牧原大智の覚悟②
――あぁぁああ、怖かった怖かった怖かった怖かった!
坂上先輩に言われた通り、男を挑発して怒らせて、騒ぎを起こすという作戦は、自分でもびっくりするくらいうまくいったけど、いきなり拳銃が出て来るなんて思ってなかった! 死ぬかと思った!
混乱の最中、
「先輩、こっち!」
履き慣れない革靴と、肩幅の窮屈な背広を煩わしく思いながらも必死に走る。追手の気配があるかどうかなんて分からない。とにかく無我夢中だった。
『高嶋が暴れ出したら、照明が落ちる。そしたら
と、これが俺に伝えられた作戦の全て。
正直、責任重大過ぎて俺には普通に無理だと思った。でも、なんとかなった。
拳銃の弾は何故か当たらなかったし、人混みの中心にいたはずの先輩は何故かすぐに見つけられた。停電して店の中は大パニックだったのに、出口に辿り着くのも何故かスムーズだった。
まるで見えない力か何かが、俺に手を貸してくれたみたいだった。
あの時何が起こったのか、俺には全然分からない。ただ分かることは、今の俺は間違いなく、斎間先輩の手を引いて一緒に逃げている。その事実だけで十分だ。
「ちょ、ちょっと、
短い悲鳴と同時に右腕が後ろへ引っ張られる。先輩が転んでしまった。
「す、すみません! 大丈夫ですか?」
先輩の履物はハイヒールで、着ている服は生地の薄いドレスだ。裾は長くて、俺なんかよりもずっと走りにくい格好をしていた。
しかも冷静になって辺りを見回せば、ここは街灯もない路地裏。道は狭いし、投げ捨てられたゴミも散乱していて、とても走りやすい場所ではなかった。
それなのに俺は力任せに走り回って、先輩を振り回していたんだ。
足は靴擦れを起こしていて、擦りむいた箇所は出血もあり、痛々しい。
肩口も胸元も大胆に露出させた衣装では、五月の夜風で身体を冷やしてしまうだろう。
俺はスーツのジャケットを先輩の肩にかけて、もう一度謝った。
「……本当にすみません。いきなり、こんなことして……」
怒っているかな? そう思ってちょっと身構えたけど、先輩は意外にもクスッと控えめな笑みをこぼしてくれた。
「うふふふ。……君って思ったよりも度胸があるんだね。あんな危険人物を相手に真っ向から
「あ、あれはただ、坂上先輩の筋書き通りに演技しただけで、台詞だってほとんどあの人が考えて、俺はそれを受け売りで喋っただけですから……」
「アレ、演技だったの? すごい! 全然そんなふうに見えなかったよ? 映研で映画撮るより、劇団に入って役者をやった方が向いてるんじゃない?」
「そ、そんなことないですよ! あれはなんて言うか、思ったことをそのまま口に出して言っちゃう、俺の悪い癖なんです」
「へぇ……。……じゃあつまり、あの男が私には相応しくないって言ってくれたアレは、演技ではあるけど嘘ではないってこと?」
「え? ……」
顔を伏せ、走れなくなった足を見つめる先輩の声音は、ほのかに差し込む月明かりのように頼りなかった。
「……大智君は、あの男と私では住む世界が違うって言ってくれたけど、それはきっと君の勘違いだよ。私はもうとっくに、あの男と同じ、世間一般の倫理観や常識から外れた世界にいるの……」
俺は握り返してくれない手を放すまいと両手で捕まえて、力強く首を振った。
「今ならまだ戻れます! 時間はかかるかもしれませんが、地道にバイトしてコツコツお金を溜めれば、きっと留学だって出来ます! うちの大学はそこそこ有名ですから、就活で一流企業から採用貰って、真面目に働けばきっと貧乏な暮らしからだって抜け出せます! そのために、受験勉強だって頑張ったんじゃないんですか⁉」
「それじゃあ追い付かないよ。バイトを何個も掛け持ちすれば、いつかお母さんみたいに身体を壊すし、大学を無事に卒業出来て、就職が上手くいったとしても、お給料のほとんどは奨学金の返済に消えていく……。……それでも夢を、――こんな生活を終わらせたいと思うなら、こういう選択肢を取るしかないの……」
理想と綺麗事を並べただけの熱弁は、現実の厳しさに打ちのめされた絶望を温めることさえできはしない。
「それにね? こっちの世界は一度踏み入ったら、そう簡単には戻れないの。足を洗っても消えない。それはまるで呪いのように
不意に顔を上げた先輩の視線の先を追う。するとヒールの足音を響かせて妖艶に笑う女性の影が路地裏の闇から浮かび上がった。
「――よく分かっているじゃない、夏帆」
闇に溶け込むロイヤルブルーのドレス。その後ろからは鉄パイプを手にしたボーイたちが
男たちは前後の道から俺たちを挟み込むように歩み寄って来て、逃げ道は塞がれている。
「今更自分だけ逃げようったって、そうはいかないわよ? せっかくいい買い手がついたんだから、可愛がってもらいなさないな。……そうすれば、あなたの夢だって叶うんだから」
甘い言葉に誘われるがまま、ふらふらと立ち上がった先輩の手を、俺は頑なに放さない。
「……強情ね。うちの大事な商品を勝手に持ち出しておいて、それを返そうともしないなんて……。高嶋様をあれだけ怒らせたからには、覚悟は決まっているのよね……⁉」
ボーイたちが一斉に凶器を構えて、俺に圧を掛ける。
「……大智君……」
先輩が切なそうな声と目線で、手を放すように諭してきても、俺は絶対に譲らなかった。
「先輩は、あの人たちとは違います。友達のことすら商品として扱う葵さんや、先輩を蹴り飛ばしたあの男とは、生きている世界が違うんです。葵さんたちは世界の裏側のもっと深い闇を知っています! 俺たちには見えない世界があの人たちには見えているんです!」
「……どういうこと?」
「……」
首を傾げる先輩と、何かを察してきつく俺を睨む葵さん。
やっぱり葵さんとあの人は、実の姉妹なのに全然似てないな。
自らの夢に手を伸ばし、竜の逆鱗に触れて、その両目を焦がした
『……それでももし、あなたの大切な人が、守りたいと思った人が、こっち側に行こうとしていたら、全力で止めてあげて。その人の手を捕まえて、絶対に放さないで連れ戻してあげて。……あなたが本気なら、その人もきっと分かってくれるから……』
そう言った彼女は、『私にもそれが出来ていたら』と過去の自分を悔いるように眉を顰めていた。
その言葉の真意が、今なら分かる気がする。
「分かっていると思うけど、助けを呼んだって無駄よ? ここは京都の闇市の中。結界をすり抜けるための数珠を持っていない人は入って来れないの。ただの警察じゃあ、ここに辿り着くことさえできないわ」
自分の縄張りで狩りをするハンターは決して自身の優位性を疑わない。
見ている世界も、置かれた立場も、持っている力も、何もかもが俺たちとは違う。
文字通り、別世界の人間だ。
そして俺は文字通り、その別世界から守りたい人の手を引いて逃げ出して来た。この手は絶対に放さない。必ず先輩を連れ戻す。俺に出来ることは、それくらいだ。
つまりここから先は、俺の領分じゃない。
「それじゃあ一緒に来てもらうわよ? ――連れて来なさい」
ついに葵さんが男たちをけしかけた。武器を弄びながら、ボーイの一人が手を伸ばす。俺たちが捕まり、暗い世界に引き戻されてしまう、その寸前で――。
――闇の中から飛んで来た一本のクナイが、俺たちと彼らの世界を分かつように空を切って、コンクリートの裂け目に突き刺さった。
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