第5話 潜入

 出発前、旧研究棟地下室。師匠とトレイス(肉体)との会話。


「何と呼べばいい?」

「……何がだ?」


「お前の事だ。名前が無ければ呼ぶ時に困る」

「……くっくっく。それもそうだな。呼ばれた事などないから失念していたよ。貴様が勝手に決めろ」


「ならば『ザーメン大好きビッチ』で良いか?」

「……侮辱と捉えさせてもらう」


「勝手に決めろと言ったのはお前だ。分かりやすくていいじゃないか」

「もしその名で呼んだら貴様を喰らうぞ。不味いだろうがな」


「ならば何が良いんだ?」

「……ユキ、でどうだ?」


「……ちょっとかわいすぎやしないか」

「黙れ。そちらの世界には降るんだろう?寒さで雨が結晶化した物が。この女の記憶にあった」


「雪の事か。まあ場所によっては降るな。そちらには降らないのか?」

「……ああ」


「……見てみたいのか?」

「……ああ」


「ふっ。意外とかわいい奴だ」

「もういい、黙れ。名前などいらん」


「分かったよ、ユキ。ランドも聞いたな?あっちで会ったらそう呼んでやってくれ」

「いいから黙れ」


「ユキ、またな」

「……」


 『亀裂』への突入から、まったくもって驚くほど平穏に3日間が過ぎた。時々ここが黄泉の中だという事を忘れてしまう。死を覚悟してやって来たのが馬鹿みたいに、これと言って何も無いのだ。


 もちろんそれは、ハネムーン号がずっと空を飛んでいるからであり、怪物達の中に空に向かって攻撃出来る者がいないからというのが大きな理由だ。1度でも着陸すればあっという間に死ぬという状況は変わっていない。だが空にいる限りは安全だし、この船ならそれが出来る。


 いくら平和とはいえ、ずっと暇していた訳ではない。黄泉まで来た目的の1つである計測はミスティさんが中心となりきちんと行なっている。黄泉の正確な大きさを計り、蓄積型極大破壊魔法ルイナスカタクリストの威力調整をする必要な過程だ。想定よりも黄泉が小さければ威力を落とさなければならない所だが、今の所その心配はなさそうだ。


 何せここは広すぎる。村も森も山も海もなく、完全に殺風景なのは広く感じる原因の1つではあるが、ユキに指示された通り『亀裂』を出てから3日間真っ直ぐ北に向かって飛んでいるのに未だ目的地にはつかない。


 だがその間、地上を観察していて分かった事がいくつかある。


 まず、この世界は完全なる弱肉強食であるという事。


 怪物の大きさは思っていたよりもバラつきがあって、『亀裂』の周囲にいたのがここに来てから今まで見た中でも最大クラスだった。という事はそれより小さい怪物がいる訳だが、ここで疑問が生じた。


 あれよりも小さい怪物がいるという事は、『亀裂』を潜り抜けてとっくに元の世界に行っていてもおかしくないのでは、という事だ。あれより小さいとはいえ、元の世界の基準で言えば十分な脅威である。大量にいる小さい怪物が来ていたら、1ヶ月くらい前に世界は終わっていた。


 だがこの疑問の答えはすぐに分かった。怪物達は共食いするのだ。

 体の大きな者が小さな者を食べ、その身体を大きくする。『亀裂』周辺にいたのよりも小さい怪物は、迂闊に近づけば食べられる。つまり、『亀裂』から腕を伸ばして攻撃してきたあの怪物は、皮肉な事にこちらを守ってもいてくれていたという事になる。


 それと、おそらく『亀裂』周辺の怪物の大きさが同じくらいなのは、同程度の強さだと共食いが生じないからだろう。実際、小さい怪物が徒党を組んでいるのも何度か見かけた。集団で狩りをする中で弱った者が食べられ、段々と大きくなって行き、更に上の集団に合流し、同じ事が起こる。これの繰り返しによって怪物達は巨大かつ強くなっているらしい。


「……という事は、そのユキと名乗った怪物はどれくらいの大きさなのでしょうか?」


 クラウの言う通り、そこは気になる所ではある。身体を細く伸ばして『亀裂』をすり抜けて元の世界まで来たという事は、少なくとも『亀裂』周辺にいる怪物よりは上の存在という事になる。


「そもそもユキが人間の肉体を無事に得たとしたら、ランド様はその方とも結婚するんですか?」

 なんだかとんでもない間違いを犯しているような気が段々としてきた。


 また、ほかに分かった事といえば、怪物にはそれぞれ個性があるという事だ。


 『亀裂』が現れた当初、光線を発射してきたのを僕は思い出した。全ての怪物があれを使える訳ではないというのもここに来て分かった。もしそうなら空も安全ではないだろう。怪物は共食いによって成長し、何らかの能力を得る。ユキと名乗った怪物が、肉体を細く伸ばして元の世界に来たのもその能力の1つだと考えると合点が行く。


 そして最後に1つ。たった今分かった事がある。


 船の甲板に出て下を観察していた時の事だ。突如僕の足元に、ぼとり、と黒い塊が落ちてきた。僕は驚いて船から落ちそうになったが、クラウが引き止めてくれた。


「一体何ですか……これは」


 黒い塊はもぞもぞと動き、生命があるようだが何らかの目的があるようには見えない。大きさは人間の頭部くらいであり、もやがかかったように存在が不安定だった。急いでミスティさんを呼んだが、その正体を知っていたのはむしろライカだった。


「……これが、人間の魂」


 空を見上げ、黒い月を指差す。そこから落ちてきたのが、偶然この船に落ちたという訳だ。


「……あっちの世界で誰かが死んだ」


 何となくだがこの世界の全貌が見えてきた。


 怪物達の正体は、魂同士の共食いによって膨れ上がった元人間だったという訳だ。この黒い塊は普通なら地上に落ち、段々と取り込まれていくはずだった。あの黒い月は月ではない。空に開いた巨大な穴だ。


 無論、何故こうなっているのかまでは分からない。それは自分自身の存在意義を問うくらい深淵かつ謎めいている。だが1つ分かるのは、この場所を吹き飛ばすのは何となくまずい気がするという事だ。


 ユキが言っていた言葉を思い出す。「このままでは計画は失敗する」確かに、全てが上手く行ったとしても、もっと最悪の事態に陥る可能性は大いにあり得る。それだけ元の世界の常識は通じないという事だ。


「ていうかこれ、どうします?」

 相変わらずもぞもぞと動く黒い塊を指して、誰にという訳でもなくクラウが尋ねた。


「あーちょっと調べてみよっか。サニっち程じゃないけど何か分かるかもしれないし」

 ミスティさんがそう言って、黒い塊に触れようとしたその時、


「危ない!!」


 クラウがミスティさんを突き飛ばした。僕の位置からも、一瞬だが黒い塊が伸びたように見えた。それは明確に攻撃の意思を持っていた。


 黒い塊の先端が、クラウの腹部に触れた。するとそれは瞬時に形を変え、ぐねぐねと更に不定形になり、クラウの中に潜ろうとした。反射的に僕が近づこうとすると、クラウは片手で僕を制し、「ランド様は近づかないで!」と言った。


 そこでようやく目の前で起きた事が分かってきた。クラウがミスティさんを庇ったのだ。

 更には僕に被害が及ばぬように1人でその正体不明の何かと戦う事を咄嗟に選んだ。


「大丈夫か!?」


 クラウの表情は真っ青になり、身体は僅かに震えていた。

 やがて足から力が抜けたように、その場で倒れる。

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