第38話 満酌不須辞~前編~


 アルデルート山頂に建てられた建築物群は、どれも砂漠の民が住むような石造りのものだった。

 そして、その中でもかなり大きな屋敷へと俺たちは案内される。


 竜は財宝を好んで蓄えているなどとヒトの世の伝説では言われたりするが、ここの竜たちからはそんな気配は微塵も感じられず、その住居も内装もかなり質素な造りとなっていた。


 とはいえ、見せる相手も長い年月を共にして朽ち果てていくだけの同族だけでは、より優れたものを作ろうとする競争心も芽生えないのかもしれない。


 窓はほとんど設けていないため部屋の中は仄かに暗く、抑え目に設えられた灯りは魔法を照明として使っているのか、空気中に聖属性の魔力が漂っているのが感じられた。


 虚飾こそないが、あえて計算された中に独自の雰囲気や侘しさがあるわけでもないそれらは、俺にはいささか物足りないものに映る。


「よく来てくれた。異界の旅人と、その連れ人よ。私が竜峰五氏族ウシュムガルドの長であり、この竜峰で神魔竜の長も務めているアプストル・ウシュムガルドだ」


 魔獣のものを使っているのか、毛皮を幾重にも敷いた床に悠然と腰を下ろしている黒衣の男。

 ヒト型に形態を変えているため正確な年齢などわかるわけもないが、外見から判断したところでは人間換算で70歳を超えたくらいだろうか。


 黒髪はすでに全てが灰色を通り越して白へと変わりつつあった。

 顔から上を見ただけでは老人にしか見えないが、依然として意志の強さを見せつける金色の瞳が輝きを放っている。

 それこそが彼をティアマットと同じ黒竜の血族であることを知らしめていた。


 いったいどれほどの年月を過ごしてきたのか。

 ティアマットすら遥かに超える幾星霜いくせいそうを経てきたこの竜は、おそらくもういつ死んでもおかしくないのだろう。


 達人が他人の技量を察することができるように、いつの間にか俺にもサダマサからもたらされたのか似たようなスキルが身についていた。

 無論、付け焼刃な俺では漠然と生命力がわかる程度だが。


「久しいな長老。息災なようで何よりだ」


 この世での旅を終えようとしている老竜の前に、遠慮の欠片もなく腰を下ろすサダマサ。

 一見無作法なようであるが、胡坐あぐらをかいて座る泰然とした様は映画で見た戦国時代の武将のように実に堂に入っている。

 ティアマットも眉を顰めたりしないところを見るに、以前もこんな感じだったのだろう。


「よく言ってくれる、サダマサ。まだくたばっていなかったのかという顔をしておるぞ」


「そうか、『竜眼』の前では嘘はつけないようだな」


 サダマサがうそぶくと、同じタイミングで笑い出す2人。


 その数年来の友同士と思うような軽口を叩き合う光景に、俺は何とも場違いな場に迷い込んでしまったようにも感じる。


 ……いや、気負いすぎか。

 俺も相当神魔竜の伝説に毒されているようだ。


 ちなみに、俺の素性にも関わるような込み入った話をするつもりであったため、ベアトリクスとウーヴェにはそれぞれ別室で待機してもらっている。

 高い確率で今日の面談は難しいだろうと伝えて了承を得ているので、余程のことがなければ問題も起きないだろう。


 ワケありのベアトリクスも、こういう状況になってしまっては今さら自分の意がすんなり通るとは思っていなかったようだ。

 もっともそれには俺たちと同行したことで、本来よりも日にちを稼ぐこともできていたこともあるだろうが。


「して、サダマサ。その小さき者を紹介してもらえるだろうか。見たところ、帝国の人間のようだが……」


「あぁ……見た目はこんな感じだが、ある意味ではだ」


 サダマサの放った言葉、それは俺がこの世界の人間ではないと告げることを意味していた。


 元々、ヒト族でもこの竜峰にやって来るような者は、この山頂まで辿り着けることを加味しなくても限りなくゼロに近い。

 その中でも黒髪に黒い瞳を持つ者となれば全くのゼロであろう。


 先ほどアプストルが口にしていたことからわかってはいたが、サダマサは以前ここへ来た時に自身の素性を明かしていたらしい。


「ほぅ……。それはまた……」


「まぁ、話をすれば長くなる。今回はコイツ以外の土産も用意することができた。少し付き合ってくれないか」


 話も長くなりそうだからと付け加え、サダマサは俺が用意しておいた酒の瓶をフリーザーバッグの中から取り出す。

 透き通るような色を放つ緑の硝子で作られた瓶は、俺たちにとっては所詮容器でしかないものだが、このレベルの透明度を誇るガラスはまだこの世界には存在していないものだ。

 いかにここが俗世から離れているとはいえ、その透明な美しさに興味を示したか、アプストルとティアマットの眼がすっと細められる。


「俺の故郷の酒で、コメという植物から作ったものだ。竜は酒が好きと聞いて持って来てね。俺は舐める程度しか付き合えないけど……」


 俺が前世で生まれ育った場所──太平洋側の温暖な気候の中で作られた日本酒で、好きな銘柄の中でもとっておきの純米大吟醸の生原酒、しかも杜氏ラベルである。

 チートだなんだと世話になっている『お取り寄せ』も、こういう私的なたのしみ方ができるのが、実のところもっともありがたい機能であった。

 盗賊や魔物を殺すための武器を出すだけでは、さすがに殺伐とし過ぎだろう。


 きゅぽんっという音と共に栓が抜かれ、一定の条件を満たした日本酒にのみ許される果実を思わせる芳醇で馥郁ふくいくとした香りが部屋の中に立ち込める。

 アプストルとその横で静かに控えていたティアマットから、ほうっと溜息が漏れるのが聞こえた。


「そうか、この能力……。お主は……『使徒』なのか」


 アプストルの得心に至ったような表情と言葉。

 俺は酒杯を渡して液体を注ぎながら、小さく首肯しゅこうする。


 封を開けてから数回の、限られた条件下でしか聞くことのできない、瓶へと空気が少しずつ入っていく──とくりとくりという注ぎが、仄かな暗さを持つ石造りの部屋へと静かに染み込んでいく。


 この世界の酒は、ブドウから作る酒であっても水で薄めるようなこともあるくらい酒文化が発展していないらしいが、ヒト相手でなければそれなりの度数があろうと特に関係もあるまい。


 俺は本当に小さなお猪口に一口分を、他の3人にはぐい呑みを渡しなみなみと、それから同時に杯を静かに掲げて飲み始める。


 作法も何もというところだが、小さな杯で少しずつ干していくことが飲み方だと伝えると、黒竜の親子はサダマサの飲み方にならって、ぐっと杯を乾かし始めた。


 こうして酒を飲むのも10年ぶりくらいだろうか。


 今世ではまだ酒を飲む年齢になっていなかっただけでなく、ただひとり故郷を偲ぶようなしみったれた酒を飲みたくなかったということもあり、俺は『お取り寄せ』ができることはわかっていても、前世の酒を口にしていなかった。

 それが、サダマサのような似た世界の人間と出会い、今日こうして無茶極まりない試練を乗り越えることもできたことで一種の節目となったのだ。


 いささか牽強付会な感は否めないが、考えようによってはちょうど良いのかもしれない。


「いや……。いや、実に旨い」


 アプストルの口から溜め息が漏れ出た。


「幾星霜も重ねておきながら、私にはこの味を表す言葉が思い浮かばんよ。このような酒が存在するとは知らなんだ。1万年の人生さえ霞んでしまう」


 相好を崩しながら、それなりのペースではあるものの杯を静かに傾けている龍の長。


 竜と付き合うのは今日が初めてなので詳しくはわからないが、相当に満足してくれていることは表情からもうかがえる。

 極めて単刀直入な物言いを好む竜がこう言ってくれるのだから、まったくもって悪い気などしない。


 アプストルのすぐ横手に移動したティアマットも、よほど気に入ったのかいい飲みっぷりを披露している。

 彼女は少しだけ頬を上気させており、どうも日本酒の味と酒精アルコールに身を委ねているようだ。


 高位竜には毒や麻痺は効かないとされているので、おそらくは2人とも恒常的に働いている解毒魔法を解除しているのだろう。

 なんとも義理堅いことだ。


 そんな光景を見ながら、俺も少しだけ杯を傾け口を湿らせると、すぅっと染み込む角の取れた酒精アルコールの旨味と、熟した果実にも似た香りが口の中いっぱいにじわりと広がっていく。

 一抹の寂しさを覚えながら呑み込むと、喉を通る軽い灼熱感の後に抜群のキレを残して消えていった。


 美味い。味について言葉を並べることはいくらでもできるが、結局はこの一言に尽きる。


「一口だけで我慢か。律儀なヤツだな」


 サダマサが見透かしたように言葉を投げて来る。


「そこは両親への、かな?」


 確かに名残惜しいし、この酒に合わせた肴も用意したくなるが、これ以上は5年後──成人する時までのお預けとしておく。

 だが、久し振りに飲んだ酒の味は、忘れえぬ感触と共に俺の心の奥底にまでしっかりと深く染み入っていった。


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