栞のわがまま

 翌朝、静夜は今日も変わらず、ローソファを広げた簡易ベッドの上で目を醒ます。


 ――ピーンポーン、とインターホンの音が部屋に響くと静夜は眉をピクリとさせ、意識をはっきりとさせた。寝袋を開けて体を起こすと、足音を殺して玄関へ向かう。

 寒さが厳しくなる早朝の時間にこの部屋を訪ねて来る人物に対して、無条件に警戒心が高まったのだ。


 ドアスコープを覗くと、そこに立っていたのは意外な人物。


「し、栞さん⁉」


 目を見張り、慌ててドアを開ける。栞は寒さに鼻を赤くし、白い息を吐いて、申し訳なさそうに笑って見せた。


「ごめんな? こんな時間に」


「え? 何、どうしたの?」


 飾らないナチュラルメイクで出かける身支度を完璧に整えている栞と、寝起きすぐで髭も剃られていないままの静夜。外から入り込んだ空気が素足を冷やすことさえ気にならなかった。


「一晩考えたんやけど、やっぱりウチも静夜君たちと一緒に舞桜ちゃんの家に行こうと思って……」


「え、でも……」


「ここでまた引き下がったら、今までと何も変わらへん。今回の事は、ウチも最後までちゃんと見届けなあかんって思うねん」


 力強く語る栞は拳を握って静夜に詰め寄る。その剣幕に静夜がたじろいでいると、彼女の髪を留めている簪の鈴が、自分は止めたんですよ? とでも言わんばかりにチリンと鳴った。


「……とりあえず、中に入って」


 観念した静夜は、栞を部屋の中へと招き入れる。

 暖房をつけ、寝袋を片付けてからベッドになっていた折り畳みのローソファを元に戻し、栞をそこに座らせる。洗顔などの軽い身支度を済ませると、静夜はまず朝食の準備から始めた。


「栞さん、ご飯は食べて来た?」


「あ、その……、実は急いで始発に飛び乗ったから……。静夜君たちがいつ出発するか分からんかったし……」


 恐縮そうに身を縮めて、栞は座椅子の上で正坐をしている。もっと楽にしてもいいよ、と静夜は苦笑いでそう言った。


「せ、せやけど、勢いだけで来てもうたし、静夜君の部屋に入るのも初めてやから……。……け、結構、片付いとるんやね……」


「まあね。……っていうか、そんなことより、なんで栞さんはこの部屋が分かったの? 住所も部屋番号も教えたことなかったよね?」


 冷蔵庫から卵を取り出しつつ静夜はふと気付く。すると、栞はまたきまりの悪い顔をして、恥ずかしそうに白状した。


「それは、……静夜君に直接訊いたら止められそうやったから、康君に聞いたらすぐに地図で教えてくれて……」


「チッ、アイツ……」


 ニヤニヤと笑う悪戯好きの顔が頭に浮かんで、思わず舌打ちが出る。栞はますます落ち着かない様子で室内をキョロキョロと見回していた。


「なあ静夜君、妖花ちゃんは?」


 不安と緊張が入り混じるような声で栞はキッチンに向けて問いかける。

 昨夜、彼の部屋に泊まったはずの友人が見当たらず困惑したのだ。この時間にどこかへ出掛けているというのは考えにくく、また、この1Kの狭い部屋では姿を隠し切れないはず。それなのに、静夜以外の人の気配が一切しない。

 その時、ベッドの上の羽毛布団がモゾっと動いた。


「え、何⁉」


 ビックリして栞はその場で飛び跳ねる。キッチンから顔をのぞかせた静夜はベッドを見て、


「妖花ならまだ寝てるよ。この時間ならまだぐっすりだから、多少うるさくしても構わないよ?」


「寝てるって、……え?」


 栞はもう一度、まじまじとベッドを観察する。大きさは一般的なシングルサイズで寒さを凌ぐための分厚い毛布が羽毛布団を覆っている。妖花はその中に身を丸めて埋もれていると思われるのだが、羽毛布団の膨らみは小さく、とても人一人がその中に居るとは思えなかった。彼女の特徴である長い銀髪が布団の端からはみ出ていることもない。この中に本当に、静夜の言う通り妖花がいるのだろうか。


 怪しすぎるそのベッドから距離を取って、栞が訝しく思っていると、静夜が布団の端を摘まみ上げ、中を覗き込む。


「うん、ちゃんといる。ぐっすり寝てる」


「ほ、ほんまに?」


 半信半疑の栞に、静夜はシーっと人差し指を口元に立てた。


「……絶対ビックリすると思うけど、悲鳴とかは上げないでね。今妖花が起きちゃうと、後が絶対面倒だから」


「……? どういうこと?」


「まあ、見れば分かるよ。……妖花は裸を見られるよりも、寝顔を見られる方が嫌なんだ」


 そう言いながら、静夜はもう一度布団を少し持ち上げる。中を覗いた栞は、驚愕のあまり却って言葉を失った。


「……こ、これが、妖花ちゃん?」


「うん。……寝るときはどうしてもこうなっちゃうみたいなんだ」


 毛布と布団の下に埋もれて眠っていたのは、一匹の狐。白銀の毛並みは新雪のように美しく、ふわふわで柔らかそうな一本の尻尾に顔を埋め、耳と目を閉じて寝息を立てている。身体の大きさは小型の柴犬と同じくらいで、丸くなればもっと小さい。とても可愛らしく、それでいて神々しい狐だった。


「……寝ている間は無意識に妖力が漏れ出て、この姿に変化するんだろうって義父さんが言ってた。妖花ならではの寝返りの一種だと思うけど、本人はこの姿を見られるのがかなり恥ずかしいらしい」


「へぇえ……」


 静夜が布団を戻しても栞は唖然としたままで、想像を超える現象を目の当たりにして思考が止まっている。


「……妖花ちゃんって、ほんまに『半妖』なんやね……」


 ようやく零れ出た感想は、実感を伴って重い呟きとなった。今まで話に聞いて、頭で理解はしていても、それが本当はどういうことなのか、曖昧だったものがはっきりと現実として突き付けられて、栞はその真実に圧倒される。


 幼いころからあの寝顔を見慣れている静夜でさえも、妖花の変化を見る度に実感してしまう。


「うん。……やっぱり、どうしても違うんだよ。僕たち普通の人間とは……」


「……静夜君だって、普通の人間とは違うやん」


 栞は、壁際に置かれたカラーボックスを見やる。そこには呪符や拳銃などの法具が置かれ、その上には、藍色の鞘に納められた夜鳴丸が飾られるように鎮座していた。


 静夜は首を横に振る。


「ううん。僕は普通の人間だよ。少し陰陽術が使えるってだけの、ただの人。……本物の陰陽師は、こんなのじゃない」


 栞には謙遜に聞こえるかもしれないが、静夜にとってはそれが事実。覆ることのない現実。むしろ、強すぎる霊感を持っている栞の方が、彼に言わせれば非凡な存在だ。


「……栞さん、栞さんがちゃんとこっちの世界を見て、きちんと理解したいと思っているなら、僕はもうそれを止めない。でも、覚悟だけはしておいた方がいい。特に、今日これから行く竜道院家は、まさに怪物たちの巣窟だ」


 諭すように、あるいは脅かすように、真摯に忠告する静夜の剣幕に、栞は息を呑む。


 憑霊術を扱う、霊媒体質の舞桜をはじめ、


 酒吞童子討伐の英雄、竜道院星明、


 伝説の陰陽師の再来、竜道院羽衣、


 そして、何より恐ろしいのは、その歴史。あの家に、流れるその血に、刻み込まれた名前に、長い年月をかけて染み付いた伝統と矜持。


 それは、たとえ《陰陽師協会》の代表という肩書があろうと、半妖という比類なき力があろうと、二十歳にも満たない学生たちが束になって掛かったところで、簡単に崩せるものではないし、揺るがすことすらも叶わないだろう。


「決闘の内容やルールを決めるって言っても、駆け引きは既に始まっている。フェアな決闘なんて、陰陽師の世界にはないからね。……でも、一度足を踏み入れたら最後、この世界から足を洗うのは簡単じゃない。それでも構わないと思うなら、付いて来てもいいよ」


 薄い朝日が差し込んでくる。今日の天気は曇り空。暗雲が立ち込める先行きを、栞は暫しの間静かに考え、静夜の眼を真っ直ぐに見据えると、ゆっくりと深く頷いた。


「……うん。ウチもいい加減、目を背けるのは止めにする。もう、逃げへん」


 改めて口にした決意。簪の鈴は雲の間から差し込む僅かな光を集めて輝く。

 静夜は遂に観念した。これ以上、彼女を拒絶して遠ざけるのは、その覚悟に対して失礼だ。


「……分かった」


 たったそれだけの答えで、静夜は振り返りキッチンへと戻る。その背中に栞は少しだけ寂しそうな視線を送った。


 その時、ベッドの上でもぞもぞと何かが動いた。


「……あれ? 栞さん?」


「あ、おはよう、妖花ちゃん」


「……えっと、ここは、どこですか?」


 意外にも早い時間の起床で、まだ意識が判然としていないのか、妖花は人間の右手で目元を擦る。血もまだ巡っていないのか、頬の色はいつもより白かった。


「妖花おはよう。とりあえず、まずは服を着なさい」


「あ、兄さん、おはようございます。……服?」


 静夜は熱したフライパンに溶き卵を流し込む。手元だけを見てベッドは見ない。一緒に住んでいたころからよくあったことだ。


「あ、」と頭に血が行き届き始めて妖花はようやく気付く。その場で探ると、変化のせいで脱げてしまったパジャマと下着が手に絡まった。


 顔を一瞬で赤く染め、服と布団を身に引き寄せる妖花。いつもの笑顔を向ける栞と目が合った。


「……もしかして、見ましたか?」


「……うん。ちらっと」


「兄さん!」


 鋭い非難の声が飛ぶ。静夜は卵焼きの形を整えながら悪びれずに答えた。


「別にいいんじゃない? 裸じゃないと寝れない人って一定数はいると思うよ?」


「そういうことを言っているんじゃありません! というか私はちゃんとパジャマを着て寝ています! 起きた時にたまにこうなってしまうだけです!」


「それは知ってるし、まあ、しょうがないよね、狐の時はサイズがかなり小さくなっちゃうし。やっぱり、狐用のパジャマを買ってきた方がいいんじゃない?」


「平然とした口調で面白くもない冗談を言うのはやめて下さい」


「でも真面目な話、変化をコントロール出来ないなら、最初から裸で寝た方が楽なんじゃない?」


「昔から言っていますが、それは絶対に嫌です。そんなはしたないことは出来ません」


「それははしたないからじゃなくて、朝僕に起こされた時に、寝ぼけたまま布団から出ると、全裸を見られるのが確定するからでしょう?」


「そ、それは……ッ!」


「よっぽどのことがない限りは部屋のドアをノックするだけで、部屋に勝手に入って直接起こすなんてしなかったのに、わりと僕って信用されてないよね」


「それは、決して兄さんを信じていなかったのではなく、寝起きの自分を信じられなかっただけというか、……寝顔を見られるのは一番嫌ですが、だからといって兄さんに裸を見られていいわけじゃありませんから! それに、どうして栞さんがここにいるんですか?」


「やっぱり栞さんも付いて行くんだって」


「え? いいんですか、栞さん?」


 我に返って栞を見る妖花。栞は迷いのない笑顔を返した。


「うん。ウチもちゃんと最後まで見届けなあかんと思って……」


「……そう、ですか」


 妖花は何かを言いかけて言葉を呑む。彼女の表情からその想いをくみ取ったのだろう。


「それに、ええもんが見れたし、強引に押しかけてよかったわ」


「それは今すぐ忘れて下さい!」


「えー、めっちゃ可愛かったで? 妖花ちゃんの寝顔」


「そんなことありません! 実生活の上ではすごく不便ですし、修学旅行の時などはいつもこの体質に悩まされるんですから」


「確かに言われてみればそうやな。その時ってどうするん?」


「……修学旅行の時は、嘘の事情を話して一人だけ別室を用意して頂きました」


「あぁ、それは寂しいな。夜のガールズトークとか出来ひんやん」


「修学旅行の夜は、本当にそういう話をするものなんですか?」


 布団にくるまったまま身をよじって服を着る妖花は、経験したことがないため分からない。

 栞は当時を思い返して斜め上の空中を見る。


「う~ん、ウチの時は、友達の彼氏の自慢話とか愚痴とかを延々と聞かされとったかなぁ。ウチ以外はみんな彼氏おったから、ウチの彼氏あげる~、とか、なんで彼氏作らへんの? とか、そんな話をしとったかな?」


「ガールズトークのキャッキャウフフは闇が深いな」


 話を聞いていた静夜も思わず頬が引き攣った。男子の方は下ネタが多いが、無邪気で馬鹿な分、いくらかマシかもしれない。


「……そういう話なら、正直私も遠慮したいですね」


 妖花は兄に同調すると、ようやく布団から脱皮してベッドを降りた。出掛ける用の服を綺麗に着て、パジャマはきちんとたたまれている。布団の中で必死に動いたようだ。


「兄さん! ……後で少し、お話があります!」


「……ちょうどいい。実は僕にも話があるんだ」


 ピシっと指を伸ばした妖花に、静夜は首だけで振り向き答えた。


 コンロの火を止め、白磁の皿に朝食を盛り付ける。

 出来上がった卵焼きは、焦げ目がなく、綺麗な黄金色に仕上がっていた。

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