「的を得る」は本当に誤用ではないのか?三省堂国語辞典・飯間浩明氏への反論
知られざる辞書編集者たちの見解。文化庁及び各辞書出版社は「三国の撤回で決着した」と認めていない-なぜ「辞書は正しいは誤り」なのか-
知られざる辞書編集者たちの見解。文化庁及び各辞書出版社は「三国の撤回で決着した」と認めていない-なぜ「辞書は正しいは誤り」なのか-
子供の教育については、勉学の欲望と興味を喚起することが一番大切である。
でないと結局、本を背負ったロバを養うことになる。
-ミシェル・ド・モンテーニュ-
角川書店に「三国が認めたから的を得るを認めるのか」問い合わせました。回答は以下の通り。
----------ここから引用----------
お問い合わせいただきました「角川必携国語辞典」の内容について回答いたします。
「的を得る」については、「当を得た」や「正鵠を得る」などから生じて、定着しつつあるものと思われます。
もう少し動向を確認したいところではございますが、「的を射る」の語釈に「『的を得る』とも。」と加筆することも検討しております。
こうしたことは特定の辞典や調査に依拠するものではなく、編集部で総合的に判断しております。
----------ここまで引用----------
「角川は今は載せている」?
ではお聞きしますが、辞書の意義を放棄して規範で決めたのでしょうか?
他にも色々な辞書出版社に「三国が認めたから的を得るを認めるのか」と問い合わせました。
どこも大体同じ回答でした。
「他の辞書及び世間あるいは国の動向は確認するが、三国に限定して影響を受けることはない。三国は記述的見解から採用したのだろうが、我々の辞書は三国に追随して見解を変えることはない。自分たちの辞書に何を載せ、正誤をどう判断するかは、自分たちの考えで決めるだけ。規範・記述のどちらに偏る訳でもない」。
具体的には下記コピペのとおり。上述の引用と同様に省略していますが、回答内容はいじっていません。
----------ここから引用----------
ありがたいことに、多くのご信頼とご愛用を頂いておりますが、そのことをもって、日本語の規範、あるいは正しい日本語の用法の提唱等を体現しているものではありません。
そもそも辞典というものは規範主義と記述主義のバランスをとりつつ、世間の言葉の変化を後追いしていくものです。
(中略)
中国語での用法・原典ではなく、日本語での用法・慣用についての論となります。
(中略)
なぜ「射る」でなく「得る」を見出しとしたのかは定かでありませんが、広く使われている語法を採用したのではないかと推測されます。
青空文庫で「正鵠を得る」は多数現れますが、「正鵠を射る」はほとんど現れません。
あるいは、「正鵠を失する」の対として「得る」を採用したとも考えられます。
一方、「的を得る」についてのご質問ですが、「見解を変える予定があるか」という問いにはお答えのしようがありません。
「的を得る」に関しては何も言及していませんので、そこには語源的に見た用法の是非論の入り込む余地はございません。
先に申し上げたとおり、日本語の辞書である以上、現に通用している言葉の意味や用法を記述するのみです。
ただ、仰せのことは今後の改訂の際に勘案し、「的を得る」を見出しとして採用する可能性はあるというお返事にとどめます。
----------ここまで引用----------
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『小学新国語辞典 改訂版』は小学生向けの学習辞典であることから,子どもたちにとって必要な語を,わかりやすく適切に伝えることを第一としております。
その考えのもと,見出しの選定や記述を行うにあたっては,特定の辞典や資料によって行うのではなく,言葉を使用する側の規範意識と使用の実態とを,広く勘案して行っております。
『小学新国語辞典 改訂版』の記述につきましても,改訂版の編集段階でのそうした作業の結果に基づいて行っておりますが,今後,言葉の調査・研究が進んだり,規範意識や使用実態が変わったと判断されたりする場合には,次の改訂の際に,それらを受けて記述を変えていくことになろうかと思います
----------ここまで引用----------
----------ここから引用----------
編者は「的を得る」など使ったことはない。以前から弓矢で「的を射る」と言うので、当然「射る」ものであって「得る」ものではない。
この慣用句「的を射る」はそこから転じて物事にも言うようになったまでのこと。
「的を得る」と言うようになったのは「当を得る」との混同もあれば、「射る」と「得る」の類音の影響もある。
「正鵠を得る」を持ち出さずともよい。「正鵠」は難しい漢語で、知識人のことばであって、一般人は知らないし、使わない。
編者は『三国』をはじめ、各種の辞典類を読んでいる。また文化庁の記述も読んでいるので知っている。
しかし、それが「影響を受けたかどうか」と言えるものではない。
『三国』が「的を得る」を誤りとせずに掲出したことについて、誤りのほうが増えたため、一般化したと考えたのであろう。
しかし、規範から言えば「誤りである」とするのは当然である。ことばの誤りはいつの時代にもあり、それを「誤り」とするかどうかは時代により、一般化したどうかによる。
以上、編者の言語知識、規範意識から現在、「的を得る」を誤りとした。
----------ここまで引用----------
問い合わせるまでもない返答。
「辞書は正しい言葉を載せる本ではない。世間一般で使われる言葉を正誤・規範・記述に関係なく取捨し、自分たちの語感によってその言葉の意味を決める」と辞書の根源を説明されただけ。
普通に使われている誤用説に信憑性がない言葉なら、とっくに多くの辞書が載せているでしょう。
上記の辞書編集部以外からの回答コピペもできますが、似たり寄ったりな回答ですのでわざわざ公開する必要もないでしょう。
そして、的を得るの語源と同義であり、中国の古文書に用例が散見される漢語の「中正鵠」について話してみると「くわしく」という反応も。
直接電話がかかってきて、「貴重な情報をありがとうございます」とお礼してもらったこともあります。
なお「中正鵠」の存在を知っている編集部は無いようです。
三国よりずっと前から的を得るを普通の言葉として載せている『日本国語大辞典』の編集長と電話したときに、聞いたことは下記の通りです。
「的を射る/得るなら射るのほうが正しいです。しかし日国は用例があるものを載せています」
三国に「正鵠を得るが正しいという論拠はあるのか。的を得るの誤りを撤回した理由は規範的見解と記述的見解のどちらか」と問い合わせました。
「的を得るの正誤の議論は決着がついたのか」という質問には直接言及しなかったけれど、返答内容から「決着はついていない」と示唆している。結果は以下の通りで、三国は正鵠を得るも的を得るも元来正しい語句とは認めていません。
----------ここから引用----------
「中正鵠」は日本語に訳すと「正鵠に中る」「正鵠を射る」等になるとのご指摘ですが、慣用句であってもこのように複数の単語の組み合わせがある以上、さらに別形として「正鵠を得る」が流通することはありうることと考えます。
「正鵠を得る」の用例は、北村透谷・森鴎外あたりからあるようですが、慣用久しいということの重みも勘案すれば、「正鵠を得る」に関しては、『三省堂国語辞典』の中でことさら誤用と記す必要はないものと存じます。
(中略)
「的を射る」が古くから使われているため、②としても「的を射る」が本来の形であると受け止め、「当を得る」や「正鵠を得る」などとのコンタミネーションと解することによって誤用意識を生じやすいということは理解できます。
ただ、発生の経緯や使用実態を総合的に見れば、ご指摘の「得る」の意味で捉えることが合理的であり、「的を得る」を誤用として咎められないと存じます。
見坊先生は記述主義と規範的性格とは両立するというお考えをお持ちで、『三省堂国語辞典』では表記や語形、用法に「あやまり」や〔あやまって〕などの注記を付していることも少なくありません。この考え方自体は今後とも継承してまいります。
----------ここまで引用----------
「さらに別形」、「三国の中でことさら誤用と記す必要はないもの」。
「『語源からして正しい』という規範的見解か、『得るに上手く捉える意味がある実例があり、その意味で的を得るの実例がある』という記述的見解か」と聞いた結果がこの通りですから、三国は「元来正しい」という規範的見解ではないようです。
飯間氏のツイッターを見ても「元来正しい語句とは認定していない」ということを示唆しています。
というか三国は通用するかどうかで判断していて、元来の正誤を論じている訳ではありません。
そもそも言葉とは意味があるから成り立ったものですが、言葉から意味を成り立たせる正反対の方法で言葉を評価しているのです。
たとえば、憲法の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」は「男女=両性≠男男・女女」ですが、それを無視して同性婚が全国で流行ったら、その事実を違憲にすると世間は大混乱してしまうので憲法解釈の変更をこころみるのと同義です。
この場合「両性=両者の性別=男女・男男・女女」とゴリ押しで解釈でき、合憲となります。
もちろん憲法を作り上げた人々の想いは無視します。
ちなみに文化庁に「三省堂が的を得るは誤りではないと言ったから、的を得るは正しいのか」という問い合わせの返答は以下の通り。
----------ここから引用----------
『三省堂国語辞典 第7版』の新しい記述に関しては承知しておりますが,他の辞書が同様の見解を示しているわけではありません。
例えば,同じ三省堂であっても,『現代新国語辞典 第4版』や『大辞林 第3版』などでは『三省堂国語辞典 第7版』と同じ見解ではないようです。
三省堂だけでなく,各社の今後の動向を注視していこうと考えております。
----------ここまで引用----------
「的を得る誤り説の元凶の三国が認めたから決着がついた」という論を三国がほかの辞書に影響を与えた訳ではない。
国は三国だけでは見解を変えない。
辞書は正しい言葉を載せている訳ではない。
「三国で決着説」を明白に否定している。
国及び三省堂含む辞書出版社は的を得る正当論を決して認めていない。
そもそもあなたは三国の撤回が正しいとする論拠を示せますか。
「少なくとも30年来の自説を撤回するのに、相応の調査と検討があったことは間違いない」
「三国にも『誤りである』という解説があるように、三国は記述主義一辺倒ではない」
それが根拠になるのでしょうか。
語学でもなく、「中正鵠」という言葉の存在すら知らず、直接の編集者が関わりもせず、少人数の記述文法に傾倒した者のみで考え、外国語学者ではない昔の日本語学者の見解が参考で、得るは上手く捉える意味などとたわけたこじつけをし、編集までの期間や、記述主義一辺倒ではない方針、たかが江戸時代の用例が論拠になるとお思いでしょうか。
当記事の証拠がほしければ、いくらでも出せます。
感情は深く静まっている。
表面に浮かぶことばは、怒りのかくされている場所を教える浮標である。
-ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー-
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