斎間夏帆の現実②

「……ま、でも、良かったんじゃねぇか? 別にあの斎間さいま夏帆かほじゃなくても、この大学には女子がたくさんいるんだし……」


「ん? ……なんだよ、その言い方……。お前、先輩についてなんか知ってんの?」


 山本が突然、何かを含んだ笑みと意味深な言葉遣いをしてきた。

 妙に訊いて欲しそうな顔をしているので期待に応えてやると、彼は内緒話をするように顔を近付けて声を潜める。


「……演劇サークルの上回生たちが話してたんだけどな? なんでも、斎間夏帆と関わった人間には不幸が訪れるっていう噂があるんだ」


「……なんだ? その都市伝説みたいな話……」


「聞いた話によると、斎間夏帆の代が入部して以降あっちのサークルじゃ、劇団員の誰かが財布を無くしたり、スリにあったり、車で事故を起こしたり、何かと事件が絶えなかったらしいんだ。んで、斎間夏帆がいると高確率でそういうことが起こるとかなんとか……。まあ、先輩たちが冗談半分で言ってるだけで、ただの偶然だとおもうんだけどな……?」


 この前の二次会でそんな話がされているのを小耳に挟んだだけ、と語る山本は、自分はあまり信じてないぞ? と言わんばかりに肩をすくめる。

 しかし、財布の紛失にスリ、交通事故。これらにはすべてお金が絡んでくる。嫌な符号だ。


「あ、それと! これは確実に斎間夏帆が関わった事件なんだけど、今年の春に卒業したうちのサークルの先輩が斎間夏帆のことを誘って二人で飲みに行った時、客引きに薦められて入ったお店がぼったくりで、ちょっとしか飲んでないのに10万円も払わされたんだってさ!」


「じゅ、10万円⁉」


 何それ安ッ! 俺の時は28万、坂上先輩の時は50万円だったぞ?


 って、驚くべきところはそこじゃない。先輩は足下見られたって言ってたし、俺も事故物件とは言え、いいマンションに住んでいるからお金があると思われたんだろう。それに確かに、一度の食事で10万円ってのは普通の大学生にとってあり得ない金額だ。俺の感覚が麻痺していた。


 つまりはぼったくり。この単語が出て来た時点で、ほぼ間違いない。

 店はおそらく、俺が連れていかれたところと同じか、その系列店。京天門きょうてんもんあおいがオーナーを務めるバーだ。客引きに薦められて、というのは変な疑いをかけられないためのカモフラージュだろうけど、細かいやり取りの部分で先輩が店に誘導するように仕向けていた可能性は高いんじゃないだろうか。

 あまり信じたくはないけれど、これでは京天門葵と斎間夏帆が無関係だと妄信的に主張することも出来なくなった。


 昨日までの三日間の彼女の勤労さを思うと、どうしてもまだ納得のいかないところがあるけれど、人は見かけによらない、ということなのかもな……。


「……やっぱりお前、まだ斎間先輩のことが気になってんだろ?」


「は? なんでいきなりそういう話になるんだよ……?」


「いやいやいや! とぼけたって丸分かりだからな? お前さっきから考えてることが全部顔に出まくってるし。さしずめ、俺の知ってる先輩はそんな人じゃない! とか思ってんだろ?」


「べ、別にそんなんじゃねぇよ!」


「あ、今度は赤面しながら視線を逸らして早口になった! これは分かりやすいぞ? ……図星ってことだな?」


「ッ! ……」


 見事に心中を言い当てられてしまい、俺は何も言えなくなる。

 昔から嘘をつくのは苦手だ。


「ま、一回振られたくらいじゃ諦めきれないって気持ちも分からなくはねぇが、あんまり入れ込み過ぎて、ストーカーみたいになったりするなよ?」


 ――ギクッ!

 山本のからかうような軽口に対し、俺の身体は本気で強張った。


 よく考えてみたら、……っていうか、よく考えなくても、俺が昨日までやっていたことって傍から見ればただのストーカーと同じなのでは?


 朝から先輩の自宅の前に張り込んで、バイト先にもついて行って、彼女が家に帰るまでを見届ける。

 葵さんとの繋がりを調べるためだったとはいえ、三日間も尾行して回るなんて、今になって冷静に考えればやり過ぎだ。それとも山本の言う通り、これは俺が無自覚なだけで、実のところは先輩のことが……――。


「……牧原お前、そこで黙って考え込むなよ。冗談のつもりで言ったのに、それじゃあ身に覚えがあるみたいになるだろ? ……もしかして、お前まさか既に……」


「ち、違うって、……違う違う。……俺がストーカーとか、そんなことするわけないだろ?」


 俺は無理矢理笑顔を作って、山本の疑いを誤魔化した。


 そうだ。もうやめにしよう。ここで手を引けばいいんだ。

 そもそも、斎間先輩が葵さんの仲間かどうかを確かめたいだけなら、さっきの話だけで十分だ。これ以上は、きっと踏み込むべきじゃない。


 俺は、坂上先輩みたいなお金持ちじゃないし、月宮先輩みたいな陰陽師でもない。どこにでもいる普通の大学一回生だ。

 そして、ぼったくりバーを経営している京天門葵さんやそこの従業員、それとグルになっている斎間先輩は、あっち側。社会の裏側で生きる謂わば別世界の住人だ。


 その領域は、一度踏み入ったら最期、闇はその者の足を掴んで絡まって、引きずり込んで離さない。運良く逃れることが出来たとしても、後ろ暗い影はいつまでも、呪いのように付き纏う。


 京天門の屋敷で保護されている時に、その家の長女、葵さんのお姉さんが優しく語って教えてくれた話だ。


『――安易な好奇心や幼稚な正義感でこちら側に近付いてはダメよ? ちょっとでも危ないと感じたら、すぐに立ち止まって引き返しなさい。そうすれば、何の憂いも負い目も代償もなく、綺麗なままで元の世界に、……あなたのいるべきところへ帰れるわ』


 彼女は瞼を閉じたまま、見えなくなってしまった自らの両目を戒めるようにそう言った。


「……なあ牧原? やっぱ今日のお前、なんか変だぞ? 俺と二人で話してるのに時々意識がどっかに飛ぶし、深刻そうな顔して考え込むし、ホントに大丈夫か?」


 山本が心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。

 知り合ってから日の浅い俺でも、その顔は本気で俺のことを気遣ってくれているのだと分かった。


「……わりぃ、今日はもう帰るわ」


 俺はどっと疲れたような重いため息をつきながら、荷物をまとめて席を立つ。


「は? 四限目の講義は?」


「パス。代返できそうなら頼むわ」


 唖然としたままの学友を置き去りにして、俺は人のまばらな学食を後にした。

 大量の食器をガシャガシャと洗う厨房内の忙しない音が妙に後ろ髪を引いて、俺はそれを振り払うように速足でキャンパス内から立ち去った。

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