第3話 不吉な噂話

二つの噂

「……へ、へ、ヘクチッ!」


 暖房の利いた暑苦しい休憩所のレストランに、遠慮がちなくしゃみが響き渡る。舞桜はポケットティッシュを取り出して鼻をかんだ。


「……風邪、さっきよりも酷くなってない?」


 正面に腰かけた静夜が心配そうに顔色を覗き込む。温かい室内だと言うのに、舞桜はレンタルしたウェアを脱がずに羽織って、今も寒そうに身体を震わせていた。


「貰った薬はちゃんと飲んだんだよね?」


「ああ。だが、さっきから徐々に寒気がして来た。……このウェア、欠陥品なんじゃないのか?」


「単純に無理してスキーをやったからだよ。もっと早く休憩にすればよかったのに……」


「やっている間は何ともなかったんだ!」


 語気を強めて訴えても、そこにいつもの威勢は感じられない。やはり、少し疲れもあるようだ。


 初めてのスキーに挑戦する舞桜の面倒を見ているうちに、気付けば時刻は正午過ぎになっていた。何度転んでも立ち上がる彼女に、静夜は無理せず休憩しようと繰り返し諫めたのだが、それを素直に聞き入れる少女ではなく、結局、お腹の中に飼っている虫が悲鳴を上げるまで、青年は練習に付き合わされる羽目になった。


 風邪気味であっても食欲はちゃんとあるらしく、スキー場特有の辛口カレーにトンカツをトッピングして、舞桜はいつもと変わらない勢いでスプーンを口へ運んでいく。むしろ食が進まないのは、身体は元気なはずの静夜の方だった。


《スノーフォックス》が《陰陽師協会》の力を借りて『フォックスマジック』を運用、研究している。


 星明はただの噂話と言っていたが、静夜には最早、そうであるとしか思えなかった。


 雪ノ森冬樹の死後、残された雪ノ森の親族、並びに《スノーフォレスト》の経営陣が、『フォックスマジック』の運用を試みても、彼らにはそもそも、そのための知識と技術と設備がない。そこに《陰陽師協会》が付け入った。協会にとって『フォックスマジック』は喉から手が出るほど欲しい代物に違いないし、雪ノ森の一族も経営不振に陥っていた会社を復興させるためには、《スノーフォックス》の商品とブランドの力が必要不可欠だった。お互いの利益と目的は一致している。それに、協会の力があれば、化学繊維に対する『フォックスマジック』の適応に成功したとしてもなんら不思議はない。


(いや、でも、それは絶対に不可能なはずだ。雪ノ森冬樹は、それを防ぐために『フォックスマジック』を完成させたんだから。ニット以外のものに適応された時点で、それはもう『フォックスマジック』じゃない……!)


「……どないしたん? 静夜君、えらい怖い顔しとるけど……?」


「え? 栞さん! いつからそこに……⁉」


「何時からって、さっき来たばっかりやけど、気付かへんかったの? 珍しい……」


「兄さんも、何か考え事ですか?」


 物思いに耽っていると、昼食を買って戻って来た栞と妖花がすぐ隣に立っていた。


「あれ? 康介は?」


「あっち」


 栞が目で示すと、康介は荷物を置いたこちらの席ではなく、星明の連れの女子大生数名と同じテーブルに付いて食事をしながら楽しそうに談笑していた。

 いつの間に仲良くなったのか。相変わらずのモテっぷりだ。午後からはスキーをやっていた女子が数名、スノーボートの方に移るかもしれないな、と静夜は思った。


「そんで? 静夜君は、何の考え事しとったん?」


 舞桜の隣に座りながら、栞が問いかけて来る。


「いや、別にそんな大したことじゃないよ……」


「もしかして、静夜君も聞いたん? あの噂話」


「う、噂話?」


 栞の口から飛び出した単語に、惚けようとしていた静夜の心臓は大きく脈打った。隣に座った妖花の表情を覗き見ると、朝よりもさらに伏し目がちになって、深刻そうな顔をしている。


「さっきな、一緒に滑っとった男の子たちから聞いたんやけど、最近、このスキー場で遭難者が続出しとるんやって」


「え? そ、遭難者?」


「うん。ニュースとかにはなってへんのやけど、このホテルに泊まるはずやったお客さんが夜になっても帰ってこうへんくて、朝になったら、そのお客さんが決まってホテルの前に倒れとるっていう遭難事件が、何回か起こっとるんやって」


「何回かって、遭難者がみんな遭難した日の翌朝に、自力でホテルまで辿り着いたっていうの?」


「う~ん、その辺のことはよく分からへんけど、普通はそんなことあり得へんやろ? せやから変な噂話になってんねん。……もしかしたら、この山には妖怪や化け物みたいな何かが住み着いとって、スキーをしとる最中のお客さんらを連れ去って、朝になったらホテルの前に置き去りにして、そしてまた次の獲物を狙っとるんやないかって……。そんな都市伝説や怪談話みたいな感じになっとるんやって……」


「よ、妖怪や化け物なんてこの世にはいないよ。迷信だよ」


「……陰陽師の静夜君がそれ言ってええの?」


「……」


 よくない。

 強い霊感を持つ栞と、今日も彼女の髪をまとめる簪に付けられた〈厄除けの鈴〉に睨まれて、静夜は心の中で反省した。

 いくら現実から目を背けても、陰陽師である静夜たちは知っている。この世には、妖怪も化け物も人の目には映らないだけできちんとそこに存在しているのだ。


「……じゃあ、その妖について何か目撃情報とかないの? 遭難して帰って来た人の話とか……」


 静夜は表情を真面目に引き締めて、追加の情報を求める。

 しかし栞は、残念そうに首を横に振って簪の鈴をチリンと鳴らした。


「ホテルの前に置き去りにされとったお客さんたちは、みんな生きて帰って来はったらしいんやけど、遭難しとった間のことは何も覚えてへんのやって」


「……まあ、妖に襲われたんなら、普通はそうだよね……」


 期待した通りの答えが返って来て静夜は項垂れる。


「自分たちがスキーやボードをしとった最中のことは覚えてはるみたいなんやけど、自分たちがどこで気を失って、どこでレンタルしたスキーウェアを失くしたのかとかは、さっぱり分からへんのやって……」


「え?」


 聞き逃してはいけない情報を耳にしたような気がした。


「……な、何を、失くしたって?」


 静夜の表情から徐々に血の気が引いていく。

 栞も彼の焦燥を察し、神妙な面持ちでゆっくりと答えた。


「スキーウェア。……遭難したお客さんらはみんな、翌朝見つかった時には、ここでレンタルしたスキーウェアを全部失くして、ほとんど裸みたいな格好でホテルの前に捨てられとったらしいで……」


「こ、ここでレンタルした、スキーウェア……?」


「……うん。ここでレンタルした、……『フォックスマジック』のかかったスキーウェア」


「……」


 妖花の表情が更に暗くなっている理由が分かった気がした。


 雪山で遭難した人が自らスキーウェアを脱ぐとは思えないし、自力でホテルに辿り着けるとも思えない。

 もしもこの連続している遭難事件が、この山に潜む妖の仕業であるとすれば、その妖の目的はおそらく、このスキー場でレンタルされているスキーウェア。もっと言ってしまうと、そのスキーウェアに施されている『フォックスマジック』そのもの。


 それに、同じスキー場で遭難事件が繰り返し起こっているにもかかわらず、それが大きく報道されていないということも引っかかる。

 何か得体の知れないものが裏で動いていると見て、間違いないだろう。


「……妖花は、」


 言いかけて、止める。静夜の口から出かかった言葉は続かなかった。

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