第165話 Eden on Fire ~ただの口づけだけじゃ~後編~



 目を覚まして真っ先に飛び込んできたのは、何者かの気配と闇の中に輝く金色の瞳であった。

 思わず悲鳴を上げそうになったが、すぐにそれが見知ったものだと気付いて、すんでのところで飲み込み事なきを得る。


「……ティアか?」


 暗闇に視界が慣れていくと、俺が横たわるベッドの上に登って近くから覗き込んでいるティアの姿が目に映し出された。


 まるで事態が呑み込めない。

 傍から見たらまるで押し倒されているみたいである。


 ……いや、この場合は夜這いか?


「な、なにやらよくわからぬ気配を感じてのぅ。気になって見に来たのじゃ。もうその気配は感じられなくなってしもうたがのぅ」


 とは言いながら、俺の寝顔を間近で見ていたのか、上半身を起こそうとした俺から話しかけられたことで少し距離をおこうとするティア。

 暗くて浮かべている表情はほとんどわからないが、声からすると微妙に狼狽しているようだ。

 なんというか、随分とわかりやすいリアクションである。


「それにしては随分と近いところまできていたようだけど」


「べ、べつにクリスの寝顔を見ていたわけではないのじゃよ!?」


 そこまでは言ってないのだけれど。

 まぁ、自分から申告したということはそうなのだろう。

 そんなティアの反応に思わず俺は苦笑を浮かべてしまいそうになる。


「なんだ、とうとう夜這いでもしかけに来たのかと思ったぜ」


 俺のからかいの響きを込めた言葉に、いつもなら言い返してくるであろうティアは、黙ったまま少しだけ考えるような素振りを見せた。

 それから数秒の後、ゆっくりとこちらに視線を向けると、わずかにその目を細める。


「のぅ、クリス……」


「なんだ?」


 言葉と共にふわりと肩に手が置かれ、その直後に柔らかな感触が唇へ生まれる。


 ちょうどその瞬間、月が雲間から顔を覗かせた。


 一瞬何が起きたかわからなかったが、それがティアの唇によるものだと気付く。

 唇と唇が触れる際の感触と、互いの体温が容易に感じ取れる距離により、香を炊いていたのかティアの身を包む馥郁とした香りが俺の鼻腔をくすぐる。

 キスをする時に、目を瞑らないようにするのが難しいということを思い出すヒマもなかった。

 気が付いた時には、ティアの顏はすぐそこにあり、俺が固まっている間に唇同士が触れ合っていた。

 時間にすれば5秒にも満たないだろう。

 しかし、突然の出来事に混乱している俺には、その時間はひどく長いものに感じられた。


「唇、しかと頂戴したのじゃ」


 月明かりにより、ふふふと笑いながらもほのかに頬を染めているティアの姿が照らし出された。

 少しだけ濡れた瞳が扇情的ですらある。


「……いきなり驚かせるような真似をするんじゃねぇよ。心臓に悪い」


 声が上ずらないよう俺は務めて平静を装っていたが、内心では心臓がバクバクいっている。

 ティアが俺の方に置いた手を放して距離をとってくれたからよかったものの、間近にいたままでは心臓の激しい鼓動が伝わってしまったかもしれない。


「もうすぐベアトリクスとの婚姻じゃろう。無事に初夜を迎えるために、男側にも準備が必要になるとヘルムントに聞いたのじゃ。まぁ、そういうコトを教えてくれる相手じゃな」


 よりにもよってティアを焚きつけやがったのか、あの親父ぃぃぃ!!


「いやいや、俺は前世でちゃんと経験してるから――――」


「前世から数えて、かれこれ15年近くご無沙汰なくせによくもまぁ言ったものじゃな。それに、ここ最近は朝方になると魔力の流れが――――」


「ティア! オメェ、それを言ったら戦争だろうが!!」


 人の生理的な問題に言及するなんて卑怯だぞ!


「……まぁ、『転生者』ということが公にできない以上、“その手の経験”はないものとなっておるしのぅ。こんなことなら、もう少し早いうちに済ませておくべきだったかもしれぬが、今のクリスの身分では花街に繰り出すこともマズいらしいから、優しい優しい妾がひと肌脱ごうと思ったわけじゃ」


 言いながら物理的に脱ごうとしているんじゃねぇよ。あーもう、着物を肩口からはだけようとするな! 目のやり場に困る! ってか、吸い寄せられる悲しい男のサガ!

 もうね、完全に『やらしいやらしい妾』になってますよ、ティアさん!


「それにのぅ、新しいおなごにちょっかいを出して拾ってくるくせに、今いる妾たちにはなにもしようとはせぬ。さすがに、これはどうかと思うのじゃよ、クリス」


 ……返す言葉もございません。


「なぁ、ティア……」


 せめて何らかの返答はしなくてはと俺も心を決める。


 いや、それよりもここは――――。


「なんじ――――」


 なので、今度は俺から唇を塞いだ。


 予想外ともいえる俺の行為に、ティアの金色の瞳が驚きに大きく見開かれる。

 そして、再び口唇に生じた柔らかな感触が、俺の理性を溶かしていきそうになる。


「……な、驚くだろう? 次からは不意討ちなんてするなよ。ほら、もう寝るぞ」


 そう言って、俺は少しだけ気恥ずかしさからティアとの距離をおく。

 ティアの顔が真っ赤になっているのが見えたような気もするが、俺は俺で似たようなものだろう。

 それに、このまま近くにいては理性なんて容易く吹き飛んでしまう。


 とりあえず、今日は一緒に寝るくらいでなんとかお茶を濁したいところだ。さすがに、このままの勢いでというのは状況に流されているようで気が引ける。


「無理じゃ……」


「えっ?」


「無理なのじゃ!こんなことをされてはもう我慢できぬ!」


 うがーと叫ぶティア。


 もっと早く気が付くべきだった。

 薄闇の中で、窓の外から差し込む月光を反射していたティアの目に、それとは違う妖しい輝きが生まれていることに。


 ヤバいと思った時には既に遅く、俺は再びベッドへと押し倒されていた。

 吐息さえも触れ合いそうな距離。ティアのかすかに潤んだ瞳が俺の目を奪う。

 下手にキスをするよりもよっぽど心臓に悪い。


 一瞬、魅了チャームの魔法にでもかけられているかと思ったがそうじゃない。

 単純に、俺が目の前にいるとびきりのいい女にやられちまっているだけだ。


「おい、ティア……」


「案ずるでない。こんな夜更けに誰も来はせぬよ」


 なんとか時間を稼ごうと思考を巡らせるも、その目論見はティアに看破されていたらしい。現実は非情である。


 残念ながら、ティアの言う通り付近に人の気配はなかったし、時間も時間でみんなとっくに寝静まっている。

 サダマサあたりなら気配に気が付きそうなものだが、アイツはむしろ気付いても面白がって放置するだろう。そういうヤツだ。

 また、こういうギリギリのタイミングで、他の女性キャラがいきなり部屋に入って来て主人公がボコられるという、いわゆるラブコメ的お約束にてこの貞操の危機を回避できる可能性も限りなくゼロに近い。


 思えば、今までも一番俺への距離が物理的に近いのがティアだったが、特になんの予防線も張ってはいなかった。

 これは一線を越えてくる様子がないからと油断し過ぎていたともいえる。

 おそらく、ベアトリクスとの婚姻を控えたところに、後から現れたミーナの嫁入りまでも決まったことで、何かしらの行動を起こそうと決意したのだろう。

 焦ったともいうのかもしれないが。


 尚、これだけ冷静に分析している中にもかかわらず、身体はものの見事に反応しているのだった。

 くそ、自分の若さが恨めしい!


「ほぅ、身体は正直じゃな……」


「やめろ、言うなよ恥ずかしい。生理的な反応なんだぞ……」


 恥ずかしさを隠しつつ溜息交じりに返すが、ようやくここで俺はティアの行動の背景を理解しつつあった。


 エロ漫画に登場する親父キャラのようなセリフを繰り返すティアだが、おそらく本人も勇気を振り絞ってこの一歩を踏み出しているのだろう。

 そうでなければ、とっくの昔に一線は越えていたはずだ。


 もちろん、出逢った頃から好意を向けられていることに俺は気が付いていた。

 同時に、その感情がティアが普段から振る舞っている態度そのままのものではないことも理解している。


 この世界に生まれ長い星霜を経てきた《神魔竜》でありながら、外の世界に出て人間と交わったのは初めてのことだ。

 単純に、強い雄と“つがい”になればいいというストレートな好意では回らないというのも理解している中で、どのように俺への好意を表現していいかわからずにいたのだろう。


 よくよく見れば、金色の瞳には恐れの成分も含まれていた。


 もしも拒絶されたら――――そんな怯えにも似た感情だ。


 対人関係における好意というものの多くは、言ってしまえば一方通行的なものである。

 自分が相手に向けているからといって、相手が自分にも向けてくれるとは限らない。


 だが、それで「はい、そうですか」と納得できるものではない。

 身の焦がれるような感情だからこそ、その一方通行の道でさえ突き進もうとするのだ。

 そして、それが今のティアの心の中でもあった。


 ……であれば、その気持ちを俺は受け止めてあげなくてはいけない。


「……まったく、すっかりその気にさせちまいやがって。とんでもない女だ。悪いけど、俺だってもう止められねぇぞ」


 真っすぐ、ティアの瞳を正面から受け止めつつ、俺は小さくつぶやくように言う。


「構わぬ。今は止まらずにいてほしいのじゃ。せめて、せめて今宵だけでも――――」


 それを受けたティアもまた俺の耳元へと顔を動かすと囁くように告げ、俺の脳髄と理性をゆっくりと溶かしていく。


 そうして、更けていく夜の中で、俺たちは月明かりをかすかに受けながら睦言を交わし、それと同様に枕をも交わすこととなる。


 それは暗闇の中で相手の存在を探る手探りのような行為にも似ていたが、同時に己の手で触れた存在を離すまいとする荒々しさも存在していた。


 いつしかふたりは互いの名前を呼び合っていた。

 ひっそりと、ただこの瞬間を互いの身体と、そして魂へと刻み付けるように。


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