【7本目】宇宙戦争(2005年・米)
【あらすじ】
港で働くしがない労働者のレイ・フェリエは、離婚した妻とも彼女との間の子供
とも良好な人間関係を築けない日々を過ごしていた。ある日彼は元妻とその再婚相手に、彼女たちがボストンの実家に向かう間彼らの子供・ロビーとレイチェルの面倒を見ておくように頼まれる。
そんな折、町の複数の場所に稲妻がほとばしった。あまりにも突然の出来事だったが、さらにほどなくして、落雷地点から現れた謎の三脚歩行兵器【トライポッド】は、光線によって人々を次々と殺戮し始めた。
かくして、レイとその二人の子供による、正体も行動原理もわからない”何か”からの逃避行が始まった―――
【感想】
スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演という豪華な布陣で製作されたこの映画(【マイノリティ・リポート】のコンビでもありますね)は、H・G・ウェルズの小説【宇宙戦争】から約一世紀、ジョージ・パル監督による1953年公開の映画【宇宙戦争】から役半世紀経過しています。原作小説も1953年版の映画も、それぞれ当時の政治・社会情勢を踏まえ、それに警鐘を鳴らすような作品作りになっています。
当然この2005年版の【宇宙戦争】も当時(ほぼ現在ですが)の情勢を踏まえた世界観とストーリーラインが展開されています。今回は三つの点から、従来の【宇宙戦争】と比べてどのような新しい要素が導入されたのか、ということについて書きたいと思います。
一つ目に、【戦争の脅威】が【テロの脅威】という形をもって市民の間に現れたことです。ジョージ・パル版【宇宙戦争】が上映された1953年から50年が経過して、東西ドイツ統一やソ連の解体によって冷戦構造が崩壊し、核戦争が起こるような心配もなくなりました。
その代わりに起こったのが、2001年9月11日に起こった同時多発テロに代表されるテロ事件でした。(この映画の公開とほぼ同時期に、ロンドンでも同時多発テロが発生しています)911のテロで【国家vs国家】から【国家vs組織】という戦争の図式の変化が露呈したことは有名ですが、国家に攻撃する組織は、多くの場合軍人ではなく武装もしていない市民を標的とします。911以降の米国市民たちは、超大国同士の戦争ではなく、毎日をいつも通り過ごしている自分たちがいきなり爆破事件の標的となるようなテロリズムにこそ、よりリアルな恐怖を感じるようになったわけです。
この映画で主人公が出くわした【トライポッド】の落下地点は、1953年版のような野原ではなく、人々がにぎわう街中です。そして1953年版で主に殺戮の対象となったのが火星人と戦闘行為を行う軍人たちだったのに対して、この2005年版で対象となるのは何気ない毎日をただただ生きていた市民たちです。市民たちがいきなり生きるか死ぬかの脅威にさらされるテロリズムの恐怖が、この映画では描かれています。
二つ目に、【火星人】なるものの存在にほとんどリアリティがなくなったことです。1970年代におけるマリナー探査機、バイキング探査機などによる惑星探査によって、火星は生物はおろか有機物すら存在しない死の惑星であることが明らかになりました。その後の探査で火星に生命の痕跡があると主張した研究結果もあるにはありましたが、少なくともウェルズ版【宇宙戦争】以来信じられてきたタコ型の火星人は、70年代以降もはやリアリティのある存在ではなくなったことになります。
そうなると、劇中で火星人が地球を侵略する意図を語ったり、【火星から宇宙人が攻めてきた】という状況を科学者か何かのキャラクターが解説したりしても、リアルな描写としては受け取ってもらえないわけです。
尤もスピルバーグほどの監督であれば、火星人の設定説明をリアリティを以て説明させることもできるでしょうが、この映画で彼らの目指すリアリティはそこではありませんでした。
脚本担当の一人であるデヴィッド・コープは、【宇宙戦争】のリメイクを作るにあたって、【映画に入れるべきじゃないものリスト】を作成しましたが、その際には【火星人】自体がリストに含まれていました。つまり1953年版にあったような火星人が地球を侵略地点に選ぶような場面や、科学者が彼らの正体は火星人だ、と解説するような場面は、リアリティがないためにすべて撮影すらされないことになったのです。火星人や科学者の代わりに登場したのが、【得体のしれない殺戮者】と【一般市民】だったわけです。
三つ目に、個人的にこれが最も重要な変化だと思っていますが、メディアの主体が、テレビ局やラジオ局から、直接の目撃者たる大衆へと変化したことです。
このスピルバーグ版【宇宙戦争】の上映は2005年ですが、この年は動画配信サイト・YOUTUBEがサービスを開始した年でもあります。YOUTUBEとその派生サービスが、映像メディアの個人化を現在にいたるまで推進していることは言うまでもありません。またこの年の前年にはFACEBOOKがサービス開始するなど、本格的にSNS時代の始まりを予感させる時期でもありました。
話は変わって、この映画では終始、主人公であるレイの視点で描かれます。巨大な三脚の怪物が街を闊歩したり、怪物が光線で人々を殺戮したり、怪物が人々の血を吸い取ったりと、カメラアングルによってはいくらでも印象的に撮れそうなシーンであっても、レイが遠くにいれば遠くからしか映りませんし、レイが隠れていれば一部しか映りません。そう、まるで事件や災害が起きたときによくYOUTUBEにアップされる、目撃者が撮影した動画のような視点で動くのです。
1953年版の映画でメディアの主体がテレビやラジオ(テレビは当時まだ新しいメディアでした)で、最前線で取材するリポーターによって火星人による侵略の現場が臨場感ある形で伝えられていた場面とは大きく異なる場面です。
電波法によって放送を許可されたテレビやラジオではなく、一般大衆がインターネット、SNSを介して自分たちの目線で、自分の主張を、自分たちのやり方で不特定多数相手に発信する時代。そのような時代に大衆にとってリアリティのある映像として受け入れられるのは、最前線にいるテレビカメラの映した臨場感ある映像ではなく、多少迫力がなくとも一般市民の視点から映された視点だ、と、スピルバーグ率いる製作スタッフは考えたのかもしれません。
【火星人のいない時代】であり、【戦争よりテロリズムがリアルな時代】でもある2000年代中盤に、H・G・ウェルズの【宇宙戦争】は本来リアルな映像として再現できる作品ではもはやありません。しかし、製作陣は同時代のもう一つの特徴である【メディアの個人化が始まりつつあった時代】という側面を利用して、19世紀の物語である【宇宙戦争】を【一般市民の視点から謎の侵略者の殺戮を描く】という形で見事に21世紀の物語として復活させたのです。
(でもこの映画よりさらにメディアの個人化が進んだ2016年に、海の向こうで一般市民キャラ皆無のシンゴジラが大ヒットするんだからわからんもんです……)
【好きなシーン】
米軍と”何か”との戦争を見届けようとするロビーと、見知らぬ老夫婦に連れていかれようとしているレイチェル、タイミング的にどちらか一人しか助けられないという状況に陥るシーンですかね。
この映画のテーマの一つとして、侵略者から市民を守る軍人や侵略者の弱点を見つける科学者ではなく、どこにでもいるような人の親であっても誰かを守るヒーローになれる、というメッセージがあるわけですが、二人の子供を守るヒーローであるレイにあのようなちょっとしたトロッコ問題的シチュエーションを投じるという脚本は、(ラストでああなるとはいえ)悪趣味そのものだと思えました。しかし同時に、一般人の家族が災害やテロ事件に巻き込まれたとき、ああいう状況に陥る可能性は決して低くないんだよな……と思うと背筋が凍るシーンでもありました。
また中盤のレイたちが車を奪われるシーンや、ティム・ロビンス演じる中年男性の錯乱など、様々なシーンで原作小説などで表現されてきた【大衆の想像力の暴走】がちゃんと受け継がれていたのも、個人的にポイントが高い部分です。
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