第86話 世の中は何か欲しいと思ったらそれなりの努力をしなければならない


 正直に言えば、俺は女や子どもを殺したことはない。


 では、殺せないかと問われれば、それは『否』と答えるだろう。

 俺が前世で軍人をやっていた頃は、それまでの大規模戦争から非正規戦――――つまり軍人ではなく、民間人と見分けのつきにくいテロリストを相手にした戦いの時代へと突入しており、たとえ女子どもであってもこちらに対して害意のない存在であるという保証が一切なくなっていたのだ。

 事実、中東に展開していた各国の治安維持軍はテロリストとなった民間人による自爆テロ攻撃を幾度となく経験している。


 そして、時を同じくして極東の日本でもある事件をきっかけとして、それまで世界一の治安を誇っていた状況から一転、近隣国からのテロリズムの脅威に晒されるようになった。

 そんな中にあっては、然るべき時に確実にトリガーを引けるだけの精神力が、テロ対処チームだけでなく特殊部隊全般にまで求められることとなったのだ。

 実際に、某国が起こした政治犯の家族――――それも未成年を利用したテロ行為に対して射殺命令が下り、犯人を殺したスナイパーが何人かいたとも言われている。


測距レンジ・ファインドおよび風向風速ウインテージ


「距離599メートル。風向風速ウインテージ11時方向左斜め前方から時速17㎞よ」


 因果なものだ――――。そう思ってしまう。

 そんな――平和団体に言わせれば、――訓練を受けた俺が、異世界で訓練の成果を発揮しようとしているのだから。


 そんな思考に陥りつつも、既にスコープの照準は、クレイモアの嵐が吹き荒れた跡地で立ち止まって武器を抜いてはいるものの、しきりに辺りを見回しているだけの『勇者』シンヤ――――ではなく、彼の連れている獣人の少女の腹部に合わせられていた。

 エレベーションも今度はきちんと済ませてある。

 まるで自分からその位置を選んでくれたかのように、俺が狙撃を済ませたばかりの場所に立っているイリアの身体に十字線が合わせられている。

 あとは、風向と風速を考慮するのみである。


「ああも突っ立っていたら的も同じね」


「そう言ってやるな。ここまでの距離から狙い撃たれるなんてこの世界ではありえないんだ。無理もない」


 そうベアトリクスを窘めるように言いつつも、俺は内心では真逆のことを思っていた。


 愚かな――――と。


 大規模な伏撃を受けたにもかかわらず、未だに現場に留まり続けているとは、あまりにも警戒感がなさ過ぎる。


 もしも、気配の探知範囲に生体反応が何もないと判断してのことだとしても油断し過ぎだ。

 たしかに、この世界では戦場で使われるような特殊な大規模魔法でもない限り、弓の射程を超える遠距離への攻撃手段は存在しない。


 だが、20人からなる僧兵の集団が、ほぼ一瞬の攻撃でまともじゃない死に様を晒して壊滅したのだ。

 いくら周囲に気配がないからといって、その場に留まり続けることの危険性くらいわからないものだろうか?


 こんなヤツらが、俺たちを――――いや、ベアトリクスを殺そうとしたのか。

 ともすれば怒りに湧きたちそうになる気持ちを懸命に抑え、先ほどと同様――いや、更に慎重に自分自身を落ち着かせるように呼吸を吐き出す。


 今回はただ当てれば良いというものではない。

 肺腑の息をほぼ全て吐き出したタイミングに乗せるように、俺はゆっくりとM110Aの引き金を絞る。


「ファイア」


 再びシャンパンのコルクが抜けるような音と共に銃弾が飛翔を開始。

 サプレッサー内部に詰められた音波吸収剤が銃口から爆発的に放出される火薬燃焼ガスを吸収し、発射音を抑えることとと引き換えに本来発揮する弾丸の威力を奪う。

 しかし、その程度では600m先の標的を狙うことへの大きな支障とはならず、次の瞬間には、7.62㎜フルメタルジャケット弾がイリアの右脇腹を貫いていた。


「命中。行くぞショウジ。ついて来るんだ」


 スコープの向こうでイリアが地面に膝をついて倒れこむのを見届けると、俺は次の瞬間には刀を手に立ち上がっていた。

 いよいよ、借りを返す時がきた。





「イリア! しっかりするんだ! イリア!」


 俺たちが現場へと辿り着いた時、シンヤはこちらの接近に気付いていなかった。

 突然の出来事に動転していたのだろうか、神剣も放り出して倒れ込んだイリアの身体を揺さぶりながら声をかけ続けていた。

 そんなことよりも一刻も早い止血を施さねばならないのだが、パニックに陥っているシンヤには、その余裕も、そして知識もないのだろう。


「シン、ヤ、さま……。さむ、い、です……。た、すけ……」


 しかし、いくらシンヤが声をかけても、既に顔面を蒼白に変えたイリアからまともな返事はない。


「血の色が黒いだろう? 肝臓の主要血管を貫通していて、腹膜ショックを起こしている。もって……あと15分だな」


 依然として気付いていなかったのか、俺が言葉を投げかけたことで初めてこちらの存在を知ったかのように、焦点の定かでない視線を寄越すシンヤ。

 そこには、俺が昨日見た自信に満ち溢れた姿は微塵も存在していなかった。


「なぁ、アンタ……。イリアを治してくれよ……。治癒魔法が使えただろ……? もう追い回したりしない。このまま引き返すからさぁ……。頼むよ……。血が、血が止まらないんだ……」


 イリアの血でどす黒く染まった手をこちらに向けながら懇願するシンヤ。その目には涙さえ浮かんでいた。


 コイツは何を言っているのだろうか。

 あまりにも滑稽なことを言い出したため、思わず噴き出してしまいそうになった俺だったが、俺が口を開くよりも先にシンヤの目が俺の横にいたショウジへと向けられる。


「ショウ、ジ? ……お前、ショウジだろ……? なぁ、確か治癒魔法使えたよな? なんとかしてくれよ。同じ日本人だろ……?」


 これでも媚びているつもりなのだろう。

 シンヤの顔には、他人の機嫌を伺うような雰囲気が含まれていた。


 感情のこもっていないヘラっとした笑み。

 その中で、目だけが様々な感情を内包していた。

 「なぜ自分がこんなことをしなくてはいけないのか」「バカ相手に屈辱だ」といったモノに違いない。


 それも目を見ればわかる。

 本来のコイツは、何の根拠もないのに自分よりも周りがバカだと決めつけて孤独を気取っていて、その態度で周りから迫害を受けても悪いのは自分を理解できる人間がいないからだと思っているタイプだ。

 自分よりも知識の少ない人間が多い異世界では、さぞや自尊心を満たせたことだろう。


 そして、今それらのメッキがはがれて表れているこの矛盾した表情こそ、この少年が日本にいた頃、日頃から浮かべていた表情なのだ。


「お前、本気で言ってるのか……? お前は、僕を殺そうとしたんだぞ……? それなのに、今更そんなこと言うのか……。自分が……自分が、何を言ってるかわかってるのか!?」


 自分がやったことなど覚えていないと言わんばかりに、自分へ声をかけてきたシンヤの有様に唖然とするショウジ。

 だが、その後すぐに浮かび上がってきたのは激しい怒りの表情だった。


「し、仕方ないだろ……? あの時は従わなかったら殺されてたんだぞ? で、でも、今は俺たちだけしかいないだろ? なんとかしてくれよ……。そうしろって言うなら謝るからさぁ……!」


「お前は……お前は仕方ないって感情だけで……人を殺せるのか……?」


 項垂れながら必死に懇願を繰り返すシンヤ。

 それを信じられないものでも見るように視線を向けながら、ショウジは肩を震わせていた。


「そんなこと、どうだっていいだろ! 早くイリアをなんとかしろよ! お前、なんとかできるんだろ! なんでそんなのんびりしているんだよ!」


 一向に自分の懇願を受け入れようとしない俺たちに我慢ができなくなったのか、一転してシンヤは俺たちをきつく睨み付け、声を荒げて感情的にわめき散らす。


 そんなシンヤを見たショウジは、一瞬だけ悲しそうな顔を浮かべた。

 だが、すぐにそれを消し去ると、一度だけ大きく息を吐き出してこちらを向く。


 そこに浮かぶ表情は、決意を固めたと思しきもの。


「クリスさん、何か武器を貸してもらえませんか」


 こちらに向けて語りかけてくるショウジの言葉を受けて、俺はその瞳に秘めた悲壮な決意の内容に気付く。


「…………いいのか? 散々けしかけておいて言うのもなんだが、これでお前も背負うことになるぞ」


 左手に持っていた刀を渡しながら、俺はショウジに問いかける。

 「顔が残るぞ」と。


「まったくもって気に入りませんが、これも……『勇者』とやらの役目なのでしょう。ですが、僕の手は既に血で染まっています。盗賊を殺してまで生き延びようとした以上、この先も生きることを諦めるわけにはいかない。それこそ、命を弄んだことになる」


 この瞬間、二人の高校生の道は、もう二度と元には戻せないほど完全に分かれてしまった。

 同じ――――俺の知っているものよりも少しだけ平和な――――日本に生まれ、同じ年齢まで育ち、その学生生活の中で差はあったとしても、本来ならばこんな大きな『ズレ』は生じなかったに違いない。


 だが、異世界に呼び寄せられた結果、すべてが変わってしまった。

 求められたのは、理性や道徳ではなく、理不尽な命令にも従う駒であることだけ。


 だから、たまたまその順応性が高かったがために、シンヤは彼が思い違いを起こしてしまうほどに恵まれた環境に置かれ、それができなかったショウジは泥水を啜り他者の命を奪ってでも生き延びねばならなくなった。


 それが、今また新たな転換点を迎えようとしている。


 シンヤからすれば大誤算と言っても過言ではないのだろう。

 本来は必要とすらされない要素が評価の基準となる世界に来て立場が大きく向上した。

 だというのに、そこで追い落としたと思っていたショウジが再び現れたばかりか、自分が殺そうとしていた標的にして特殊能力持ちの転生者と出会っていたなんてのは。


 とはいえ、ショウジにしてみても、追われる身となったのと人を殺すのをかけ合わせら、たまたま俺に出会えてプラスになったようなものだろう。

 そして、ここで再びマイナスを選ばなければ、今の盤面を完全にひっくり返すことができる。

 ショウジとて、既に綺麗ごとだけではこの世界で生きていけないことを十二分に理解している。

 だから、今後どのようにすれば良いか身の振り方の計算くらいはしているはずだ。


 そう考えるとやるせない気分になる。

 本来、ショウジはそんなことを考えて生きてこなかったのだと思う。

 シンヤが人の顔色を窺って生きてきたことを考えれば、ショウジは大いに恵まれていたとも言えよう。


 だが、それを何の関係もない『創造神』は奪っていったのだ。

 ただ、自分の世界のためだけに――――。


 鞘から輝きを放つ刀身を抜き払いながら、ショウジはついにその言葉を口にする。


「僕は――――自分がこの世界で生き残るため、そして改めて『勇者』となるために…………ここでシンヤを討ちます」


 もっとも、同郷出身の人間を殺すことが果たしてプラスかマイナスかどちらの要素となるかは、神ならぬ身の俺にはまったくわからないことであったが。

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