第4話

 山の紅葉や銀杏が散り初めた頃、その日は朝からしんしんと雨が降っていた。小菊は妖しについて行って前日仕掛けておいた罠を見に行った。兎でも捕まっていてくれていると良いのだが……と思ったがそう上手くもいかない。勿論捕れない事もある。その上泥濘にはまって転ぶと、小菊は足を挫いて立てなくなった。すると妖しは背に負ってくれた。猫の毛の様な柔らかい毛皮が温かい。樟の匂いが鼻につくが、そのままうつらうつらと眠りに落ちると遠い記憶が蘇った。

 ーー兄と父が戦に駆り出されたのは小菊が三歳の時だった。だから顔も声もよく覚えてはいない。母から十三離れた兄の事はよく話して貰った。面倒見の良い兄で、よく泣く小菊を背に負って散歩に行って貰っていたと……

 小菊の脳裏に誰かの背中が思い浮かんだ。自分の手が小さくなっていて、その背中の項の所にしきりと手を伸ばす。伸ばした先には黒子があった。小菊はその黒子を押す度に

「あっまた触ったな! 小菊っ」

 と笑いながら言う兄の声を聞くのが好きだった。だから暇な時、必ず兄の項の黒子を触っていた事だけ覚えているーー

 少し寒くて気がつくと小屋に戻っていた。屋根に雨粒が当たる音がする。毛皮に埋もれたまま薄っすら目を開けると誰かが側に腰掛けていた。こっちに背を向けていて、体の包帯を巻き直している様だった。短い黒髪の間から襟足が覗く。仄暗い部屋の中でその背中の項に見覚えのある黒子を認めた時、小菊は声を上げた。

「お兄ちゃん?」

 振り返った顔には土面が被せられていた。慌てて彼が藤衣を整えると小菊は詰め寄った。

「お兄ちゃんだよね? 小菊だよ。いつもおんぶしてくれたよね? 小菊ね、その項の黒子覚えてるよ!」

 小菊の言葉に彼は一瞬たじろいだ。それが図星だからだと思ったが、彼の言葉は静かだった。

「憐れだな。忘れていればいいものを」

 彼は毛皮を掴むと木菟の様に纏った。

「これはお前を売りに来た男の背中の皮だ」

 小菊は息を飲んだ。

「お前が妹であることを承知の上だったのかどうかまでは分からんが、お前を売ったのはお前の兄だ」

 一切の思考が停止して、周りの色が抜けて真っ白になった。雨音も遠くに離れて、彼が何を言ったのか直ぐには分からなかった。時間が経つに連れてやっと色が戻ったが、酷く霞んでいた。

「嘘……」

「お前はいつもそうやって俺の言葉を聞き入れないな。真実は残酷なものだ」

 唇を噛み締め、必死に首を横に振る。

「信じないもん」

「……」

 面は静かに小菊を見つめていた。小菊もその面を取ろうと手を伸ばすが、剥ぎ取る勇気が無かった。仮に普通の人間の顔がそこにあったとしても兄の顔を覚えていない。だから面の下を確認した所で、兄である証拠にはならない。

「どうした?」

 小菊は伸ばした手で空を掴んだ。

「俺がお前の兄なら、最初からそうだと名乗っただろう」

 その通りだろうと小菊も思った。兄なら隠す必要が無い。実の妹を助けるのに面をつけるだろうか? それに、彼の背中を見る限り精々十四、五くらいの年齢だろう。声色が高いからまだ声変わりをしていないのかもしれない。小菊は今年七歳になった。十三上の兄なら既に二十の筈だ。だからそもそも年齢が合わない。

 徐に彼は立ち上がると荒れ屋の戸を少し開けた。

「雨が雪になったな」

 いつの間にか雨音が消えていた。外から冬の匂いがしてくる。

 小菊の脳裏に悪い予感が過ぎった。ここには冬の蓄えがない。つまり、最初から小菊を生かすつもりなど無いのだ。冬になって食べ物が無くなれば自分は彼にとって格好の餌だろう。それは妖しでなかったとしてもそうだ。戦で負けた人間を干したり塩漬けにして食べる民族がいるという話を聞いた事があった。今まで自分が生かされていたのは冬を待っていたのだと思うと今更ながらに裏切られた気分になった。ちゃんと彼は最初から本当の事を言っていたのに……

「私を食べるの?」

 おずおずと聞いてみた。振り返った面からは表情が読み取れない。ただ、自分の言葉に疑問を持った。住む家もない。母も兄も友達もいない。戦に行った父が生きているかどうかも分からない。そんな中で、私は一体何の為に生き逃びたいのだろう? もし、ここで生き逃れたとして、一人でどうやって生きて行けば良いのだろう? 私には最初からそんな選択肢など用意されていなかったのではないだろうか? そう思うとここで死んでしまった方が楽な気がしてくる。

「それも良いかもしれないな」

「やだ!」

 咄嗟に叫んでいた。この先何が起こるか分からない。残念なことに最悪な状況しか思い付かないが、体が条件反射の様に応えた。

 彼は毛皮の中から手を差し出した。小菊はその手に自分の手を差し出すのを戸惑った。いつも優しかったその手が今回は恐ろしく思えた。

「お前はまだ小さいから、もう少し大きくなって賢くなったら食べよう」

 今はまだ食べられはしないのだと思うと心無しか安堵する。彼の手を取ると妖しはそのまま小菊を背に負った。

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