人間模様8 とんかつ難民

herosea

地元の名店

 一昨年の初夏の土曜日のことだった。ヒロシは渋谷で買い物を済ませた後、東横線に乗り最寄りの駅で降りた。もう夕刻6時半をまわったが日が長く明るい。この日はヒロシの妻が自宅に不在だった。帰っても食事はない。帰宅して夕飯を食べるには自炊の必要があるが・・、何か作るには時間が中途半端で面倒だ。


「どこかで食べていくか。」


そう決めたヒロシだった。商店街を3分ほど歩いたところのT字路突き当り正面にある木製の引き戸の店の前で立ち止まった。看板にはもう照明が点いている。


『かつ金』


 この店は、ヒロシが名店だと思っているとんかつ屋である。少々高めの値段なんだが、相応以上の美味しさを提供してくれる店だと格付けしている。


実は、商店街にはもうひとつのとんかつ屋がある。そちらは芸能人が来るとかでテレビにも良く取り上げられるためか、知らない者はそちらに行く。しかし、この『かつ金』の方が美味いのだ。ヒロシに限らず、ここらへんに長く住んでいる地元民なら皆そう思っている。


 ヒロシは、この店ではケチらず、必ず”極上ロースカツ”を頼むことにしている。2千円を超えるが・・味はほんとうに極上だ。とろけるような脂身と高質な赤身のバランスがたまらない。肉は柔らかくて箸を入れてちぎることができるぐらいだ。胃もたれもない。


 ソースは自家製である。ナツメグとかなんとか・・色々と入っているらしい。カツとマッチする甘辛さだ。さらにこの店の特徴として、


「キャベツには醤油を掛けてお食べ下さい。」


と指導される。最初に薦められたときは抵抗感があった。だがそのように食べてみると、醤油のしょっぱさがカツの油っこさを相殺して絶妙なコラボレーションとなるのである。


 この店は初老の頑固オヤジがやっている。しかもかなりの頑固なオヤジだ。どんなに混んでも一つ一つ丁寧に作るもんだから30分以上は平気で待たされる。とんかつに並々ならぬこだわりがあり、もの凄いオーラを発してカウンター向こうで仕事している。


 そしてこのオヤジさん、良く怒っている。店員もオヤジさんを気にしてビクビクしている。ヒロシは、怒られた若いアルバイトの女性が涙してお茶を運んで来るところを何度も見たものだ。とんかつにこだわっているからピリピリしてるんだろう。それだけにこの店のとんかつは本当に美味しいのだ。

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