第62話 照れ隠しはアッパーカットにのせて
「注力不足だぞ」
気を付けろと小さく息を吐く俺を見て、ベアトリクスはゆっくりと後方を振り返る。
おそるおそる自分の耳元にある刀の切っ先へ視線を向けたベアトリクスは、すぐに再度硬直することとなった。
「これは……」
ベアトリクスの首筋からわずか30㎝ほどのところには、毒液滴る牙を剥き出しにした毒蛇の姿があった。飛びかかる寸前の体勢で、後頭部から首深くまで刀によって壁へ縫い付けられ小さく痙攣している。
「ウォール・ヴァイパーだ。残念だったな。咬まれていたら地上に戻れたのに」
熟練の冒険者すら時として葬り去る姿なき暗殺者だ。
この薄暗いダンジョンの中では、目を凝らしていても開いた口腔内のピンク色の部分を目にしなければ蛇であると気付けない。
コイツはダンジョンの深い階層に生息し、壁の色に同化するようにしてじっと獲物が近付くのを待つ。
この蛇だけは魔素由来のダンジョンが生み出した生物ではなく、どこからやって来るのかダンジョンで繁殖する奇妙な生態を持っている。
主食は同じく外から侵入してくるネズミやコウモリなどの小動物で、ヒトなどは大きさ的に捕食対象とはならない。
ところが、どういうわけか近くで隙を見せると容赦なく襲い掛かってきて、咬みついた際に獲物を動けなくするポイズンカクテルを注入してくる。
一説には、ダンジョンと共生関係にあるため、侵入者を襲ってダンジョンの養分とする手伝いをしているのではないかと言われている。真偽は不明だが長い年月の間にそういう進化をする生物がいても不思議ではない。
「あ、ありがとう……。でも、いきなりは止めてよね……。心臓に悪すぎるから……」
顔を真っ赤にして怒りながらも礼を忘れないベアトリクス。感謝してはいるのだろうが、驚いた顔を見られたことが相当恥ずかしいらしい。
涙交じりの目線と言葉を見て、まるでリトマス試験紙みたいに顔色が変わるなと思いながら俺は半分以上聞き流す。
「はいはい、次からな」
ひとしきり喋らせれば大人しくなるだろう。
壁に突き刺さったままの刀を抜くと、自重でウォール・バイパーの身体は地面に落ち、べしゃりという音を立てて転がる。
突き刺した時点で中枢神経ごと脳を両断され即死していた。首を落とす必要はなさそうだ。
そして、万全のタイミングだと思ったところで、もう一度何も言わずにベアトリクスを引き寄せる。
「え、え!?」
今度はなんだとうろたえるベアトリクス。雪のような頬にそっと口づけをしてやった。
「………ふぉえぇッ!?」
「ところで、こういうのも心臓に悪いのか?」
納刀しながらにやりと笑って見せる。たまには婚約者へのサービスと思ったのだがサプライズになっただろうか?
「ちょ……ちょ……!」
「はは、思ったよりも反応がウブ――」
ドヤ顔を浮かべてやろうと思った次の瞬間には、顔を真っ赤に染めたベアトリクスから見事な勢いで跳ね上がった掌底が俺の下顎部にキマっていた。
◆◆◆
「いてててて……」
痛みに顔を顰めながら、俺は先頭に立って階段を下っていく。
『お取り寄せ』した保冷材を布に巻いて下顎に当ててはいるものの、なかなかどうして痛みが引いてくれない。
どうやら、サダマサの格闘術の訓練は想像以上に効果が出ていたようだ。
まさか、不意打ちとはいえベアトリクスから脳震盪を起こしかけるような一撃を喰らうとは思ってもいなかった。
「もう、クリスはすぐに悪ふざけしようとするんだから……!」
わざわざ口に出すあたり、反射的に殴ったことは多少なりとも悪いと思っているのだろう。
いつもなら、おちょくり過ぎて本気で怒ったら、ベアトリクスはしばらく口も利いてくれない。そう考えると今回のは単純な照れ隠しのようだ。
「へいへい悪かったよ」
「そう思うなら最初からやらないでよね」
ベアトリクスの顔は依然として真っ赤なのがその証拠だろう。
先ほどはリトマス試験紙のようだと言ったが、PH値が酸性を示したまま一向に戻って来ない。
照れ隠しであの一撃を繰り出せるなら、ベアトリクスは社会適合能力はやや残念だが、戦士としてはなかなかの逸材ではなかろうか。
あんまりおちょくり過ぎたら、そのうち首の骨を折られるんじゃないかと思う。
「そうだな。今度は、なるべく事前に許可を取ってからにする」
「きょ、許可なんか出しません!」
おっと、これ以上ふざけるとマズい。強酸性の顔色になって俺へと更なる猛威を振るいかねない。
「続きはここを切り抜けてからだな。どうやら一番下に着いたらしい」
「あれは――」
ベアトリクスがはっとした顔になる。
すんなり進んで来たせいで忘れがちだが、依然として俺たちは危険地帯のど真ん中にいる。最下層らしき場所まで下りて来た今となっては、最早その危険も限られたモノだけとなったようだが。
「……おいおい、マジでメチャクチャな世界だな。まんま牛じゃねぇかよあれ」
俺が視線を向けた先――明らかに何かある部屋を守るように、牛頭人身の巨漢が立っていた。
正しい名称は知らない。とりあえず、俺のファンタジー知識の範囲で暫定的に呼ぶならミノタウロスだ。
2.5メートルほどの長身に、はちきれんばかりの
肉体を保護するように分厚い板金鎧らしきものを身に付けており、一般的な冒険者の剣や槍などでブチ破るのは困難だとひと目で理解できる。
また、その威容を以って、両手で巨大な両刃斧の柄頭を抑えて待ち構えるように存在している姿は、非現実的な姿を特大の危険物として見る者へ知らしめていた。
こちらとの距離は10メートル以上も離れている。
にもかかわらず、既に肌を刺すピリピリとした空気が伝わって来ていた。
「ミノタウロス……。わたしも実物を見たのは初めてだけど、高位迷宮に現れると言われている
俺同様に迫る圧力を感じ取ったのか、P-90を構えて臨戦態勢に移行しつつあるベアトリクスがぽつりと漏らす。
名前もミノタウロスで合ってるのか。解説御苦労さまである。
「本物のミノタウロスは、遥か南方に浮かぶクリティア島の巨大迷宮の奥底に住んでいるらしいわ。だから、アレは迷宮由来の魔物でしょうね」
「迷宮に住む牛頭の怪物か。まるでクレタ島のミノタウロスだな」
「知ってるの?」
「名前だけはな」
地球と似たものがある不思議な感覚もすぐに消えていく。
本物ではないはずのミノタウロスが、こちらを挑発するように殺気を放ってきたからだ。
「へぇ……」
安っぽい挑発にも見えるが、血気盛んな冒険者にとっては抜群の効き目だ。
ヤツがこのダンジョン最後の関門なのだとすれば、冒険者たちがダンジョンを踏破したいという欲求に駆られるのも今ならわかる気がする。
俺も既にやられちまっているみたいだ。
「ありゃタダ者じゃねぇな……。戻って来ない中堅の冒険者はアレにやられたんだろうかねぇ」
こちらの言葉が届いているわけでもないのに、まるでそうだとでも言うかのように、ミノタウロスは泰然と佇んでいる。
面白い。魔素由来の魔物かなんか知らんが、余裕ぶっこいてケンカを売ってくるとは上等じゃねぇか。
「よーし。そんじゃ、いっちょぶっ飛ばしてやりますか」
腰に佩いた刀の柄に俺は手を伸ばした。
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