第147話 Howling of Sword~前編~


 わずかな明かりだけが設えられた暗がりの中、墳墓から外の世界へと続くハイエルフの隠し通路を男は進んでいく。

 しかし、その足取りは逃げ出そうとする者のそれではない。


 そもそもにおいて、彼が逃げ出さねばならないような者など、少なくともこの場所には存在しない。

 なにしろ、男――――ラディスラフは、この世界ではトップクラスに強靭な『魔族』の一員なのだから。


「始まったか……」


 ふと何かを感じ取り、立ち止まって小さく呟くラディスラフ。

 通路の反対側――――広間方面から聞こえてきた音が、いよいよ墳墓の中で戦闘が始まったことを伝えてくる。

 それを長く尖った耳朶に捉えながら、ラディスラフはささやかではあるが満足げな笑みを唇の端に浮かべる。


 そうして歩を進めるままに行き止まりに偽装された出口の封印を解いて開けると、陽の光と共に洞窟の中とは違った涼やかな空気が入り込んでくる。


 一瞬の眩しさに、右手を目の前に掲げて無遠慮な光を遮るが、やがて現れた木々の鮮やかな緑が、しばらくぶりの目には陽光よりもずっと眩しく映った。

 視界の大半を埋め尽くさんばかりの美しさに、思わずラディスラフは掲げたままの右手を伸ばしそうになるが、ふと我に返り動き始めた腕を止める。


 焦ることはない。

 いずれ、この豊かな大地も森も海も全てが魔族のものとなるのだ。

 そう考えれば、異種族どもの中に紛れて過ごしてきた数年も些細なものに思えてくる。


 魔族の尖兵として、数年前から人類圏に潜伏していたラディスラフだが、当初の目的は達成したようなものであった。

 彼の受けた密命は、比較的姿形の近いエルフの国に潜入し、最大勢力であるヒト族の脅威を緩やかに煽りながら、『大森林』にとっての柔らかい脇腹となる部分を探し出して突こうというものである。


 もちろん、敵地で表立って動くわけにもいかない。

 魔族の関与が知られるようなことになれば、すべてが水泡に帰す。

 そのため、最低でも『自尊心だけは一人前』とも皮肉交じりに評されるエルフたちの民心を焚き付け、潜在的な部分を超えた反ヒト族の流れを作り出せれば儲けものくらいに思っていた。


 ところが、思わぬところに火種は燻っているものである。

 王族ハイエルフの中に、祖国である『大森林』そのものへの憎悪を抱いている者が存在したのだ。

 これを利用しない手はなかった。


 いざとなれば、ヒト族の仕業に見せかけて消しても良いだろうと考えながら接触をしたものの、返ってきたのは予想に反して協力的な反応であった。


内患バカどもをそのままにしておくのも度し難いが、迷ったままで中途半端な行動を起こすのもまた度し難い。そうは思わないか?」


 今度は呟くようにではなく、はっきりと第三者にも聞こえるように声を放つラディスラフ。

 彼の『魔力探知』は、既にふたつの反応を捉えていた。


「……ティアとは別で、やたら濃い魔素の気配があるから何かと思えば、やはり魔族だったか」


 当人らにしてみれば、もとより隠れているつもりもなかったのだろう。ラディスラフにとっての闖入者が声をかけられてから示した反応は早かった。


「ヒト族……だと?」


 現れた人間の姿を見て、ラディスラフはわずかに驚きの表情を浮かべる。

 そこにいたのは、紛れもなくヒト族であったからだ。


 この状況下で自分の魔力を察知して現れる可能性があるとすれば、それはエルフの魔法士くらいしか存在しないと思っていた。


 しかしながら、このヒト族、背後にダークエルフの女を従えているではないか。


 もしかすると、この女が自分の気配を察知したのか。

 妙にふらふらと目を回したかのような挙動をしているが、案外魔法に関する能力は高いのかもしれない。


 だが、そうであれば、目の前の男も所詮は魔法すら満足に扱えぬヒト族。

 事実、身体から発せられる魔力の反応もダークエルフの女には遠く及ばない。

 ラディスラフは恐れるに足りないと判断を下した。


「意外だったか? こちらとしてはあまり意外でもなかったが」


 人類大陸の東端に住むヒト族の衣裳にも似た格好をした剣士は、ダークエルフの女に下がっているように告げてからラディスラフの方を向くと、さもつまらなそうに言い放つ。

 その風貌は一見して気だるげにも感じられるが、それに反するように黒い瞳の奥には鋭い鬼気が既に宿っていた。


 このヒト族、まさか自分と戦う気か?


「……私に何の用だ」


 無謀とも思える意志に侮蔑の視線を向けつつも、知らずのうちにラディスラフは剣士――――サダマサの腰に佩いた剣へと目がいってしまう。

 ヒト族の武器にありがちな虚飾ともいえる装飾をほぼ排した、細身の緩い曲線を描く見るからに脆弱そうな剣だが、不思議と強い存在感を発しており、それが妙にラディスラフの気にかかった。


「まさか友達になりに来たとでも思ったか? 今回の一件を起こしてくれた人間に用があるとすればそれはひとつだ」


 挑むように放たれたサダマサの言葉と共に、場の空気ががらりと剣呑なものへ変わり、途端に空気が肌に刺すような感覚を与えてくる。


「それでこうして待ち構えていたわけか。よもや意趣返しのつもりか?」


「いいや、に巻き込んでくれた礼に来ただけだ。……だが、魔族ともあろう者がこそこそと動き回るとは、いつの間にか落ちぶれたものだな」


「……ヒト族の分際で面白い冗談を言うものだ」


 まるで自分の目で見てきたようなサダマサの言葉を受けて、ラディスラフの目がすっと細まる。


 はっきり言って、激昂しなかったのがラディスラフ自身不思議なくらいであった。

『大森林』へと潜伏している間に、自分が変わってしまったのだろうか、とラディスラフは思う。

 以前であれば考えられないことであった。

 魔族の自分が、人類の中でも特に脆弱な種族であるヒト族に、このような発言を許すことになろうとは。


「これが冗談? ギャグのセンスはなさそうだな、お前」


 挑発のつもりだろうか。

 だとしても、ここまで言えるのは相当の命知らずだ。これも人類圏から魔族の脅威が消えて久しいゆえであろうか。


 ……やはり、一刻も早くこの大陸への侵攻を実行に移さねばならない。戻り次第主君に対しても進言しなくては。

 ラディスラフは密かに決意を固めていた。


 ……もっとも、その前にこの不遜なヒト族を血祭りに上げる必要がある。


「面白い。一応、名を聞いておこう」


「先に名乗れと言いたいところだが名乗ってやるか。サダマサ。サダマサ・クキだ」


「そうか……。ならば光栄に思うがいい、サダマサよ。我が名はラディスラフ・ベルナーシェク・クラツィーク。ヒト族のような矮小な身でありながら、高位魔族を相手に名乗りを上げる栄誉を与えられ、あまつさえそのように無礼なセリフを吐いて死ねるのだから…………なぁっ!!」


 そう言い放つや否や、サダマサに向けて魔力によるブーストを使って疾駆を始めたラディスラフの腕の組織が瞬時に変形を始め、さながら魔物のごとき黒い右腕となる。

 ほぼ予備動作なしで放たれたにもかかわらず、驚異的な速度と正確な狙いでサダマサの首筋目がけて襲いかかる魔爪は、不遜なヒト族の身体を牛酪のごとく切り裂くかに思われた。


「!?」


 しかし、間合いに入ったことを確信した上で放った一撃は虚しく空を切るに終わる。

 最小限の動きで、サダマサはラディスラフの魔爪の間合いからほんのわずかな間に抜け出ていたのだ。


「魔力の練り方がまるでなってない。そもそも、攻撃が大振り過ぎだ」


 溜息を吐き出すような声と共に、瞬間的に膨れ上がったサダマサの殺気が、不可視の衝撃となってラディスラフに襲い掛かる。


「…………ッ!」


 真正面からぶつけられたそれにより、ラディスラフは数百年生きてきた中でも特大級の悪寒に襲われる。

 そんな中で、反射的に上半身を逸らしながら後方に飛びのくことができたのは奇跡と言ってもいい。

 とはいえ、自身の内から湧き上った本能からの警告に反して、ラディスラフにダメージらしきものを受けた様子はない。

 強いて言うなら、左頬を何かが通り過ぎる際に生じた風が撫でて行った程度だ。


 虚仮脅しか? ラディスラフはつまらぬ小細工と断定した。


 だが――――。


 唐突に頬を濡らす感覚が生じ、変化していない方の手を持っていくとぬるりとした温かい感触。

 手の平を見れば、そこは真紅に染まっていた。


 ――――血? 斬られていた? 私が?


 斬られた方はまるで思考が追い付いていなかった。

 当の本人にとって、手傷を負わされた記憶などここ百年の間は一切なかったのだから。


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