極上ロース

 ヒロシはお店の引き戸を引いて中に入った。この日はといつにも増して混んでいる。テーブル席は家族連れやらカップルで既に一杯だ。カウンターも混んでいたが、一つだけ席が空いていた。ヒロシは忙しそうに給仕をしている若い女店員に席を指さしながら聞いた。


「ここ、空いている?」

「いらっしゃいませ、どうぞー、お座りください。」


 女店員は忙しいところなのに、とても上品に受け答えをしてくれた。こういうところも好印象なのだ。座ったところで女店員がオーダーを聞きに来た。


「極上ロース定食ね。」

「はい、わかりました。」


 暫くすると、女店員がまた来てお茶と新聞を置いて行った。料理が出るまでに時間がかかるので、読み物をもってきてくれる心遣いも嬉しい。もっとも今宵はカウンターに座った。カウンターに座ると目の前で頑固オヤジがとんかつを仕上げて行くのが良く見える。それを見ているだけで時間潰しになるのだ。


 だが、この日はいつにも増して混んでいた。どうやら来店客以外にも持ち帰りの注文が多数入っているようだ。ヒロシが記憶にある限り、一番の混み様だった。頑固オヤジは、混んでいるからと仕事を早めるようなことはしない。おおよそ次のようなルーチンで仕事をこなす。


 客の様子をカウンター越しにじっと見る。

 背を向けてまな板にある肉の固まりから一人前分を包丁で一気にきり落とす。

 片栗粉にまぶす。

 卵に漬ける。

 パン粉をまぶす。

 油に入れて挙げる。

 挙げている間の絶妙なタイミングで「あいよ」と言う。

 すると店内を仕切っている奥さんがご飯とみそ汁を盛る。

 それを女店員が客に出している間に、とんかつを油から上げてまな板に置く。

 包丁でリズミカルに5回、ザクッザクッザクッザクッザクッと切り身を入れる。

 そしてまた、カウンター越しに客の様子をじっと見る・・。


混んでいる時は、”客をじっと見る”という時間も無駄に思わせるが・・とにかくこのルーチンのリズムを変えないで仕事をしている。


 さて、さすがにこれだけ混んでいるとかなり待たさせる。ヒロシは、頑固オヤジの何度も繰り返されるとんかつ所作にそろそろ飽きてきた。新聞にも目を通したが、目ぼしいところは読み終わってしまった。


 手持ち無沙汰となり店内をキョロキョロ観察してみたりした。客を長く観察するわけにもいかず、店内の飾りつけをあちこち見回す。すると・・、丁度、ヒロシが座っている真後ろの壁に筆書きで達筆にかかれた張り紙があることに気が付いた。それを見たヒロシは思わず声が出た。


「えっ!?」


張り紙にはこうかかれていたのだ。


 『長らくお世話になりました。当店は当月末を持って閉店いたします。』


あっさりとした文面だった。


「えっ、そーなんだ・・・、だから混んでいるのか・・。」


改めて店内を見た。いそいそと働く店員の方々はいつも通りと思いつつ、何か寂しそうに見えた。そして、オヤジさんは・・、オヤジさんもいつもの通りカウンター向こうでとんかつを揚げている。背中のオーラも変わりない・・。でも、怒っているオヤジさんはそこにはなく、優しそうなお爺さんにも見えた。


まだ十分できるだろうに・・、残念だな・・。その日の「極上ロース」は、いつもにも増して”極上”だった。


その2週間後、名店はひっそりと閉店した。僕はとんかつ難民族になってしまった。ヒロシはあの店の閉店から、心底美味しいと思うとんかつにありつけたことはない。

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