第5話

 小菊は彼に連れられて山を下りた。久しぶりの人里だった。けれども小菊が生まれ育った街とは違う所だった。大きな家の裏口前に立たされ、彼は徐に菊の花を一輪手渡した。

「菊の花は、百花がしぼみ、草木が枯れ始めた晩秋に咲く。寒い西風や厳霜をものともせずに瑞々しい香りを放ち、静かに且つ美しく咲き誇る。お前もその名に優ると劣らぬ大人になったならまた会いに来よう」

 小菊が差し出された菊の花を受け取ると、彼はそっと頭を撫でた。

 しんしんと粉雪が舞う中、木菟風の妖しの背中が小さくなっていく。小菊はついて行こうかと思った。まだ、心の何処かで兄なのではないかという期待があったからだった。けれども、兄である確証はない。彼はああ言っていたが、黒子だって偶々、兄と同じ場所にあったというだけかもしれない。色々と思う事はあったが、小菊は足を踏み出せず見送った。

 彼が行ってしまった後、子供が居なかった家の養子になった。読み書きが出来たので数年後には商いの帳簿を任されるまでになった。年頃になると商いを盤石にしたい養父の勧めもあり結婚。三人の子供を育てながら目まぐるしく年月は過ぎて行った。

 小菊はいつの間にかあの妖しの事などすっかり忘れていた。彼の事を思い出したのは四十を過ぎて床に伏せた頃だった。

 布団の中から縁側に目をやると菊の花が咲いている。それがあまりに綺麗でふと彼から別れ際に渡された菊の花を思い出した。あの時渡された花はとっくに萎んでしまったが、よく似た花がこっちを眺める彼の様に思えた。

「私は菊の花の様にはなれなかったという事かしら? それとも、あの人は最初から最後まで嘘をついていたんじゃないかしら?」

 顔の皺に涙が滲んだ。今更、あんな幼い頃の事を思い出すだなんて。きっと子供心に彼に惚れていたのだ。身寄りの無かった私を助けてくれた彼を……懐かしくて目を閉じた。瞼の裏にあの面をつけた木菟風の妖しの姿を思い描く事が出来る。もしあの時、彼について行っていたなら本当に自分は食べられていただろうか?

 ふと、樟の香りが鼻について目を開けた。自分の側に毛むくじゃらの何かが蹲っている。

「お前と会う時は何時も骨と皮ばかりになっていて美味しくなさそうだな」

 毛皮の奥から面が覗き、あの頃の若い男の子の声がした。嬉しくて夢だろうかと思ったが、もう自分はそう長くないのだと悟った。だから夢でも現でもどちらでも良かった。

「来るのが遅いからですよ」

 布団から手を伸ばすと彼は包帯を巻いた手で握ってくれた。随分小さくなってしまった手がくすぐったい。

「覗きに来る度に幸せそうだったからそんな時に意地悪しに来る必要ないだろう? そもそも、お前は俺の話を信じやしなかったじゃないか」

 小菊はあの頃の事を鮮明に思い出していた。あの頃は天涯孤独だった。自らの身の上に絶望して死を選んだならきっと彼はそれを手伝ってくれただろう。けれども彼は優しいから、幼くて何も知らない私に文字を教えてくれたのだ。奉公に出しても文字が読めれば重宝されるだろうと私に生きる知恵を授けてくれたのだ。

「私は自分に都合の良い事しか信じませんよ。あなたは私を助けてくれた優しい人です」

「……そうだったなら良かったのにな」

 彼は少し言葉を詰まらせて小菊の頭を撫でた。

「俺もいつだったかそんな夢を見た。花の妖精を手折った時も。同じ様に歳を重ねて老いていく様を何度も想像した」

 彼の声は沈んだ様に儚かった。彼がとても憐れな身の上に思えて少しでも彼の心を救ってあげたかった。

「そうそう、私ね、子供が三人産まれてね」

「知っている。こないだ二人目の孫も産まれた所だろう。お前に似て可愛い女の子だった」

 ちゃんと見守っていてくれていたのだと思うと嬉しかった。けれども同時に彼は寂しかった事だろう。

「あなたのお陰よ。私、とっても幸せだった。本当にありがとう」

 にっこりと笑い、彼の手を強く握ったつもりだったが、力が入らなかった。

 小菊の言葉が妖しに届いたのかどうかは誰にも分からない。だだ、妖しが小菊の皮を剥いだり、脳を持ち去らずに菊の花だけを手向けて出て行ったのは何か気持ちに変化があったからかもしれないし、最初からそのつもりだったのかもしれない。

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菊の花 餅雅 @motimiyabi

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