偽りの栄光を簒奪せし妖花

 ――深呼吸をする。


 埃っぽくて、少し澱んだ倉庫の空気を懐かしむように取り込んで、呼吸と精神を整える。


 すると、妖花を縛っていた荒縄が、自然と解けた。


 夜の闇の中で静かに降り積もる雪の如く、音もなく着地した少女は、いつの間にか、白地に紫の花の柄が入った上品な着物を身に纏い、その手で目元を一度拭うと、鮮やかな翠色みどりいろの瞳を見開いて七海たちを睨む。

 いつになく真剣な表情をする彼女の頬には、一筋の涙の跡が残っていた。


 服を脱がせて宙吊りにしていたはずの少女が突然降りて来て、しかも高価な着物を綺麗に着付けていれば誰もが目を剥き狼狽する。

 七海はさらに、和服を着た妖花のその姿に、目障りな女の面影を見て不快そうに眉を顰めた。


「……どんな手品を使ったのかしら? あなたの持ち物は没収して、全部ここにあるはずだけど?」


 妖花が日中着ていた服を無造作に放り投げて見せる。中からは仕込んであった呪符が散らばって、七海はそのうちの一枚を踏みつける。奇しくもその呪符は、覇妖剣を収納させている一枚だった。


 しかし、かの霊剣が無くとも、妖花には実の両親から貰ったこの身体がある。

 母から譲り受けたこの血がある。父から授かったこの肉がある。

 そしてあの日、〈悠久の宝玉〉によって目覚めたこの力は、義兄との出会いによってその名を得て、義父との修行を経て我がものとなった。


 人と妖の間に生まれた彼女だけが持つ、もう半分。


「……そのマフラーを返してください。……それは私の、父の形見なんです」


 大切なもの。人に譲ってはいけない、かけがえのない贈り物。

 妖花は優しく右手を差し出す。対する七海はマフラーを胸に抱き込んで、自分のものだと頑なに主張する子供のような反応を見せた。


 次の瞬間。


 気が付くと、マフラーは妖花の手の中に戻っていた。

 雪のように白いそれを大事そうに広げると、先程、七海が頬擦りをして付けたくすんだクリーム色のファンデーションの汚れが、何故か綺麗に消えていた。


 妖花は丁寧な手つきでマフラーを首に巻き、じんわりと心まで温まる魔法のような感触を全身で確かめ、息をつく。

 いつもと変わらないはずなのに、今までとはまるで違う温かさを感じる。気持ちが穏やかに安らいで、懐かしいような、悲しいような。


「……ごめんなさい」


 消え入るような声で呟いた。

 この温もりを疑ってしまった自分が恥ずかしい。

 でもそれ以上に、この温もりが嘘でないと言ってもらえたことの嬉しさが、少女の目頭を熱くさせた。


 手にしたお宝を奪い返されて、七海たちは訳も分からず困惑している。

 慌てふためく彼女たちを、再び涙を拭った妖花はきつく睨み付けた。


「どうか、お引き取り下さい。ここにあなた方が手にしていいものは一つもありません」


「……ふん、何よ偉そうに。あの馬の骨の遺言が出鱈目だったからって、今更アンタが正統な後継者の顔をするつもり? 思い違いもはなはだしいわね! さっき自分でも言ってたじゃない! アンタはもう雪ノ森の人間じゃないのよ⁉ それに遺言書のでっち上げをしたなんて、あのクズどもが認めると思う? アンタの言うことなんて誰も信じないわ!」


 七海の激昂に、妖花はゆっくりと首を振る。


「いいえ、そんなつもりはありません。私も今更だと思いますし、『フォックスマジック』の運用に関しても、私が何かを言ったところできっと無駄でしょう」


「だったら! アンタが私に文句を言う資格だってないわよね?」


「はい。……ですが、『フォックスマジック』の力を不用意に外に持ち出されてしまうのは困ります。特に、あなたのような人たちの手に渡ると、もっと良くないことが起こるような気がしますので……、荷物はそのままにして帰って下さい。後片付けは全て私がやっておきますから」


「……チッ、生意気な口を利くのもその辺にしておきなさい。これ以上何かするようなら、アンタだって痛い目を見ることになるわよ!」


「はい、もう終わりました」


「……は? ……え?」


 突然ズレた会話に顔を顰める七海は、すぐにその異変に気付き、目を疑った。


 倉庫中からかき集めた《スノーフォックス》のスキーウェアが全て元の場所に戻され、倉庫は彼女たちが足を踏み入れた時と全く同じ状態に、本来あるべき姿へと返されていたのだ。


 縛られて伏せったままの康介や吉田も、一瞬の変化に驚き、倉庫を隅々まで見回している。

 繰り返し起こる不可解な現象に、理解の追い付かなくなった七海は、得体の知れない恐怖を覚えて妖花を指差す。


「……アンタがやってるの?」


「はい」


 はっきりと答え、首肯する。


「……いったい、何をしたの?」


「……知らない方がいいと思います」


 妖花の答えが癇に障ったのだろうか、七海は怒鳴り声を上げて男たちに号令した。


「あの小娘を撃ち殺しなさい!」


「え? いいんですかい、姐さん?」


「いいのよ! あんな気味の悪い娘、殺してやった方が後の為だわ!」


 発狂した主人に困惑する従者たち。彼らは互いに目を合わせると、何か良からぬ考えを共有したのか、一斉に下卑た笑いを浮かべて懐から拳銃を取り出し、妖花を取り囲むように歩み寄って来た。


「姐さんからの命令だ。悪いがお嬢ちゃんには死んでもらうことになっちまった」


「だけどな? 君みたいなカワイ子ちゃんを一発で簡単に殺しちまうのは、ちょっと勿体ない」


「最後の手向けだ。お兄さんたちが一生分可愛がってあげるから、存分に気持ち良くなってから、あの世に逝きな」


「まずは簡単な射的ゲームだ。痛かったらその綺麗な声で、可愛い悲鳴を上げてくれよ?」


 七海に付いていた四人の男たちは、妖花をいたぶってから嬲り殺しにするつもりのようだ。


「妖花ちゃん逃げて!」


 康介が思わず叫ぶ。


「そうです、お嬢様、私たちのことは構わず、どうかお逃げ下さい!」


 吉田は這って妖花の盾になろうとするが、銀髪の少女はその言葉を無視して、その気持ちだけをありがたくそっと胸にしまった。


「大丈夫です。……あれも所詮は、人類が作り上げた歪な歴史の産物ですから」


 男たちは示し合わせてから、銃口を妖花に向けて構える。


 引き金に指をかけ、同時に発砲する。


 しかし、


 ――バン、

 という銃声は、いつまで経っても鳴り響かなかった。


 あれ? と首を傾げた男たちは各々で手に持つ銃を確認する。

 薬室に弾は入っている。安全装置も外れている。ならば不発弾かと思って、スライドを引き、新しい銃弾を装填してみるも、やはり拳銃はうんともすんとも言わず、その道具としての役目を果たすことはなかった。


「……〈存在の定義〉、剥奪はくだつ


 背筋を駆け上がる不気味な悪寒を感じて、男たちは顔を上げる。


 銃口を向けた先にいたはずの人間の少女は、頭に三角形の尖ったの獣の耳を二つ生やして、腰からは髪と同じ白銀に輝く毛並みの尾を一本垂らし、悠然とそこに佇んでいた。


 変化した妖花の姿に驚愕し、混乱して、目を奪われていると、手にしていた拳銃は次第に粒の細かい流砂に変わって男たちの手から零れ落ちていく。


「……おい、これは、どういうことだ?」「何が起こった?」「何をした?」「いや、さっぱり分からない」


 銃という力を突然奪われて、男たちの間にも動揺が走る。

 ただ、これが誰の仕業によるものなのかだけは、直感的に明確に理解することが出来た。


『偽りの栄光を簒奪さんだつせし妖花』。


 月宮妖花の持つ、もう一つの、もう半分の名前。


 大晦日の夜、竜道院舞桜との決闘に臨む妹を見て、義兄の静夜は言っていた。

 妖花が、普通の人間に負けるところなんて想像できない、と。

 そしてまた別の時、妖花の持つその力は、下手をすれば世界を滅ぼせるかもしれない、と静夜は言っていた。

 彼女自身も、その言葉を否定はしなかった。


 この場合で語られる、世界とは。

 偽りの栄光とは。


「……諦めて下さい。あなた方では最早、私に傷一つ付けることも出来ません」


 敵を蔑み、憐れむような視線で見下す。圧倒的強者の揺るがない余裕。

 慇懃無礼いんぎんぶれいなその態度が気に入らなかったのか、それとも目の前で起こった超常現象が未だに信じられないのか、男のうちの一人が今度はナイフを取り出して、妖花に直接斬りかかった。


 妖花は躱そうとしない。ゆっくり正面に向き直って受けて立つ。


「〈存在の定義〉、剥奪」


 ただもう一度、その呪文を繰り返した。


 大きく頭上から振り下ろされるナイフを、妖花は躊躇なく素手で受け止め、刃の部分を握って止めた。


「妖花ちゃん!」「お嬢様!」


 康介と吉田が叫ぶ。

 斬りかかった男は、やった、とほくそ笑む。が、ナイフが引き戻せないことに気付くと異変を感じて顔を上げた。刃を掴んでいるはずの少女の手からは、血が一滴も流れていなかったのだ。


「……もうこのナイフでは、柔らかい豆腐ですら切ることが出来ません」


 ナイフを放した妖花の右手に傷跡はなく、刃は見るからにその光沢を失っていた。

 試しに男が指先で刃先を触ってみると、ちくりとした痛みすら全く感じない。

 顔を蒼くし、まさかと思って今度は自分の手首に向かって勢いよくナイフを振り下ろした。刃はやはり、薄皮の一枚も切れずに皮膚をただ撫でただけで、それは、ただの鉄の塊と化していた。


 そしてまた、ナイフは先程の拳銃と同様に、砂へと変わって風に攫われる。

 信じられない光景だった。


〈存在の定義〉の剥奪。

『偽りの栄光を簒奪せし妖花』はそう呟いた。


〈存在の定義〉とは、その物体、事象が、この世の中に存在する意味や理由、力や役目を表し、器の形を示したものだ。

 それが剥奪されるということは、その存在の意味も理由も、力も役目も失うということ。


『鉛の弾を撃ち出す道具』である拳銃から〈存在の定義〉を奪えば、その道具は鉛の弾を撃ち出せなくなり、拳銃ですらなくなる。


『ものを切る道具』であるナイフから〈存在の定義〉を奪えば、その道具では何も切れなくなり、ナイフですらなくなる。


 この世に存在する意味も理由も、力も役目も無くなって、器の形すら見失ったそれは、やがて現世から完全に姿を消失させる。


 武器を失い、茫然とする男たちに、七海は苛立ちを募らせた。


「何やってるの! 銃やナイフが無くても、アンタたちにはその手があるでしょ! 武器が利かないなら殴り殺すのよ! 全員で取り押えて、骨が粉々になるまで叩き潰しなさい!」


 怒号に顔を上げ、拳を握る男たち。

 確かにそうだ。人は、たとえ道具がなくても、その手で様々なことを成して来た。

 文明を築き、歴史を積み上げ、今のこの世界を創って来た。


 男たちは、人類の誇りであるその両手を以って、か弱い少女を蹂躙せんと走り出す。


 それでもなお、微動だにしない妖花は、迫り来る男たちを見向きもせず、ただ柏手を一つ、――パン、と叩いた。


 それだけ。たったそれだけで、少女の元へ走り迫っていたはず男たちは、彼女から離れた元居た場所へ戻されて、走り出す前の状態で、立ち尽くしていた。

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