もしあなたが辞書編集者であれば-なぜ「辞書は正しいは誤り」なのか-

 学習は善人をいっそうよくし、悪人をいっそう悪くする。

 -トーマス・フラー-




 あなたは「権威」というだけで三国に追随したでしょうか。

 記述主義を標榜する辞書が論拠を一切示さずに、記述主義に反して誤りとしたことに影響を受けるのでしょうか。

 その辞書が誤りを撤回したのなら、真っ先に記述的見解によって採用しただけで元来の正誤は論じていないと疑わないのでしょうか。

 正しい言葉ではなく現在使われる言葉、語学ではなく言語学として編纂する辞書で「言葉の正否」を論じられることが不服ではないのでしょうか。


 辞書編集者にも公に出来ないものの嫌いな言葉があります。

 しかし自分の感情を殺して、言葉の変化を受け入れなければいけません。

 自分の仕事は「世間の後追いをする。世間に直接影響を与えないように、自分の見解は聞かれない限り辞書以外ではほとんど唱えない」のであり、どれほど世間の人々から仕事を誤解されようと「世間に直接触れることなどお構いなしで、誤解を解くためにツイッターなどで積極的に発言」が許されない仕事の信条をかなぐり捨てることができるのでしょうか。

 あなたは「自分たちが作る辞書」を権威者の力によって作るのでしょうか。

「自分たちの語感」を信じないのでしょうか。


 言語学者は観測者。

 言葉の変化の事実を善し悪しは別として受け入れるべき職業。

「誤りである」と変化した事実も受け入れるべきことを示します。

 それを拒むのであれば私情に囚われているとしか評価できない。


 たとえば、あなたが動物行動学者であり、ある生物の闘争の性質を観察しているとしましょう。

 同業者が「闘争してるところを傍観するなんてかわいそうだ。そんなのイヤだから、オレが闘争をやめさせてやる!」と手を出してきたら、あなたはどう思いますか。

 観測対象に直接関与することが「科学」なのでしょうか。

 あなたは、その動物行動学の科学者を「疑似科学かつ似非科学者」と思わずにいられますか。


 事実「言語学者たちは飯間氏に腹を立てている」というリークがあります。

 それでも言語学者たちが飯間氏を公に批判しない理由は「研究対象に直接関与せず、観測者に徹しなければいけない」という原則に縛られているからです。

 言語学のルールを蹂躙する飯間氏の正体を、言語学者に関与されてはならない言語学の部外者自身の手で暴き、その言語学に無関係な第三者からこの件について見解の公表を求めてくれることを祈ることしか赦されないのです。


 なお飯間氏は糸井重里氏との対談でこのような感じの発言をしています。

「見坊先生はぼくのしていることを評価しないと思います。でもぼくは自分が思っていることを人に言うのが好きなんです」


 飯間氏は言語学の理念に則っているのでしょうか。

 飯間氏が世間に言語学の誤解を広めていないと思えるのでしょうか。

 あなたが言語学者ならば、飯間氏をどのような目で見るのでしょうか。

 あなたには言語学の悲鳴が聴こえないのでしょうか。




 人間には二種類しかない。一つは、自己を罪人だと思っている義人であり、他の一つは、自己を義人だと思っている罪人である。

 -ブレーズ・パスカル-

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