覚悟の理由

 鋭い刀のような寒さを感じて、静夜はハッとなり目を開ける。


 濃紺の夜空。月は眩しく、背を預けていた左近の桜にまだ花はない。彼の顔を見下ろす少女の表情は逆光のせいでよく見えないが、その妖しく光る朱色の瞳が少しだけ潤んでいるのは、すぐに分かった。


「……戻って、来れた……?」


 虚ろな声で静夜が問うと、立ち尽くしていた少女は安堵の息をついて肩を落とす。


「どうやら、無事みたいだな」


 静夜は周囲を見渡して、状況の整理を試みた。


「……母上や将暉たちなら、さっき来た《平安会》の連中が連れて帰った。私の処遇は、後日改めて協議の場が持たれるそうだ。私に弁明の機会があるとは思えないがな」


 舞桜がそう言う通り、平安神宮の境内は閑散として何も残っていなかった。崩れた建物や凹んだ大地も元に戻っており、何事もなかったかのように平然としている。


 自嘲気味に笑う少女は憑霊術を解き、木枯らしに流れる黒髪は、美しい夜に溶け込んでいた。


 静夜がゆっくり立ち上がろうとすると、舞桜は慌ててそれを制する。


「お、おい、まだ立ち上がるな! いきなり倒れて、一時は呼吸も心臓も止まってたんだぞ? それこそ、死人のように……」


 そう言われると、確かにまだ足に力が入らないのか、思うように立ち上がれない。一度諦めて胸に手を当てると、静夜は自身の中に祀られた護心剣の存在を確かに感じた。


「……護心剣は、やっぱり舞桜が戻してくれたの?」


「あ、ああ。……護心剣を近付けたら、剣が勝手にお前の中に吸い込まれていって……。静夜、あれはいったいどういうことなんだ?」


 舞桜は混乱しているのか、おろおろとした声で静夜に問う。

 静夜はどう答えるべきか少し迷って、隠すことでもない、と思い直すとそのまま淡々と話し始めた。


「別に、大した話じゃないよ。……小さい頃、儀式の失敗に巻き込まれて、僕は一度死にそうになったことがあるんだ。……結構大きな事故だったらしくて、両親はその時一緒にいて助からなかった。僕は身体から魂が引き剥がされて、もう少しで手遅れになるってところを、たまたま居合わせた月宮兎角に助けられた。それだけ」


「身体から、魂が引き剥がされた?」


「って、義父さんからはそう教えられた。まだ幼かったから、その辺のことはよく分かってないけど……、でも、護心剣が、僕の霊魂をこの身体に繋ぎ止めてるってことは、なんとなく分かるんだ」


「……だから、抜いたら数分で戻さないと命に関わる、ということか?」


「そういうこと」


 本当は、何があっても絶対に抜くな、と義父と義妹からきつく言われていたのだが、三年ぶりだから大丈夫だろうと少し甘く見ていた。妖花にバレたらかなり怒られるな、と静夜は長いお説教を覚悟した。


「……お前は、どうして、そこまで……?」


「え?」


 小さな声が舞桜から漏れる。聞き返すと、彼女は肩を震わせていた。


「……なんでお前は、そこまでしたんだ? お前は、出来ることしかやらないんだろう? だったらどうして、命を懸けてまで私を助けようとしたんだ? ……見捨てればよかっただろう? 禁術を扱い切れなかったんだから、自業自得だ、と」


「……」


 その自虐はなんだかおかしい。舞桜は憑霊術をうまく使いこなしていた。妖が暴走したことも舞桜に直接の原因はない。


 いや、舞桜の心が震えているのは、きっとまた別の理由からだ。

 少女の今にも泣き出しそうな顔を見て、静夜はふと思う。


 きっとこれが、竜道院舞桜の本当の顔なのだろう、と。


 涙を堪え、見栄を張り、強がることに必死になって、意固地になって、……でも、胸の奥では、いろんなことを感じている。頭ではいろんなことを考えている。


 だから、少女は今、胸が張り裂けそうになっている。今夜はいろんなことがあり過ぎたから。14歳の女の子が、心の平穏を保つには、少し辛い。


 穏やかな声と、真摯な言葉で、青年は少女に答えを返す。


「……僕が護心剣を抜いたのは、それしか手段がないと思ったから。どうにもならないと思ったけど、それでも何とかしたいと思ったから。君と同じように、納得できないと思ったから……。そして何より、君を、こんなところで終わらせたくないって思ったから」


「……」


 鼻をすする音。それは彼女が、意地を張る音。もう泣かないと、見栄を張った音。

 それを見て、静夜は思わず苦笑いを溢す。


「……やっぱり君は、昔の僕によく似ている」


「は? 私が?」


「……そこで、心外だ、みたいな顔するのはやめてくれる?」


「似てないだろう? お前と私は」


「今はね? ……でも僕にだって、そういう時期があったんだよ。今の君みたいに、馬鹿みたいな意地を馬鹿みたいに張ってた時が」


「馬鹿みたいってなんだ⁉」


「馬鹿みたいは馬鹿みたいさ。馬鹿みたいで、下らなくて、子供っぽくて、なんか眩しい」


「……お前、さっきからおじさん臭いぞ?」


「それ、さっきも同じようなことを言われたよ……。でも、少なくとも君よりは年上だし、つまり君よりは大人なわけだ。だから、おじさん臭くなるのも仕方ない」


「何が大人だ。調子に乗るな。五年しか違わないくせに」


「五年も違うんだよ。……五年も」


 たった五年、されど五年だ。それに、14歳と19歳では五年という時間以上に何かが違う。何かが大きく変わってしまっている。


 きっと、14歳の少女がこれから歩く五年間は、ただの五年間では済まされない。

 それは、彼女の価値観を、幸福を、人生を、あるいは自分という〈存在の定義〉を、もしかしたら決定付けてしまうかもしれない五年間になる。

 19歳の青年がこれから迎える五年間とは、全く違う速さで、比べ物にならない密度で。


 とても大切な意味を持っているはずなのに、本人にはその自覚もなく、覚悟も決まらないうちに、かけがえのない日々は情け容赦なく未熟な心に襲い掛かって来る。


 何処まで逃げても逃げきれない。目を逸らしてもそこにある。どんなに苦しくても、ただ向き合って、戦い続けるしかない。それが現実。それが自分。


 五年経てば、きっと彼女にも分かる。その時には、今とは違う景色があって、今とは違う未来が見えて、今とは違う自分がいる。あの頃とは、違う自分になっている。なってしまう。


 その時になって、現実の辛さや自分の惨めさに失望することがないように。


 五年後に、五年前を羨むことがないように。


 ちゃんと夢を語れるように。意地を保っていられるように。その意地を、誇りと呼んで笑えるように。


 世界の理不尽に、負けないように。


「まあ、せいぜい頑張りなよ。……僕も、ちょっとくらいは頑張るからさ」


 そんな言葉が自然と溢れた。


「ちょっとって……、お前は、普通にもっと頑張るべきじゃないのか? 陰陽師としても、人間としても」


「……そうかもね」


 偉そうにそんなことを宣う月宮静夜にだって次の五年がある。

 20歳になって成人して、大学を卒業して社会に出れば、もう言い訳はできない。

 彼はどうしようもなく、大人になる。その時に、どんなことを想っているのか。どこにいて、何をしているのか。今からでは想像もできない。ある意味、考えたくもない。


 それでも、


 少なくとも、彼女との約束は守りたいと、静夜は思う。

 一応、それが今の仕事であるし、こんな自分でも出来そうなことだと思うから。


 そして、何より、


 初めて目にした狂い咲きの桜が、息を呑むほど綺麗だったから。

 儚く舞い散る桜の花が、胸を締め付けるくらい美しかったから。


 月宮静夜はもう一度、舞桜が咲くところを見たいと思った。


 ――師走。

 春はまだ遠く、桜の蕾は眠っている。凍てつく風が吹きつける。

 いつか、この京都の街で、美しい夜桜が鮮やかに咲き誇れる日を。

 その夜、青年はそんな未来を夢に見た。

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