坂上康介の慧眼①
「……あのぉ、本当にさっきはありがとうございました」
駆動音が静かな五人乗りSUVの助手席に座って、俺はハンドルを握る恩人に感謝を伝えた。
「なに、大したことじゃないさ。俺にとってははした金だから!」
車の減った深夜の通りはすっかり夜の暗闇に呑まれていて、不気味なほどに物寂しく、整然としている。
あの後、葵さんから
後部座席に座った
坂上さんはバックミラー越しにその様子を一瞥し、重たい雰囲気を払拭するように声を張り上げた。
「むしろ俺の方こそごめんねぇ。元カノが迷惑かけたみたいでさ……」
「……えっと、坂上さんは本当に、あの
「ん? まあな。っつっても、恋人同士って程深い関係でもなかったけど。……何だ? 気になるのか?」
「……そりゃあ、気になりますよ……」
「もしかして、葵ちゃんのことが好きになったとか?」
「そんなわけないでしょ! あんな怖い目に遭ったのに! 俺が気になるのはあなたのことです! いったい何者なんですか?」
葵さんは、俺がこの人の知り合いだから自分の名前を知っていたのだと勘違いして俺のことを見逃してくれたけど、俺は坂上さんのことを何も知らない。さっきのアレが初対面だ。
「あれ? 自己紹介しなかったっけ? 俺は
「……ただの学生は27万8400円をはした金と言って小切手で支払ったり、こんないい車を乗り回したりしないと思うんですけど……」
「ま、確かに普通の学生よりはお金持ちだし、イケメンだし? 女の子の知り合いはたくさんいるな……。ちなみに特技は女の子とすぐに仲良くなれるところだ!」
「ただの学生じゃなくて、ただのチャラ男じゃないですか……」
「そ。ただのチャラ男。葵ちゃんと仲良くなったのも、俺のナンパがきっかけだったかな?」
「な、ナンパですか?」
またいかにもなワードが出て来た。
でも、この人の容姿と財力ならナンパの成功率は高そうだ。
「去年の夏前くらいに街中で見かけて、可愛いと思ったから声を掛けたんだ。葵ちゃんの方も乗り気で、それから何度か一緒にデートしたり、ご飯食べたり、連絡を取り合ったりするようになって、明確に付き合ってるって言葉はお互いに使わなかったけど、いわゆる友達以上恋人未満な関係になった。……で、ある時、俺の用事に付き合ってもらった帰りにどこかで飲まないかって誘われて、さっきのぼったくりバーに連れていかれたんだ」
「え? 坂上さんもぼったくられたんですか⁉」
「坂上康介一生の不覚。完全に騙されちまった」
信号が赤に変わる。車は音もなく停止し、先輩は清々しく笑って肩をすくめた。
「手口はお前らの時と同じ。飲み食いした分に見合わない金額を請求されて、怖いお兄さんたちに囲まれて、可愛い葵ちゃんに泣きつかれて引くに引けなくなった。嵌めれたんだってことはすぐに分かった。最近見つけた穴場のバーなんだと言って俺を誘ったのは葵ちゃんだったし、やたらとお酒を勧めて来たし、俺たち以外に客はいなかったからな。とりあえず面倒臭いことになる前に金だけ払って脱出して、『怖かったぁ~、ありがとう』ってしがみ付いて来た葵ちゃんを問い詰めたら、『こんなに上手く行くとは思わなかった』ってさ」
うわぁ、女の人って怖い……。
彼女の豹変ぶりが目に浮かぶようで、俺は全身に鳥肌が立った。
信号が青に変わって、車は再び動き出す。
「葵ちゃんは最初から俺との関係を終わらせるつもりであの店に誘ったんだろう。向こうも男には困ってなかったみたいだし、ただお金が欲しかったから俺を誘惑して、罠に嵌めた。そんなところだな」
「……お金を取り返そうとは思わなかったんですか?」
全ては過ぎたことだと言わんばかりの口調。たぶん俺が坂上さんの立場だったら絶対に悔しくて見返してやろうって思うのに、この人はそうは思わなかったんだろうか。
「俺、その時はお金に困ってなかったし、支払った額も50万ちょっとだったから別にいいかなって。ちょっと高い授業料だと思って、ヤバい奴にこれ以上関わるのはやめとこうって諦めたんだ」
「ご、50万円⁉」
「あはは。足下見られたんだろうなぁ、きっと……。ま、それでも俺にとっては大した額じゃなかったからまっいっかって……」
「……」
……この人の言うはした金っていったいいくらまでなんだろう? 金銭感覚が明らかにおかしなことになっている。
「でも実は、最近まとまったお金が必要になってさ、どうにかしてお金を取り返せないか思案中なんだわ。それでお店の近くをちょろちょろしてたら、のこのこぼったくりバーに入っていくお前らを見かけて助けに行ったってわけ」
「え? 良かったんですか? お金を取り返しに来たのに、俺たちの支払いを立て替えたりなんかして……」
「いいさ別に。どうせ取り返すなら、50万でも100万でも同じことだし、……大学の後輩がまんまと騙されるのを見て見ぬふりして帰るなんてカッコ悪い真似、したくなかったからな」
カッコいい先輩はきっちりと格好つけて誇らしげに歯を見せる。
だがその口ぶりは、坂上さんが店に踏み入って来た時点で既に、俺が同じ大学の後輩だと分かっていたかのようだ。
「……もしかして、最初から知ってたんですか?」
「言っただろ? 俺は顔が広いんだって。牧原大智君のことなら知り合いから聞いてたよ。毎日黒塗りの高級車で大学に来る、俺に負けず劣らずの大金持ちがいるってな」
「そ、それはその知り合いの勘違いですよ。俺が送り迎えしてもらっていたのはあの時期だけで、それもちょっと特殊な事情があったからで、俺はホントにただの普通の大学生です」
「本物のお化けが出て来る事故物件に住んでる大学生は、本当にただの普通の大学生か?」
「……な、なんでそれを……?」
「言っただろ? 俺は顔が広いんだって……」
「……」
……まさか、この人って……。
ニヤニヤと笑う坂上さんの腹の内までは読み取れない。掴みどころのない人だ。
「……あの、すみません。……私はこの辺で、大丈夫、です……」
伏し目がちなまま少しだけ顔を上げて、斎間先輩が訴えかけて来る。
「いいの? こんなところで。なんだったら家の前まで送るけど?」
「いえ、結構です。ここからなら本当にすぐ近くなので……」
「……そっか」
ハザードを出した車が路肩に寄って行く。斎間先輩は自分でドアを開けて外に出ると、助手席の窓から中を覗き込んで来た。何か言いたそうなので、俺は窓を開ける。
「あの、……お店では本当にありがとうございました。お陰で助かりました」
「気にすんなって! 可愛い女の子のピンチに颯爽と駆けつけて助けるのは俺の趣味だから! ……ああでも、何かお礼がしたいって言うなら、今度一緒にご飯でも食べに行かない?」
「い、いえ、その……、ごめんなさい」
「あはは、ごめんごめん、冗談だから気にしないで」
あっさりと振られているけど、今この人、流れるようにナンパしたぞ? 少なくとも彼が本物のチャラ男と言うことは間違いないようだ。
「……大智君も、今日はごめんね。変なことに巻き込んじゃって……」
謝罪と後悔を織り交ぜた悲しい顔には、眩しすぎる街灯によって暗すぎる影が落ちていた。
今日のようなことがあればやっぱり仕方がないと思うけど、先輩のこんな表情はあまり見たくなかった。
「いえ、全然そんなことないです! 最後のハプニングも含めて今日は楽しかったです。ありがとうございました」
「……私も、楽しかった。……でも、だからこそ本当にごめんなさい」
「だから謝らないで下さいよ。俺たちは被害者なんですから、先輩が気にすることはないですって!」
「……」「……」
空元気がから回って、微妙な沈黙が二人の間に横たわる。
「えっと、じゃあ、おやすみなさい」
「……せ、先輩こそ帰り道、気を付けて……」
「うん、ありがと」
そして最後はありきたりな別れの言葉を交わして、斎間先輩は暗くて細い路地の奥へと消えていった。
「……ああいう年上のお姉さんがタイプなのか? 大智君?」
「え⁉ い、いや、別にそういう訳じゃ……」
「ふふん。……
「……」
全てを見透かしたようににやぁっと口角を上げる坂上さんを見て、これ以上の反論は無意味だと悟った。
「……そう言えば、さっきは敢えて聞かなかったんだけど、お前さんとあの子っていったいどういう関係?」
「え? ……どういうって、今日のサークルの合同コンパで初めて知り合った大学の先輩と後輩? ですけど?」
「付き合っているわけではない、と?」
「は、はい……」
「じゃあ、あのぼったくりバーに二人で入ろうって誘ったのは、お前とあの子のどっち?」
「そ、それは先輩ですけど……、って! もしかして、先輩のことを疑ってるんですか?」
「疑うも何も、バリバリに怪しいだろ、あの子……」
「怪しくなんかないですよ! だって先輩は、俺と一緒に男たちに囲まれて、金払えって脅されたんですよ?」
「俺の時も、葵ちゃんはターゲットの俺と一緒に恫喝されてた」
とんでもない濡れ衣だと思って反論を叫ぶも、坂上さんの声からは惚けるような白々しさが消えていて、その目は笑っていなかった。
「……失礼なことを聞くけど、大智って彼女いたことは……?」
「……な、ない、ですけど……?」
「……恋愛経験に乏しい18歳の男の子を、それっぽい態度や雰囲気で誘惑して罠に嵌める。見事なハニートラップだな」
「そ、そんなこと……――」
ない、とは言い切れなかった。
否定したいと思う気持ちは言葉にならず、心の中に黒いもやが立ち込める。
でも、そんな、馬鹿な……。
全部嘘だったって言うのか? 映画の話で盛り上がったのも、美味しいお酒を勧めてくれたのも。全部先輩の、先輩たちの掌の上だったって言うのか……?
――カチ、カチ、カチ、と、ハザードの点滅する音がやけに大きく聞こえる。
広い通りを走る車は日中よりも速度を上げていて、後ろから追いこして来たタクシーはあっという間に見えなくなった。
「……なーんてな。冗談だよ、冗談。で、大智の家ってどこだっけ?」
坂上さんはまたおどけたように笑って誤魔化し、ハザードを消して車を発進させた。
それから、俺の下宿先のマンションの前に着くまで、俺と坂上さんは道順以外の会話をまったくしなくなってしまった。
マンションに帰り着く頃には、午前零時を回っていた。
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