としての狼と大して変わらないのは、爪で一切合切の決着をつけるから進化させる必要がないのかもしれない。


 それに、とショウジは内心で嘆息する。

 そんなものはなくとも、あの牙だけで容易に自分の喉笛を噛み砕けるはずだ。


「こんなヤツが領内に生息していたなんて……」


 絶えず動き回ることを強いられていることと戦闘での緊張により、ショウジの背を冷や汗が伝う。

 衣服の中の温度は体温に近くなっていたが、生じた汗がにわかに上昇しつつあった体温を容赦なく奪っていこうとする。


 腕のたったひと振りだけで大量の死者を生み出せる化物を、みすみす放置するわけにはいかない。

 まだ出来て日の浅いザイドリッツ男爵領は、流通こそが発展の要となっている。何かの間違いで隊商が襲われては大惨事となりかねないのだ。


 それに――――とショウジの脳裏をひとつの顔がよぎる。

 狙われることになるかもしれない隊商。彼らとともに情報収集に出かけることもある獣人の少女が巻き込まれでもしたら――――。

 既に抜き払った『神剣』の柄を握るショウジの手へ、知らずのうちに力が入る。


「ゴァァアアッ!!」


 獲物が一筋縄ではいかないことを察した様子のスローターウルフだが、彼が選択したのは攻撃の手数を重ねることだった。

 隙を窺うのではなく、一気に畳み掛ける――――それは捕食者としての絶対的なプライドと、狩りではなく戦闘経験の不足によるものだったのかもしれない。


 そこが彼我の運命を決定づけた。


 連撃。

 左右の攻撃のタイミングをズラし、相手の動揺を誘いつつ、ニ撃目以降で仕留めるつもりなのだ。

 右手側からの一撃目をショウジはギリギリまで引き付けつつ躱す。ジャブのような牽制とわかっていればこそ、ペース配分もできる。


 とはいえ、ジャブといえど喰らってしまえば、一撃で戦闘能力の大半を奪われかねない。

 それよりも、常に周囲にある木々を意識しておかねば、回避した先で詰んでしまう。


 首筋がチリチリする……!


 綱渡りをするかのような緊張感の下でショウジは一撃目の爪を避けるが、そこへ狙いすましたように襲い掛かるスローターウルフの二撃目の爪。

 勝利を確信したかのような全力の振り抜き。狼の顔が愉悦に歪んだように見えた。

 格闘技の知見などないのだろうに、足を踏み込んだ上でのそれはおそらく彼の人生で最高クラスの威力を発揮した。


「ルグァッ!?」


 だが、その必殺の一撃はショウジではなく、その軌道の手前にあった既に倒れる寸前までダメージを負っていた針葉樹の幹に再び醜い傷痕を刻み付けた。


 かかった……!!


 しきりに周囲を気にしていたショウジだが、真の狙いはそこへ敵の一撃を誘導することだったのだ。

 本来であれば、さしたる障害とはなり得なかったであろうことから、スローターウルフの脳内にその情報は残されていなかった。


 しかし、度重なった破壊により、ついに自重を支えることができなくなった針葉樹が、ミシミシという音とともに倒壊を始める。

 わずかではあるが、降って湧いた出来事にスローターウルフはそちらに気を取られた。

 ほんの一瞬の隙。


 そして、それは最大の危機となって襲い掛かる。


 横薙ぎの一撃は、危機を察知して後方へと跳躍するスローターウルフの脇腹を捉えた。

 しかし、『神剣』を通してショウジの手に伝わってきた感触は、肉を切り裂く時のそれではなかった。


「っ!?」


 よく見れば、体毛に勢いを減衰させられ表面を軽く切り裂くだけに終わっている。これではかすり傷のようなものだ。

 思わず舌打ちをしそうになるが、品がないとショウジは踏み留まる。


 同時に、ゆっくりと倒れた針葉樹の幹が地面に接触。雪のクッションに受け止められながらも、衝撃で枝や葉に纏った雪を空気中へ撒き散らす。


 普段であれば、ここで一旦間合いを稼ぐべく撤退へと移っていたことだろう。


 しかし、ショウジは一歩を踏み込んだ。


 ショウジの一撃が不発に終わったことで、反撃に出ようとして右腕を振り上げていたスローターウルフを動きを察知した上で――――。


 たしかに、全身を覆う体毛はどのような組織でできているのか、刃物をロクに受け付けない驚異的な防御力を持っている。

 しかし、それも毛にほとんど覆われていない部分では話は別だ。

 なまじ人間に近付くかのように発達しているだけに、指のようによく動く箇所は爪による攻撃の幅を広げるが、それと同時に極めて脆弱な部位ともなる。


 ここだ……!


 下段から跳ね上がった鋭い剣閃が、舞い上がった粉雪中を疾り、今まさに振り下ろされんとするスローターウルフの右手の爪を切断した。


「ゴァァァァァァァッ!?」


 切断面から噴き出る鮮血とともに、スローターウルフの喉からも絶叫が放たれる。

 おそらく、このスローターウルフは今までに負傷らしき負傷などしてこなかったのだろう。

 間近で放たれた叫びが不可視の暴力となって、ショウジの鼓膜を許容量いっぱいまで振動させる。

 同時に、言いようのない不快感を覚え、ショウジは顔をしかめた。


 だが、のんびりもしていられない。これは絶好の好機でもある。


 すぐさま追撃を放とうとするが、さすがにそれを許すほど相手も甘くはなかった。 


 爪の届かぬ間合いまで侵入していても尚、スローターウルフの丸太のような腕は恐るべき破壊力を秘めている。

 外側へと振り払うようにして繰り出された左腕のフルスイングを、ショウジは正面から受けることとなった。


「ぐっ……!」


 辛うじて『神剣』の刀身で受け止めたものの、あまりの膂力に押し負け、後方へと投げ飛ばされてしまう。

 なんとか空中でわずかながらも体勢を立て直し、背中から倒れ込むことを防ぐ。

 直撃ではなかったはずなのに、全身のいたるところが悲鳴を上げていた。特に両腕は痺れてしまい、しばらく全力で剣を振るうことが困難とわかる。


 それでも、ショウジは幸運だった。

 彼我の距離が近過ぎたがゆえに、スローターウルフが振り抜いた腕にかかっていた力は全力の半分にも満たなかったからだ。


 だが、それもこの状況下では致命的と言える。


 やっとのことで一撃入れたと思ったら、途端に窮地に立たされている。

 これはヤバいな……と、痺れたままの腕で『神剣』を構えるショウジの頬を汗が伝っていく。

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