第2話

 小菊が目を覚ましたのは売られてから一週間は過ぎた頃だった。壊れかけた板間から零れる細い日の光を見ながら、自分は一体どうしたのだろうかと思案する。夢現に、誰かに体を拭いてもらったり、お粥を食べさせて貰った事を思い出すと小菊は狭い荒屋を見渡した。四畳程もあるだろうか? 中は伽藍堂で何も無い。ふと振り返ると、白くて丸い毛むくじゃらの物体が置かれていた。大きさは小菊よりもひと回り大きく、何だか温かそうだ。小菊が物珍しそうにその物体を観察しているといきなり毛玉の上部分が回転して赤い土面がこっちを向いた。置物か何かかと思っていたのに急に動き出して心臓が飛び出そうだったが、恐る恐る問い質してみる。

「……あなたが助けてくれたの?」

 カタリ……と面は傾いた。全身毛むくじゃらで、手足の有無は分からない。大きな木菟の様だ。妖しの類いかもしれないが、自分が食べられていないのでそれは無いだろう。樟の独特の香りが鼻についた。

「ありがとう」

 面は傾いたまま、うんともすんとも言わない。耳が聞こえていないのだろうか? それとも人間の言葉が分からないのだろうか? なんとかして感謝を伝えたかったのでお辞儀をすると、毛皮の中から包帯を巻いた人間の手が覗く。その掌が開いて木の実が四つ顔を出すと、小菊はお腹が空いていたので喜んで食べた。それを眺めていた面に気付いて小菊は持っていた木の実を一つ差し出した。

「どうぞ」

 にこりと笑ったが、面は戸惑っているのか、考え事をしているのか見捩りしない。

「お腹、空いてないの?」

「お前は何故畏れない?」

 急に面から幼い男の子の声がして目を丸くした。この丸い毛皮の中に人間の男の子が居るのだと確信する。

「なんで?」

「得体の知れない者に何故感謝が出来る?」

「自分を助けてくれた人に感謝出来ない人なんていないよ」

「食べる為に助けたふりをしているのかもしれないだろう」

 小菊はやっと彼の言わんとしている事を理解した。

「じゃあ、あなたは足が悪いの?」

「……いや」

「なら山を下りればいくらでも人を攫いに行けるよね。それなのに私を看病するのは変じゃないかな」

 妖しの類いが夜な夜な街へ下りて死体を食い散らかしているという話を小菊は聞いた事があった。けれども、自分を助けてくれた者がそんな野蛮な真似はしないだろうと思っていた。

「私ね、小菊って言うの。あなたは?」

 小菊の問いに面は唸った。

「ない」

「な……い?」

 聞き間違いだろうかと自らの耳を疑う。

「化け物」

 あまりにも彼が可哀想で視線を落とした。

「どして?」

「生まれた時から顔の皮が無かった。その醜い顔を見て母は死んでしまった。父は俺の顔を目にするのが嫌で面を被せた」

 胸を締め付けられる様な哀れな話しに口を告ぐむ。

「お前は? 家族はいないのか?」

 彼の言葉に小菊は不思議そうに顔を上げた。

「お父さんとお兄ちゃんは戦に行っちゃったんだって。お母さんは病気で死んじゃった」

「友達は?」

「友達……」

 小菊は首を横に振る。何故、そんな事を聞くのだろうかと訝しんだ。彼は何か考えているのか再び面が傾いている。

「お前は何ができるんだ?」

 七歳になる小菊は困り果ててしまった。母の見様見真似で裁縫は出来ない事もないが、売り物になる程上手ではない。草鞋を編むのも、料理を作るのもやり方は知ってはいるが上手くはない。

「……何も」

 何も思い浮かばず、待っている彼に申し訳なくてそう応えた。

「謙遜するな」

「けんそんってなに?」

「謙らなくていいってこと」

「そういう訳じゃないんだけどな」

 なかなか面白い子だなぁと小菊は思った。

「別に空を翔べとか風を起こせとか言ってないから」

 面食らって吹き出してしまった。堪えきれずにお腹を抱えて笑う。笑うのが久しぶり過ぎて体のあちこちに響いた。

「面白いこと言うね」

「じゃあ何を考えれば何もできないなんて答えになるんだ」

 笑いを堪えて深呼吸する。

「柴刈りも鼠取りも下手だし……何ていうの? 不器用?」

「……はぁ……」

 呆れられたのか、大きな溜息が聞こえた。

「じゃあいいや、話し相手になってくれ」

 小菊は驚いて眉間に皺を寄せた。

「何ですかその寝たきりの老人みたいな台詞は」

「……まあ、あながち間違ってはいない。今年で俺も八十二になるからな」

 一度空に視線を投げてから再び面を見つめ、それから舐めるように全身を眺めてみたが、耳にする声が若い男の子の声なので首を傾げる。

「……はあ……?」

 もしかしたら頭でも打ってしまったのではないのだろうかと不憫に思った。

「話し相手と言われても、何を話せば良いのやら」

「何でもいい」

 何でもいいと言われると尚更困ってしまう。

「じゃあ、何でそんなに話しを聞きたいの?」

「家にいた頃は兄弟が三十くらい居てな、まあ何処に居ても誰かの話し声が聞こえて賑やかだったんだが、追い出されてからは静かすぎて適わん」

「大家族だったんだね。何で追い出されたの?」

 一瞬、彼は空を見上げて言葉を詰まらせた。

「……殺してしまった」

 彼の声は低かった。

「あまりの醜さから誰にも相手にされなかった。親も兄弟も、友達も。そんな中で唯一俺を恐れなかった子だった。……そう思っていた」

 小菊は黙って彼の話に耳を傾けた。

「何も知らなかった。彼女の目が視えていない事も、決められた場所に居続けなければ生きられない事も。知ろうともしなかった。彼女の命を手折った時、それでも彼女は俺の事を友だと言ってくれた。けれど、父や兄達は許さなかった」

「優しい人だったんだね」

「庭に咲いてた花の妖精」

 突飛な言葉に、小菊は頭を悩ませた。妖精……みたいに可愛らしい人だった。と言う意味だと勝手に解釈してみる。だが、表情に出てしまったのか、面から声が漏れた。

「信じてないだろう」

「いえ、変わった感性の持ち主だなぁと」

「その言葉、そっくり返してやる」

 小菊は再び頭を悩ませた。自分は何かおかしな事を言っただろうかと考えるが思いつかない。徐に彼が立ち上がると、森の奥を指し示した。

「村へ行くならこの方角に真っ直ぐ行けば夕方には着く」

 包帯に巻かれた手は大人にしてはやはり小ぶりだった。その手が毛皮の中に隠れ、そのまま何処かへ走って行く。彼の背中を見送ると、小菊は腕を組んで頭を悩ませた。

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