5
目醒めた時、ひとりぼっちだった。
長い眠りについていたわけでも、人間のように大怪我を負って、意識を手放していたわけでもない。
昨日までのことは記憶にある。
ただ、昨日までになかった”何か”が今の自分には宿っていて。
まさしく、覚醒したばかりと言えた。
−−気がついたかい。調子はどう?
相手は部屋に入ってくるなりそう問いかける。
特には。
そういう意味を思い浮かべれば、頷いてくれる。
人の姿をして、人と同じ格好で、人の言葉を話し、人と同じ動作をする。
視界に映るのは疑いようのない人間で。
けれど不思議と警戒心は抱かなかった。
納得していた。
本能が理解していた。
彼の本性を。彼の奥に隠された正体を。
彼はいろんな話をしてくれた。
自分の置かれた状況、自分の正体、課せられた使命、背負うべき責任。
それから。
−−君はひとりぼっちだ。森にいた仲間は皆、人の手によって奪われてしまった。
どうして?
−−刈り取られてしまった。君たちが守り続けてきた場所も、湖も。若い女の人間がやってきただろう? 角に宿った君たちの力が、人間たちの標的になったんだ。
…………。
−−人間は欲深い生き物だ。己が目的のためならば、どんな犠牲が払うことも厭わない。たとえそれが一つの種族が絶滅する道であっても。ある方法がなくなれば別の方法を探し、失われた手段ですら過去として葬ってしまう。
……そんなこと、許せない。
内側から湧き上がってくる何か。
激しく揺れ動く心臓。
どうしようもない熱い何かが、自分自身を掻き立てる。
−−それは感情だ。動物が持つ厄介なもの。感情は時に己を突き動かし、また感情は時に己を苦しめる。
感情。
これもまた昨日の自分には宿り得なかった代物。
多くの動物が持つというのであれば、きっと人間もこれを持っているのだろう。
胸を押し付けられたような息苦しさがある。
体は至って正常、怪我もなく、不便はまるでないのに。
どうしてか、万全とは言い難い。
苦しい。くるしい。クルシイ。苦しい。
−−感情の変化には必ず原因がつきまとう。その問題を解決、解消した時、ようやく苦しみから解放される。
辛い。きつい。痛い。苦しい。
助けて。
−−原因は一つ。そして方法も一つ。だが、それにはまだ準備が必要だ。君が完全な復讐を遂げるには、身につけなければならないものが山ほどある。
それでも君はやるのかい。
その問いは、考える間も無く”イエス”だった。
ニヤリ、と彼の口が三日月に歪む。
−−僕が手伝ってあげよう。君はもうひとりじゃない。
それから長い年月が過ぎていってた。
もともと、長い時間を生きてきたのだろうけれど。
その日から生活は百八十度変わっていって。
かつての自分の生活思い出せないほどだった。
そして--ようやくその時は訪れた。
屋敷に仕えて数年、一族の元にある御子息が迎えられた。
「はじめまして」
膝を折って視線を合わせる。世話付きを任されたのは偶然か必然か。
翡翠の瞳を持った若君。怯えながらしっかりと自分の足で立つその姿に、気づけば将来の期待を抱くようになっていた。
その一方で。
「さすが坊ちゃん、飲み込みが早いです」
「坊ちゃんならこれくらい、簡単すぎましたね」
大袈裟なくらい褒めちぎる周囲の人間たち。
街の子ならば、できて当然のことを、さも能力のある賢い子だと思わせる。
そんな周囲に影響されてか、坊ちゃんもその思惑通りに堕落してしまう。
このままじゃダメだ。
このままじゃ駄目だ。
思考を巡らせ、様々な策を弄し、色んなことを試してみた。
だというのに。
「僕はいずれ男爵を引き継ぐ人間なんだ。領民たちが叶わない絵空事も、僕なら掴むことができる」
「ですが……」
「お節介はもうよしてくれ。僕ももう大人なんだから。誰に指図されるでもない、自分で決められる」
予想は外れ、いつの日か恐れた方向へ足を進めている。
自身で決断できると言っておきながら。
「運命の相手は絶対いるから」
そう信じて、こちらの助言なんて聞く耳すら持たなくなって。
”--運命なんてクソくらえ。”
あの人の元で聞いた、”彼ら”の嘆きが脳裏をよぎる。
こんなにも長い間生を全うしているというのに。
もう後戻りできないところまで来てしまっていた−−。
「出発されるんですね。でも、本当にいいんですか? 坊ちゃんに知らせなくて」
「…………もう、いいんです。わたしは、彼にふさわしくなかった。きっとそういうことなんでしょう」
歓声に沸く屋敷の裏口。
ひとり、身支度を整えた彼女の見送りに来ていた。
暗がりでも光を灯す目は赤く充血していて。
それでも毅然とした態度で笑顔を見せる。
ふと、彼女が口を開いた。
「……貴方はその、ジェダイトの言う運命の人に会ったのでしょう? 印象というか特徴というか……どんな素敵な人だったのか、最後に聞かせてもらえませんか?」
「会ったとはいっても、すぐに坊ちゃんに屋敷へ戻るよう言われてしまったので……正直あまり覚えていないです。すみません、お役に立てず」
「そうですか……」
躊躇いながらようやく口にしてくれた彼女の想いですら、曖昧に誤魔化すことしかできない。
だが、たった一つ言えることがある。
「−−でも、テラ様の方がずっとお似合いでしたよ。それだけはしっかり記憶しています」
「……ありがとう、嘘だとしても嬉しいです」
嘘なんかじゃない。
無理に言ってるわけでもない。
貴女こそが−−テラ様こそが、坊ちゃんの運命の人なのだから。
だが、それも過去になろうとしていた。
「−−お元気で、テラお嬢様」
「−−見送り、ありがとう。貴方のこと、忘れないわ」
しっかりと前を見据え、たった一人夢に向かって旅立つ少女。
辛いことがあっても、上手くいかないことがあっても、それを受け入れ、また前進することのできる。
その後ろ姿に、人の強さを感じていた。
これでよかったんだ。
これで、よかったんだ−−−−。
ふわり、と。
甘い香りが誘ってくる。
ようやくやってきた長年の願い。
その時は、もう間も無く訪れる。
ひとり残された屋敷の裏。
力を抜けば自然とほどけていった。
姿を偽り、種族を偽り。
衣服を脱ぎ捨て、両手を地面につける。
体を覆うは灰色の体毛。額にずしりとのしかかる螺旋状の角こそ己足らしめる代物であり、復讐をぶつける相手に突き刺す最上の凶器。
瞳を閉じる。
もう、迷いなどない。
「
次に見開いた目の前に立っていたのは、緑の瞳を持つ−−−−。
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