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反論への反論集その3・論理学の力-なぜ「的を得るは誤り」なのか-への応援コメント
こんにちは、興味深い論文です。前置きの、言葉と認識論についての考察には賛成するのですが、コアとなる根拠に一つ反論があります。
たとえ『的を得る』が語源学的に間違っているとしても、言葉は存在する――つまり、辞書に記入されている、または多くの人々に使われている――だけで、美学的・文学的な価値があり、日本語の語彙をより豊富に、また面白くして、故に正しいのだと僕は思います。
たとえば小説で『的を得る』を読んだとします。そこで僕は考え始めます。なぜ『的を射る』ではなく『的を得る』と書かれているのか。意図的に本来誤用である方を書いていたとしたら、それはそれで大変面白いですし、意図的でないのなら、それは逆に作家を映し出しているのだと僕は思います。
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また他に一つ長い例を話すとしたら、ドイツ語ではラテン語由来の単語の複数形は普通ラテン語の文法に沿っています。たとえば、「Bonus(単数形)」と「Boni(複数形)」。
一方、日本語からの借用語である「Tsunami」(津波)の複数形は「Tsunamis」です。しかし日本語には複数形の概念がない(「〜たち」や「〜ら」などを除けば)。つまり、ラテン語からの借用語ではラテン語の文法を使っているのに、日本語からの借用語では日本語の文法を無視しています。
というわけで、僕はたまにジョークとして「Boni」とは言わず、実は「Bonusse」が正しいと主張します(ドイツ語の辞書には両方乗っているのですが、多くのドイツ人は「Bonusse」は誤用だと思います)。
ちょっと長い例になりましたが、上記の僕のように『的を得る』の方が実は文法的に正しいと主張する人もいるかもしれません(今の僕にはその理由は思いつきませんが)。そして僕にとって価値があるのはその意見の正否ではなく、『的を得る』の方が正しいと主張する根拠です。そっちの方が断然興味深い。正否を断言し、ピュアな言葉を求めることで、このような利点が失われてしまうのではないでしょうか。
短く言うと、うるふさんは由来という軸を通して正否を見極めているように解釈したのですが、僕は『的を得る』が辞書に載ってもいいと思います。そうすることで語彙の宝が増え、本来正しい言葉はどちらなのかを知る文豪はより深く鮮やかな日本語のテキスチャーで文章を書くことができ、僕たちのように言葉にこだわる輩はこのような議論ができる。素晴らしいことではないでしょうか。
知られざる全ての学問の母・哲学の基礎知識「事実命題」と「当為命題」という概念-なぜ「辞書は正しいは誤り」なのか-への応援コメント
質問があります。
事実と当為が同一であると主張すると戦争を悪だと否定できなくなるとはどういう意味でしょうか。
殺人も戦争も事実命題であり、事実命題に対する正邪の判断が当為命題であれば、戦争を悪と否定する当為命題が本来関連のない戦争行為という事実命題に不当に介入していることはわかるのですが、そのことによって事実と当為が同一となる、と繋がるのがよくわかりません。
例えば「ある戦争が起こり、それは悪である」という一文の中ですでに同一化されているということでしょうか?
よろしければお教えください。